ヴォルフガング・ミヒェル
はじめに江戸時代の光学製品に関する先行研究のほとんどは、18・19世紀にその焦点を合わせたものであるが、本論文はオランダと日本の資料に基づき19世紀を中心に、眼鏡、望遠鏡、虫眼鏡及び顕微鏡の輸入の始まりとその後の動きを追究する。 1 眼鏡 1.1 眼鏡輸入の始まり資料が乏しいため、日本における眼鏡の普及についてはまだ十分には解明されていない。京都の大徳寺大仙院の寺伝によれば、同寺所蔵の眼鏡は鎌倉幕府の第8代将軍足利義政が使用していたとされている。その眼鏡の特徴及び当時の状況から判断すれば、おそらく中国製のものと考えられる[1]。日葡交流時代を切り開いたイエズス会士とともに、西洋の眼鏡も日本に到来した。『日本教会史』で当時の活動を綿密に描写したルイス・フロイス(Luis Frois)神父は、フランシスコ・ザビエルが1551年に周防の大内義隆に献じた品に眼鏡が含まれていたと報告している[2]。フロイスはさらに、近視のザビエルの眼鏡に庶民が大いに驚いたとも述べているので、16世紀半ば頃には眼鏡の普及率はまだ低かったと思われる[3]。眼鏡の輸入は17世紀に入り徐々に活発になったようである。安海、アモイ、福州、トンキン、広南、シャムからのジャンク船で長崎に入港する中国商人が売りに出した中国製の眼鏡に関する記述が、1640年に出島に商館を置いたオランダ東インド会社の業務日誌の所々に見られる。この情報は商館長が末次平蔵など日本人協力者から入手したものであるが、「眼鏡」(「Chinese brillen」)という別個の項目がなく単に「様々な小物」(kramereijen)の中に含まれている場合もある。また、このページが、いつの時点かは特定できないが、商館日誌から切り離された形跡もオランダ国立公文書館で確認できたので、現存する資料は断片的なものに過ぎない。それを見る限り、唐船による眼鏡の輸入量は大きく変動している。 表1 唐船による各年度の眼鏡輸入総量[4]
ときには年度末の総合的な一覧表ではなく、ジャンク船が入港する際にその荷を記録する場合もあり、中国製の眼鏡は特に安海の船によってもたらされたことがわかる[6]。 決定的な根拠があるとは言えないものの、日本国内における眼鏡細工技術は17世紀初頭に始まったようである。西川如見が享保4(1719)年に刊行した『長崎夜話草』(五、付録)によれば山田弥兵衛という人物が壮年期に蛮国へ渡り眼鏡の作り方を習い伝えたなどの記述が残っているが、歴史的資料による裏付けはまだできていない。その7年後に明の僧侶が眼鏡の製造法を伝えたという話にも同様の問題がある[7]。 マカオから来航するポルトガルの商人も日本の眼鏡市場に着目した。彼らをめぐる日本の社会状況が厳しさを増したにもかかわらず、1630年代後半に陸揚げされた眼鏡は驚異的な量だった。平戸オランダ商館日誌によれば、ポルトガル人は1636年に19435個[8]、1637年に38421個[9]、そして日本から追放される前年の1638年に405個[10]を長崎で売りに出した[11]。ポルトガルの生産力や貿易体制を考えると、これらの眼鏡はヨーロッパの製品というよりむしろアジア製だった可能性が高い。また、30年代以前にもこのような交易が行われていたであろうと考えられる。 オランダでは眼鏡産業が繁栄していたが、日本では中国人とポルトガル人の供給力及び国産眼鏡の台頭により東インド会社の市場参入が阻まれたためか、オランダ商館が平戸に置かれていた時期の1609年から1640年までの史料には眼鏡関連の記述はごくわずかしか見当たらない。1627・28年に上級商務員ムイゼル(Pieter Muijser)と平戸の藩主松浦肥前守が交わした書簡からは、ムイゼルが江戸の町奉行島田弾正忠次兵衛に3個の眼鏡と望遠鏡を約束したことがわかる[12]。その後どうなったか明らかではないが、1633年に商館長クーケバケル(Nicolaes Couckebacker)が献上品として江戸へ持参したものの中に、エナメル塗り金製ケース入りの眼鏡1個が含まれていたという事例が、今のところ確認できる最も古いもののようである[13]。 