Wolfgang Michel: Jûnanaseiki no Hirado, Dejima rankan no iryô kankeisha ni tsuite [[On the Medical Staff of the Dutch Factories in Hirado and Dejima during the 17th Century]]. Nihon Ishigaku Zasshi -- Journal of the Japanese Society of Medical History, vol. 41, no. 3 (1995), pp. 85-102.
ヴォルフガング・ミヒェル「17世紀の平戸・出島蘭館の医薬関係者について」『日本医史学雑誌』第41巻第3号(1995年9月)85〜102頁。
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ヴォルフガング・ミヒェル

17世紀の平戸・出島蘭館の医薬関係者について

江戸時代に来日した蘭館医の一覧表はよく知られているものがいくつかあるが、[1]  そこに掲載されている人物について具体的な出典が示されていないため、使用者はこの内容を信じるしかない。私も長年そうしてきた。しかし17世紀の東インド会社の様々な資料に眼を通していくうちに、多くの場合偶然にではあるが、上記の表の不正確な箇所や未知の人物(Stamper, Pauts, Kempf, Gessel, Jacobsz., Hancko, Haeck, Braun, Strijckersberg)が浮かび上がってきたり、周知の蘭館医についても新たな情報が得られることがあった。また、これまで見落とされてきた下位外科医(onderchirurgijn)、薬剤師(apotheker)の存在も注目に値する。外科医などの身分が商人より低いため、出島蘭館日誌に彼らの名前が記されていない場合が多いので、商館長の手紙、後任への申し送り状、契約更新の記録などで丹念に調べなければならない。[2]

 

商館長
商館長の在任期間 医師、薬剤師など
Jacques Specx 20.9.1609 - 28.8.1612
Hendrick Brouwer 28.8.1612 - 6.8.1614
Jacques Specx 6.8.1614 - 29.10.1621
Leonardt Camps 29.10.1621 - 21.11.1623
Cornelisz. van Neijenroode 21.11.1623 - 31.1.1633 Carel Lourensz[oon] (1630年から)*
Pieter Stamper (1631年)*
Pieter van Sante[n] 31.1.1633 - 6.9.1633 Carel Lourensz.
Nicolaes Couckebacker 6.9.1633 - 3.2.1639 Carel Lourensz. (1635まで)
Maerten Wesselingh (1635, 1636, 1637年)*
François Caron 3.2.1639 - 13.2.1641 Hans Pauts* Jürgen / Juriaen Henselingh*
Maximiliaen Le Maire 14.2.1641 - 30.10.1641 Juriaen Henselingh
Jan van Elseracq 1.11.1641 - 29.10.1642 Juriaen Henselingh
Pieter Anthonijsz. Overtwater 29.10.1642 - 1.8.1643 Juriaen Henselingh
Cornelisz. Stevensz[oon]*
Jan van Elseracq 1.8.1643 - 24.11.1644 Juriaen Henselingh
Cornelisz. Stevensz.
Pieter Anthonijsz.Overtwater 24.11.1644 - 30.11.1645 Cornelisz. Stevensz.
Reijnjer van 'tZum 30.11.1645 - 27.10.1646 Karl /Carel Kempf*
Willem Verstegen (Versteijen) 28.10.164 - 10.10.1647 Mathijs Crousen[3] Jacob van Gessel*
Frederick Coijet 3.11.1647 - 9.12.1648 (?) [4]
Dircq Snoecq 9.12.1648 - 5.11.1649 (?) [5]
Anthonio van Brouckhorst 5.11.1649 - 25.10.1650 Caspar Schamberger [6]
Pieter Sterthemius 25.10.1650 - 3.11.1651 Caspar Schamberger
Adriaen van der Burgh 1.11.1651 - 3.11.1652 Johannes Wunsch*
Frederick Coijet 4.11.1652 - 10.11.1653 Johannes /Jan Stipel*
Gabriel Happart 4.11.1653 - 31.10.1654 Johannes / Jan Stipel
Leonard Winninx 31.10.1654 - 23.10.1655 Johannes Wunsch
Pieter Jacobsz[oon]*
Joan Boucheljon 23.10.1655 - 1.11.1656 Hans Jürgen / Juriaen Hancke*
Pieter Jacobsz.
Zacharias Wagener / Wagenaer 1.11.1656 - 27.10.1657 Hans Juriaen Hancke
Pieter Jacobsz.
Joan Boucheljon 27.10.1657 - 23.10.1658 Steven / Stephan[us] de la Tombe (?)*
Pieter Jacobsz.
Zacharias Wagener 22.10.1658 - 4.11.1659 Stephan[us] de la Tombe
Pieter Jacobsz.
Joan Boucheljon 4.11.1659 - 26.10.1660 Stephan[us] de la Tombe
Pieter Jacobsz.
Hendrick Indijck 26.10.1660 - 21.11.1661 Herman[us] Katz[7]
Dirck van Lier 11.11.1661 - 6.11.1662 Herman Katz[8] Palm (?)
Hendrick Indijck 6.11.1662 - 20.10.1663 Daniel Busch[9] Abraham van Kerpen[10]
Willem Volger 20.10.1663 - 7.11.1664 Daniel Busch[11] Herman[us] Visscher (Fischer ?)[12]
Jacob Gruijs 7.11.1664 - 27.10.1665 Daniel Busch[13]
Willem Volger 28.10.1665 - 27.10.1666 Johannes Wunsch (?)
Cornelisz. de Laber[14]
Daniel Six (Sicx) 18.10.1666 - 6.11.1667 A[e]rnou[d]t Dircksz[oon]*
Constantin Ranst 6.11.1667 - 25.10.1668 Arnout Dircksz.
Daniel Six 25.10.1668 - 14.10.1669 Arnout Dircksz. (9.1.1669†)
François de Haas 14.10.1669 - 2.11.1670 Moijses Maroon (1.1.1671†)*
Pieter van der Veste[n][15]
Godefried Haeck/Haak (薬剤師)*
Martinus Caesar 2.11.1670 - 12.11.1671 Moijses Maroon[16] Pieter van der Veste[n]
Frans Braun (薬剤師)[17]
Johannes Camphuijs 22.10.1671 - 12.11.1672 Willem Hoffman*
Frans Braun (薬剤師)[18] Pieter van der Vesten (ads.)
Martinus Caesar 13.11.1672 - 29.10.1673 Willem Hoffman[19] Hans Schoonsoon (?)[20]
Frans Braun (薬剤師)*
Johannes Camphuijs 29.10.1673 - 19.10.1674 Willem Hoffman[21] Adriaen van Strijkersberg*
Martinus Caesar 20.10.1674 - 7.11.1675 Willem Hoffman
Willem ten Rhijne[22]
Johannes Camphuijs 7.11.1675 - 27.10.1676 Willem Hoffman[23] Willem ten Rhijne[24]
Dirck de Haas 27.10.1676 - 16.10.1677 Reinier Wier / Weijn (?)
Albert Brevincq 16.10.1677 - 4.11.1678 Reinier Wier / Weijn (?)
Dirck de Haas 4.11.1678 - 24.10.1679 Jacob Dijckhoff[25]
Albert Brevincq 24.10.1679 - 11.11.1680 Jan Bartelsz.(Jan Bartelsa Benedictus)*
Isaac van Schinne 11.11.1680 - 31.10.1681 Jan Bartelsz[oon]
Hendrick Canzius 31.10.1681 - 20.10.1682 Jan Bartelsz.
Andreas / Andries Cleyer 20.10.1682 - 8.11.1683 Jan Bartelsz.
Constantin Ranst de Jonge 8.11.1683 - 28.10.1684 Hendrik Obé*
Hendrick van Buijtenhem 25.10.1684 - 7.10.1685 Hendrik Obé
Andreas Cleyer 17.10.1685 - 5.11.1686 Hendrik Obé Albert Croon[26]
Constantin Ranst de Jonge 5.11.1686 - 25.10.1687 Jan Bartelsz.
Hendrick van Buijtenhem 25.10.1687 - 13.10.1688 Jan Bartelsz.
Cornelisz.van Outhoorn 13.10.1688 - 1.11.1689 Jan Bartelsz.
Balthasar Sweers 1.11.1689 - 21.10.1690 Jan Stockman[27]
Hendrick van Buijtenhem 21.10.1690 - 09.11.1691 Engelbert Kaempfer[28]
Cornelis van Outhoorn 9.11.1691 - 29.10.1692 Engelbert Kaempfer[29]

