特別展示「伝統と革新 - 明治期の大阪における医科器械業」
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Special Exhibition (7/8 April 2007, Faculty of Medicine, Osaka Municipal University): Tradition and Innovation - Medical Instruments in Meiji-Period Osaka (Wolfgang Michel, Kyushu University)
大阪市立大学医学部、2007年4月7・8日(第108回日本医史学会総会および学術大会関連行事)(企画:W・ミヒェル)
独創性の豊かさ
日本の医学は常に海外との交流の中で発展してきたが、その相手が中国であれ西洋であれ、国内の医師達はそれぞれの手本に対し強い自立心と柔軟性を保ち、必要に応じて取捨選択しながら独自の理論・治療法及び道具を開発したのである。完璧な器具より修行や腕前を重視する文化において、ときに素朴ながらも画期的な医療道具が誕生した。杉山和一(1610〜1694)の管鍼は今日も世界中の鍼術に利用され、片倉元周は三味線糸と筆軸だけで史上初の鼻茸摘出を行い、賀川玄悦(1700〜1777)は難産を救うために「回生鈎」を考案し、水原三折(1782〜1864)など19世紀の産科医が利用した探頷器、纒頭絹、包頭器、奪珠車は西洋人の興味も引いた。
■ 中国にはなかった「管鍼」
(a)本郷正豊『鍼灸重宝記』(寛延2)の「管鍼」(W・ミヒェル蔵)(b)現在世界中で利用されている「ディスポーザブル鍼灸針」(セイリン株式会社製)。
■ 畳上での出産のために開発された奪珠車
イスやベッドのない環境が生み出した特殊な器械。水原三折『産育全書』(嘉永元)。(九大附属図書館医学分館蔵)
西洋医科器械輸入の始まり
1641年に東インド会社が新しい商館に常駐の外科医を置くことにより、日蘭の医学交流が密接かつ継続的に行えるようになった。江戸などで出された注文の内容は、会社の納品資料から再現できる場合がある。
■ 日本行き帆船スミント号の第72番の箱(1652年)
幕府の関係者が希望する品物のリストが商館長日記(1651年4月1日)に記録され、注文の写しは同年の秋にバタビアに到着した。東南アジアで調達できるものは、翌夏に日本に送られたが、ヨーロッパから取り寄せられるものは早くても2年先になった。
紅毛流外科と出会ったばかりの日本人の注文の内容は驚くほどレベルの高いものだった。
Een Case No
72 darijnne
1 Catty Momie voor de kinderen van den overleden H[ee]r van Ouwary 3:-:-
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故尾張藩主の子息たちのためのミイラ1カティ
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2 chirurgijns verbind doosen mit coper beslagh met hun vlijmen en gereetschap voor den Commmissaris Sickingodo 19:-:-
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筑後殿のための銅板を張った外科用包帯缶及び付属の刃物と道具 2個
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Een Herbarius van Dodoneus affesete voor d' H[ee]r Sickingodonne 120:-:-
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筑後殿のためのドドネウスの本草書
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Een Historie Naturalis voor idem
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=1648年にアムステルダムで出版されたゲオルグ・マルクグラフの『ブラジル自然誌』(Historia rerum naturalium Brasiliae libri VIII)
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■ 日本における西洋式外科道具の数
17世紀半ばから上陸した紅毛流外科関連の写本及び版本には、西洋の医科器械に関する数々の挿絵や記述が見られるが、西洋医学の受容を「小外科学」(Chirurgica minor)に留めた国内の医師には、メス、カテーテル、烙鉄、剪刀、鉗子など、日本の鍛冶屋が容易に製造できる比較的簡単な道具で十分だった。18世紀初頭から輸入された顕微鏡は好奇心を満足させる手段に過ぎず、医学関係の利用はずっと後である。
■ 需要の増加
19世紀の蘭学の発達につれ医療道具の需要も増え、業者の引き札が刊行されたが、口内鏡、骨膜剝離子、舌圧子、コロンメスなどの道具はまだ紙一枚に収まる数に過ぎなかった。ここにも純国産品、輸入品、及び華岡青洲などによる改良品がある。同時期、道具師及び販売業者の名も見られるようになる。
■ 医療道具の引き札、江戸後期
外科道具など計134点。特定の分類がなく、「諸流」という接頭語が付くものとともに、華岡流の「膏薬箆」、「コロンメス」が記載されている。カタカナ表記の外来用語として、男性及び女性用の「カテイテル」(Katheder)、「ランセツタ」(Lancetta)、「スホイト」(Spuyt)、「キリステル」(Klistier)がある。「焼小手」及び「玉抜」のようなものは蘭方の治療に用いられたと思われる。「薬籠」、「膏薬箱」も掲載されているので、医薬品と医療道具の流通系統はまだ同じだったようである。
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[文頭]大坂南堀江三丁目高臺橋南詰 諸流外科御道具師 阿波屋甚助
[文末] 右應需値段高下有之依而有増記之其外御望次第製之
(京都、眼科・外科歴史博物館蔵)
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■ 江戸後期の医療道具と「保証状」
江戸後期、京都の雙龍軒清水光邦、真竜軒安則、奈加本久則など、一種のブランドの確立が試みられるようになる。真竜軒に至っては馬鍼針に保証状を添付していた。これは製造者の意欲の証しである。
袋の表:「外科道具師/眞龍軒/源安則」
裏の上:「右何れも請合申上候悪敷者取替差上申候」
下左:「本[ロゴ]家/京都寺町六角南ヘ入ル/鍛冶安則
(京都、眼科・外科歴史博物館蔵)
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■ 東西道具を利用する眼科医
国内外の治療法と道具を最も使いこなせたのは眼科医だった。
「眼療雑書」、写本、江戸後期(京都、眼科・外科歴史博物館蔵)
新医療体制の導入
明治3年、新政府がドイツ医学の導入を決議すると、漢方医学から西洋医学への転換が急速に進み、大量の新しい医療器械が医療の現場に次々と現れた。急成長するその市場に最も早く着目したのは、医療界に精通していた薬種商、硝子壜商や鍼術用針製造業者だった。東京のいわしや松本市左衛門や石代十兵衛、大阪の田辺屋正兵英(2代目)、山口庄兵衛と白井松之助、名古屋の八神幸助はこの時期の草分けとなった。
■ 伝統技術を活かすパイオニア
「本舖ハ從來藥種商トシテ大阪府立病院及各地病院御用達中當局者ガ醫科器械ノ供給者乏シク其不便ヲ感セラルヽ事鮮カラサルヲ耳ニシ醫術進步上大缺点ナリト心竊ニ慨歎ニ堪エザル折柄明治十年西南ノ役起リ負傷者治療上Y々其便ヲ缺ケルノ甚シキヲ實見シ身不肖ヲ顧ミス聊カ國家ニ貢献スルノ微衷ヲ以テ奮然意ヲ决シ祖先傳來ノ本業ヲ廢棄シ醫療器械ノ專業ヲ開始セントシ時ノ府立病院長高橋正純先生同院雇外國技師エルメンス両氏ニ微衷ヲ述ベタルニ両氏ハ案ヲ拍テ激賛シ永ク國家ノ爲メニ盡スベシトノ勵言ヲ授ケラル両先生ノ紹介ニ依リ歐米各國ノ腰社ト特約ノ道ヲ得醫療器械ヲ入シ奮テ本業ヲ開始セリ
是實ニ今ヲ去ル三十餘年前即明治十一年四月中ノ事ニシテ關西ニ於ケル醫療器械舖ノ嚆矢ナリトス爾來寢食ヲ忘レ專心本業ニ從事シ東奔西走シ陸軍海軍及各府縣病院學校ヲ始メ各地醫家ノ需用ニ應シ聊カ斯業ノ發展ヲ見ルニ至レリト雖モ此等器械ヲ海外ヨリ仰クハ國家ノ爲メ策ノ得タルモノニ非ラザルノミナラズ復不肖ノ素志ニアラサル爲メ進ンテ之レカ製作ヲ企テ大醫家ノア示ヲ仰キ斯業ニハ何等經驗無キ刀劔師鐵砲鍛冶甲冑鍛冶銅工木工馬具師等ノ告E工ヲ勸誘シ資金ヲ給シテ之レガ製作ニ從事セシメタルモ未タ斯業ニ馴レサル爲メ一旦ハ非常ノ悲境ニ陷リシガ一時ノ蹉跌ハ固ヨリ豫期スル處ニシテ艱難ニ堪ヘ素志ヲ貫徹スルハ實業家ノ本分ナリト覺悟シY々l勵シテ本業ヲ經營シ職工ヲ勵シ技術ノ進步ヲ謀リ漸次職工ノ熟練ト奮勵トニヨリ年々順境ニ向イ畧其qニ就クヲ得タリ」
白井松之助の回想録『沿革史』より(明治42年頃刊)
■ 白井松之助の店舗