1 veeresiende bril met een goude buijs van buijten geesmalieert wegende gout 203/4 reael van achte swaerte à 12 Ra silver pr reael compt ·········· Ra 249 その翌年1月に平戸藩主がバタビア総督に宛てた書簡で、あらゆる珍しい動物とともに眼鏡1個を要請している[15]。しかし下記に説明するように、1636年の夏に長崎に着いた船の送り状に記録されている2個の「遠くを見る眼鏡」(verresiende brillen)は、望遠鏡だった可能性がある[16]。平戸藩主はその翌年に再び高品質の望遠鏡及び眼鏡の注文を出した[17]。 商館が長崎出島へ移転してから、東インド会社はより積極的に眼鏡輸入に取り組むようになった。ポルトガル船の来航禁止令が出された翌年の1640年にオランダへ送付された旧平戸商館長カロン(François Caron)の報告書では、日本での鼻眼鏡の人気が非常に高く、老中は1639年に納品したものをすべて配布したと説明している。バタビア総督府は、以後200〜300個を送るようオランダに要請したが[18]、毎年来日する蘭船の送り状の数量をまとめると、実際の供給量はその目標量を常に下回っていたことがわかる。 表2 日本行き蘭船の送り状に見られる眼鏡[19]
1668年4月25日付の日記では商館長は老中のため1年で300個の眼鏡を希望すると記している。 「様々な年齢用の、ケース入りで高品質のオランダ産眼鏡三〇〇個。それらは絶えず四五歳、五〇歳、六〇歳の年寄りである帝国顧問官により要請され、大変必要とされるものである。」[20] 商館長が江戸へ持参した眼鏡を「四名の帝国顧問官」に公正に分配していた大目付北条安房守氏長の要求からは、オランダの眼鏡への評価の高さがうかがえる[21]。 金銀の海外流出や国内での物価高騰などの問題に悩まされた幕府は寛文8(1668)年に数種の国産繊維などの輸出を打ち切り、唐船船頭ら及び出島商館長に奢侈品の輸入を禁止する「覚」を渡した[22]。当該品目が長々と書かれたリストがバタビアへ伝えられそこでも禁止令が告知されたが、翌年に長崎に到着する船の乗組員と将校の多くはそれを無視した。そのためバタビア総督府はこの新しい規則を徹底させるために、1670年4月18日に改めて「日本への持ち込み禁止の品に関する通知」を布達したが、国内産の製品だけで需要をまかなうことが難しかったためか、禁止されたものには眼鏡は含まれておらず、それ以降も眼鏡の輸入は続けられた[23]。 1672年に入ってから、現存する送り状は急激に減ってしまい、1698年までの26年間の輸入については大まかな状況しかわかっていない。17世紀末に出島に陸揚げされた眼鏡の総数は200個を超えていない。象牙のフレーム(「met ijvore randen」[24])という新製品が登場し、東インド会社は相変わらず大きい利幅を見込める高級品の取引に焦点を合わせていた。この象牙フレームは1730年代の送り状に現れる[25]。 1.2 眼鏡の名称及び特徴オランダ側の文献に見られる名称の中で、16世紀に鞍眼鏡から発生したneusbrillen(鼻眼鏡)が一番多い。すでに言及したとおり、出島商館の貿易資料に見られる名称にもときおり解釈しにくいものがある。1640年、メールマン号に積まれた89番の小箱に入れられ「verresiende brillen」(遠くを見る眼鏡)という品がまた出島に届いた。文字通り解釈すれば両凸レンズの遠視用眼鏡ということになるであろう。 Een plat viercant casken No 89 daerinne 'tvolgende しかし、金箔付の皮ケース入りのものは、同年7月27日に高価な鼻眼鏡とともに商館の仕訳帳にも現れる。こちらでは「verresiende kijcker」つまり「望遠鏡」として説明されている。さらにこの「kijcker」の価格が金製フレームの眼鏡の34倍となっていることからも眼鏡ではなく望遠鏡だった可能性が高いと考えられる[29]。 6 stx goude neusbrillen aen verscheijde oude raetsheeren als andere heeren vereert à f. 18:15 ider ········ f. 112:10:- 他にも曖昧な事例がある。