ヴォルフガング・ミヒェル
はじめに17世紀後半に、ヨーロッパ人による日本研究が困難を極めた原因は彼らが出島や江戸参府中に厳しく監視されたところにあったばかりではなかった。日本滞在期間が短かったり、オランダ人通訳の養成が禁止されていたことも、日本語習得がほとんど克服不可能な障害となっていた要因であった。このため、1690年に来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)は、日本語習得の唯一可能な方法として早速、彼の助手を勤めていた今村源右衛門にオランダ語の「文法」を教え始めた[1]。この才能豊かな弟子に教授したおかげで、ケンペルは1年後には「膨大な文書の収穫」を得るようになった[2]。このように、日本の言葉も、ケンペルがその研究対象の一つとしていたことは間違いないのである。「日本の植物図録」(Catalogus Plantarum Japonicum)の中で、彼は入手可能な植物はすべて、「その名称と文字を、しばらくの間共に暮らすことになったこの民族の言語で学ぶ」という「唯一の目的を持って」収集した、と述べている[3]。 ケンペル自身が日本語を話そうと努めたふしもある。たとえば、江戸城の大広間で日本人外科医が呼ばれ、ケンペルとの間に次のような対話が展開されたが、そのことは綱吉を大層驚かせたようである。
「その外科医は我々の膏薬について精通しているようで、その名をあやふやな言葉で語った。それで私もあやふやな日本語で訂正してやったが、一部はラテン語で、一部は片言の日本語を用いたため、将軍は我々二人が何を話しているのか、また、このオランダ人は何語を話しているのかと尋ねた。すると周りにいる者が、それは日本語ですが、滅茶苦茶です、と答えた。[4]」
ケンペルがこのような場で自分の語学力を披露したとすれば、出島の日常でも、そのたどたどしい日本語は雰囲気を和らげるのにたびたび貢献したことであろう。また、長崎住民が処刑された際に彼が「罪人の後ろに」立ち、「2人が交わした礼儀正しい会話」を聞いていたという記述があるので、ケンペルは日本語をある程度は聞き取ることができたようである[5]。1692年の江戸参府中に、老通詞本木庄太夫が[6]伊勢詣りの旅人に声をかけ、オランダ人に「近付くような不名誉なことはしないよう」注意したといったこともケンペルには分かっていた[7]。だからといって画期的な『日本大文典』を著したジョアン・ロドリゲス(João Rodriguez)を思わせるような日本語通にまで、ケンペルの評価が上がるわけではない。また、17世紀に、ケンペルよりもはるかに上手に日本語を話すオランダ人が何人かいた。しかしケンペルは根気強くペンを取り、単語や語法を記し、発音などを観察して書き留めた。江戸時代に日本関係の著作が大抵は出島蘭館医によって書かれたのも偶然ではない。同じような教養と興味を持っていたとしても、業務に忙殺され、商務員にはこのような研究を体系化するほどの余裕はなかったであろう。 ケンペルの日本語学習についての研究は行われていない。西洋人による日本語研究の歴史に関しては、イエズス会士の記録から18世紀のカール・ペーター・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg)とイザーク・ティツィング(Isaac Titsingh)に至るまでの間に、150年にも及ぶ「休息」の期間があったような印象を受けるが、それは訂正の必要がある。筆者が何年も前に初めてケンペルの日本語学習を考察したときには、[8]大英図書館蔵のケンペル遺稿などについてはあまり知識を持ちあわせていなかったが、その後、かなりの量のメモなどの記述を発見し、ケンペルに新たな光を当てることになった。
1 ケンペルによる日本語の全般的な評価日本語についてのケンペル資料は、部分的ではあるが、かなり体系的に構成されており、彼は日本の言葉と文字に関する研究に1冊をあてるつもりだったようである。おそらくこのため、発行された2冊の著作では驚くほど僅かしかこのテーマには触れていない。ただ、『日本誌』(Heutiges Japan)で、日本民族の起源を推測し、それに関して自分の考えを若干述べている。長い間ヨーロッパでは、日本人は中国人から分かれてきた民族だと信じられていたが、17世紀中頃にはこの主張はすでに疑わしいものと看做されるようになっていた。著名なイエズス会士マルチノ・マルチニオ(Martino Martinio)は、『新中国図』に付した「日本の付録」(Appendix de regno Japoniae)でこう書いている。
「日本については、まずその起源を取りあげる。多くの著者は中国人から発したと言う。私も同意見ではあるが、彼らの出身が中国人のみであるとするほどではない。一部はタタール人から、また東方の民族の血もひいているだろう。彼らは日本に住み、隣国蝦夷を通り、海峡を船を使い、あるいは氷上を歩いて渡って来たに違いない。そこが極寒の地であることは知られている。根拠としては次の3点が挙げられる:第1に、日本人はタタール人のように頭髪をごく短く刈り、上のほうはほとんどが剃っている。顎はしかしピンセットでなめらかにする。中国人にはこんな習慣はなかった。第2に、日本人は話す際にDとRをよく用いるが、これは中国人には見られない。彼らはこの2音を持たず、Rはどんなに努力してもほとんど、またはまったく発音できない。第3に、日本語は中国語と非常に異なっており、まったく類似性がない。」[9]
ケンペルはこれを手がかりに、日本人は中国人から分かれたのではなく、初めから独立した民族だったという主張をさらに展開する。しかし、このような議論が正当化を必要としない神学の土台に基づいていることは見過ごしてはならない。旧約聖書に拠れば、ノアの子孫はヘブライ語を話していた[10]。バベルの塔の建設に激怒した神はその太古の言語を混乱させ、人間を四方に散らせた[11]。移動の速度や距離、行路について旧約聖書は何も述べていないので、さまざまな推測の余地がある。ケンペルは日本人をバビロン原住の一種族に入れ、もしも日本人が他民族の言語的、文化的影響を受けないできたとしたら、それは日本人が見い出したのが極東への行路であったからであり、その途上で、先に進んで来た他の民族とほとんど接触しなかったからであるに違いない、と考えた。宗教的な前提や空想力豊かなアジアへの旅を想定したにもかかわらず、ケンペルは日本語の性質について驚くほど的確に論じている。「言語は民族の起源を示す」をモットーに彼は言語の類縁関係を、民族の関係を解き明かすための有効な手段として用いている。
「言語とその特性が、民族の起源とそれぞれの民族の根元的な関連性について最も正確な示唆を与えてくれることに議論の余地はない。このことは、民族の歴史をその起源にまで遡って調べてみれば、証明できる場合が多い。[12]」
このことは、「スラブ系の」言語を共有するポーランド人、ボヘミア人、ロシア人、「ラテン語」を共有するイタリア人、スペイン人、フランス人、そして「ゴート語」のデンマーク人、スウェーデン人、高地と低地ドイツ人に見られる。外来語の割合は被征服民の流入や編入に比例する。同様にして、吹u界の他の地域でも民族の発生や混合について立証できる。こうして彼は日本と中国の言語の違いに注目した。
「日本語をその全ての語彙や特性から、スペインの宗教裁判のように厳格に調査すれば、隣国の言語との間に、民族の起源を推し量るような混淆やつながりがまったくないことがわかるだろう。」