垣貫一右衛門編『浪華の魁』大阪、垣貫与祐、明治15年刊(銅版)より
■ 大阪に医科器械商組合の結成
明治14年10月大阪府令甲222号に基づき医療理化学器械業者は組合を締結した。会員は以下の14名だった。
山口庄兵衛
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福井弥助
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白井松之助
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井内徳兵衛
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新野辺弁造
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手島政七
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中井安之助
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白井直七
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大井卜新
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中村峯次
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大満筆吉
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中村順造
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立身幸七
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今西兼太郎
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■ 本業者年度に於ける増減の比較
明治
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5年
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10年
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15年
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20年
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25年
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30年
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35年
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卸
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1*
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2
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2
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4
|
4
|
3
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3
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小売
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3
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11
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14
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21
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26
|
20
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15
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本業の小売は主に薬種商に依つて販売するが故に前表記載の分は専業者を摘記するに止まる。
*
(明治36年11月8日大阪医療理化学器械商組合より大阪商業会議所へ提出されたる報告書より)
■ 製造販売高年度比較表
明治 5年
32,000円
明治10年
142,500円
明治15年
141,000円
明治20年
217,000円
明治25年
321,000円
明治30年
512,000円
明治35年
487,000円
■ 職工の賃金
上等 1日の所得:2円〜3円
下等 1日の所得:50銭〜1円50銭
(明治36年11月8日大阪医療理化学器械商組合より大阪商業会議所へ提出されたる報告書より)
国産化を支える江戸期の技術
明治11年、白井松之助は府立病院長高橋正澄、同院のオランダ人技師エルメンスの紹介で欧米の諸会社との特約を得て、医療器械の輸入を開始。早くも国産化も始まる。白井松之助は刀剣師、鉄砲鍛冶、甲冑鍛冶、銅工、木工、馬具師などの職人を集め、医科器械の製作に従事させ、次第に市場で通用する製品を開発していった。
■ 明治44年の状況
『大阪商工名録』に見られる医療器械製造販売業の仕入れ、販売先、営業税など(大阪商工会議所編纂、明治44年)
■ 病院との密接な関係(白井松器械舗の場合)
明治12年、コレラ病が関西地方に流行。白井松器械舗は大阪司薬場技師ドワルスに働きかけ軽便なる漏水器を案出し、同氏の同意とその筋の許可を得て広く販売し公衆衛生のために尽くした。
明治15年、白井松之助が、大阪府病院薬局長でもある化学教授薬学士乃美辰一の考案により、重湯煎煎剤器及び越幾斯保温器などを併有する蒸留器の製作を依頼され、完成品を納入。
明治16年、岡山県立病院副院長山形仲藝が、暑中休暇を利用し九州地方各病院を巡視する際、白井松器械舗が随従を命じられ各病院に諸器械を納入することになった。
医科器械カタログの誕生
東京の石代十兵衛及び松本市左衛門編に続き、大阪の白井松之助は自社製品と輸入品を収録した「医療器械図譜」を編纂。
次々と導入される未知の器械の普及において、これらのカタログは販売促進用の資料というだけでなく、地方の医師たちの教材として刊行され、製造販売者の高い誇りを表すものでもあった。
■ 明治期の医科器械カタログ
明治期の数少ない医科器械カタログの大半は東京の松本市左衛門と大阪の白井松之助が刊行したものである。
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発行
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書名(版)
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発行者・発行地
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1877
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明治10
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『医用器械図譜』
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石代十兵衛、東京
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1878
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明治11
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『医療器械図譜』
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松本市左衛門編、東京
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1879
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明治12
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『医用器械図譜』(改正版)
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石代十兵衛、東京