 

星印が付いている外科医について以下に詳しく紹介することにする。名前の綴りは、当時の文献により多少異なることがよくあるので、その相違の幅を示しながら、名前の統一を行った。

 

Carel Lourensz[oon]

これまでは1630年と1631年の数通の書翰から知られていたカーレルの名字は1634年12月24日のgenerale missiveに現われる[30]。1630年、人質として他のオランダ人たちと共に大村に囚われていた前台湾総督ピーテル・ノイツ(Pieter Nuijts)の息子ローレンス・ノイツ(Lourensz. Nuijts)が、激しい下痢を伴う病気にかかり、同じく人質であった下級商人ピーテル・ムイゼル(Pieter Muijser)の知らせに対して、平戸の商館長ナイエンローデがすぐに返事を送った。その返書から、大村にカーレルという外科医がいたことがわかる。ナイエンローデは、カーレルには薬品についてのラテン語の説明書は理解できない事を挙げ、また、外科医の薬箱よりも薬屋の方が品揃えがよいと当時の外科医による治療の問題点を指摘した上で、役に立ちそうなワイン、アーモンド、干しぶどうや肉豆蒄(mannekens nooten)[31] を送った。肉豆蒄は、当時ヨーロッパでかなりの反響を呼んでいたという。また、前年カレル宛に平戸に届いていた薬缶も送ると記してあるが[32]、この書翰が書かれたとき、ローレンス・ノイツはすでに死亡していた[33]

カーレル・ローレンスは長く日本に滞在していたようである。1630年代半ば頃、東インド会社との契約が切れた時、彼は「自由民」(vrijburger)として平戸に留まっていたが、1635年、バタヴィアから届いた命令によりローレンスは、同じく「自由民」として平戸に住むことにしていた元航海士ヘンドリック・アーレンツ(Hendrick Arentsz.)[34] と共にグロル号(Grol)で日本を去ることになった[35]。恐らく、日本側も東インド会社側も、管理しにくい自由な身分のオランダ人が日本で活動することが気に入らなかったのであろう。命令によると、バタヴィア、アンボイナやバンダに住み着くか、それともヨーロッパへ帰るのか、を迫られたが、ローレンス自信がどういう決定をしたかは不明である。長年に亙る日本滞在を終えた時点で、彼の財産は500タイルになっていた[36]

Pieter Stamper

平戸侯(松浦肥前守隆信)が、1631年3月に発病した江戸の町奉行嶋田彈正忠次兵衛利正のために「経験豊かな外科医」とあらゆる薬品を要請したことは、永積洋子氏の研究によりすでに周知のことである[37]。 はじめナイエンローデはカーレル・ローレンツを派遣するつもりであったが、どういう訳かそれには江戸からの許可が必要だった。 しかし時が迫っていたため、フレーデ号(Vrede)のピーテル・スタンペルを送ることにした。長崎奉行は彼をいくらか知っており、おそらく腕の確かな外科医と見なされていたであろう。町奉行嶋田の病気については、依頼状には、 「体中にふけや悪性の腫物」ができて日本人医師には手のほどこしようがなかったとしか説明されていない[38]。そこで停泊中のすべてのオランダ船に乗っていた外科医たちが協議して、大急ぎで必要と思われる薬品を用意した[39]

幸い町奉行嶋田の病気についての依頼状の説明はかなり誇張されたものだった。しかしながらこの、善意で行われた援助は後味の悪いものを残してしまった。厳重に注意されていたにもかかわらず、酒癖の悪いスタンペルは途中で飲んだり、かなり攻撃的になったりしていた。ナイエンローデは、日本食が合わなかったときのために4タイルを与えていたが、これもお酒に使ってしまい、京都では盗みまではたらいた。平戸へもどると、祖国にはかり知れない恥をかかせたとして、ナイエンローデが厳しい罰を科したのもうなずける[40]。当時の30年戦争の物語に登場する「薮醫師」を思わせるスタンペルの振る舞いは、彼の外科医として能力にも陰を落とすことになる。

Maerten Wesselingh

マルテン・ウェセリングはコペンハーゲン生まれとなっている[41] 。バタヴィア日誌に写された、1637年1月12日付の総督ヴァン・ディーメン(van Diemen)宛ての手紙では、長崎代官末次平蔵は外科医ウェセリングを大変賞賛している。ウェセリングは1635年と1636年に末次と長崎奉行をひとり治療し、侍医たちに「多大な愛情と熱意をこめて多くのことを」教えたという。再び衰弱することを恐れていた末次は、ウェセリングを再度日本へ派遣するよう依頼した[42]。1637年11月19日付の末次からディーメンへの2通目の手紙から、この依頼が次の日本向けの船によって果たされたことがわかる。しかし、11月にはすでに彼は(恐らくは回復したため)来る必要がなくなっていた[43]。ウェセリングはその後船で台湾へ向かったが、Zeelandiaの日誌には2年間繰り返し外科医としてその名をとどめている[44]。その後も台湾で下級商人として働き[45]、1641年タマカル(Tamakaloe)で殺害された [46]