1636年にスワーン号で届いた「17 stucx verresiende brillen」のうち8個は、金箔付の皮でカバーされていたと説明されているが、それが眼鏡の本体か眼鏡のケースかあるいはもしかしたら望遠鏡を指しているかは不明である[30]。1642年に、同様な名称のものが陸揚げされたが、価格から推測すれば、それは眼鏡であったと考えられる[31]。 眼鏡関係の簡単な記述は日本の資料にも確認できる。『通航一覧』に見られる「靉靆」及び「眼鏡」という漢字名は明の時代の中国ですでに使われていた[32]。「鼻眼鏡」という名称はオランダ語の「neusbrillen」をもとに日本で生まれた造語と思われる。『通航一覧』の17世紀の記述に現れる名称は「文字眼鏡」となっているが、献上品の中の光学製品のほとんどが省略されてしまっている[33]。西川如見が享保4(1719)年に刊行した『長崎夜話草』に挙げられている「鼻眼鏡、数目鏡、磯目鏡、透目鏡、近視目鏡」という一連の呼び名は、当時の光学製品の多様化を示唆している[34]。眼鏡二種類について寺島良安が正徳3(1713)年に発表した『和漢三才図絵』では以下のように説明している。 近眼鏡 表微凹、裏微凸。 レンズの凸凹は認識されたものの、その関係の光学的法則はまだ発見されていなかったため、レンズの度は40歳、50歳など、使用者の年齢層で示されている。1640年に日本に来たメールマン号の送り状は17世紀の代表的な形式を示している。 20: dosijnen cristalijne neusbrillen in een viercante doosen No H in dito cas gepackt namentlijck 「H」という文字が付いている四角の箱には30歳用から80歳用までの眼鏡20個が入っていた。通常の製品にはガラスレンズが使われていたが、この製品は水晶レンズだった[37]。 眼鏡の価値を高めるためになされた工夫も興味深い。上記の箱にはさらに以下のものもあった。[38]
東インド会社が日本に持ち込んだ光学製品の多くはオランダ製と思われるが、メールマン号の送り状から、イギリス製の眼鏡も日本に上陸したことがあったことがわかる。上記の20個のうちの40〜50歳用の3個のケースは銀箔、1個は金箔で加工されていた。さらに金箔と宝石が施された赤い皮のケース180個、シャグラン皮のケース12個及び金箔の縞模様のケース12個が当時の「顧客」の好みを示している。ケースの数量が眼鏡の数量を遙かに超える場合も少なくなかった。 その他の送り状に目を通すと「角を使用した白いフレームの厚くて大きなレンズの眼鏡」(「dickglasige groote brillen, in witte hoorne randen」)[39]、「ポルトガル風な作りの鼻眼鏡」(「neusbrillen op de portugese manier gemaakt」)[40]や「分厚くて大きなレンズ及び銀製のフレーム」(「dicke groote glasen met zilvere randen」)のような、製品の一定の特徴を示す記述が見られる。紅毛人のあらゆるものに強い関心を寄せた6代将軍吉宗が注文したものには、もちろん象牙フレームの眼鏡(「brillen met ijvore randen」)が含まれていた[41]。フレームの形と大きさを正確に伝えるために、注文を出す際に見本を渡した事例もある[42]。 1.3 眼鏡の注文主及び受取人すでに述べたように老中は「受取人」としての中心的な役割を果たしたが、会社がその他の地位の高い人物に眼鏡を贈る場合もあった。 6 stx goude neusbrillen aen verscheijde oude raetsheeren als andere heeren vereert à f. 18:15 ider ······· f. 112:10:-[43] その眼鏡の細工が特に立派だったためか、老中松平伊豆守信綱の名前(「Matsendiro, Matsendeijro Insedonne」)が商館日誌に記載された事例がある[44]。1625、26年のタイオワン事件が長い駆け引きの末に解決された際、交渉にあたった幕府側の15名のうちの最高位の人物である酒井雅楽頭忠世及び土井讃岐守忠勝に謝意を表すため眼鏡2個を贈ることになった[45]。