Wolfgang Michel
1690年初夏頃の長崎行きの船に乗ったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)は日本の医学についてすでに若干の知識を有していたのではないかと思われる。バタヴィア滞在中交際していたヨーロッパ人の中には、たとえば東インド会社の高い地位についていた医学修士のアンドレアス・クライヤー(Andreas Cleyer)という人物がいた。以前会社の薬局および薬草園を管理していたクライヤーは東アジアの薬草、薬品に精通し、1682年および1685年の二度にわたって出島商館長を勤め、さまざまな書簡や資料をヨーロッパの学者へ送っていた。[1]さらにケンペルは医学博士のヴィレム・テン・ライネ(Willem ten Rhijne)とも出会っている。1673年に特に日本で任に就くために雇われていたテン・ライネから彼は鍼灸について紹介してもらっていたに違いない。ケンペルが1695年にライデン大学に提出した博士論文にも1712年に刊行した『廻国奇観』にもテン・ライネが初めて使った用語「acu punctura」が用いられているだけではなく、テン・ライネと同様にケンペルは針術の治療範囲をColica(疝痛)に絞ってしまっている。[2] 出島商館の任務に就いて間もなく、若い助手今村源右衛門英生がケンペルにとって掛け替えのない協力者となり、多種多様な資料を出島へ持ち込んで、それを説明、翻訳した。[3]しかし、ケンペルが今村のお陰で作成した手稿やメモなどのうち、発表されたのはほんの一部に過ぎない。彼が日本についてどれほど広範な知識を持っていたのかを明らかにするには、これまで余り研究されていない大英図書館のスローン・コレクションにある資料、特にいわゆる「Collectanea Japonica」(Sloane 3062)を考慮に入れなければならない。筆者はその資料の調査もあたったが、その際、さまざまな病名および病気についての記述が特に注目をひいた。たとえば、「Collectanea Japonica」の語彙集の中に「諸病名」(Morbi)の項目が含まれており、そこには当時一般に恐れられていた病気が列挙されている。[4]
ペストは日本には存在していなかったことは確かである。熱病に関してはヨーロッパでもその意味や分類はあいまいで、ケンペルの言葉通りに受け取るわけにはいかない。「日震ひ」と「震ひ」を並べたり、直訳したものもあり(南蛮瘡=ポルトガル疱瘡、コエアシ=肥えた足)、今村が単語の構造を説明していたことがわかる。中国と日本で発生していた「瘡毒」(rat bite fever)がここで初めて西洋の文献に現れたことは注目に値する。今日でも西洋の文献や専門辞典に「Sodoku」という見出語がよく見られる。[6] 「乞食」が九州方では癩病患者に対して用いられておたことはイエズス会士による『日葡辞典』(1603年刊)からも裏付けられる。ケンペルは一般にメモをとる時にも、大抵は彼の注目を引いた現象の日本語名をローマ字表記の見出しにし、その意味、特徴などについてドイツ語やラテン語、オランダ語を取り混ぜながら解説している。「Morbi」という表題を持つ記録はこの資料集の他の個所にもある。[7] ケンペルはその記述の一部を1694年に提出した博士論文の鍼灸に関する観察(Observatio)にも取り入れ、[8] 好評を得たためか、これに手を加え、その後1712年刊の『廻国奇観』でさらに精緻なものにしている。[9]日本で取ったメモでは「上気」(Sióki)は「頭の蜂巣炎」と説明されている。「寸白」(∫umbáku)は長くて白い虫で、肛門や、また稀には尿道から出てくるもので、ペルシアのメディナ虫pijukを思わせる。「仙気」「Senki」は、日本と中国ではあらゆる腹痛に広く用いられるが、その地方特有の疝痛と解釈され、痙となって鼠径部や下腹部を斜めに、また縦に走り、時には腕や下腹部、頭部の腫瘍の中で起こる。象皮(Sóbe)を患う者は象皮持ち(Sóbe motz)と言われる。潰瘍ができることも多く、「フィステル」(瘻管)にもなる。この病気や、当時肥足(Kojejas vulgo Kójassi)と呼ばれていた「聖トーマス足」(St. Thomasbein)はフィラリア症に相違ない。「三病」(Sanbio)は当時においては、癩瘡や癩病類と同義語だった。彼の語彙集と同様にケンペルはここでも白癩(Biakurai)と黒癩(Kokurai)を区別している。前者は10年から12年かけて手足の指が腐ってしまうが、後者はさらに悪性で、そこに至るまでにその半分以下の時間しかかからない。 医史学的にも民族学的にも興味深いのは「小児病」(Kinderkrankheiten)に関するケンペルの記述である。