Hans Pauts

ハンス・パウツはドイツ・マグデブルク近郊の小さな町オシェルスレーベン (Oschersleben) 出身で、月給22ギルダで下級外科医としてアンボイナ号(Amboina)に乗り1635年7月にバタビアに着いた。1639〜40年、ドイツ・ウルム(Ulm)出身の砲術下士官ハンス・ヴォルフガング・ブラウン(Hans Wolfgang Braun)の指導のもとで将軍のために臼砲、榴弾、砲架やその他の付属品が製造されていた時、平戸商館では火傷やその他の外傷が頻発していたようである。また、ブラウンが江戸で自ら体験したように、試砲は、非常な危険を伴った。誤砲の際には臼砲がその中味ともども粉々になってしまうのである[47]。1640年1月1日付の商館長カロンの記述によれば、パウツは特に、将軍の命によりしばらく仕事の監督のために派遣されてきた役人3人の面倒をよく見ていた。おそらく彼は、在任期間が過ぎていたため、帰国することを考えていたであろうが、上述の役人たちを怒らせまいとして、カロンはパウツの月給を1639年7月26日に遡り40ギルダに上げ、上級外科医に任命してさらに3年間東インド会社で働くよう、契約を結んでいる。鋳造の仕事と武器の設置にはその後何ヶ月間もかかったので、パウツは少なくとも1639年夏から1640年秋までは日本にいたことになる[48]

Juriaen Henselingh

ユリアーン・ヘンゼリングもマグデブルク出身のドイツ人で[49]、月給25ギルダでアミリア号(Amilia)の外科医として1638年10月にバタヴィアに着いている。1641年10月に3年の契約が切れ、1642年9月30日に出島商館長エルセラックにより契約を更新した[50]。この間の事情については1642年10月17日、日誌に新たに記載されている。エルセラックによれば、ヘンゼリングは大目付筑後殿と長崎奉行の求めにより日本に留まっている[51]。彼の勤務振りと、大目付、奉行の求めにより上級外科医に昇進した[52]。商館日誌にもユリアーン・ヘンゼリングの名前が記載されている[53]。これらの記述を照らし合わせると彼は少なくとも1641年秋から1644年秋まで日本にいたことになる。1643・44年の江戸参府に伴う負担を軽くするため(tot soulagiement)、彼は特別手当として17タイルを得ている[54]

Cornelisz. Stevensz[oon]

オランダのミデルブルフ(Middelburgh)出身のコルネリス・ステフンスゾーンは、月給18ギルダでオストカペレ号(Oostkapelle)の下級外科医(onder barbier)として、1636年7月にバタヴィアに来る。彼は、後にバタヴィア総督の指示により外科医(barbier)に昇進し、月給は2倍になっている[55]。遅くとも1642年秋には来日している。1642年末の江戸参府の決算を見ると、17タイルの特別手当を得たのは上記のヘンゼリングではなく就任したばかりのステフェンスゾーンである[56]。 1643年4月9日に出島で数人のオランダ人と日本人の立会のもとに作られた甲板長ヒケ・エッセルス(Hicke Essers)の遺言状に彼は、相続人の1人としてその名を挙げられている[57]。1643・44年、彼の上司上級外科医ヘンゼリングは江戸参府に同行しているが、ステフェンスゾーンは出島に残っていた[58]。1644年10月6日付の契約更新により、彼は同年12月1日付をもって上級外科医に昇進し、月給は44ギルダになった。その理由について、商館長エルセラックは、彼の外科医の仕事振りと熱心に書記と倉庫の見張りを勤めた業績を強調している。新契約の任期は3年であった[59]。その2日後の10月8日にはステフェンスゾーンの名が初めて商館長日誌にも現われる[60]。同年末の江戸参府で彼は上位外科医として17タイルの特別手当を支給された[61]。1645年秋に離日し、1646年にはポーランド王号(Koning van Polen)で勤務した[62]

Karl Kempf (Carel Kempf)

カール・ケンプフは1617年11月23日にルター派の市参事会幹部ハンス・ケンプフ(Hans Kempf)と妻マルガレット(Margaret)の息子としてドイツ・プファルツの地方都市ランダウ(Landau)に生まれた[63]。なぜ上流家庭の子であった彼が身分の低い外科医職に就いて東アジアに来たのか不明である。彼は1645年秋に日本へ赴いたと考えられる。1646年1月にケンプフは江戸参府に同行し、18タイルの特別手当を得た。この参府の決算は、彼の名前、職業及び出生地を示す唯一の文献である[64]

Jacob van Gessel

オランダのユトレヒトで生まれたヤーコプ・ゲッセルもこれまで知られなかった外科医の一人である。彼は、月給10ギルダでオーリファント号(Olifant)の兵士として1646年末にバタヴィアに来た。いつ頃から出島で臨時に(provisionelijck)下級外科医を勤めていたかは不明であるが、豊富な知識と経験を持っていたゲッセルは、1648年11月9日には前年の1月12日に遡って下級外科医に正式に昇進し、月給は18ギルダに上がっている。昇進したとき彼は東南アジアのトンキンにおり、長崎とトンキンの間を通っていたと考えられる[65]

Johannes Wunsch

ドイツ・エアフルト(Erfurt)出身のヨハネス・ヴンシュは、月給26ギルダでクー号(Koe)の下級外科医として1647年5月末にバタヴィアに到着した。そこで初めは要塞の病院で働き、後に様々な船の上級外科医を勤めた。ヴンシュは1651年の夏カスパル・シャムベルゲルの後任として来日し、契約の任期満了のため、10月6日に上級外科医として30ギルダの月給で新たに3年の契約を結んだ[66]。その年の商館長ステルテミウスの日誌には「外科医」としてしか記されていないが、一緒に出島で勤務していたスウェーデン人オーロフ・ヴィルマン(Oloff Willmann)の旅行日記にはヴンシュの名前が見られる[67]。彼は1652年の秋に日本から離れ、1654年には再び来日し、商館長ヴィニンクスと2度目の江戸参府に同行している[68]