1640年に老中牧野内匠頭信成(「raetsheer Taeckemondonne」)宛ての価格的に安い眼鏡15個が仕訳帳に進物として記録された[46]。1643年のブレスケン号事件が引き起こした日蘭摩擦を解消するために江戸へ赴く特使フリシウスも眼鏡、虫眼鏡及び望遠鏡を持参した[47]。松平信綱は眼鏡を贈られ[48]、家光及び家綱には「金筒」及び「銀筒」の望遠鏡が献上された[49]。その2年後に「大きな権力を有する皇帝の叔父松平出羽様」(松平直政)[50]、1668年の商館長日誌に、注文主として老中牧野佐渡守信成(「Mackino Sandosa」)、大河内善兵衛政勝(「Coetzie Jammatosa」)及び北条安房守氏長(「Commissaris Fotzie Auwano Cammisa」)の名が言及されている[51]。70年代にオランダのあらゆる珍品に強い関心を寄せた老中稲葉美濃守正則は望遠鏡や鼻眼鏡も求めた[52]。5代将軍綱吉時代に変わると、「皇帝の人気者」牧野備後守成貞(「 's keijsers minjon Bingono Cami Sa」)が商館長から注目された[53]。 長崎では、歴代の奉行たちが常に商館の交易活動と密接に関わり合っていたので、わざわざ彼らの名前を商館日誌に記録する必要はなかったであろう。1636年の9月3日付の贈り物の一覧表に見られる馬場三郎左衛門の名はまれに見る例外である[54]。1680年代以降は長崎代官の高木作右衛門(「's keisers factoor Sacquemon-donne」)が眼鏡と望遠鏡に強い関心を寄せた[55]。1739年には象牙製の眼鏡50個の注文主として奉行萩原伯耆守源左衛門の名が記録された[56]。 1682年の商館長で研究者でもあるクライアーによれば、長崎奉行が献上品級の品々を借り、献上品としてふさわしいかどうか判断したことがあった。その際、特に眼鏡と望遠鏡は乱暴に扱われたため、故障したまま或いは価値が下がった状態で商館に返却されるという問題が起こった。 Op heeden wierd op het begeeren van 's keisers factoor Sacquemon-donne door den oppertolck Kitzizeymon de tweede maanekijcker afgehaalt, voorgeevende dat deselve door sijn E. voor den geweesene rijxraad Mino-zamma misschien gekocht en aen d'eede Comp. betaalt souw werden, omdat geen schenkaegies meer accepteert. Blijvende de eerste maanekijker noghal bij den gouverner (soo de tolcken seggen) berusten, niet weetende off dito tot de schenkaegies meede naa Jeedo sal geemploiijeert werden. En dusdaanigh wert met de glaasebrillen en verrekijkers meede gehandelt, die noijt off beschaedight off vermindert weedromkoomen of oock wel in 't geheel aghterblijven. Waaruijt men besluijten moet, dat de tolcken hieronder niet wijnigh haar personaegie speelen, gelijck sij 'tselve in gewightiger saacken wel meermaals onderneemen.[57] 2 虫眼鏡2.1 虫眼鏡輸入の始まり火を焚くための「火珠」や「火取玉」は『新唐書』などの中国の文献及び『和名類聚抄』などの日本の資料にもよく見られるが[58]、その実物がいつ日本へもたらされたかは明らかではない。ヨーロッパからの最初の虫眼鏡が日本に上陸したのは慶長18(1613)年だった。