ここで言う隣人とは海を隔てた地に住み、船で日本にやって来る中国人である。彼らはそれぞれの出身地である南京、潮州、福州の名を持つ言葉を話すが、日本人はどれも解さない。中国人がその名称と共にこの国にもたらした物もあるが、ポルトガル人も同様にパンやパルマ、ボタン、カッパ、フラスコ、ビードロ、トタン等[13]の語を日本に残している。この地に定住した中国人たちも日本人の母国語を変えるほどの影響力はなく、芸術や学問を伝え、文献や文字、言語の理解を助けるにとどまった。日本人や朝鮮人、トンキン人[14]など、近隣諸国がこれを用いるのはヨーロッパ人が共有するラテン語と同様である。また、日本語の特殊性はこれまでの起源説とは相反し、その構早uは文字においても一般の話し言葉においても中国語とは全く異なる。母国語の自然な構早uに従って、その意味が分かるようにするために、日本人は[漢文の]単語をそのままではなく、置き換えて読んだり、若干の言葉を添えたり、挿入したりして組み換えなければならない。このため中国語の書物を出版するときに通常は、読みやすくするために符号をつけて構早uがわかるようにする。 さらに中国人とは全く異なった構早uになっている彼らの舌や発声器官の巧妙さを付け加えたい。そのためこの地の言葉はたいていが明瞭に発声され、音節は我々のアルファベットで2、3字を越えることはめったにない。それに対して中国人の話し言葉の場合は、一般に色々な子音が混ざって聞こえ、同時に歌うような抑揚がある。日本人はHをFとしてしか発音できないが、中国人ははっきりと発音する。日本人の「R」と「D」は、文節の始めではのど声になるが、はっきりと発音する。中国人、特に南京人はRもDも出せず、外国語を学ぶ場合でもLでしか示せない。私がここで日本語と中国語の差異について述べたことは隣接する朝鮮や蝦夷ついても実証可能ではあるが、日本人の起源がこれらの民族であると主張する者はいないので、それは不必要であろう。[15]」 18世紀初頭のこのような言語比較は大いに注目に値する。中国からは大量の借用語があるが、動詞などの活用や助詞の使用により膠着語の日本語は、語尾変化がない孤立語の中国語とは構早u的に異なる。ポルトガルからの外来語は日本の「キリストの世紀」中に定着し、その一部は時代を越えて今日まで生き残っている。ケンペルは漢文を扱う日本人が、原文に様々な句読点や返り点、後置詞などを添えることも見逃さなかった。しかし「古代文字の相違」についての記述をみると、彼は日中の文字の関係を誤認していたようだと言わざるを得ない。 「両国の古代文字や書から、日本人の粗野な古文字」[16]と中国人の象形文字には全く共通性がないこともわかる。[17]」 2 発音についての観察と記録耳で聞いた音韻は脳において既成の「見本」、つまりいわゆる音素体系のパターンと比較される。磨u知の言語も、母国語のこのフィルターを通すことになる。そのため自分の言葉に存在しない現象は容易に「聞き逃してしまう」。例えば、ヨーロッパの言語では特別な意味上の機能を持たない促音は無視されることが多い。そのため堰u米人の初心者には「本音が出た」と「骨が出た」の区別が容易ではない。また音声の一部は、母国語の「類似の」音素に当てはめてしまうこともよく観察される。たとえば日本語の「フ」はヘボン式で「fu」と表わされるが、ヨーロッパの[f]は前歯と下唇の間を呼気が通ることによって発せられ、[u]の唇は丸めてある。ケンペルの記述にもこのような現象が確認できる。例えば、彼が日本語には側面音の /l/ がないことは指摘しているが、しかし同時に短く打つ日本語の[ɾ]はヨーロッパの[r]と同一視している。
「ここでは、日本人はLの文字を正確に発音できないので、Rを用いて、HolandaではなHorandaと書いていることも付け加えておきたい。商館長Henrich Brouwerの名を日本式に発音するとFanrei Borowaraになる。[18]」
ドイツ語では /l/ と /r/ の音素を明確に区別し、Lotとrotのような意味の違いを生じる。不慣れな日本人にとって両者はそれぞれの音素の異形(異音)に過ぎず、そのためこの2語の違いを聞き取ったり、発音したりすることがい難になる。さらに音節の構早uが、日本語では母音で終わるため[19]、知覚する際に及ぼす影響は大きく、たとえばBorowaraのようになる。 全く異なる背景としてケンペルはある村について述べ、その名をHaddiまたはFaddiと記録しているが、それは「この人々の口」が「h」と「f」を区別できないためだとしている[20]。日本語の50音図でハ行の音節は今日では[hɑ]、[çi]、[ɸɯ]、[hɛ]、[hɔ]の音声を持っているが、当時はまだ[ɸɑ]、[ɸi]、[ɸɯ]、[ɸɛ]、[ɸɔ]と発音されていた。ケンペルが人々の口をもう少し注意深く見ていれば、両唇音の[ɸ]と唇歯音の[f]の違いがはっきりと目についたはずである。それでも、彼は[ɸ]をドイツ語の /f/ に当てはめ、自分の母国語では重要とされる /f/ と /h/ の対立が欠けていると書いている。 しかしケンペルが日本語を正確に「聞き取る」ことができたとしても、彼の前にはラテン文字でどう表記するのかという次の障害が横たわっていた。文字はどこでも非常に保守的で、どの文化でも言語音を完璧に表すことはしていない。イエズス会刊行の辞書などに見られるローマ字表記は、日本語の仮名表記に基づいており[21]、これらと比較してもケンペルの表記法には一貫性や筋の通った「理論」がなさそうである。彼は、各種の単語や言い回しを「聞くままに」書き留め、その際様々な特殊アクセント記号を用いている。 TABLE ヨーロッパではローマ字の読み方が言語圏によってかなり異なっているため、ケンペルは学者向けの『廻国奇観』の中で幾つかの文字の発音について説明している。ラテン語を学んだ当時のドイツ人は「o」、「u」、「a」の前の「c」の文字を「k」として読み、またアルファベットの歴史的発展から「j」と「i」、及び「ij」、「ÿ」、「y」は同一視された。「w」を「v v」、「u」を「v」とする表記も同様の背景をもつ。ケンペルの手書きによるドイツ文字の独特な形や「h」、「a」、「z」の異形も発音の違いを示すものではなく、ここでは無視してよい。 日本語の音節のうち、/ka/(か)、/ge/(げ)、/to/(と)、/pe/(ぺ)、/mi/(み)はかなり厳密に聞き取っている。ドイツ人は両者の発音を区別しないため「tʃu」と「tzu」という表記を /tsu/(つ)に充てても問題はない。ケンペルにとって聞き取りや表記がい難だったのは破擦音と摩擦音の分野で、表記の不統一性の度合いが著しい。たとえば /shi/(し)には「ʃi、ʃj、ʃʃi、sy、ʃʃy、ʃji、ʃzi、‑s、zi、‑z、‑ʃʃ、‑ʃ、ʃ‑」が充てられている。 長母音と短母音の表記も難しく、ドイツ語の正書法では今日でも理論が確立していない。長母音[o:]について考えてみただけでも、時には「oh」(froh)、時には「oo」(Boot)、また「o」(Not)とも書かれる。平戸のイギリス商館長コックス(R.Cocks)や長崎出島のオランダ人と同様に、ケンペルも短母音の場合には子音重複の手段を用いて、直前の音節が短いことを表している:
「Arra ganni」(粗金)、「Azenjákku」(「仙薬)、「Búrri」(鰤)、「Butta」(豚)、「Fákkama」(袴)、「Fákko」(箱)、「Gomma」(胡麻)、「Forri」(堀)など。
残念なことに、彼の場合には、子音を重ねていない例も多い。この問題は、ドイツ人には聞き慣れない促音の記述と相まってますますやっかいなことになる。日本語に現れるこの無音の長子音をケンペルは常にとらえていたわけではない。書くときには「t」をその子音の前によく置いているが、子音を重複する場合も多かった:
「GuaPi」(月日)、「mawa ta」(回った)、「Jt
kokf」(一国)、「Set-pukku」(切腹)、「Fotke ʃju」、「Hokke ʃju」、「Fókkiʃju」(法華宗)、「Faʃʃakf」(八朔)など。