Johannes (Jan) Stipel

ヨハネス・スティペル(またはヤン・スティペル)はオランダのユトレヒトで生まれた。彼は月給34ギルダでヴィテン・オリファント号(Witten Olifant)の下級外科医として1650年11月にバタヴィアに着いた。最初は上級外科医として東南アジアの小島ソロルの「ヘンリクス要塞」(fortresse Henricus)で働き、1652年には日本へ転勤してきている[69]。初年の日記には職業名heelmeesterでしか現われていない。次の任期中には、一箇所でchirurgijn Jan Stipel[70]、あとはすべてm[eeste]r Jan Stipelとなっている。彼の雇用契約は1653年で終わっている。1654年10月11日には、前回の江戸参府での業績や満足できる立派な勤務振りから新たに上級外科医として認められている。昇給や任期については具体的な取り決めはなされず、その後のことはすべてスティペルに任されていた[71]。翌春にはヴンシュが上級外科医として江戸へ赴いているので、スティペルは1654年の晩秋には日本を離れていたものと考えられる。

Pieter Jacobsz[oon]

オランダのミデルブルフ出身のピーテル・ヤコプスゾーンは、1651年5月にタイオワン号(Taijouan)で下級外科医として月給12ギルダでバタヴィアに来た。彼は遅くとも1654年の夏頃には来日した筈である。任期が満了し、出島で下級外科医を必要としていたため、同年10月11日、商館長ハッパルトによって新たな契約が3年の期限で結ばれ、月給は22ギルダになった[72]

当時の上級外科医ヴンシュが1655年春に江戸へ行っている間、ヤコプスは出島に残ったオランダ人の世話をしていた[73]。彼は商業への転職を熱望し、倉庫関係の仕事で業績を上げた。1657年10月に任期3年の契約が切れたため、ヤコプスは商館長ワーゲネルの出航直前の27日、同じ月給でさらに3年の契約を結んている。もう1年出島の下級外科医をつとめる条件で、彼は翌1658年5月10日から助手の職に就くことを約束されたが、少なくとも1660年までは相変わらず江戸参府中の外科医の代理を兼担せざるを得なかった[74]

Hans Jürgen (Juriaen) Hancke

ハンス・ユリアーン ・ハンケは東部ドイツのブレスラウ(Breslau、現在はポーランドのブロツラフ)で生まれた。彼は月給32ギルダでクー号(Koe)の上級外科医として1647年6月にバタヴィアに来た。任期5年の契約が切れてから、彼は毎年ヨーロッパに帰るつもりでいたので、期限付きの契約を結んだり、「昇進」を願うこともなかった。出島で1年間の勤務を終えた1656年の秋もそうだった。江戸参府の際、数名の大物の診察や治療で彼は大きな業績を挙げたが、商館長ブヘーリヨンが勧めた滞在延長に対しては非常に消極的であった。結局特定の任期を定めずに月給を32ギルダーから42ギルダーに上げることで納得してもらった[75]。新任商館長ワーゲネルへの引き継ぎ報告の中ではさらに、上級外科医ハンス・ハンケはあらゆる授業を行っておること、また次の春にも江戸へ行かせるよう助言したことなどが記載されている[76]。 モンターヌスもこの報告を引用している[77]。ハンケは1656年から翌年にかけて向井元升に西洋外科術について教え、その軟膏薬はアンス・ヨレアムという名で様々な写本に現れる。なお、洋学史事典は1656・57年の欄にアブラハム・ヴェインス(Abraham Weijns)を載せているが、彼は助手で、せいぜい下級外科医だった[78]

Steven / Stephan[us] de la Tombe

オランダのシーダム(Schiedam)出身のステファン・デ・ラ・トンブは、月給30ギルダでブルーメンダール号(Bloemendaal)の外科医として1655年6月にバタヴィアに着いた。彼がいつ出島の外科医に就任したかははっきりしないが、1658年6月10日付のバタヴィア総督マートソイケル(Maatsuijcker)が署名した新契約書には前年度の出島商館長ブヘーリヨンによるデ・ラ・トンブへの高い評価が付けられているので、彼はすでに1657年の秋から日本で働いていたはずである。残念ながら、ブヘーリヨンの日誌にはトンブの名前が見られない。上記の任期3年の契約更新によりデ・ラ・トンブは、上級外科医として45ギルダの月給を得た。[79] 1660年、M[eeste]r Stevenが江戸へ行っている間、ピーテル・ヤコプスは出島のchirurgijns winckelを担当するという記述から、デ・ラ・トンブは引き続いて日本で活動していたと分かる。[80] 尚、洋学史事典に見られるコルネリス・ムロックは下位商人と倉庫管理者(dispencier)を勤めていたことになっている[81]

Arnout Dirksz[oon]

アムステルダム生まれのアルノウト・ディルクスゾーンは、1663年にバタヴィアに到着し、1666年10月から日本で勤務することになった。商館長日誌の数ヶ所にが挙げられている彼の名前(Arnout Dirkse, Arnout Dirks, Aernoudt Dirksen)を見ると、恐らく正式な名前はArnout Dirksz(oon)だったと思われる[82]。1668年1月21日彼は医師瀬尾昌琢のためにあの有名な証明書を発行する[83]。ディルクスゾーンは出島で1669年1月9日遺言状を書かずに、体をむしばむ病で(een uijtteerende sijckte)死亡した。翌日、奉行所から来た2人の検士が死体を「湾の向こうのオランダ墓地で埋葬した」[84]

Moises Maroon

モイセス・マローンは1669年から上級外科医として出島におり、[85] 1671年1月1日夜から2日にかけて出島で死亡した。それまでの2、3ヶ月は病気で、体が麻痺していた。彼も「出島の向こう岸のいつもの墓地に運ばれた」[86]

Godfried Haeck

名前からはドイツ出身と思われるゴットフリード・ヘックは若い薬剤師であった[87]。薬草の専門家と蒸留者が求められていたため、彼は1670年日本に派遣されたが、日本側はより経験の豊富な人を期待していたようである[88]

Frans Braun

薬剤師のフランス・ブラウンはドイツローテンブルク(Rothenburg)出身であるが[89]、この名前の市町村は少なくとも5ケ所にあったので、最終的な確認は今後の課題である。彼はは1671年にハークの後任として「チュールペンブルッヒ」号(Tulpenburgh)で長崎に到着し[90]、1673年まで出島にいた[91]

Adriaen Strijckersberg

アドリアーン・ストライケルスベルヒはロッテルダムで生まれた。1673・74年に日本で任に就き、74年末にハーゼンベルヒ号(Hasenbergh)でバタヴィアへ向かった。そこでは、アルベルツス・ボップ(Albertus Bopp)が8月13日に死亡してから砦の上級外科医の職が空席になっており、ストライケルスベルヒはその後任に指名された[92]。1682年4月8日に彼は砦の医局長になっている。1684年6月6日には上級商人になり、この地位に彼は少なくとも1696年まで就いていた。1702年まで公衆衛生業務の長をしていた。その15年間に彼が外科医から上級外科医に昇進させたのは3人だけだった[93]