日本との通商関係を築き上げようとするイギリス東インド会社の船隊司令官セーリス(John William Saris)が交渉の潤滑油として「非常に質のよい虫眼鏡」を持参したことが、彼の『日本渡航記』などのイギリス側の資料に記録されている。 Ogoshosama, the Emperor, his present. [...] オランダ東インド会社の資料には当分の間はこのような記述は見られない。商館が長崎出島へ移転してからようやく虫眼鏡が資料に現れる。1643年にスワーン号が6個の望遠鏡とともに積んだ7個の「brantglasen」がこれまでに確認できた一番古いものである。この送り状はシャムのオランダ商館で作成され、さらに価格はスペインとポルトガル商人が使った貨幣レアル(real, realen van achten)で記録されているので、この品は東南アジアで取引されたものと思われる。 6 stucx verrekijckers alhier geeijsst à 5 realen ' · Ra30:- それ以降に輸入された虫眼鏡の数は少量だった。 表3 日本行き蘭船の送り状に見られる虫眼鏡
寛文8(1668)年に幕府が出島商館長に通達した輸入禁止品の項目には虫眼鏡(leesglaesen, luijsglaesen)が含まれていた。 glas sonder onderscheijt, als temperament glaesen, leesglaesen, luijsglaesen off hoe het mocht gemaeckt wesen, en geen meer drinckglaesen, als effen tot eijgen gebruijck nodigh is;[61] 1670年代から17世紀末までの送り状が残っていないので、この禁止令がどれほど徹底されたかは不明であるが[62]。 2.2 虫眼鏡の名称及び特徴イギリス人が用いた「burning glas」(火をおこすレンズ)という単語はオランダ語のbrandt glasenに相当しているが、東インド会社の文献には「leesglasen」(読書レンズ)または、両者を組み合わせた総称「brandt- en lees glaasen」の数々の事例も残っている。1660年に長崎に到着したエンクホイセン号の第68番の小箱には、眼鏡や望遠鏡と一緒に三つの大きさの「brant- en leesglasen」27個が入れられていた。重いフレームと、黒い仔牛皮張りのケースに付いた緑の宝石がこの品の高級さを強調している。設計上の違いはうかがえない。 Een cleen Casken No 68 pr Fl[uijt] Enchuysen gekomen, daarinne d'naarvolgende brant en leesglasen, mitsgaders verrekijkers en neusbrillen 1645年の送り状を見ると、brandtglasとleesglasは間違いなく別々の製品だった場合があることがわかる。ここでの2個の大きなbrandtglasenには足(「voeten」)がついていて、その価格はleesglasenのそれを遙かに凌いでいた。 26: pees diverse glasen te weten 寛文8(1668)年に幕府が会社へ伝えた輸入禁止項目の通知には種々のガラス製品も載っている。バタビアの総督府が1670年4月18日に告知した訳文には「luijsglaesen」(虱 (シラミ)眼鏡)というものも挙がっている。 glas sonder onderscheijt, als temperament glaesen, leesglaesen, luijsglaesen off hoe het mocht gemaeckt wesen, en geen meer drinckglaesen, als effen tot eijgen gebruijck nodigh is [65] ここでleesglasとは区別されているluijsglasが、倍率が高めの虫眼鏡かそれとも単式顕微鏡を示しているかは名称のみを根拠に決定することはできない。上記の情報を総合すると、少なくとも2種類の拡大レンズが日本に上陸したことは確かであり、いずれも当局は必要品として認めなかった。 