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1882
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明治15
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『理科器械目録表』
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島津製作所、京都
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1884
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明治17
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『医療器械図譜』
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松本市左衛門編、東京
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1885
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明治18
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『増訂 医用器械図譜』
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石代十兵衛、東京
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1886
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明治19
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『医用器械図譜』(1版)
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白井松之助編、大阪
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1889
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明治22
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『医用器械図譜』(2版)
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白井松之助編、大阪
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1894
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明治27
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『醫療噐械正價表』
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石代十兵衛編、東京
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1896
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明治29
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『医用器械図譜』(3版)
|
白井松之助編、大阪
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1897
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明治30
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『医科器械実価表』(7)
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松本儀兵衛、東京
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1904
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明治37
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『医科器械実価表』(改正,13版)
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職工連合工進社、東京
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1908
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明治41
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『医科器械目録』(14版)
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いわしや松本器械店、東京
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1909
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明治42
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『医科及化学器械実価表』
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いわしや器械店、東京
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1910
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明治43
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『医科器械実価表』(1版)
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寺田医科理科器械、名古屋
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1911
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明治44
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『近世医療器械図譜 眼科之部』
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半田屋医療器械部、東京
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1912
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明治45
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『医用器械図譜』(4版)
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白井松之助編、大阪
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1913
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明治45
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『医科器械目録』(13版)
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風雲堂後藤合資会社、名古屋
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1915
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大正3
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『医科器械器具目録』上編
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岩佐器械店、京都
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■ 大阪の史上初の医科器械カタログ
海外カタログの器械図はそのままの形で利用されたが、扉絵の転用には様々な工夫が見られる。洋の東西を問わず振興しつつあった医科器械製造業者は、自らを近代化の担い手と自覚し、医師と同等のプライドを持っていた。
