Kyushû daigaku-zô no
'Oranda-den geka ruihô (Oranda geka seiden) to Mukai Genshô ni tsuite [On the manuscript 'Recipes of Dutch Surgery' and the Confucian scholar Mukai Genshô]. In: Hikaku Shakai-Bunka Kenkyû-ka Kiyô ― Bulletin of the Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu-University) No. 2 (Fukuoka 1996 pp.75 - 79.
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COVER FOTO
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ヴォルフガング・ミヒェル
九州大学蔵の「阿蘭陀伝外科類方」(「阿蘭陀外科正伝」)と向井元升について
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Keywords: Mukai Genshô, Oranda-den geka ruihô, Hans Juriaen Hancko, Western Medicine in Tokugawa Japan, Zacharias Wagener, Dutch factory Deshima
長崎の儒学者・医師向井元升(玄松)が明暦2年及び3年に通詞を介して出島蘭館医「アンスヨレアン」に質し、「紅毛流外科秘要」を撰したことは、古賀十二郎がそれを紹介した後、あらゆる年表、事典、論文などで引用される「定説」になったが、古賀が利用した写本の所在及び詳細な内容は不明のままである。[1] 九州大学蔵のある写本を調査したところ、それは向井元升がまとめた文書に由来するものと分かり、古賀が全く触れていない事実も明らかになった。本論文においては、「紅毛流外科秘要」のこれまでの位置づけに関して疑問を投げかけるこの貴重な資料の内容を整理、分析することにする。
九州大学医学部付属図書館の貴重図書室には元々同学部泌尿器科が昭和15年に購入した写本が束ねて保管されており、同一整理番号オ−37のもとに「阿蘭陀口和書 外5種」という形で分類されている。[2] その題名は「阿蘭陀口和書」、「阿蘭陀外科正伝」、「阿蘭陀薬草並脂和書」、「阿蘭陀外科證治指南」、「阿蘭陀南蛮金瘡」となっている。また、数枚しか残っていない題名不明の断片もある。[3] いずれも「日本国書総目録」には含まれておらず、内容と背景についての調査も行われていない。
その中の22.6X15.8センチの16丁からなる「阿蘭陀外科正伝」に見られる記述は向井元升が学んだ西洋医学の痕跡を残している資料として大いに注目に値する。河口良庵や吉永升庵に遡る、内容や背景の異なる同名の写本もあるので、[4] 以下には、九州大学の「阿蘭陀外科正伝」の内題「阿蘭陀伝外科類方」を使うことにする。この内題の下に「巻之上」と記してあるが、残念ながら「巻之下」の痕跡は確認できなかった。筆者は使用済みの紙の裏面を用いている。同様に使用済みの紙の裏面を用い、筆跡も完全に一致している「阿蘭陀薬草並脂和書」及び「阿蘭陀口和書」もあり、後者の巻末には、「元禄八亥年八月二十八日」、「寛政二戊年十月六日 本書写之取以上五冊之内」及び「寛政十一年末年五月二十日 写之谷川ニテ木寺氏」といった17世紀末以降の本書伝来の歴を示す記述がある。
「阿蘭陀伝外科類方」は「エンパラストノ類」(3〜12頁)、「エンクエンテノ類」(12〜18頁)、「ヲウリヨノ類」(19〜22頁)、「フロウリスノ類 付タリ色々ノ薬味」(22〜30頁)との四つの部に分けられている。
膏薬及び軟薬の部
第一部の表題は「エンパラストノ類」となっており、「エンパラスト」の説明として「硬膏薬之事也」と付け加えられている。ここではまず膏薬5種が記されている。
(原文)
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(語源)
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エンハラストテヤラヌスシネメリクウリヨ
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[Emplastrum de Ranis sine Mercurio]
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エンハラストメリラウト
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[Emplastrum de Meliloto]
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エンハラストムスラゲニブス
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[Emplastrum Mucilaginibus]
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エンハラストヲシコロシヨン
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[Emplastrum Oxycroceum]
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エンハラストデヤパルマ
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[Emplastrum Diapalmae]
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片仮名で書かれた成分の名前にはは個々の処方の中で若干説明が付け加えられている。たとえば「エンハラストヲシコロシヨン」では。
(原文)
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(語源)
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「黄ラウ
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セイラ
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四八匁
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[Cera]
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ヤニシレス
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コロホウニヨ
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四八匁
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[Colophonia]
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ヲランダチャン
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ヘツキスナハアレス
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四八匁
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[Pix navalis]
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オランダサフラン
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クロウチ
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一六匁
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[Crocus Orientalis]
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ヤニ シレス
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ゴウメアモニヤコン
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一六匁
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[Gummi Ammoniacum]
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ヤニ シレス
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ゴウメカルバアヌン
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一六匁
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[Gummi Galbanum]
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玉ニウコウ
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マステキス
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一六匁
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[Mastix]
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モツヤク
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メイラ
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一六匁
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[Myrrha]
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テルメンテイナ
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一六匁