Willem Hofman

ヴィレム・ホフマンは、1671年に日本に来て、 続けて5年間も上級外科医として勤務していた[94]。到着直後始まった取り引き期間中での彼の倉庫での熱心な仕事振りに気付いた商館長カンファイスは、1672年1月8日付の書翰でバタビア総督らにホフマンを下位商人に兼任させる許可を願った[95]。その願いがいつかなえたかは明らかではないが、1676年の商館長日誌には、「同時に上級外科医も勤める下位商人」という記述があるので、ホフマンが商人への転向に成功したことが確かである[96]。この年、彼は病気のため江戸へは行っていない[97]

1672年12月17日ホフマンは「筑後殿」の医師に証明書を発行している。この「doctor」は1672年11月26日から外科学と油類の蒸留法を学び、「殿様と他の日本人に対してその学識が強調できるように」証明書の発行を依頼した。残念ながら、この証明書は行方がわからない[98]

尚、1674年10月から1676年10月まで出島に滞在していたヴィレム・テン・ライネ博士は通常の蘭館医ではなく、別枠で日本へ派遣された人である[99]

Hendrick Obé

ヘンドリック・オベーは「新ネデルランド」(New York)出身で、1683年夏に上級外科医として来日し、日本側の要請により1684年秋以降、さらに1年留まることになる[100]。1685年にはしかし下級商務官になった。 クラフトによれば彼は1686年には日本を離れなければならなかった。1689年には東南アジアのセマラング島(Semarang)の総督になっている[101]。1695年にはヤパム島の管理官になり、1695年9月20日に商務官に昇進した。1696年1月25日にバタヴィアへ戻ったが、そこで問題が起きたようである。同年3月1日に改めて行政官としてヤパムへ派遣されたときには、報酬や地位の「待遇改善」を条件にした。ここで彼のキャリアは終わり、昇進も昇給もなくヨーロッパへ帰った[102]。オベーの名前は商館長日誌の所々で見られる[103]

Jan Bartelsz[oon]

当時のラテン語指向により、ヤン・バルテルスの名前はJan Bartelsa Benedictusと綴られることがある。添え名のbenedictus(つまり恵まれているもの)は幸福な生活を暗示している。バルテルスはまず1680年に3年の予定で来日し、2度目の滞在期間は1686年から1689年だった。なぜ彼はあれほど管理されていた出島商館での生活に、17世紀のどの外科医よりも長く、7年間にわたって耐えられたのだろうか[104]

 

 2、3の問題点

「ステビン」

江戸時代の写本にはよく「ステビン」の名で現われる。これはヤン・スティペルだという説もあるが、日本語での表記は元来の発音とはかなりかけはなれている。さらにこれが姓なのか名前なのかもわからない。おそらくステファン・デ・ラ・トンブ(Stephan de la Tombe、つまりmeester Steven)のことではないだろうか。

「コルネリス」

これはコルネリス・ムロック(Cornelisz. Mulock)とされてきたが、オランダの資料ではムロックについては商人としての職歴しか見当たらない。たとえばコルネリス・ステフェンスゾーンかコルネリス・デ・ラーベルだったかも知れない。

「伊保宇」、「多阿須」

享保3年(1716年)の「阿蘭陀外科和朝世系之図」[105]  では加須波留(Caspar Schamberger)、須庭賓(Steven)、阿無須與利安(Hans Juriaen Hancke)、阿留曼須加津(Hermanus Katz)、阿留能登(Arnout Dircksz.)と並んで「伊保宇」と「多阿須」の名前も挙がっている。他の名前が特定できる以上、最後の2者についてもこれまで知られていない外科医だった可能性がある。

「ハルム」

桂川甫築の「繕生室医話」(巻一)ではその書物についての説明の中で、オランダ人の名前が挙がっている[106]

「寛文元辛丑九月四日従鎮信公長崎御奉行黒川與兵衛殿江御頼下拙阿蘭陀外科稽古ス其時ノ師匠ハハルマンスカツカビタンノ名ハデレキハンリイルト云同2年寅正月廿六日右ノメストル江府江参向ニ付下拙モ参候此ハルマンスハ阿蘭陀ニテモ名人ノ由カビタン云ナリ此メストルニ二年附添其後代リニダンネルト云メストル来朝スカビタンヲインデレキト云又其代リニハルムト云メストル来朝スダンネルニ三年パルムニ一年都合六年ノ間通詞各立合吟味ヲ遂ゲ右兩師ノ印可并通詞ノ連判ノ一巻ニ稽古ノ目録箇條委細有之也夫ニテ其品々ヲ見合可有事凡阿蘭陀江的傳ト云事ハ曽テ難成事ナレドモ太守ノ御憑寄相叶所也又此書ハ師匠江此方ヨリ問懸通詞ニ和ケサセ書集_仕立素下愚無学短才ナレバ文章更不宜然トモ全ク無違説也其慥成所ヲ愚息ニ知ラセン為ニ書キ記ス也更ニ他人之見ニアラザレバナリ
一右ノ師禮ニ寛文二寅九月廿三日歸帆ニハルマンスヘ白銀三十枚御使野口小右衛門
一同九月ニダンネル江白銀十枚帰帆ニ又十枚樽一荷肴一箱
一同卯九月ニハルム江白銀十枚都合白銀六十枚太守ヨリ遣ル者也
_二天和三癸亥五月兩中法橋甫安春育五十一歳ニテ改書之子甫安景富愚息江附属スルニヨリ四十七歳ニテ書籍上中下三冊ニ改書之」

商館長と外科医の名は出島商館の記録と合っている。寛文2年9月23日(1662年11月4日)の日付も信頼できる。11月5日にはリール(Lier)と任期を終えた部下が旅立っており、外科医「ハルム」(Palm?)の存在を疑う理由はない。

「ハンス」

宗田一氏所蔵のカスパル流猪股伝兵衛系の相伝証(元禄7年、1694年)は「紅毛医渡扶桑之衆」としてカスハル、ステヒン、アンスヨレアン、ハルマンス、ヤン、コルネリス、カツ、ハンスの名を挙げている。このリストで初めて現われるのはハンス(Hans)で、おそらくドイツ語圏の出身者と思われる[107]


