ヴォルフガング・ミヒェル
Leipziger Fehlgriffe - Zum Konflikt zwischen Badern und Barbieren im 17. Jahrhundert
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ライプチヒのある誤診 − 17世紀における「Bader」と「Barbiere」との紛争について) 「言文論究」6号、105 - 110頁、1995 年3月
今日でも大抵のドイツ人にとって「Bader」(風呂屋兼外科医) と「Barbier」(理髪屋兼外科医)の明確な区別は容易ではない。これは数百年前のある歴史的な対立が残した言葉の上での後遺症で、その起源は Baderが経営していた中世の公衆浴場にまで遡る。そこでは入浴の後に客の爪を切り、魚の目を取り、膿瘍を開き、悪い歯を抜き、血行を良くするために瀉血や放血を行っていた。
Barbiereは元々Baderに雇われた助手として、髭や髪を切り、吹玉を置き、瀉血をしていた。彼らは次第に自分たちのギルドを持つようになり、いわゆる「niedere Chirurgie」、つまり技術的にレベルの低い外科治療全体を受け持つようになった。いや、そればかりかBarbiereにこの分野での活動を禁止しようとさえ試みた。この都市レベルで行われた争いは、地域により18世紀まで続き、結局、市民の医療は次第に大学を出た医師の手に委ねられるようになるのである。BarbiereとBaderの対立が実際どれほど激しいものであったのかは、ライプチヒ市のおけ作り職人クリストフ・フランツが1647年2月28日市の参議会に提出した、ライプチヒ公文書館所蔵の訴状によって明らかにされる。胸に腫瘍を患っていた妻が両ギルドの板ばさみになった様子を物語る、その体験描写は同時代の詩人グリメルスハウセンの著作に少しも劣るところがないほど生々しい緊張感に満ち溢れている。30年戦争末期の、この事件は、ギルドが都市社会の安定要素として機能するためには医療の「市場」が明確に分割されていなければならないことも示している。