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[Terebinthina]
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ニウカウ
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トウリス
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一六匁
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[Thuris]
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ブダウ酒ノス日本ノスニテモ吉
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アセイテ
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一六匁
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[Acetus]
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右アモニヤコンカルバアヌンノ二色ヲブダウ酒ノ酢ニツケ煮トカシ煮シコンテ用ル也スノ加減ハ右二色ノヤニ薬ノニトカシコシタルホドニ入ル也」[5]
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続いて軟膏6種が同様に列挙されている。表題の「エンクエンテノ類」は「油膏藥之事」というふうに説明されている。
(原文)
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(語源)
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エンクエンテデアルデイヤ
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[Unguentum de Althaea]
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エンクエンテポツポウリヨン
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[Unguentum Popoleum]
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エンクエンテアルンカンフラントン
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[Unguentum Album Camphuratum]
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エンクエンテデイゲステイフン
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[Unguentum Digestivum]
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エンクエンテバジリコン
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[Unguentum Basilicon / Basilicum]
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エンクエンテアゲブチヤアコン
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[Unguentum Aegyptiacum]
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これらの膏薬及び軟膏を調合するには合計70種類以上の薬草、薬油などが必要となる。17世紀のヨーロッパにおいても、薬品の調達、品質の確認、管理などは医師及び薬剤師にとって大きな課題であったので、ましてや日本の医師は、上記の処方を簡単には利用できなかったであろう。
成分と量に見れば、その処方の出典はたいてい突き止められる。医療の統一性及び水準を維持するため、ヨーロッパの都市の多くはいわゆるPharmacopoeia(薬局方)を定めていた。とりわけドイツのニュルンベルク、アウクスブルク、ケルン、また、ロンドン及びパリの薬局方は評判がよく、その他の薬局方に大きな影響を及ぼしていた。[6] オランダ東インド会社は船及び商館の外科医に常備薬として薬箱薬品セットを備え付けたが、それは歴史的には遅く1636年出版されたアムステルダム薬局方に基づいていた。
しかし、このPharmacopoeia
Amstelredamensis は、主にアウクスブルク、ケルン、ロンドンの薬局方からの寄せ集めで、さほど特色のあるものではなかったので、[7] ヨーロッパの各地域から集まっていた外科医たちはアムステルダム薬局方に加えて、様々な独自の処方を利用し続けていたようである。VOC文献によれば、向井元升の相手になっていた「アンス・ヨレアン」は東部ドイツのブレスラウ(現在はポーランドのブロツラフ)で生まれた上級外科医Hans Jürgen Hancke(ハンス・ユルゲン
・ハンケ)で、「ヨレアン」はJürgenのオランダ語形Juriaenに当たる。ハンコは1655年ー1657年まで出島において勤務していた。[8]
「阿蘭陀伝外科類方」の処方の内のEmplastrum de
Ranis、Emplastrum
de Meliloto、Emplastrum
Mucilaginibus、Emplastrum
Oxycroceum、Unguentum
Popoleum、Unguentum
Album Caphuratumは、成分も分量もアムステルダム薬局方1639年第二版と完全に一致する。 Unguentum Basiliconはユトレヒト薬局方とハーク薬局方に即しており、Unguentum de AlthaeaとUnguentum Aegyptiacumの処方はケルンの薬局方に拠っている。Unguentum Aegyptiacumは著名なアラブ人学者メスエ(Mesuë)による古典的な処方だが明礬が加わっている。Emplastrum Diapalmaeの処方にはVitriolum albumが欠けており、従来のものではないようである。
処方の分量表記はヨーロッパの換算方法を反映している。
西洋流の換算
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「阿蘭陀伝外科類方」
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1ポンド
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= 12オンス
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(453,6g)
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96匁
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1オンス
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= 8ドラム
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(31,1g)
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8匁
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1ドラム
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= 3スクルペル
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(3,9g)
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1匁
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唯一Unguentum Aegyptiacumだけは換算率が異なっており(1オンス = 10匁)、これは面白いことに1649〜1651年来日した外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger)に遡る「カスパル方」の特徴である。彼の通詞猪股伝兵衛はヨーロッパの単位を知らず、すべて十進法で換算してしまった。[9]
藥油の部
「ヲウリヨノ類」は「藥油ノ事」を示し、合計9種が紹介されている。
(原文)
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(語源)
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ヲウリヨカラブ
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丁子之油ノ事
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[Oleum Cariophyllorum]
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ヲウリヨソクスイネ
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コハクノ油也
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[Oleum Succini]
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ヲウリヨアニイシ
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茴香之油
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[Oleum Anisi]
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ヲウリヨスピツセイ
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草ノ油ノ事也シレス白鳥ノ皮ニヌル油ナリ
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[Oleum Spicei]