注釈
[1] 大鳥蘭三郎「蘭館日誌の医史学的研究」『日本医史学雑誌』、第10巻第1号、昭和37年(1962年)、11〜16頁。大鳥蘭三郎「蘭館日誌の医史学的研究」『日本医史学雑誌』、第10巻第2、3号、昭和39年(1964年)、1〜12頁。服部敏郎『江戸時代医学史の研究』吉川弘文館、東京、昭和63年(1988年)、330〜338頁。日蘭学会編『洋学史事典』、雄松堂出版、東京、昭和59年(1984年)、付表3。
[2] オランダの国立中央文書館(Algemeen Rijksarchief, 's-Gravenhage = ARA)の資料についての略号:ARA 1.04.21, Nederlandse Factorij Japan = NFJ + 番号。出島商館日誌の資料にはさらにDDを付記する:NFJ + 番号, DD + 日付、またはARA 1.04.02, オランダ東インド会社 = VOC + 番号。その他の資料についてはtoegangsnummerを付記する。
[3] 「Opperchirurgijn Mathijs Crousen」は日記の引用箇所にのみ見られる。NFJ, DD 3.12.1646, 21.1.1647, 11.4.1647 等々。
[4] この外科医もクロウセンかも知れない。彼は江戸参府同行者として18タイルの特別手当を得た (NFJ 1166, Reekeninge 1647/48: een Barbier)。また日記の他の箇所ではただ「Chirurgijn」とだけ記されている(NFJ 61, DD 22.2.1648, 29.4.1648, 26.6.1648 等)。
[5] この「chirurgijn」は常に職名で現われる (NFJ 62, DD 9.3.1649, 23.~ 28.3.1649 等など)。
[6] NFJ 63, DD 26.1.1650 (Casper Schamburger). DD 14.11.1650 (Cheru[r]ghijn Casper Schambergen). シャムベルゲルの生涯について以下の論文を参照。(a) W.ミヒェル「出島蘭館医カスパル・シャムベルゲルの生涯について」『日本医史学雑誌』36巻3号、201〜210頁、1990年(平成2年)。(b) W.ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルの「弔辞」について」『日本医史学雑誌』37巻4号、143〜151頁、1991年(平成3年)。
[7] 京都市稲葉神社所蔵「永代日記」による。寛文元年3月4日(外科あるまぬすかつ)。
[8] 外科医カツは河口良庵に遡る「阿蘭陀外療集」、巻4(慶応大学医学情報センター蔵、494.2 / OR-2)の中で見られる。
[9] NFJ 76, DD 6.11.1662 (M[eeste]r Daniel Busch Opper=Chirugijn).
[10] NFJ 76, DD 6.11.1662 (Abraham van Kerpen, Onder=Chiru[r]gijn).
[11] NFJ 77, DD 21.10.1663 (Daniel Busch opperchirurgyn, Hermanus Visscher dito).
[12] NFJ 77, DD 21.10.1663 (Daniel Busch opperchirurgyn, Hermanus Visscher dito).
[13] 1655年1月21日、ブッシュは、平戸侯により長崎に勉強のため派遣されていた嵐山甫安に証明書を発行した(平戸観光資料館)。 NFJ 78, DD 13.3.1665 (Daniel Busch Chirurgijn).
[14] Dircksz.はすでに出島に来ていた。
[15] ヴァン・デル・ヴェステは1668年から出島の下級外科医であった。NFJ 83, DD 13.2.1670 (onder Chirurgijn Piet[e]r vander veste).
[16] NFJ 84, DD 2.1.1671 (opper chirurgijn Moises Maroon).
[17] NFJ 84, DD 14.7.71.
[18] NFJ 85, DD 14.5.1672 (appotheeker Frans braun).
[19] NFJ 86, DD 15.1.1673 (M[eeste]r Willem Hoffman en den adsistent Cornelis Lindius).
[20] 『洋学史事典』による。
[21] NFJ 87, DD 40.4.1674 (opper chirurgijn Willem Hofman).
[22] NFJ 88, DD 16.12.1674 , 27.12.1674, 19.3.1675, 21.3.1675, 25.3.1675, 30.3.1675, 31.3.1675 等など (Wilhelm Ten Rhijne).
[23] 1676年に職を変え、日記には「onderkoopman Willem Hofman」と記されるようになるが、「同時に上級外科医の職にも就いていた」 (NFJ 89, DD 24.1.1676)。
[24] NFJ 89, DD 4.1.1676, 17.1.1676, 24.1.1676, 17.1.1676, 24.1.1676, 20.4.1676, 22.4.1676, 24.4.1676, 25.4.1676 等など (Wilhelm Ten Rhijne).
[25] 『洋学史事典』による。
[26] 1685年10月18日にクローンが原三信にオランダ外科の免状を与えた(現在は福岡市、原家蔵書)。
[27] NFJ 103, DD 9.11.1689 (oppermeester Jan Stokman). NFJ 103, DD 18.11.1689 (oppermeester Jan Stokman). NFJ 103, DD 9.12.1689 (Jan Stokman opperchirurgijn). NFJ 103, DD 6.1.1690 (oppermeester Jan Stokman). NFJ 103, DD 10.2.1690 (opperm[eeste]r Jan Stokman"). NFJ 103, DD 23.2.1690 (opperchirurgijn Jan Stokman).
[28] NFJ 102, DD 29.11.1690 (opperchirurgijn Engelbert Kempfer), 27.3.1691 (oppermeester Kempher), 15.6.1691 (opperchirurgijn Engelbert Kemphur).
[29] NFJ 103, DD 29.11.1691 (medicus Engelb[er]t Kempfer), 2.3.1692 (oppermeester Engelbregt kempfer), 17.3.1692 (doctor Kempfer), 28.3.1692 (doctor Kempfer), 21.4.1692 (mons[ieu]r Kempfer).
[30] VOC 1111, fol.142b (generale missive, Batavia 24.12.1634).
[31] 丸い肉豆蒄は「女性」、長いのは「男性」と見なされていた。
[32] NFJ 482, p.440-442 (ナイエンローデからムイゼルへの書翰、Hirado 31.12.1630)。
[33] NFJ 482, p. 443-444 (ナイエンローデからムイゼル他への書翰、Hirado 7.1.1631)。NFJ 482, p. 444 -445 (ナイエンローデからヤンセンへの書翰、Hirado 7.1.1631)。NFJ 482, p. 450-455 (ナイエンローデから台湾のプットマンスへの書翰、Hirado 15.3.1631)。ヨーロッパへ送られた次の写しも参照:VOC 1103, fol. 118 (ヤンセンからナイエンローデへの書翰、Osaka 16.1.1631) 、fol. 118b (ヤンセンからナイエンローデへの書翰、Osaka 8.1.1631) 、fol. 119 (ヤンセンからナイエンローデへの書翰、Osaka 19.1.1631) 、fol. 120b (ヤンセンからナイエンローデへの書翰、Osaka 25.1.1631)。
[34] アーレンツについては金井圓「ヘンドリック・アレントセンとヤ・フォスの五島探検記」、『日蘭交渉史』思文閣出版、東京、昭和61年(1986年)、145〜154頁参照。
[35] VOC 1111, fol. 142b.
[36] VOC 1111, fol. 142b (generale missive, Batavia 24.12.1634).