江戸参府の途次、彼は方言の現象にも気をつけていた。これは音声を正確にとらえようとする彼の努力を示しており、地名が異なって発音されていても統一することなくそのまま記し、読者には注意を促している。 「また、すべての名称が常に等しく書かれたり、発音されたりするわけではない。時には[中略]響きがいいように短くしたり、文字を書き換えたり、方言や日本語の性質から、音節によって「n」を自由に入れている:例えば、「Fon Tómida」は「Fonda」、「Matzí dira」は「Mattira」、「Takáwa」は「Tagáwa」、「Firakana」は「Firangána」、「Nagaʃ áki」は「Nangaʃ áki」と言ったり、書いたりすることが多い。[22]」 語中音の /g/ が鼻音化して[ŋ]になるのは現代語の事例からもよく知られていることである。当時はさらに /g/、/d/、/b/ のような有声の閉鎖音の前では母音の /a/ や /o/ も鼻音化する傾向にあり、「Nangaʃáki」や「Firangána」の「an」は[ã]と解釈してよい。最後に「Takáwa」等は今日でも部分的に用いられる規則により、/k/、/t/、/s/、/f/ のような清音は語頭音の場合、複合語の後部になると /g/、/d/、/z/、/b/ のような濁音になる[23]。「松寺」の /tsu/ は、「Mattera」に見られるような緊張音になることがあり得るが、「Hontomida」が「Honda」になるような極端な短縮はいささか疑わしい。 『廻国奇観』は日本語の発音についてケンペルのさらなる指摘を伝えている。膨大な数の植物を日本語名で紹介している第5巻の序文にはこう記されている。 「名称は文字が加わったり、書き換えられたりして変わることが多い。発音しやすいように文字を加え、NagaやNanga、TʃusやTʃunsと言うことがある。同様に好音調のために特に複合名詞の場合、fがb、kがg、gがk、wがbなどに変わる。Sibito fannaはSibito banna、Kinari kakiはKinari gaki、GoquanはKoquan、KiwiはKibiと言う[24]。このような相違が表記に現れても、これは誤記とは言えない。[25]」母音の鼻音化や複合語中の語頭音 /h/ や /k/ が濁音化して /b/ や /g/ になることはよく知られている。それとは反対に、/g/ が /k/ に、/w/ が /b/ に変化することについては、筆者には文献中にその例が見い出せない。同じ個所でケンペルは『廻国奇観』冒頭に付けた序文を参照するよう指示している[26]。そこで彼は、自分にとって外国語の発音を表すにはドイツ語が最適だとして、一定の文字の読み方を幾重にもわたって定義づけようとしいる。「u」はギリシア語の「υ」のように発音し、「g」はフランス語の「gu」、「ch」はギリシア語の「Χ」か、ポーランド語で喉頭に触れない「ch」、またはイタリア語で「a」の前の「g」等。ここでさらに有声の「ʃ」は、時には「歯擦の音」を伴い、時にはポーランド語でアクセント符号のない「z」のように柔(軟)らかく読む。ケンペルが日本語やペルシア語、アラビア語を表記した際によく用いている「ʃj」は、フランス語の「ch」、英語の「sh」、ドイツ語の「sch」と等価だと説明している。今日普及しているヘボン式ではこのような場合には「sh」を用いる。 さらに、「日本語の ʃěo、ʃǐo、měo、mǐo等は」「1音節であるかのように発音」され、「ʃioやmjoと発音するように、いくらか柔らかい」、と記している。この最後の指摘は2つの観点からいって興味深い。第1に、アクサン=シルコンフレックスを無母音化符号として用いている。第2に、ここでケンペルはいわゆる拗音について述べており、これは /a/、/o/、/u/ の前では口蓋音化した子音で、/a/ の前では唇音化した軟口蓋音で始まる。音節文字1文字だけで記される直音と異なり、元来2音節の縮約から生じる拗音は2文字以上で表すが、今日これらは発音上は1音節とみなされる。300年近く以前に、現在では消えてしまった「内母音」の名残りが時々現れていたことは、ケンペルの灸術についての論文からもうかがえる。そこで彼は、灸所を表す「Seǒmon」(章門)に付して、「日本語の発音でごく短いeが聞き取れていなければ」「Schomon又はSjomonと書く」だろう、と説明している[27]。これに従って彼は「しゃ」、「しゅ」、「しょ」の音をかなり忠実に「ʃia」、「ʃja」、「ʃiu」、「ʃju」又は「ʃio」、「ʃjo」、「ʃeo」と記している。しかし、「さ」行や[dza]、[dzu]、[dzo]でも同様に書かれていることがあり、そのため /sa/、/sha/、/ja/ や /so/、/sho/、/jo/、また /su/、/shu/、/ju/ の音は文脈がわからなければ正確に特定することはできない。ドレスデン出身で1682〜83年と1685〜86年に出島にいたゲオルグ・マイスター(Georg Meister)の場合にも、日本語の表記に際してはこの点で明確な区別は見られない[28]。 イベリア人宣教師による辞書や文法書はディエゴ・コリャード(Diego Collado)の著作を除けば、音調論に関する記述はない。分音符号はそこでは母音の長短を区別している。これに対してケンペルは意味の違いを示すことがある日本語の強勢をより重要視している。「私はこの本の序章で記したように、符号や母音重複によって正確な強勢を示すよう努めた」、と『廻国奇観』で述べている[29]。残念なことに母音重複は、子音の場合と同様、徹底していたわけではない。彼のアクサン=テギュは、慣例に従い最強揚音を、アクサン=グラーヴは最弱揚音を示す。これに対して、上に開いたアクサン=シルコンフレクスは、その母音を弱め、時には「n」にまでなる。『廻国奇観』はケンペル自身がその発刊に立ち会っているが、これだけが手稿の膨大なアクセント符号を再現している。17世紀日本語の音調論研究では、この手書き原稿を広範に活用することでかなりの理解が期待できる。 ケンペルは耳から、つまり音声から記録しているので、当時の発音の基本的な特徴を明確に残したものも多く、日本語の仮名文字では音素形態論上の書き換えをもってしても再現できないものが多い。たとえば室町時代の末から用いられている、無声子音間や無声歯擦音の後に起こる /i/ と /u/ の無母音化がある:
「Karaʃ」(辛)、「Mus」(虫)、「Us」(牛)、「Ǔme bos」(梅干し)、「Kusʃ no ki」(楠)、「Snairi」(砂入り)、「Futz」(ふつ = 蓬)、「Netzbjo」(熱病–)、「Tʃta」(蔦)、「Fde」(筆)など。
注目すべきは、語末で /ku/が無母音化する際に「f」が現れることがあるが、これは筆者の私見であるが、不注意に発音する際に生じる、両唇の空気摩擦によるものと解釈したい。次に挙げる、気音を強く伴う /k/ も筆者の考えでは、これに類するものである:
「On Khago Ja」(御駕篭屋)、「Khiggo」(綺語)、「Khumano」(熊野)、「Khuni」(国)、「Khurágga」(くらげ)、「Khùro Gomma」(黒胡麻)など。
「響きをよくするために」、/u/ や /a/、時おり /i/ にも生じる鼻音化についてケンペルは頻繁に指摘している:
「Aʃʃangauo」(朝顔)、「Jétʃingo」(越後)、「firungáuo」(昼顔)、「Jangjù」(野牛)、「Tʃíngkungo」(筑後)など。
元来 /ku/ と /wa/ から生じた音節 /kwa/、/gwa/ は江戸時代さらに /ka/ と /ga/ に縮約されたが、ケンペルは、これらをまだはっきりと聞き取っている:
「Genqua ban」(玄関番)、「Gekwa」(外科)、「guan jakf」(丸薬)、「Qua-quára」(カカラ = 山帰来)、「Quadan」(花壇)、「Goguatz」(五月)、「GuaPi」(月日)など。
音節 /je/ も、現代の標準語では /e/ に弱化しているが、ケンペルの資料ではかつての語頭音 /i/ が見られる:
「Fi'tóje mono」(単物)、「Jebi」(海老)、「Jékirè」(疫霊)、「Jen noGjoʃa」(役行者)、「Kojeaʃ」(肥足)、「Máijè gàmi」(前髪)など。
さらに /e/ の /i/ による置き換えも目につくが、これは聞き違いではなく、「キリシタンの世紀」の宣教師[30]やモンタヌス、[31]マイスター[32]などの例によっても裏付けられる:
「Ami」(雨)、「Ara ganni」(粗金)、「Dira」(寺)、「Fanabatagi」 (花畑)、「Fotogi」(佛)、「Kiczni」(狐)、「Mami」(豆)など。
同様に /o/ も /u/ に置き換えられる。[33]
「guʃarimasu」(ござります)、「Jabo」(薮)、「Jomu¨gi」(蓬)など。
江戸時代に行われた、二重母音[ɛi]が単母音化した[ɛ:]の例も見られる:
「Feeki mono gattári」(平家物語)、「Karée」(鰈)、「Níkke」(肉桂)、「Jékirè」(疫霊)など。
連続する /nb/ や /np/、/nm/ の表記では「n」は「m」に書き換えられるが、ケンペルは統一していない:
「Gonbu」(昆布)、「Sanbio」(三病–)、「Tenbin」(天秤)、「Namban Kaʃʃa」(南蛮瘡)、「Sumbáku」(寸白)、「Temmon」(天文)、「Momme」(匁)など。
3 ケンペルの単語集スローヌコレクション3062中に日本語彙集の手稿を発見したことは大いに刺激を与えられた。この単語集は、その「Geschichte und Beschreibung Japans」の序文で編集者ドーム(Christian Wilhelm Dohm)が、ペルシアの部及びペルシア語辞典と並んで最も重要な書に挙げている[34]。ケンペルの文体は混乱しており、日本人の手による雑な日本語の書き込みも見られるところから、この記録は日本で作成されたものと考えられる。おそらくヨ−ハン・アモス・−コメニウス(J. A. Comenius)[35]の名著「Orbis sensualium pictus」を手本にしたのであろう。次に個々の章と、それぞれに引用された語彙数を示す:
かなりの語についてケンペルは簡単にヨーロッパ語の訳語を示している。一方で、日本語の同意語や例文を付して詳細に説明を加えた語も見られる。時にはむしろ専門事典を思わせるほどの解説もある。1文にラテン語やドイツ語、オランダ語が日本語と混ざっていることも多い。ケンペルは旅が長く、そのため母国語から疎遠になっていたこともうかがえる。資料の重さと量を少なくするために彼は、きわめて密な書き方をしており、単語や複合語の代わりに記号を用いて、できるだけ短縮している。 次に内容について述べる。ここに示された樹木や草花、その他の植物は『廻国奇観』の第5巻、「Flora Japonica」にも見られるものである。「ふつ」のように西日本でのみ用いられる名称もある。ケンペルはさらに、ヨーロッパへ持ち帰った全20巻の『訓蒙図彙』[39]を参考に、日本名と漢字で記そうと努めている。医史学的にきわめて重要だと思われる薬草、薬品、疾病の部は彼の著作ではほとんど完全に欠落している。医師ツュンベリーも1775年から76年まで日本に滞在し、日本語や医学について若干記しているが、この内容には及ばない[40]。同様に、「文房具」(Instrumenta Scriptoria)[41]の中で、さまざまな紙類を列挙しているのも興味深い。ポルトガル語からの外来語リストは『日本誌』[42]の中で手を加えている。後半の章では語法や例文が多くなっている。単語集はここではむしろ文法書となっており、これについては後に述べることにする。 この関連ではスローヌ(Sloane)の手稿集3062の本文を参照する必要がある。これらは単語集ではないが、型式が似ている。ケンペルはここでもさまざまな分野の日本語を一覧表にし、説明を加えている。これは上記の単語集を補って余りあるものがあり、ケンペルによる日独単語集の仕上げとして組み込まれたものに違いない。「Extract ex Riori Condáte no bu」(料理献立の部の抜粋)もある。[43]いろいろな料理がグループ分けされ、訳語や説明、さらに調理法を付記したものもあり、日本料理とその語彙をヨーロッパに初めて紹介することになっただろう。ロンドンでケンペルが残した日本の書物を調べているうちに筆者は『家内重宝記』の中に、家事についてあらゆる有効なヒントを載せた手引書と同じ表題の章を見い出した。ケンペルはこの1689年版を所有していた[44]。 「貨幣、度量衡」(Gelt, Gewicht, Abmaßung, Maasen)についても広範に述べており、硬貨や重量、尺度や容積単位をその換算表と共に示している[45]。髪型や衣服に関する60以上に及ぶ語彙とその詳細な説明は、言語的、地誌的な素材を多く提供してくれる[46]。圧倒される程多くの官職名、職業名を数百も網羅する「朝廷と幕府の官職」(Kaiserl. Hof- und Reichsbediensteten)に関する用語集は、「Gotai ro」(御大老)や「Gorotʃju」(御老中)から始めて、少しずつ階級が下がり、さまざまな監視人、役人、さらには、「On abura ja」(御油屋)や「On Tátámija」(御畳屋)、「On Jʃi ja」(御石屋)まで、広範にわたって番号をつけている[47]。これは量的にも内容的にも単語集の「様々な状況、職業や身分の人物名」(Personae variae Dignitatis, Professionis, Conditionis)をはるかに越えるものである[48]。これによりそれぞれの役職の意味だけでなく、その地位にある人物の数や仕事の内容も知ることができる。この記録は1692年の『江戸鑑』に遡るもので、この書もロンドンに保存されている[49]。 また、能のさまざまな役名や楽器についての記述は「Mai」(舞)や「Kiogen」(狂言)、「Kabuki」(歌舞伎)等を含んでおり、このことで多少批判は免れるものの、ケンペルはその滞在国の芸術を少々なおざりにする傾向があったようである[50]。 4 ケンペルからみた日本語の文法的特徴日本語の構造をケンペルは、彼以前のキリシタン宣教師と同じく、ラテン語的なカテゴリーという眼鏡を通して見ていた。単語集は副詞、前置詞、接続詞、間投詞、数詞、動詞、及び場所、理由、性質に分かれている。最後の3部が示すように、文法的、意味的、修辞的な面が混同されている。日本語の語彙をこのカテゴリーにより列挙したのは、彼らの文法形態論に特有の分析法に基づいていたわけではない。この中で副詞は大部分が時間と場所を示す。数詞は数だけでなく、頻度や、関連の疑問詞も含まれる。原因には因由や疑問形も入れている[51]。 動詞面での特徴を挙げれば、彼は助動詞「ござる」や接尾詞「ます」と組み合わせる能力が十分にあったようだ。純粋な動詞と並んでここには「弱い」や「強い」のような形容詞が「弱うござる」、「強うござる」として現れる。ラテン文法に基づいた彼の理解は、どんな語形変化の欠落も容認できなかった。彼は「単数」と「複数」を「現在形」、「過去形」、「磨u来形」で「活用させ」ており、たとえば、「さむうござる」の場合を取り上げると、以下のようになる[52]:
純粋な動詞の「活用」は「現在形」は「mas」、「過去形」は「masta」、「磨u来形」は「masʃ ärri」や「mas ʃerri」に非常によく似ている。他に彼は若干の助詞も認識し、さまざまなカテゴリーに分類している:疑問と選言の「か」、並列の「も」、場所の「に」、付加語の「の」や疑問の「わ」がある[53]。現代の言語学的な見地からは、彼の文法的な分析や記述のカテゴリーは日本語には適していない。しかし、ロドリゲスの著名な文法書においてさえ、日本語にラテン文法を用いていることからわかるように、はるかに語学力に長じていたイエズス会士でさえその西洋的な枷を脱することはできなかった。 5 文例と語用論的な観察ケンペルは『日本誌』では文例に関してはごくわずかしか触れておらず、せいぜい「中国人を嘲笑する」「Tooʃin bay bay」(唐人売買)くらいが挙げられているが、これについてはケンペルは「我々がユダヤ人に向って言う「ぼろ儲けの商品はないのかい」位の意味に相当すると解説している[54]。それに対して、上記の単語帳の最終部分には、日本語の例文が頻繁に現れる。これを記したとき、ケンペルは「の」、「に」など助詞の機能を意識していた。これらは時にはハイフンで、時にはその先行語に直接つけたままか、あるいはまた、下線を引いて説明を加えていることもある。会話例の内容は多くが物の性質及び特徴や植物の購入をめぐって行われている。表現をわずかに変えて、さまざまな場所に何度も現れる会話もあり、ケンペルが植物研究にどれほど熱心に取り組んでいたかが感じられる[55]。