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ヲウリヨテレメンテイナ
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[Oleum Terebinthinae]
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ヲウリヨアメンド
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[Oleum Amygdalorum]
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ヲウリヨロザアロム
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茨ノ花ノ油也
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[Oleum Rosarum]
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ヲウリヨカモメリ
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野菊ノ花ノ油
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[Oleum Chamomillae]
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スランガベツテ
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エビノワタ油也
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[slangenvet]
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以下の例が示すように、個々の薬油の記述は、性質及び応用範囲についての簡単な説明にとどめられている。
「ヲウリヨカラブ 丁子之油ノ事
性ハ大熱也スチノ気或ハ皮肉ノ身モヲボヘザルニ付ル薬ノ第一味也
ムシクイ歯ニハ此油ヲ一味サスヘシ」
[10]
最後の「スランガベツテ」はオランダ語を表記しており、上記の植物油とは異なる原料は「エビ」ではなく「ヘビ」のはずである。また、この「蛇油脂」はヨーロッパの薬局方には見当たらない「民間薬」や外科医がアジアで覚えたものである。
薬草及びその他の薬品の部
「フロウリスノ類 付タリ色々ノ薬味」の部は「フロウリス」(<ラテン語flores)が示すように、まず花を紹介しており、引き続いては根、鉱物などさまざまな薬品について説明している。
(原文)
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(語源)
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フロウリスカモメリ
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野菊ノ花也
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[Flores Chamomillae]
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フロウリスエツヒリコウニス
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ヲトキリ草花
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[Flores Hypericonis]
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フロウリスメリラウテ
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草花ノ事也 シレス
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[Flores Meliloti]
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アツフセンテヨム
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草ノ事 シレス
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[Absinthium]
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ラアデキスコンソウリタ
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草ノ根
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[Radix Consolidae]
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ラアデキスアレストウロウヂイア
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草ノ根 シレス
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[Radix Aristolochiae]
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セルウザ
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シロイ土ノ事也
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[Cerussa]
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トウチヤ
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銅ヲ吹フキヤノ上ニ付タルケフリノカタマリタルヲ云
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[Tutia]
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ヒエテエイリス
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ロクシヤウノ事
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[Viride Aeris]
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ヲクリカンキリ
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ダクマエビノ頭ノ内ノ石
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[Oculi Cancri]
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キリシタルタリタアリ
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白ブダウ酒ノ樽ニ付カタマリタル物ノ事ナリ
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[Cristallum Tartari]
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ロツプトウリヨン
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灰ノアクノ事
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[Ruptorium]
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マステキス
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玉乳香之事
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[Mastix]
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ゴウメアモニヤコン
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シレス
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[Gummi Ammoniacum]
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ヘツテレヤウリヲンガアルヒ
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石薬 シレス
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[Vitriolum album]
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カンタアリイタス
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ゲンセイノ事
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[Cantharides]
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テイラスシゲラアタ
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シゲラアタト云国ヨリイツル土ノコトナリ[11]
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[Terra
Sigillata]
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アマレイル
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コンガウシヤノ事
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[amarelo?]