上記の1645年の送り状からの例が示すように、製品の大きさは様々だった。また、虫眼鏡のフレームに関して受取人が指示を出した事例もある。1651年に大目付井上政重は木製の見本を示し、それと同じ大きさと厚さの虫眼鏡6個を注文した。 6: stucx lees gelaesen van groote en dickte als d'houte modellen on terhant gestelt.[66] 1654年カルフ号の送り状には「日本の木製見本に基づいて作られた虫眼鏡」との記載があり、それはおそらく上記の注文通りの製品であろう。フレーム及び取っ手が銀製の9個の虫眼鏡は3段階の大きさであり、そのケースは馬、ロバやラクダの皮を使用した、表面が滑りにくいシャグラン皮張り(in segreijn)だった。 No8. Inhoudende 3. groote ronde vergrootende brandt- en lees glaasen volgens de houte model van Japan daer bij met zilvere randen en steelen in segreine custodien 「虫眼鏡」という日本語の名称はオランダ語のluijsglasの影響を受けて作られた可能性も考えられるが、それがいつ頃から使われたかは明らかではない。その意味及び特徴については、正徳3(1713)年に刊行された『和漢三才図絵』で寺島良安が次のように説明している。
蟲眼鏡 玉厚し、表凸裏平、盒に嵌め蚤蝨を投じて之を覗れば、其形大にして、蚤は獣に似、蝨は鳥賊に似たり、其余細物亦然り[68]。
3 望遠鏡 3.1 望遠鏡輸入の始まり望遠鏡は17世紀初めオランダで発明されてから、まもなくポルトガル人により日本へ持ち込まれたとする説があるが、それを十分に裏付ける資料はいまだ現れていない。『南蛮寺荒廃記』、『南蛮寺物語』などの切支丹物語に見られる「七十五里を一目見る遠目鏡」や「芥子を卵の如く見る近眼鏡」などといった記述の信憑性は疑わしい[69]。天文方山路彰常と手代中西邦孚が安政3(1856)年に発表した『遠鏡図説』も同様な問題を抱えている[70]。それに対し、イギリス東インド会社の船隊司令官セーリスが慶長18(1613)年に家康、秀忠に望遠鏡を献じたことは、日英両方の資料によって裏付けられている[71]。広瀬秀雄などがすでに紹介した『駿府記』の8月3日付けのところに「長サ一間程之靉靆六里見■之云々」というイギリス人の献上品に関する記述がある[72]。 同じ平戸で1609年から商館を運営するオランダ東インド会社が、上記の件について注意深く観察したことは容易に想像できるが、望遠鏡の発祥の地オランダから最初の望遠鏡が日本に上陸したのはおそらく1632年であろう。11月15日の商館日誌に前年に平戸に届いた高級品の一覧表があり、その中には「金筒または望遠鏡」(「1 goude buijs ofte verre kijcker」)が含まれている[73]。寛永4(1627)年のタイオワン事件で禁止された日蘭貿易が1632年に再開された際、商館長ヤンセンが家光のために望遠鏡と眼鏡を用意した。 Den kijcker inde gouden buijs staende, sal ick bij mij in bewaerenisse houden tot der tijtt ghij weder audientie vercrijcht want sulcken stuck werck niemant als aen sijne Maijtt gegeven dientt. [74] 1634年の春にこの望遠鏡とともに献じられた大砲4台、要塞に関する書籍は望遠鏡の軍事的有用性を示唆している[75]。幕府と会社との間に立つ長崎奉行馬場三郎左衛門(「Babba Sabroijsemondo」)及び平戸藩主松浦壱岐守重信が望遠鏡に関心を抱くようになるのは時間の問題だった[76]。また、次第に老中たちもオランダの望遠鏡に興味を持つようになった。望遠鏡の軍事的価値についても注目されたようである。1638年3月に老中松平伊豆守信綱(「Insindo」)及び大垣の初代藩主戸田采女正氏鐵(「Sammondo」[77])が商館長が有馬で持っていた非常に鮮明で質のよい望遠鏡を暫く借りたいとの希望を伝えさせた[78]。