手稿の終わり近くで、訪問の際に交わす会話の決まり文句にぶつかる。ときどきケンペルは表現を「通常語」(vulgo)と「敬語」(hoch gesprochen)に区別している。植物名の場合、日本語と漢字の読み方や名称の違いに関連づけている。会話文例はそれでも多くの場合、一定のていねいさを保っている。話者の社会的な地位による話し方の独自性については、当時のヨーロッパ人にとっても母国語から、十分に馴染みのあるものであった。そのため、1人称と(おれ、わし、わたくし)2人称(こなた、こなたさま、あれ、あの人、あなた、お前、お前様)では、「使用人に」(ad servum)か、「目下の者に」(ad inferiorem)か、それとも「目上の人に」(ad superiorem)話しかけているのかが、入念に示されている[56]。 ケンペルの文例は160を越え、語学的な正確さや広範さに関してもゲオルグ・マイスターの「二つの会話」(zween Gespräche)[57]や、モンタヌスが改悪した26文例[58]をはるかに凌駕している。これに比肩し得るものがあるとすれば、彼以前のものではイエズス会士の書物、たとえばジョアン・ロドリゲスの文法書が挙げられ、彼以降のものとしてはトゥンベリを待たなくてはならないだろう。とはいえ、統合論に関する指摘はまったく欠けており、どのようにしてケンペルが動詞の語尾や先行する目的語、その他の現象を認識できたのか疑問が残る。 6 日本の文字について吹u界中の大衆向けに書いた『廻国奇観』でケンペルは日本語の「注目すべき特徴」について少々立ち入って論ずることを余儀なくされた。特にここで有益となるのは「植物目録」(Catalogus Plantarum)の序文である:
「ここで引用する名称には2種類がある。一方は日常語であり、他方、教養ある日本人は植物を漢字名でこのように読む。この文字は日本、中国(正確にはTʃinaと発音する)、カンポジアやシャムに至るまで、近隣の王国や地域全体で共通に用いられている(この文字は物の形や様子を表している)。それでもたいていは民族により、それぞれが異なった発音をしている。そのため、彼らは共通の文字を持ち、それを読むことはできても、一緒になると口をつぐんでしまう。」
この文字はペンではなく筆を用い、数本の簡単な直線を優雅に組み合わせてほぼ四角形にする。しかし、このような優雅さを軽視する性格と、日本人の軽やかな手は、字の書き順を省略し、1本か又は2、3本に縮めてしまった:こうして別の、醜い文字が生まれ、それでもこの民族の間では「Sʃò」[59]]と名づけて広く使われており、これに対して上記の、一般に普及している文字は「Sìn」[60]と呼んでいる。私の彫版師はこの複雑な筆法を再現することができないため、この文字は省略する。また名称も日本語アルファベット文字の活字体で書き加えたかった(この民族は2種類の文字を持っている:平仮名「Fíro Canna」と片仮名「Catta Canna」と呼ばれる。両者とも我々の場合のように個々の音ではなく、音節全体を表す。)しかし、この文字は右側から、上から下へ書き進むため、中国の文字と異なり、ラテン語の文章に挿入できない。中国の文字も同様に書き進むが、隣同士の文字は段が揃っている。[61]」 ここで著者は漢字の表意性に精通していたことがわかる。日本で広まっていた3種の古典的な書体、楷書、行書、草書の中で彼は最初と最後の型を挙げている。それでも彼は草書体を好まず、裏返しに文字を彫る銅版や木版の作成には大いに骨を折ったに違いない。ケンペルはさらに、音読みと訓読みの違いも区別していた。また、日本人が漢字から発展させた平仮名と片仮名の両字体も認識していた。彼は具体例を挙げて説明している:
「象形文字と音節文字の相違を示すため、ここに比較的簡単な文字を両仮名書きを添えて記す:最初はクスノキの書き方で、教養人はこの文字をSʃjooと、一般にはKus、またはKus no kiと読む。次にAlcacaeaは一般にはKirì、またはKirì no kì、教養人はToo。3番目にコメは一般にはWasiかUruʃjine、教養人はKo。それぞれの例の始めに一般に普及している漢字の真(Sìn)、それから日本の草(Sʃò)、3番目に平仮名(Firo)に書き換え、4番目に片仮名(Catta)で発音を示している。[62]」
この図は漢字の楷書と草書の書き方を示している。その横には、彼によれば「教養人の」読み方である音読みが、流れるような平仮名と角張った片仮名で書かれている。さらにさまざまなメモや、漢字の教科書に付記された「真、古文、Faf[?]、行、草(Ssin Comon Faf Gjo Szo)」の手稿は不完全だが[63]、このことから、彼は漢字の他の書体についても耳にしていたことがわかる。全部で篆書(ケンペルでは古文)、隷書、楷書(ケンペルでは真)、行書、草書が使われていた。篆書が印鑑に使われ、古代中国の書体だということをケンペルは知っていた[64]。彼の言う「Faf」については筆者は説明できない[65]。 さらに彼は、漢字には単純なものと合成したものとがあることも知っていた[66]。彼は2版の『七ついろは』を所有していたが、この手習い帳を調べるうちに複雑な文字に見られる重要な構成要素に気がついた。いくつかは直接1688年版に書き入れ、他は手稿で触れている[67]。点在するメモを要約すれば、合成されたものは部首に分けられ、ケンペルの理解では属(Genus)を指す。それが文字の左半分なら「Fin」(偏)で、それは右半分を補い、その意味を規定するものは「Tʃikúri」、「Tʃukúri」(旁)と呼ぶ。それが最上部で、冠部なら「Camúri」(冠)になる。実によく観察している。 単語集は字源についても断片的に触れている。たとえば字を分解して「笑」は「竹」と「戟u」にする。「山」は「真ん中が両側よりもずっと高い」、「川」が3本線なのは「水は両岸の間を流れるから」、また「米」の字はケンペルによれば「八」と「十」の組み合わせでできている[68]。 ケンペルの遺稿に見られる筆書きはほとんどすべてが日本人の手によるものと思われる。ただときどき自らもペンを執り、それなりの成功は収めている。書く際の方向や順序、漢字の構早uについての洞察は見当たらない。その点、アレクサンドレ・デ・ロード(Alexandre de Rhodes)、アタナシウス・キアハー(Athanasius Kircher)、クリスティアン・メンツェル(Christian Mentzel)やアンドレアス・ミュラー(Andreas Müller)のような「中国学者」は彼をはるかに凌いでいる。 上述した2種類の日本の音節文字についてケンペルはいろは歌を数多く集め、しばしばラテン文字でその読み方を付記している[69]。特に『日本誌』の手稿に付記された_ページでは非常に詳細な解説をしている。さらに50音図も数点あり、一部は別人の手によってローマ字で説明がなされている[70]。 7 文例とラテン文字による書き換えケンペルが写させた日本語の書物はほとんどが政治や行政の分野のものだった:はり紙、通行手形、認可状、契約書など。伝統的なローマ法の影響を受けているヨーロッパ人はこのような書類の形式を非常に重要視した。ケンペルは『日本誌』の手稿にある索引が示すように、そのために1章を予定していた。残念ながらこの本文は欠けており、つまりおそらくは英語版の発行人であるショイヒツァーが、ケンペルの資料と用意された図でこの章を自ら構成したのだろう[71]。『日本誌』の他の版はすべて英語版を踏襲することになる。 スローン・コレクション3062に目を通すうちに筆者はさらに長短さまざまな磨u公開の書き換え本を発見した。たとえば石清水八幡宮の「Fatzman no Takuʃen」(八幡の託宣)、伊勢神宮の「Jʃe no vel Tenʃjo daiʃin no Gotákǔʃen」(伊勢の或いは天照大神の御託宣)、春日大社の「Kásùgano Tákuʃen」(春日の託宣)など。[72]この「Sanʃia Tákuʃen」(三社託宣)はローマ字で書かれ、ドイツ語の翻訳が付いている。日本語の原本もヨーロッパに来ていたのか、ケンペルはこのすべてを今村源右衛門に読み上げさせたのかどうか明らかではない。これは「Nipon kami oroʃi, Méi ʃio tʃukuʃi」(日本神卸 名所尽くし)でも同様である。[73]行間にケンペルは注釈を数多く付記し、右側の空白部分に一部を翻訳している。この国の藩ごとに有名な神社仏閣が、そこに祭られている神とともに列挙されている。ある程度の長さを持つ日本語の文章がラテン文字で書き換えられたものとしては、これまではイエズス会士の宣教用雑誌によるものだけしか知られていない。この点で特にこの7ページの手稿[74]]は注目に値する。