[12]
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テリヤアカノ能ノ事
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[Theriaca]
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大黄
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[Rharbarbum]
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内容は薬油と同様、簡単なものである。
「フロウリスエツヒリコウニス ヲトキリ草花
[13]
女ノ月水ナキニ煮シテ少シ用テ吉
粉ニメ少ツヽブダウ酒ニテ用レハ腎ヲ養テコシノ痛ヲヤワラグルナリ」
[14]
また、「アマレイル」については「薬ニツカフ事ナシ」としか説明していない。巻末には、西洋の万能薬テリヤアカの効能を細かく列挙した後にこう記されている。
「此テリヤアカ調合ノ事ハ日本ニテナリガキ薬方也阿蘭陀国ニテモ外科ハ調合スル事ナシ薬屋ニ調合スル薬也
明暦二年ノ年阿蘭陀外科ハ右ノ旨ヲ述テ薬方ヲ伝ヘズ同三年ノ年ノ外科伝之別書ニ此薬方注ス者也」
[15]
テリヤアカについてのこの記述は不思議ではない。殆どの薬局方に見られるAndromachusの処方の成分は65種に及んでいる。[16] この高価な薬は2斤、すでに1652年には日本に入っており、[17] 大目付井上などの興味を引いたものと思われる。
さらに大黄の性質が二行続き、最後にはこう記されている。
「兩御奉行樣被 仰付ヲ以阿蘭陀国之名医共之医書ヲ以書顕申候
メステレアンス
在判
右外科薬方口伝之通送仁念ヲ入サセ申候
カビタン
サカリヤスハアケナル
在判」
用語の片仮名表記および説明
「アセイテ」(<aceite)、「テルメンテイナ」(<termentina)、「エンハラスト」(<emplastro)、(<unguento)、「ヲウリヨ」(<oléo)、「テレメンテイナ」(<terementina)、「アメント」(<améndoa)、「カラブ」(<cravo)、「アマレイル」(<amarelo)など片仮名表記の用語の一部は間違いなくポルトガル語から由来しており、日ポ交易の時代の文化遺産であった。「セイラ」(<ポルトガル語cera、ラテン語cera)のような断定不可能の場合もあるが、その他の用語のほとんどはラテン語からきている。度量の換算方法の面でも、通常の枠から外れている「エジプト膏」のみはオランダ語に基づいている。
(原文)
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(語源)
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「一 エンクエンテアゲブチヤアコン
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[Unguentum Aegyptiacum]
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スハンスグルウ (ロクセウ)
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五十匁
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[spansgroen = Viride Aeris、緑青]
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アルイン (ミヤウハン)
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十匁
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[aluijn = Alumen、明礬]
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ホウネキ (ミツ)
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百四十匁
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[honig = Mel、蜂蜜]
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アジン
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七十匁