[37] 永積洋子『平戸商館の日記』第2輯、岩波書店、東京、昭和55年(1980年)、21、40、164、526頁。
[38] NFJ 482, fol. 457 (ナイエンローデからヤンセンへの書翰、Hirado 23.3.1631)。NFJ 482, fol. 462 (ナイエンローデからヤンセンへの書翰、Hirado 25.5.1631)。
[39] NFJ 482, fol. 457 (ナイエンローデからヤンセンへの書翰、Hirado 23.3.1631)。
[40] NFJ 482, fol.459f. (ナイエンローデからヤンセンへの書翰、Hirado 25.4.1631)。
[41] J.L. Blussé / M.E. van Opstall / Ts'ao Yung Ho (Hrsg.): De Dagregisters van het Kasteel Zeelandia, Taiwan 1629-1662. M. Nijhoff, 's-Gravenhage 1986, p. 406.
[42] Daghregister Batavia, 28.4.1637; H.T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden uit Casteel Batavia. 's-Gravenhage 1896ff., Anno 1643-1644, p. 149f.
[43] NFJ 54, DD 20.-21.11.1637.
[44] VOC 1128: 12.2.1638, 10.3.1638, 7.5.1638, 8.8.1638, 9.9.1638. VOC 1131: 20.3.1639, 12.4.1639, 30.4.1639, 8.5.1639, 14.6.1639, 22.6.1639, 28.6.1639.
[45] ARA, Collection Sweers, van Vliet, Specx, Mannis, No.7: 16.12.1639.
[46] J.L. Blussé / M.E. van Opstall / Ts'ao Yung Ho, p. 406.
[47] NFJ 55, DD 21.7.1639。
[48] NFJ 5, fol. 50.
[49] NFJ 5, fol.17b.
[50] NFJ 5, fol.17b.
[51] NFJ 5, fol.54b.
[52] NFJ 5, fol.54b.
[53] NFJ 55, DD 14.6.1641, 22.10.1641(Jeuriaen Henselijn Barbier). NFJ 56, DD 14.1.1642 (Chirurgijn Juriaen Henselingh). NFJ 58, DD 23.9.1643 (Opper Chirurgijn m[eeste]r Jurjan Henselingh). NFJ 58, DD 1.9.1644 (Chirurgijn Juriaen Henselingh). NFJ 58, DD 16.9.1644 (Chirurgijn Jurjaen Henselingh). NFJ 58, DD 2.10.1644 (Chiru[r]gijn Jeuriaen Henselingh). 又は H.T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden uit Casteel Batavia. 's-Gravenhage 1896ff., 28.4.1637 (Juriaen Henselingh).
[54] NFJ 1162, Reekeninge 1643/44 (Jeuriaen Henselingh).
[55] NFJ 5, fol. 54b (Cornelisz. Stevensz.).
[56] NFJ 1161, Reekeninge 1642/43 (Cornelis Stevenß Barbier).
[57] NFJ 5, fol.19.
[58] NFJ 1162, Reekeninge 1643/44 (Jeuriaen Henselingh).
[59] NFJ 5, fol. 54b.
[60] NFJ 57, DD 8.10.1643 (Chirurgijn Cornelis Stevensz.)。
[61] NFJ 1163, Reekeninge 1644/45 (Cornelisz Stevens opperchirurgijn).
[62] ARA 1.04.13, Scheepssoldijboeken (船員の賃金支払簿) No. 5278.
[63] ケンプフの家族についてはランダウ市史料編纂所のDr. Martinによる。
[64] NFJ 1164, Reekeninge 1645/46 (Carel Kemph van Landauw Barbier).
[65] NFJ 5, fol.33又はfol. 56b.
[66] NFJ 5, fol.46 (Johannes Wints)。又はfol. 60 (Johannes Wunsch)。
[67] Een kort Beskriffning Ypp Trenne Reesor och Peregrinationer / sampt Konungarijket Japan [...] Wiisindborg, Anno MDCLXXIV, p. 194. 1652年の商館長日誌には彼は「Chirurgijn」とだけ記されている (NFJ 65, DD 11.2.1652, 22.4.1652, 14.7.1652 等)。
[68] NFJ 68, DD 16.2.1655 (heelm[eeste]r Johannes Wunsch). 洋学史事典に記載されているヨハネス・スティデン (Johannes Stiden) についての資料は見い出せなかった。
[69] NFJ 5, fol. 88b.
[70] NFJ 66, DD 27.1.1653, 4.2.1653, 6.2.1653 等。NFJ 67, DD 13.2.1654 (Chirurgijn Jan Stipel)。また27.2.1654, 7.3.1654, 16.3.1654.
[71] NFJ 5, fol. 88b.
[72] NJF 5, fol. 89.
[73] NFJ 68, DD 4.4.1655.
[74] NJF 5, fol. 98. NFJ 31, fol. (Instructie voor de ondercoopluijden Cornelisz Mulock, en Roeland de Carpentier, Nagasaki 11.1.1660): “Ondertussen zal Pieter Jacobsz: in absentie van Mr: Steven, de Chirurgijns winckel, en t'geene daerinne te doen voorvalt, waernemen, gelijck hij nu eenige jaeren naerden anderen gedaen heeft.“
[75] NFJ 5, fol. 95b.
[76] NFJ 31, fol. 155.
[77] Arnoldus Montanus: Gedenkwardige Gesantschappen der Oost-Indische Maatschappy in 't Vereenigde Nederland, aan de Kaisaren van Japan. Amsterdam, Jacob Meurs 1669, p. 371: “Laet inschelijx d'opper-wond-heeler Hans Hanko na Iedo 't gesantschap volgen: ende de 'gebruik der Nederlansche geneesmiddelen tegen sommige Japansche ziekten, volgens eisch van Sicungodonne.“
Arnoldus Montanus: Denckwürdige Gesandtschafften der Ost=Indischen Gesellschaft in den Vereinigten Niederländern an unterschiedliche Keyser von Japan. Amsterdam, Jacob Meurs1671, p. 359: “Den Oberwundmeister Hansen Hancken nehmet mit euch nach Jedo; damit er des Sikungodonne befehle zur folge Unterricht geben könne wie man die Holländischen Artzneyen zu etlichen Japanischen Kranckheiten gebrauchen sol.“