最後に『日本誌』から「不幸な日々に降りかかる悪影響を無力にしてしまう」短詩を挙げるべきだろう。[75]] 8 ケンペルの情報提供者ケンペルが日本語について何かを記すときには背後に常に日本人がいた。彼ひとりでは基本語彙や短い言い回し、型式などから先へは進めなかっただろうし、読み書きの能力については言うまでもない。多くは彼の助手、通詞見習いの今村源右衛門によるものと思われる。[76]] 名村権八(?〜1725年)とも信頼できる関係を保っていたようだが、彼はサイン帳に名を残している。[77]権八は通詞としては3代目だった。1683年にオランダ語を学ぶよう命じられているが、これは通常12歳くらいで行われる。1684年から正式な見習い通詞となる。ケンペルが日本を離れた翌年に小通詞に昇進し、1696年には大通詞になる。1724年までこの任に就いていた。彼の経歴から、彼と今村が同吹u代だったことがわかる。オランダ人は彼を礼儀正しい男だと評価していた。彼と今村は出島の通詞として最も優れている者とされていた。[78]] 最初の江戸参府でケンペルは田中平右衛門とかなり接触していたようで、到着後すぐサイン帳に詩を数篇書くよう頼んでいる。おそらく長崎奉行所のこの役人は、1689年と98年の日誌に、あまり若くない、江戸への「geleider」として言及されている「Fejemon」という人物と同一人物だろう。[79]] 最後に、単語集を見ていて意外なことに気づく。日本語の見出語に対応するオランダ語の訳語が中段に並んでいるページがあり、しかも、それらはとてもケンペルの筆跡とは思えないものである点である。[80]確かな筆の運びを見ると、日本人ではないようである。豊富な日本語の知識で知られたヨースト・フィセル(Joost Visser)によるものだろうか。フィセルは1679年から7年間出島で暮らし、1691/92年には再び交代で助手として日本に来ている。江戸城での謁見の際に彼は、求められて日本語で最高の賛辞を述べ、陛下に幸福と長寿を願ったが、ケンペルはその詳細な記録の中で、このことについては記してない。[81]] 9 日本語の教科書と参考書もちろんケンペルは日本の印刷物にも興味を示し、原稿が製本されるまでの過程についても記している[82]。彼の熱心な収集により、17世紀に初めてかなりの量の日本書がヨーロッパへ渡り、スローンのおかげで今日まで保存されている。その中には語学の教科書や参考書も含まれている[83]。 すでにショイヒツァーが不完全ながらその書籍リスト[84]の中で「写本が数冊あり、単純な文字や複雑な文字のさまざまな形が記されている。」と指摘しているが、そこには『七ついろは』が2冊含まれていたと思われる。一方は、1688年に刊行され、かつての濃紺の表紙に本来の日本語の表題と並んで、ケンペルの死後(Japanese Alphabets, The Japanese E ro fa)という紙片が貼ってある。この小冊子はまず手紙の折り方を示している。続いていろは文字があり、それぞれの文字の下にさらに同音の6文字が縦に並ぶ。ガーデナーなどが言及している中国人「Chetqua」は1770年にロンドンの東洋の書籍を調査しているが、日本語については知識がない。こうして彼は、勝手気ままに並んだように見える文字の山をどうすることもできなかった。最上段にケンペルはそれぞれの欄について該当する読み方を記している:
i, ro, fa, ni, fo, fe, to, tʃji, ri, nu, ru,
wo, wa, ka, jo, ta, re, ʃo, tʃu, ne, na, ra, nu, ui, no, o, ku, wia,
ma, ke, fu, ko, Je, te, a, ʃʃa, ki, Ju, me, mi, ʃi, je, fi, mo, ʃe,
ʃu
これに続いて数詞と、その後に誤って「中国語のいろは」と記された短い漢文があり、その表題と最初の2字をケンペルはラテン文字に書き換えている。残念なことに、そのあとに続く重要な部首の名簿に書き込まれた彼の小さな走り書きは解読できない。10ページからは山城から鹿児島までの国名、それから人名、月名などが並ぶ。裏表紙に張り付けた最後のページに、ようやく片仮名のいろはが、ケンペルの筆によるその音とともに示されている[85]。 2冊目の『七ついろは』は発行年がはっきりしない[86]。赤褐色の表紙をつけたこの小冊子は内容的には上記の書とほぼ一致している。最後の2ページには平仮名のいろはが鉛筆で書き込まれている。 ケンペルの遺書を概観したうえで、ショイヒツァーはさらに「A Dictionary, containing five thousand Ssin, Common, Taf [!], and Sso Characters」と書いている[87]。これは『畫引千字文』[88]のことで、6世紀に中国で編まれ、日本でも練習の手本として非常に好まれていた。2枚の裏にケンペルは短い解説を加えているが、その下に彼の名が漢字で黒く押印されている(堅不留)。さらに10ページにも書き込みがある。次のページから本文が始まり、天、地、黒、黄などの文字が5書体で書かれ、ケンペルはその名称を記録している。 1685年発行の増字『以呂波雑韻』は元来3冊から成る押韻辞典で、ロンドンで綴じなおされ、表紙の内側には、残念ながらほとんど解読不可能な紙片があり、ほとんど使われた形跡がない。これをケンペルが所有していたことは「検夫氏u」の印が示している[89]。 『日本誌』で短く触れている辞書『節用集』の1611年版をケンペルは所有していたようである[90]。この「Setz Joo ʃju」と並んで彼は、9冊の書のリストの中でさらに4冊の語学辞典、『和玉篇』、『和字彙』、『以呂波韻』、『三抄韻』を挙げている。これらはまだ見つかっておらず、彼はこれを滞日中にのみ今村に説明させ、ヨーロッパへは持ち帰らなかったのかも知れない[91]。 10 日本語研究史におけるケンペルの位置エンゲルベルト・ケンペルは日本語に取り組んだ最初のヨーロッパ人というわけではない。17世紀にはヨーロッパ人による吹u界発見はほとんど終わっており、少なくとも教養人は異国の夥しい数の文化や言語について知っていた。しかし、その研究に関してはほとんどが宣教師の努力によるものであり、そのパイオニア的な功績は驚嘆に値し、日本に関しても同様だった。この点に関しては、16世紀と17世紀前半の数十年間に優れた辞書と文法書が生まれた。
Dictionarium
Latino-Lusitanicum ac Iaponicum.(Amakusa
1595)
Racuyoxu. In collegio Iaponico Societatis Iesu.(Nagasaki 1598) Vocabulario da Lingoa de Iapam.(Nagasaki 1603 - 1604) João Rodriguez: Arte da Lingoa de Iapam.(Nagasaki 1604 - 1608) João Rodriguez: Arte Breve da Lingoa Iapoa.(Macau 1620) Diego Collado: Ars