[10] ここではまず麻疹(Faska)のことに触れている。他の症状を起こしたり、冷水で体を洗ったり、禁止された物を食べたりしなければ、麻疹で死ぬことはめったにない。発疹する以前にのどがおかしくなる。ケンペルが軽い児童疱瘡か、小さな水痘だと定義しているカレイ(Karé)は魚の名から取った俗名ではないかと思われる。この「カレイ」で死ぬことはないが、痕が残ると説明されている。 麻疹と違って天然痘はケンペルによれば非常に悪性で、狂気(Raserei)になってしまうことが多いという。この病が蔓延していた大村や天草地方から帰って来た者は、居住地から「遠く離れた野原か森へ連れていき」、「清潔になった」と認められるまで100日間待たなければならないとしている。ケンペルによれば日本人はその外観から天然痘を五種類に区別し、「似たような物の名」をつけている。残念ながら、庶民によると思われるこの分類を裏付ける国内の資料はまだ見つかっていない。 アズキ(Addsuki)は「赤または茶色のソラマメの形」にちなみ、「ハシカ」のように最も軽い種類。マメ(Mamé)は丸くて白い豆の名を持つ。 タコおよびタコノテ(Tako seú táko no te)は一種の銀鮫に由来する。 「ツタ」(Tsta' sive Tsutá)は蔦の葉の形を思わせる。「ツタ」の葉は葡萄または「モミジ」の葉に似ている。これらはタコノテよりも悪性で死ぬことも多い。 最も深刻でたいていが死んでしまうのが、紺色と盛り上がることから「ブドウ」(Budo)と呼ばれるものである。 「ツタ」と「ブドウ」は、回復してもその皮膚はまるで仮面のように剥がれ、患者は全く異なった容貌になってしまうほど悪性である。 続いて述べている天然痘患者との交わりも同様に興味深い。[11]以下にそれらを紹介しておこう。特別な老女を呼び、彼女が重い天然痘かどうかを確認させる。妊婦や月経中の女性、喪中の者、癩病患者、盲目の者、足の不自由な者、坊主、酔っ払いには害を及ぼすので患者に近付いてはならない。酔った者が患者に近付くと、体中が痒くなり始める。患者の看護をした者は、しきたりで髪に油を塗ってはならない。老いた患者はたいてい死んでしまう。悪霊つまり「神」(Came)を祓うために、患者に白い帽子をかぶせ、竹の枝を湯に浸して帽子の上で水を切る。これが「一番湯」(itziban ju)で、「最初の水」と呼ばれる。七日後に「二番湯」(niban ju)を行い、「三番湯」(sanbanju)では湯と柔らかな布で洗う。天然痘が良性なら、一番湯のときに洗い清める。ケンペルのこの説明を裏付ける同様の方法が香月牛山の「小児養育草」でも述べられているが、そこでは一番湯の際に、熱湯か米の煮出し汁に浸けた布を軽く絞って天然痘の上に置くとなっている。[12] 次にケンペルは「七疱瘡の神つまり七疱瘡霊」(VII Foso no Cámi id est 7 Pock Geister)について記している。[13] この「神、または児童疱瘡の霊」は「たいていが悪性」で、患者には次の病状を示す一種の前兆として現れる。「山伏神」(Jammabos Cami)は一般に非常に悪性であり、「盲神」(Mékura gami, blinder Geist)は盲目者のような姿で現れ、さらに悪性である。次に続くのが「坊主」(Boos, pfaffen)と、「爺」(dsii, alt man)と「婆」(Baba, alt weib)で、この三種は不吉な印となり、目前に迫った死を示している。これに対して若衆(wakas, Juengling)かむすめ(Mus me, Junge tochter)が姿を現すと、まもなく回復する。七福神に似せて作られたと思われるこの疱瘡神についての日本の資料はあまり発表されていない。ケンペルが描写したのは発病の日によって病のなりゆきを占う図のようなものであった。『江戸庶民の暮らしの巻き』には「天平七年春海外ヨリ渡リ来船中ニテ病人ノ枕辺ニ現レシ疱瘡神の図」があり、その7疫神(魁神、兵神、刑神、早神、石神、役神、寛神)の姿および特徴はほぼケンペルが書いている通りである。[14] 「灸処鑑」に見られる病名灸術の基礎知識を概観する「灸処鑑」のようなものは、国中の行商人から入手できる、とケンペルは述べている。類似のものが京都大学富士川文庫に所蔵されているが、[15]残念ながらケンペルが1712年にラテン語で紹介した「灸処鑑」は見当たらない。 間違いなくレムゴのケンペル家にあった筈の原本は所在不明で、大英図書館が所蔵している『廻国奇観』の草稿でもこれらのページは欠落している。今村はオランダ語しか話さなかったので、印刷された文章のみからは、全く異質な病理学に由来する病名がどのように説明されていたのか、把握することは難しい。中東関係のケンペル資料を点検するうちに筆者はスローン2910資料集の中に日本で作成されたと思われるドイツ語、オランダ語、ラテン語による「灸処鑑」についての興味深い記述を見いだした。この記述には『廻国奇観』に載っている「灸処鑑」よりも日本語の病名が多く含まれ、ちゃんとした文章の体裁をなしていないさまざまな短い説明が添えられている。[16]