1886年版
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1889年版
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■ 輸入元のWindler社カタログ
底本は日本の業者と同様に、医科器械製造会社を築き上げた意欲的な元鍛冶職人Hermann Windlerのカタログ(1888年版)である。
ドイツの輸入元
ヨーロッパの先進国の中ではドイツの近代化は比較的遅く始まった。日本との時代的な差が数十年だけだったことは医療器械の分野にも観察できる。1871年にようやく国家として統一された帝国の医科器械業者のほとんどは、マイスターの資格を持つ初代や2代目の社長として、イギリスやフランスの製品を凌ぐ製品の開発及び国内外の市場の開拓を追求していた。
■ 製造業のウィンドラー社
白井松之助は『医療器械図譜』の序文で二つのドイツの会社に言及している。その一つはベルリンのウィンドラー社である。初代社長ヨハンが外科道具師として設立した工場は息子ヘルマンの下で急成長したが、生産過程には伝統的な手工業の要素が多く存続していた。
『H. WINDLER 1819-1919』より(W・ミヒェル蔵)
■ メッケの医科器械店舗
白井松之助のもう一人の取引相手はライプツィヒ大学付近に店舗を開いたOttoMoeckeである。住所記録や店舗の広告が示すように、メッケ社は零細企業であり、日本の業者とまで取引を行ったことは、当時の両洋の先駆者達の野心と勇気を物語っている。
(新聞広告、ライプツィヒ市公文書館蔵)
「医科器械学」の台頭
急激に増える医科器械は医学教育にも影響を与えた。とりわけ病院、看護学校などでは医科器械学が教えられた。
■ 「器械学」
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陸軍大阪予備病院で利用された教材あるいは講義ノート(京都、眼科・外科歴史博物館蔵)
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九州大学の看護員養成コースの講義ノート(W・ミヒェル蔵)
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■ 分類の試み
現在の医療文献に見られる医用器械、医療器械、医科器械、医療器具、医療道具などの用語は明治期以降誕生したもので、治病と衛生に関する器具機械の総称として使われている。当時の発達の勢いはすさまじいものだった。大正12年、医科器械の研究と普及のために日本医科器械学会が設立された。
昭和9年に医科器械全般を論じた北川順は既に12の分野に区別したが、その後細分化と高度化は進む一方である。
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器械の分野(北川順により)
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例
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(1)
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医師が患者の診断の為め使用すべき器械
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聽診器、体温計
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(2)
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医師が患者の治療に使用する器械
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注射器、外科手術器械
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(3)
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医師が病理、細菌の検索並びに防疫の為使用する器械
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顯微鏡、消毒器
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(4)
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医師が生理、解剖など基礎医学的研究に使用する器械
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解剖器械
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(5)
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不具者及び病弱者の補助器
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義肢、義歯
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(6)
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薬剤師が調剤並びに薬局製剤に使用する器械
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天秤、乳鉢
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(7)
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薬剤師が薬品檢査の為め使用する器械
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分析器、寒暖計
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(8)
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患者の看護及び病褥に必要なる器械
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尿器、看護衣
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(9)
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患者の運搬に要する器械
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担架、患者車
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(10)
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往診並びに救護に必要なる器械
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天幕
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(11)
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分娩並びに育児に要する器械
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乳首
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(12)
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身体検査の為め使用する器械
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身体検査器械
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(北川順「医科器械の概念」『医科器械学雑誌』第11巻第9号、昭和9年3月、406-420頁。)
■ 名称の変遷
文化文政頃 外療道具、外科道具
明治初期 医療器械、医用器械
明治30年頃 医科器械
見る、比べる、競う
内国勧業博覧会は、製品の比較、開発を促進した。また、明治15年に成立した大阪医会の月例会にも各種製品が出品された。医科器械の改良、開発には、製造業者、大学、病院、開業医らの密接な協力が不可欠だった。
■ 勧業博覧会の出品リスト
『第五回内国勧業博覧会出品目録』に見られる医科器械(白井松之助の出品)。(第五回内国勧業博覧会事務局篇、明治36年)
袖珍外科器
救急箱
眼科器械
査定視野計
耳鼻咽喉科器械
喉頭氣管切開術器械
喉頭挿管器
内臟外科手術器械
外科手術臺
器械臺
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器械戶棚