[78] NFJ 69, DD 15.2.1656, 16.2.1656. H.T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden uit Casteel Batavia. Anno 1656, p. 27, 43, 73, 115, 159.
[79] NFJ 5, fol. 104.
[80] NFJ 72, DD 20.12.1658 (onder Coopman ende Dispencier S[ieu]r Cornelis Mulock).
[81] 『阿蘭陀外科指南』、元禄9年(1696年)「エンプラストヲヽカツトフライシトロ、エンプラストキリヒシヨンン、エンプラストデヤルマ、エンプラストアルホンコクトン」。
[82] NFJ 80, DD 23.2.1667 (Arnout Dirks). NFJ 81, DD 5.4.1668 (Chiru[r]gijn Aernoudt Dirksen). NFJ 81, DD 9.4.1668 (Chirurgijn Aernout Dirksen). NFJ 80, DD 24.-27.1.1667 (江戸参府の同行者としてChirurgijn Arnout Dirkse)。
[83] 京都大学付属図書館蔵。
[84] NFJ 82, DD 9.1.1669, 10.1.1669.
[85] NFJ 83, DD 14.4.1670 (m[eeste]r moijses).
[86] NFJ 84, DD 2.1.1671 (opper chirurgijn Moises Maroon).
[87] NFJ 83, DD 23.2.1670 (apotheker godfried haak).
[88] NFJ 84, DD 15.1.1671 (apotheker Godefried Haeck).
[89] VOC 897, バタヴィア総督から出島商館長セサルへの書翰、Batavia 23.6.1773 (appotheker Frans Braun van Rotsenburgh [sic])。
[90] NFJ 84, DD 14.7.71.
[91] NFJ 85, 14.5.1672 (Frans braun). NFJ 86, DD 7.6.1673 (23.4.2673, appoteecker Brouwn).
[92] H.T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden uit Casteel Batavia. Anno 1674, 11.12.1674 (M[eeste]r Adraen van Strijkersberg)。バタヴィア日誌に対する注目すべき指摘はユトレヒト大学科学史研究所のElke Werger-Kleinによる。
[93] VOC 828, Repertorium op de personalia, Deel 1. Eva Kraft, p. 58。エンゲルベルト・ケンペル (Engelbert Kaempfer) もまずバタヴィアで職を得ようとしたが、ストライケルスベルッヒの反対に遭い、日本へ行くことになった。 (British Library, Sloane 3063, fol. 84b: ケンペルからヴィットセン (Nicolaas Witsen) への書翰)。
[94] NFJ 85, DD 8.2.1672 (opper chirurgijn Willem Hofman). NFJ 86, DD 15.1.1673 (M[eeste]r Willem Hoffman). NFJ 87, DD 30.4.1674 (opper chirurgijn willem hofman). NF J 88, DD 27.11.1674 (opper chirurgijn Willem Hofman). NFJ 88, DD 25.3.1675, 30.3.1675 (M[eeste]r Willem Hofman).
[95] ARA , NFJ 303 (商館長カンファイスからバタビア総督とインド協議会委員宛の書翰、Nagasaki, 8.1.1672)。
[96] NFJ 89, DD 24.1.1676 (onderkoopman Willem Hofman die ook met eenen den dienst van opper chirurgijn waarneemt). NFJ 89, DD 24.1.1676も参照。
[97] NFJ 89, DD 29.1.1676.
[98] NFJ 87, DD 17.12.1673.
[99] NFJ 89, DD 4.1.1676.
[100] VOC 700, Kopie-resoluties van gouverneur-generaal en raden, 5.5.1685.
[101] Eva Kraft: Andreas Cleyer - Tagebuch des Kontors zu Nagasaki auf der Insel Deshima 20. Oktober 1682-5. November 1683. Bonn 1985, p.59.
[102] VOC 828, Repertorium op de personalia, Deel 1.
[103] NFJ 97, DD 19.3.1684 (Hendrick Obé) NFJ 97, DD 12.4.1684 , 14.4.1684, 15.4.1684, 18.4.1684, 7.5.1684, 10.6.1684 (Obé) NFJ 97, DD 6.8.1684 (opperchirurgijn Hendrick Obé) NFJ 98, DD 31.10.1684 (opperchirurgijn). NFJ 98, 6.4.1684, 28.11.1684 (opper meester hendrick Obé, meester Obé) NFJ 98, DD 10.4.1684 (oppermeest[e]r Obé) NFJ 98, DD 14.4.1684 (opper chirurgijn Hendrick Obé) NFJ 99?
[104] NFJ 93, DR 4.11.1679 (chirurgijn). NFJ 94, DD 12.4.1681 (chirurgijn Jan Bartelsz). NFJ 95, DD 5.4.1682, 27.9.1682 (Jan Bartelsz Benedictus). NFJ 313, 商館長カンツィウスからの書翰 (Jan Bartelsz). NFJ 96, DD 26.3.1683, 30.3.1683, 3.11.1683 (m[eeste]r Jan Benedictus)。エヴァ・クラフト編集の蘭館日誌も参照:Eva Kraft: Andreas Cleyer - Tagebuch des Kontors zu Nagasaki auf der Insel Deshima 20. Oktober 1682-5. November 1683. Bonn 1985. NFJ 96, DD 30.3.1683. NFJ 100, DD 4.12.1686 (opper Chirurgijn). NFJ 100, DD 10.12.1686, 2.4.1687, 8.6.1687 (opperchirurgijn Jan Bartelsz.). NFJ 101, DD 11.11.1687 (Chirurgijn Jan Bartelsz:). NFJ 101, DD 15.12.1687 (oppermeester Jan Bartelsz:). NFJ 101, DD 16.3.1688 (Opperchirurgijn Jan Bartelsz.). NFJ 102, DD 5.11.1689 (opper chirurgijn Jan Bartelsz:). NFJ 102, DD 25.3.1689 (chirurchijn Jan Bartelsz:). NFJ 102, DD 6.5.1689 (opper chirurgijn Jan Bartelsz).
[105] 岸本裕「本朝和蘭陀外科所謂カスパル流外科の本朝史料」. 日本医事新報、第802号、昭和13年1月22日、331〜332頁。
[106] 桂川甫築の「繕生室医話」、巻の1、5頁(京都大学富士川文庫 セ・183)。
[107] 宗田一『日本医療文化史』、思文閣出版、京都、平成元年(1989年)、127頁。

 

 

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