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[acijn = Acetus、醋]
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右先蜜ヲネリスハンスグルウヲ入少煮テ又アルインヲ入フキ上ル時ニ醋ヲ少ツヽ入フキアガルヲシヅメアシンサイサイニ入テ七十匁ヲコサズ皆入流也」[18]
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そもそも上記の名詞の内容は極めて具体性に富んでいるが、17世紀半ば頃の日本では、実物を見ないかぎり、「訳語」は決めにくかった。向井が出島の外科医と一緒に行った長崎付近の薬草狩り及び市内の薬屋の見学は、調達が目的であると同時に名前の確認のためでもあったに違いない。[19] 「フロウリスカモメリ」は「野菊ノ花也」というような、外見的印象に基づく判断は当時の東西両方の植物学の水準が低かったことを物語っている。しかし国内に類似のものがない場合にはどうしようもなかった。山脇道圓編著の『阿蘭陀外科良方』(寛文元年刊)、中村宗【ヨ】 著の『紅毛外科療治集』(寛文10年刊)や『阿蘭陀外科指南』(元禄6年刊)にはちゃんと説明がなされている「ゴウメアモニヤコン」、「ゴウメカルバアヌン」、「フロウリスメリラウテ」、「ラアデキスコンソウリタ」、「ヘツテレヤウリヲンガアルヒ」などは「阿蘭陀伝外科類方」がまとめられた時代には、当時はまだ全く知られていない。
「阿蘭陀伝外科類方」の位置づけについて
巻末の記述により「阿蘭陀伝外科類方」の由来はかなり明らかになる。すでに紹介したHans Jürgen Hancko は、ここではmeester Hansとして現れる。「達人」、「親方」を意味する「メステレ」は東インド会社において職業名として使われ、ここでは「外科医」と同意と解してよい。彼は1647年、クー号で上級外科医としてバタヴィアに来ており、1655年秋、出島に転任した。[20] その翌年の春、商館長ブヘリヨン一行の江戸滞在中、痔、膀胱結石、カタルを患っていた大目付井上政重筑後守[21]の命によりハンコは西洋医学についての授業を始めている。しかし、またしても時間が足りず、井上は長崎奉行黒川与兵衛に「人が一般にかかる病気に関する薬の調合についての長い覚書」を送らせている。[22] その結果として地元の「名医」、向井元升が、ブヘリヨンに渡された覚書に基づいて「医学と薬品数種の調合法を伝授された」ことになっている。[23] さまざまな説明を通訳し、問い返したり、確認したりするには非常に多くの時間がかかり、骨が折れた。向井が出島蘭館をたずねるたび通詞全員が、正確な翻訳をめぐり論争したようである。[24] 同年11月1日に新商館長ツァハリアス・ワーゲネル(Zacharias
Wagener)に渡されたブヘリヨンの申し送り状に見られる丁寧な説明は、両長崎奉行及び大目付に対するVOCの配慮を物語っている。その日商館長に就任したワーゲネルはドイツ・ドレースデン出身であり、江戸で体験した明暦の大火に関する報告書と史上初めて有田磁器を大量にヨーロッパ市場のため発注したことなどでその名前を知られるようになった。[25] 彼の上記の医学伝授との関わり合いについては、「紅毛流外科秘伝」をもとにした古賀の論文では全く触れられていないし、その他のワーゲネルの名前を示す古医書の紹介もこれまでなされてこなかった。
さらに、オランダ東インド会社の文献を調べたところ、「阿蘭陀伝外科類方」の巻末のメーステル「アンス」及びカピタン「サカリヤスハアケナル」による署名の背景を明らかにする資料が現れた。江戸への出発も間近に迫った1657年1月14日付の出島商館日誌にはこう記されている。
「日曜日、昼食をすませるとしばらくして奉行のもとから、通詞全員と、これまで何度も触れた日本人医師が遣わされ、ヨーロッパ流の治療術に関する2冊の書物について語った。これらの書物は、この医師が大目付筑後殿の命を受け、我々の上位外科医が誠実にまたよい文体で語ったものを、通詞の助けを得て翻訳したものだ。これから奉行の名においてこの書物を江戸へ持参し、大目付に渡す所存であるという。しかしまず外科医が署名し、さらには私自らも署名して、外科医が上述の医師にさまざまな著作を基に教授したことには全く間違いがなく、最高の知識をもって行われたものであることを保証しなければならなかった。私自身は異様でばかげた理由づけだと思い、断りたかったが、逆らう余地はほとんどなく、奉行の要求に従わざるを得なかった。」
[26]