アルコール消毒裝置
蒸汽消毒器
煑沸消毒器
消毒鑵裝置
婦人科器械
婦人科診療臺
產科器械
虛弱兒保溫器
產科演習器
皮下注射器
血苒克ヒ器 |
吸引器
聽診器
往診用診斷器
按摩器
安全吸入器
遠心力沈澱器
病理用標本製作器
孵卵器
旅行用細菌學器械
解剖器械
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■ 高まる評価
第2回内国勧業博覧会(明治14年)に大阪の白井松器械舗より外科器械を出品、名誉賞牌を受ける。医科大学器械主任の大西秀春審査官より医科大学に呼ばれ医科器械製造について種々諭示を受ける。
白井松之助が国内外で獲得したメダル (白井松器械株式会社蔵)
先へ、外へ
明治20年代、日本政府はウラジオストック、アモイ、シンガポールなどの領事館内に商品陳列場を設置し国産品の輸出を奨励する。輸入を抑えるだけでなく逆に輸出するほどの盛況であった。大阪と東京のパイオニアたちがこの有望な市場へ進出するのは、時間の問題だった。
■ 近隣諸国への輸出
明治25年、白井松医科器械舗は清国の日清商品陳列場に製品を出品し、輸出の道を歩み始めた。大阪の卸売業者の一部は次第に朝鮮、清国、台湾や満州の市場へ進出するようになった。
大阪商工会議所の当時の資料によれば、白井松之助は明治44年にすでに「布哇」(ハワイ)と「印度」とも取引関係を結んだ。
名称(商号)
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業種別
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仕入れ
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販売
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春元重助(春元末展)
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卸売
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医療用器械及び器具
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大阪
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全国、朝鮮、台湾
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新野辺辨蔵(高橋号)
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卸、小
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医用器械類
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大阪、東京
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大阪、東京
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奥村芳松
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製造
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義手義足
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大阪
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全国
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和田卯助(健屋)
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卸、小
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医療用器械及び器具
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大阪、東京
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全国、朝鮮、清国
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上村長浜兵衛
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卸、小、製造
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同上
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大阪、横浜、神戸
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全国、朝鮮、台湾
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吉田万助
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卸売
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医療用器具
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大阪
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全国、朝鮮、満州
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田中與三郎
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卸売
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医療用器械類
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大阪、東京、英国、米国、ドイツ
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全国、清国、満州
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谷重次郎
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卸小
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同上、兼薬種、包帯材料、硝子製品
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大阪、東京
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大阪、関西各地方
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中井安之助
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卸売
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歯科用器械及び材料
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英国、米国
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全国、朝鮮、清国
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中村ハナ
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卸売
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医療器械並びに哺乳器類等
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大阪、東京、名古屋
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大阪、関西各地方、朝鮮、台湾、大連、牛荘
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中村利三郎
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卸売
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護模管、硝子器、その他の医療用器具
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大阪
