「独仏文学研究」45号、111 - 123頁、1995 年7月

Wolfgang Michel

Caspar Schambergers Kindheit und Jugend

 この論文はドイツ・ライプチヒ市史料編纂所の記録及びその他の年代記などを基に、日本における「カスパル流外科」の元祖カスパル・シャムベルゲルの少年期、30年戦争期のライプチヒ市及び外科医ギルドの状況を追っている。

 カスパルの父、バルタザール・シャムベルゲルはフランケン地方のケーニヒスベルクから移住している。彼はワインを商い、1622年にライプチヒの商人の娘、マルタ・フィンジンガー(Martha Finsinger)と結婚した。1年後、カスパルが生まれるが、その父は1629年には亡くなっている。1631年に母が再婚してからは、商人だった継父の家で暮らした。続く10年間でカスパルは、30年戦争で故郷の町が荒廃していく様子を体験した。最初この町は皇帝の軍隊に、1636年からはスウェーデン軍の攻撃を受け、見本市に商人はほとんど来なくなり、ペストも何度も流行して人口は劇的に減少した。

 経済の危機的な状況、継子という立場や医学教授ヨハン・ミヒェル(Johann Michel)の助言もあり、シャムベルゲルは13歳で、親方クリストフ・バヒャルト(Christoph Bachert)の下で外科医の見習いとなった。1640年までの見習い期間中に再びペストが流行したり、戦闘が起こったりするため、シャムベルゲルは実践的な経験が豊富になった。修行が終了したとき、当時のエピソードが示すように、シャムベルゲルはギルドでのキャリアをつむ機会は、ほとんどなかった。ヨーロッパの新教地域で遍歴をするうちに、オランダの東インド会社に雇われて東アジアへ行こうと決心した。



TOPTOP
inserted by FC2 system