確かに古賀十二郎が提供した「紅毛流外科秘要」は向井元升が受けた「授業」と何らかの関係があるであろうが、通詞全員が通訳に携わったことを考えると、井上筑後守に渡された報告書だけではなく、通詞の個人的なメモやその報告書の写し、要約なども出回っていた可能性は決して低くないのである。「阿蘭陀伝外科類方」の下巻の行方は不明であるが、東インド会社の文献により裏付けられた資料として「阿蘭陀伝外科類方」の上巻は、向井元升が撰した文書の原形を定める上でも、またその他の文書の発見とその位置づけを推し進める上でも今後最も重要な手掛かりになるに違いない。
脚注
[1]
|
古賀十二郎『西洋医術伝来史』形成社、東京、昭和47(1972)年、66〜67頁、74〜75頁。古賀十二郎『長崎洋学史』下巻、長崎文献社、長崎、昭和48(1973)年、165〜167頁、171〜173頁。
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[2]
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この6編の写本は昭和15年10月22日に購入され、前の所有者は水谷銀之助のようである。
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[3]
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前半はオランダ語の単語集の断片、後半は「紅毛金瘡治法 嵜陽吉雄永純先生和解」となっている。
|
[4]
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「阿蘭陀外科正伝」(河口良庵)上、中、下、正徳元年写(1711年)、東洋文庫。
「阿蘭陀外科正伝」巻1ー12、6冊、(吉永升庵伝、吉永升雲編)、京都大学附属図書館、富士川文庫。
|
[5]
|
「阿蘭陀伝外科類方」9頁。
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[6]
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この論文のため利用した薬局方は
(a) Dispensarium Usuale pro Pharmacopoeis inclytae Reipublicae Coloniensis. Arnold Birckmann, Köln 1565.
(b) Pharmacopoeia Augustana. Augsburg 1613.
(c) Pharmacopoea Londinensis. Edward Griffin, London 1618 (Facsimile with a historical Introduction by George Urdang. Madison State Historical Society of Wisconsin 1944).
(d) Pharmacopoea Amstelredamensis. Willem & Johann Blaeu, Amsterdam 1636 (Facsimile with an Introduction by D.A. Wittop Koning, Nieuwkoop, B. de Graaf, 1961).
(e) Codex Medicamentarius Parisiensis. Olivarius de Varennes, Paris 1636 (Facsimile with an Introduction by Pierrre Julien, Christian de Backer, Gent 1976).
(f) Pharmacopoea Amstelredamensis. Willem & Johann Blaeu, Amsterdam 1639.
(g) Pharmacopoeia Bruxellensis. Joann Mommart, Bruxelles 1641 (Facsimile by L.J. Vandewiele and D. A. Wittop Koning, Christian de Backer, Gent 1973).
(h) Pharmacopoea Ultrajectina. Utrecht 1656 (Facsimile with an Introduction by D. A. Wittop Koning, Christian de Backer, Gent 1974).
|
[7]
|
D.A. Wittop Koning: De
Oorsprong van de Amsterdamse Phamacopee van 1636 Pharm. Weekblad 85, p.801 - 803, 1950. または、D.A. Wittop Koning (1961) p. 12 - 28, 1961.