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全国
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村中兄弟商会
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卸売
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医療用器械類
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大阪
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大阪
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安部金市
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卸売
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医療用器械類
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大阪
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全国
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明昌堂兄弟商会
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卸売
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医療用器具
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大阪
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三宅岡次
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卸小
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医療用器械類
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大阪
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白井松之助
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卸、製
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医療及び医化学器械
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大阪、英国、米国、ドイツ
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全国、清国、ハワイ、インド
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白井直七
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卸、小、製
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医療用器械
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大阪、英国、米国、ドイツ
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全国、朝鮮、清国
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清水市次郎
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卸売
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医療用器械、哺乳器類
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大阪、東京
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大阪、関西各地方
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清水芳次郎
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卸、製
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医療用 玻瓈(はり)器、乳呑器等
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大阪
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全国、朝鮮、清国
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須藤友七
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卸売
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医療器械
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大阪
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土佐
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軍隊と戦争
医科器械製造販売業の成長には明治期に誕生した陸軍と海軍も大きな役割を果たした。日清戦争、日露戦争により、とりわけ野戦用の器械の受容と開発が促進された。第一次大戦で敵国となったドイツからの供給が打ち切られたため、顕微鏡などの高度な技術を必要とする製品の国産化が急務となった。
■ 軍医森林太郎の足跡
森鴎外が第4師団軍医部に勤務した明治31年、大阪の白井松社で衛生材料を調達した報告書と納品送り状 (白井松器械株式会社蔵)
■ヒット商品の野戦台
日露戦争では、緊急の需要に応じ野戦手術台や担架をはじめ諸器械を製作納入する。
■ 野戦手術台販売所等問合
陸軍省より白井松社宛
壱第九一六号 英国大使館附武官 野戦手術台販売所等問合ノ件秘書官ヨリ英国大使館附武官ヘ拝啓サル二十日附御書面ヲ以テ御問合相成候本邦陸軍野戦用手術台ハ専売品ニシテ其有権者ハ大阪市東区道修町二丁目五十五番屋敷白井松之助ニ有之且ツ最近購買価格ハ一具ニ付金四十三円八十銭ニ有之候右御回答申上候追テ御希望ノ次第モ有之候ニ付該手術台写真二葉御送付申上候写真二枚ハ秘書官ノ許ニアリ陸軍省送達陸普第二二七一号
野戰手術台専売品大阪市東区道修町二丁目五十五番屋敷 有権者白井松之助最近購買価格壱具ニ付金四十三円八十銭拝復昨十九日付御手紙ニ添セ御恵授被下候写真二葉慥ニ拝領仕候段茲ニ領収ノ証トシテ本書ヲ呈シ申候就テハ該手術台ハ代価凡ソ幾何ノモノニ御座候ヤ再度御尋ネ申候又該品ハ貴軍隊専用ノ品ニ御座候ヤ
(陸軍省「壱大日記」明治42年5月(国立公文書館、アジア歴史資料センター、M42-7)より)
■ 医療器械発達、生産及輸出激増
戦時中の発展
戦前に於ける本邦医療器械は辛うじて生産輸出とも振わず即ち其の生産額は大正元年に於て僅かに七十六万八百円に止まり其輸出高は印度南洋支那方面を限り九万七千七百円に過ぎず翌二年に於ても生産額輸出高共に稍増加を来したりと云うのみなりしが同三年に及び戦乱の勃発するや茲に始めて露国に向って八万五千円の輸出を為すに至り一方支那方面の輸出亦二倍以上に躍進し、同年は生産額が寧ろ減少を示したるに引き替えて輸出高は却って六年の倍額を越えたり同四年には価格の昂騰ありたれば必ずしも生産数量の増加を意味せざるべきも兎に角前年の倍額百四十八万八千余円の生産額を示し輸出も露国向に於て三倍に上りたる外南洋印度支那等への輸出も各二倍三倍となり又新に濠洲米国等の注文をも喚起したれば其総輸出高は八十二万三千五百円と激増し、同五年に至りては又新に英国仏国伊国南米等に輸出せらる他方露国南洋印度の注文こそ聊か減少したけれども米国向の輸出はますます発展し第一位の輸出先と為れり而して一昨年及び昨年も仏国向の杜絶したる外は皆相当の増加ありて六年は産額百八十四万八千九百円輸出額は百十三万余円に上り七年に至りて約二百万円の産額中輸出約百十八万円となりたるが此内最大得意先は米国及び支那にて前者は総輸出の約半額を占め後者は三分の一以上を占む
『時事新報』(大正(1919)8年5月3日)より
謝辞
本展示を実施するにあたり、白井松株式会社(大阪市)及び眼科・外科歴史博物館(京都市)のご厚意により実物資料をお借りすることができました。ここに、心より感謝の意を表します。
W・ミヒェル(九州大学)