今村源右衛門が日本語の病名についてオランダ語で説明するのを聞いたケンペルはドイツ語あるいはラテン語の適当な訳語を見い出せず、言葉をごちゃ混ぜにしてしまっていることが多い。
また、ヨーロッパではそれが読める人は1人もいないというのに、ケンペルはその記述の横にカナや漢字表記の用語を付け加えたり、今村源右衛門から付け加えてもらったりしているが、それなどもケンペルの日本語に対する姿勢を物語っている。 上述の用語の一部は1603年刊のイエズス会士による『日葡辞書』にも見られるが、個々の病気についてはあまり記してはいない。ケンペルは宣教師とは異なり日本語を学んだのは2年間だけで、国内を自由に移動することも許されなかった。このようなハンディの下にありながら、さまざまな病気についてヨーロッパ人としては初めて比較的詳細な記述を残せたのは、彼が真剣に研究した結果に他ならない。同時に今村源右衛門の献身的とも言える協力も見逃すことはできない。彼自身も、ケンペルに「灸処鑑」や他の資料を説明するため、オランダ語の用語だけではなく、短期間に洋の東西の医学について知識を得なければならなかったからである。
[1] Eva S. Kraft: Andreas Cleyer. Tagebuch des Kontors zu Nagasaki auf der Insel Deshima 20. Oktober 1682 - 5. November 1683. Bonner Zeitschrift für Japanologie 6, 1985.
[2] Wolfgang Michel: Willem ten Rhijne und die japanische Medizin (I).『独仏文学研究』第39号(1989年)、75〜125頁。
Wolfgang Michel: Willem ten Rhijne und die japanische Medizin (II) – Die Mantissa Schematica. 『独仏文学研究』第40号(1990年)、57〜103頁。
[3] 片桐一男『阿蘭陀通詞今村源右衛門英生−外つ国の言葉をわがものとして−』丸善ライブラリー145、平成7年(1995年)。
[4] Sl.3062, f.329r.
[5] Miscellanea Curiosa , Decuria 2, Annus 3, Observatio 13参照。
[6] Pschyrembel Klinisches Woerterbuch. Springer Verlag, Berlin, New York 1986, pp.1414, 1560参照。
[7] Sl.3062, fol.81v.
[8] Kaempfer, Engelbert: Disputatio Medica Inauguralis Exhibens Decadem Observationum Exoticarum. Lugduni Batavorum (Leiden), Abrahanum Elzevier 1694, Observatio IX, X.
[9] Engelbert Kaempfer: Amoenitatum exoticarum politico-physico-medicarum fasciculi 5. Lemgo, Meyer, 1712(以下は『廻国奇観』)、pp. 582 - 605.
[10] Sl.3062, fol.82r.
[11] Sl.3062, fol.82v.
[12] 富士川游『日本持病史』日本医書出版、昭和19年(1930)、99〜102頁。
[13] Sl.3062, fol.82v.
[14] 国書刊行会編・発行『江戸庶民の暮らしの巻き』目でみる江戸・明治百科>第1巻、東京1996年、32〜33頁。
[15] 「増補灸穴早合点」(京都大学富士川文庫)。
[16] Sl.2910 (Miscellanea de rebus Asiaticis E. MSS. Kaempfer), fol. 275.
[17] ケンペルの比喩:「風車」は「風」が出る肛門、「水車」は尿道。
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