|
[8]
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オランダの国立中央文書館(Algemeen Rijksarchief, 's-Gravenhage = ARA)の資料についての略号:ARA 1.04.21, Nederlandse Factorij Japan = NFJ + 番号。出島商館日誌の資料にはさらにDDを付記する:NFJ + 番号、DD + 日付。
NFJ 31, fol. 155(出島商館長Joan Boucheljonによる後任者Zacharias Wagener宛ての申し送り状)。また、NFJ 5, fol. 95b。
|
[9]
|
ヴォルフガング・ミヒェル『カスパル・シャムベルゲルと「カスパル流外科」』(1)『日本医史学雑誌』 第42巻第3号、1996年、41-65頁。「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科」(2)『日本医史学雑誌』第42巻第4号、1996年、21-45頁。
|
[10]
|
「阿蘭陀伝外科類方」19頁。
|
[11]
|
この説明はハンコの間違いによるもの。この薬品の原料になる赤い粘土はヨーロッパの各地域にあった。型による印がついたので「印つき、レリエフつきの土」と呼ばれた。
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[12]
|
この金剛砂の説明は「薬ニツカフ事ナシ」となっており、Terra sigillataの関係で入れられたようである。
|
[13]
|
乙切草。
|
[14]
|
「阿蘭陀伝外科類方」23頁。
|
[15]
|
「阿蘭陀伝外科類方」29頁。
|
[16]
|
上記の各種薬局方参照。
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[17]
|
NFJ 851, 4.11.1652(出島商館の取引帳簿、Journal van de
Negotie)
|
[18]
|
「阿蘭陀伝外科類方」18頁。
|
[19]
|
NFJ 70, DD 12.12.1656; NFJ 70, DD 17.12.1657(出島商館長日誌)。
|
[20]
|
NFJ 5, fol. 95b(契約更新の記録)。ハンコについてヴォルフガング・ミヒェル「一七世紀の平戸・出島蘭館の医薬関係者について」『日本日本医史学雑誌』第40巻第3号、85〜102頁、1995年(平成7年)。
|
[21]
|
井上政重筑後守については(a)永積洋子「オランダ人の保護者としての井上筑後守政重」『日本歴史』327号、1〜17頁、1975年(昭和50年)。(b)長谷川一夫「大目付井上筑後守政重の西洋医学への関心」岩生生一編『近世の洋学と海外交渉』、196〜238頁、巌南書店、1979年(昭和54年)。
|
[22]
|
NFJ 31, fol. 155(後任者への申し送り状)。
|
[23]
|
NFJ 69, DD 6.5.1656(出島商館長日誌)。
|
[24]
|
NFJ 69, DD 8.5.1656, 27.5.1656,
12.6.1656, 16.6.1656, 10.7.1656, 30.7.1656など(出島商館長日誌)。
|
[25]
|
Zacharias Wagener については(a)オランダ村博物館編『オランダ東インド会社出島商館長ワーヘナール』。オランダ村博物館、西彼、1987年(昭和62年)参照。(b)ワーゲネルによるドイツ語の略歴についてはWolfgang Michel: Zacharias Wagner und Japan (I)。『独仏文学研究』第37号、53〜102頁、1987年(昭和62年)参照のこと。
|
[26]
|
NFJ 70, DD 14.1.1657:
“sondagh kort naar ons gehouden
middaghs mael sont den Gouverneur alle onse tolcken met seker japanse doctoor
(hier vooren meermaels geciteert bij mijn, en verthoonden twee boecken in houden:
beijde de geneeskonste op de Europise-wijs, die hij door ordre van den Commissaris
'tSickingodonne van onsen opperchirurgijn redelijck wel scheen gevat ende met
hulp onser tolcken overgeset te hebben, oversulcx begeerden uijt den naem van
gem: Gouverneur dat deselve mede naar Jedo nemen en die aan voorn: Commissaris
overleveren zoude, edoch mosten alvooren van voorsz: onse heelmeester
onderteijckent, ende insgelijcx met mijn hant teijckeningh bevesticht worden, dat
al wat hij d'voorsz: doctoor dienaangaende uijt diversche auteuren onderwesen en
geleert hadde, alles, oprechtelijck en naar zijn beste kennis gedaen was, ende
alhoewel ick zulcx voor mijn altoos een vreemde ende ongerijmde verclaringh
achte, die dierhalven oock gaern afgebeden hadde, soo heefft e't echter weijnigh
mogen helpen, maar de begeerte hierin des voorsz: Gouverneurs moeten voldoen.” |