Grammaticae Iaponicae Linguae.(Roma 1632) ケンペル自身は、これらの成果について詳細に研究はしなかったものの、その努力については知っていた。この点で彼は西洋の教養人とあまり相違はない。さらにVOCの商人たちは、17世紀初頭にイベリア人の後任として日本にやってきたが、決して学問的な野心に駆られたわけではなかっただろう。トゥンベリが日本を訪れた時には、蘭日貿易が始まって150年以上もたっていたが、出島のオランダ人がひとりも「言葉を記録したり、せめて語彙集のようなものを作ったり、この言語の特徴について考えようと」していないことを、彼は嘆いているが、もっともなことだった。さらに、彼らのなかには、ある程度日本語を話す者もいたのだから、言語学者のためでなくとも、少なくとも日本に滞在せざるを得なくなった人たちのために辞書を編むくらいの時間は十分にあった筈だ、といった苦言を呈している[92]。しかし、この批判は少し行き過ぎている。出島商館の書物には日本の産物や人名、地名、役職名などが頻繁に現れる。これらは新館長の筆でもなめらかに記され、バタヴィアへの書簡にも見られるため、日本に携わる全ての人々にとって共通の語彙だったに違いない[93]。しかし、それ以外はすべて、実際には「変わった」来訪者の筆になるものだった。初期のものとしては、1641年以降に伝わった会話例集があり、これは聞き取りによって記録されたあの26の言い回しだと思われるが、モンタヌスはこれを『日本の皇帝への記念すべき使節』の中で紹介している[94]。チューリンゲン出身で、かつては兵士、東アジアの測量技師だったカスパル・シュマルカルデン(Caspar Schmalkalden)は、ディエゴ・コラドによる辞書の影響を受けて日本の語を若干記録していたようである[95]。1682〜83年及び1685〜86年に商館長の任に就いていたアンドレアス・クライヤーの知識欲のおかげで日本の植物や動物の名称を示す長いリストが彩色画集「日本の植生」(Flora Iapanica)中に、日本の植物に関するレオポルディーナ学士院の機関誌にも多くが記されている。[96]彼の「執事」で、外国語に強い関心を持っていた庭師のゲオルク・マイスターは、ドレスデンに帰郷し、「東洋印度園芸師」の中で、優れた日独語彙集、会話例を2点と「いろは」(Das Japansche A. B. C.)を発表した。半世紀の間に吹uに出たもので、文献として挙げるべきものはこれだけである。 ケンペルは研究者としては新しいタイプに属し、ゲオルク・マイスターやアンドレアス・クライヤー、ゲオルク・エーバーハルト・ルンプフ等がその先駆者として挙げられる。見知らぬ外国に滞在するのがパンを得るためであっても、研究のための好機として徹底的に利用した。宗教的なものや文化伝道師としての熱意はこれらの人物からはほとんど感じられない。16世紀の宣教師たちは日本からの回状でヨーロッパ人読者を感動させ、自らの仕事に光を当てようとしていた。初期の旅行記はほとんどが異国に対する好奇心に終始しており、自らの体験と書物から得た知識とがさまざまに混じり合っていた。上記の人々によって記述の客観性と完全さを目指そうとする姿勢が明らかになってきた。このことはケンペルの日本語研究についてもいえる。彼が我々に残してくれた語彙集はイエズス会士の辞書に欠けていた語を多く含んでいることを見ても、深い感銘を受けるし、さらに会話例をかなり収集していることも驚きである。これらの資料は日本の語彙研究のためばかりではなく、音韻論的な調査の面からも興味深い。特に宣教師の文書でもまれな日本語のアクセントに関する記述は注目に値する。さらに彼がラテン文字で書き換えた日本語の文章は、この種のものとしては少なくとも100年間の堰u日文化交流では唯一のものであろう。また、ケンペルがヨーロッパへ持ち帰った日本語の手習い書や参考書はその多くが初めて海外へ持ち出されたことになる。日本語全体に関する研究では、ケンペルはイエズス会の司祭たちに大きく差をつけられている。しかしその量と、彼がわずか2年間で収集し、分類した語学的なデータや書物の質に関しては、1641年から少なくともトゥンベリの時代までの間の、全ての日本旅行者のものを凌いでいる。ヨーロッパ人による日本語研究史に関するこれまでの記述は、ケンペルに関しては書き換えられる必要があるであろう。上に述べた資料が出版されることにより、今後さらに調査が進み、研究上の一助となることを心から願うものである。 参考文献ドイツ日本研究所編『ドイツ人の見た元禄時代.ケンペル展』(カタログ)、東京、1990年。 Gardner, Kenneth B.: Engelbert Kaempfer's Japanese Library. Asia Major, Vol. VII, nos. 1/2, 1959. 飯田道夫「iとeの交代について」『音声学会会報』第101号、6〜7頁、1959年。 Imai, Tadashi: Sprachliche und landeskundliche Anmerkungen zu Engelbert Kaempfers Geschichte und Beschreibung Japans. In: Hüls, H. und Hoppe, H. (ed.): Engelbert Kaempfer zum 330. Geburtstag. Lippische Studien, Vol. 9., Lemgo 1982, p. 83-131. 今泉忠義『日葡辞書の研究・音韻』東京、1968年。 Kapitza, Peter:Japan in Europa. Texte und Bilddokumente zur europäischen Japankenntnis von Marco Polo bis Wilhelm Humboldt. (2 Vols.) München 1990. 片桐一男『「蘭陀通詞今村源右衛門英生』丸善ライブラリ 145、東京、1995年。 河野亮「羅葡日対訳辞典の日本語におけるiとeの交代」『音声学会会報』第96号、9〜10、7頁、1958年。 河野亮「羅葡日対訳辞典の日本語」『音声学会会報』第101号、1〜5、7頁、1959年。 Meister, Georg: Der Orientalisch=Indianische Kunst= und Lust=Gärtner [...] Dresden, 1692. Michel, Wolfgang (1984): Engelbert Kaempfer und die japanische Sprache.「独仏文学研究」第34号、125〜150頁、福岡、1984年。 Michel, Wolfgang (1986a): Die Japanisch-Studien des Georg Meister (1653-1713).「独仏文学研究」第36号、1〜50頁、福岡、1986年。 Michel, Wolfgang (1986b): Wataxyx gattinnakka - Japanisch in den Gedenkwaerdige Gesantschappen des Arnoldus Montanus.「言語科学」第21号、1〜10頁、福岡、1986年。 Michel, Wolfgang (1986c): Ein frühes deutsch-japanisches Glossar aus dem 17. Jahrhundert.「かいろす」第24号、1〜26頁、福岡、1986年。 Michel, Wolfgang (1993): Engelbert Kaempfers Beschäftigung mit der japanischen Sprache. In: Detlef Haberland (ed.): Engelbert Kaempfer. Werk und Wirkung. [エンゲルベルト・ケンペル その業績と影響]. Boethius-Verlag, Stuttgart. pp. 194 - 221, 1993. Montanus, Arnoldus: Denckwürdige Gesandtschafften der Ost=Indischen Gesellschaft in den Vereinigten Niederländern an unterschiedliche Keyser von Japan [...] Aus den Schriften und Reyseverzeichniüssen gemelter Gesanten gezogen Durch Arnoldus Montanus [...] Zu Amsterdam Bey Jacob Meurs ...1669. Muntschek, Wolfgang: Engelbert Kaempfer Flora Japonica (1712). Reprint des Originals und Kommentar. Wiesbaden 1983. 杉本つとむ『西洋人の日本語発見 − 外国人の日本語研究史1549〜1868』創拓社、東京、1989年。 外山英司『近代の音韻」国語史講座2・音韻史、文字史』東京、1972年。 Wenck, Günther: Japanische Phonetik. Vol. 1-4. Harrassowitz, Wiesbaden 1954, 1954, 1957, 1959.
ケンペルの著作Kaempfer, Engelbert: Amoenitatum exoticarum politico- physico- medicarum fasciculi V, quibus continentur variae relationes, observationes & descriptiones rerum persicarum & ulterioris Asiae. Lemgo 1712.(『廻国奇観』) Engelbert Kaempfer: The History of Japan. Facsimile, Kyo–to 1929.(『日本誌』の英語版)[HJ] Engelbert Kaempfer: Geschichte und Beschreibung von Japan. Aus den Originalhandschriften herausgegeben von Ch. W. Dohm. Lemgo 1777-1779. Faksimile-Ausgabe, Stuttgart 1964.(『日本誌』のドイツ語版)[GBJ] 手稿British Library, Department of Western Manuscripts, MS Sloane 3060: “Heutiges Japan”(『日本誌』の原稿) British Library, Department of Western Manuscripts, MS Sloane 3062: “Collectanea Japonica”(メモ集) Algemeen Rijksarchief, 's-Gravenhage, 1.04.21, Nederlandse Faktorij in Japan 104: Dagregister 1690 - 1691(出島商館長日誌) Algemeen Rijksarchief, 's-Gravenhage, 1.04.21, Nederlandse Faktorij in Japan 105: Dagregister 1691 - 1692(出島商館長日誌) 注釈
[1] ケンペルの助手の特定化についてはYu Ying Brown(ユーイン・ブラウン「大英図書館所蔵ケンペル到来日本資料の意義」)を参照(1990年、ケンペル展カタログ、p. 103)。出島商館日記からもPaul van der Veldeが今村源右衛門の名を示す記述を紹介している(Die Achse, um die sich alles dreht, Haberland, pp. 175-193)。今村源右衛門英生の詳細な経歴等などについては片桐一男(1995年)が著している。
[4] BL, Sl 3060, fol. 404v
[5] BL, Sl 3060, fol. 263r.
[6] Algemeen Rijksarchiv, 's-Gravenhage,
Nederlandse Factorij Japan(オランダ国立文書館、出島商館資料。以下はARA, NFJ),No.105,出島商館長日誌1691-92,1692年1月27日。
[7] BL, Sl 3060, fol. 395v。ケンペルの上司、商館長Hendrick van Buijtenhemにも「不作法な通詞」本木はそれほど好意を持たれていなかった。(出島商館長日誌1691〜92,1692年3月26日)。
[8] Michel (1984年)
[9] Novus Atlas Sinensis . A Martino
Martinio descriptus. Amsterdam 1655。 Kapitza, Japan in Europa, Vol. I, p.605.の復刻版より翻訳。文体を変えてクリスティアン・アルノルトが翻訳している。Arnold, p. 348f. 参照。
[10] Guichard, Etienne: Harmonie étymologique des langues
Hébräique, Chaldäique, Syriaque, Grèque, Latine, Françoise, Italienne, Espagnole, Allemande, Flamende, Angloise. Paris 1606. 参照。
[11] 旧約聖書,モーセ1,11。
[12]
BL, Sl 3060, fol. 73v, 74r
[13] “pan”, “palma”, “botan”, “cappa”, “frasco”, “bidoru”, “tante”
[14] 現在はベトナム北部にある東京(トンキン)の住民。
[15] BL, Sl 3060, fol. 74v〜
[16] “Common”
[17] BL, Sl 3060, fol. 74r
[18] Geschichte und Beschreibung Japans, Buch 4, Cap. 10, p. 130. Sloane 3060 の手稿ではこの章が欠けている。
[22] BL, Sl 3060, fol. 281r
[24] 「 shibitobanna」はたいてい「彼岸花」(Lycoris radiata Herb.)と呼ばれる。「Kaki」はDiospyros Kaki Thunb.、「Kibi」はPanicum miliaceum。
[25] Amoenitates exoticae, p.769、Flora Japonica, p.16から引用。
[26] Amoenitates exoticae, (c) 2f.
[27] Geschichte und Beschreibung Japans, IV, p. 440。日本語表記はAmoenitates exoticae (p. 603)のラテン語による原本に統一されている。
[29] Amoenitates exoticae, p.769
[30] 飯田, p.6f.、河野 , p.9ff.、今泉, p.60f.、外山, p.82参照。
[31] Michel (1986年b)
[34] Geschichte und Beschreibung Japans, Einleitung des Herausgebers, p. LV.
[35] Johann Amos Comenius: Orbis sensualium pictus. 1658 (1. ed.)
[36] この章は日本語の表記のみで、訳語などは付されていない。
[37] 一部は訳語なし。
[38] BL, Sl 3062, fol. 313r-379v
[40] BL, Sl 3062, fol.327-329
[41] 同上, fol. 339r
[42] 同上, fol. 376r
[43] 同上, fol. 101r-111v
[44] BL, Or.75.f.6
[45] BL, Sl 3062,fol.60r- 63r.
[46] 同上, fol. 113r-116r
[47] 同上, fol. 200r-219v
[48] 同上, fol. 357r-358v
[49] BL, Or.75.f.8
[50] BL, Sl 3062, fol.217v- 218r
[54] BL, Sl 3060,fol. 300v
[55] BL, Sl 3062,fol. 372v
[57] Meister, p. 193-196. Michel (1986年a) を参照。
[58] Montanus, Gesandtschafften, p. 325; Michel
(1986年b)を参照。
[59] 草、草書
[60] 真 = 楷書
[61] Amoenitates exoticae, p.767f. Flora Japonica, p.15f.から少しだけ変更して引用。
[62] Amoenitates exoticae, p.768
[63] BL, Or.75.h.1, fol. 11r.
[64] BL, Sl 3060, fol. 530.
[66] BL, Sl 3062, fol. 88r.
[69] BL, Sl 3060, fol. 532, 536, 537v, 538v, 539v
[71] Geschichte und Beschreibung Japans, Buch 4, Cap. 10, p. 129ff.
[72] BL, Sl 3062, fol. 3v
[74] まもなく発表の予定。
[75] BL, Sl 3060, fol. 302r (Geschichte und Beschreibung Japans, Buch 5, Cap. 6, p. 197)
[78] 2人についての記述個所は出島日記の索引により検索可能である。
[80] BL, Sl 3062, fol. 365。
[81] ARA, NFJ, No.104 出島商館長日誌、1691-92年、p. 135f.
[82] BL, Sl 3062, fol. 47v
[84] History of Japan, Introduction, p. l
[87] History of Japan, Book I, No. 41
[90] BL, Or.64.b.2
[91] BL, Sl 3062, fol. 64r
[92] Thunberg, Reisen, Vol. II, p. 215
[93] 1633年から1641年までの平戸商館日誌だけでも筆者が数えた日本の語や固有名詞は1000語を超えている。
[94] Montanus, Gedenkwaerdige Gesandtschafften, p. 325. Michel, (1986年b) 参照。
[95] Michel(1986年c), p.1-26
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