島原の乱を鎮圧するため、松平信綱は東インド会社に援助を求め、2隻の船を天草へ派遣してもらった際、カピタンの望遠鏡で原城の様子をうかがったであろうと思われる。1640年に将軍への献上品としてまた望遠鏡が要求された[79]。 その1年後、東インド会社の商館は幕府の命令で長崎出島へ移された。以降約20年間、幕府の様々な人物の中で最も注目すべき人物は井上筑後守政重である。大目付として会社と幕府の仲介役を務めた井上は、絶えず植物学、医学、兵学、天文学、地理学に関する有用な知識や技術を求め続け、17世紀半ば頃の科学技術面での日蘭交流において先駆的な役割を果たした。彼の屋敷には道具、機械、模型など舶来の器物が保管され、優秀な部下たちがそれらについてあらゆる調査を行ない報告書を提出した[80]。 望遠鏡の関係で、最も注目に値する井上の部下はころびバテレン沢野忠庵(Christovão Ferreira、1580〜1650)である。忠庵は大目付のために再三にわたりオランダ人と接触し情報収集を行ない、また訳者、仲介者などとしても重要な役割を果たした。もちろん、元宣教師として彼は北京でのイエズス会士の天文学関係の活動及び17世紀初頭のヨーロッパの天文学の発展について十分に認識していた。『天文備用』、『南蛮運気論』など忠庵が日本語によりまとめた文書はイエズス会における天文学を大いに反映している。1647年の夏に井上政重が求めた「肉眼で見えない木星の四つの衛星やその他の小さな星を発見できるきれいで長い望遠鏡」が出島商館に届いた。船の送り状に示されたこの異例の説明は、大目付の注文書にあった要請に応えるものに違いない。 1. Extraordinarij schoone lange verrekijcker met swart zegreijn overtrocken door twelck men de vier trawanten om Jupiter dies andersints voor onse ooghen verborghen zijn nevens andere kleene sternen zich can en ontdecken voor den Commissaris Sickingodonne geeijst[81] これは木星の衛星に関する情報が日本に伝わったことを示す初めての資料と言える。このような情報を井上に伝えたのは沢野忠庵に他ならない。 1650年代に入っても大目付の光学製品に対する興味は衰えなかった。東インド会社は彼をオランダ人の「パトロンであり朝廷での唯一の弁明者」として重要視したので、もちろん「筑後殿」が注文する「鏡、義眼、天体望遠鏡、虫眼鏡、眼鏡」をできるだけ早く届けるよう心がけた。 gelijck nu desen jaer met een der bekomene spiegels, glase oogen, planeet kijckers, lees glasen, brillen, pluijsen en vordere goederen door genoemde Sickingodonne (onsen pratroon en eenighsten voordrager te hove) voor desen g'eijscht, dient te geschieden. [82] しかし、50年代後半になると、高齢の井上が次第に表舞台から姿を消した。その代わりに、明暦3年に老中に昇進した小田原藩主稲葉政則の名が出島商館日誌に目立ち始める。若い頃からオランダ人に関心を寄せた政則を会社側は井上同様、保護者として大切に扱い、彼の要望に応えて医薬品、書籍、鼻眼鏡などと並び望遠鏡[83]及び虫眼鏡[84]を納品している。 ドイツ人イエズス会士アダム・シャル・フォン・ベル(Adam Schall von Bell、1592〜1666。中国名、湯若望)が1626年に中国初の望遠鏡解説書(湯如望纂『遠鏡説』)を発表した。シャルは望遠鏡の構造、クリーニング、組み立て、調節、使い方などについて説明し、利用価値の高い内容を提供した。この『遠鏡説』が17世紀に唐船により日本に伝わった可能性も考えられるが、正確な時期についての確認はまだできていない[85]。 オランダ東インド会社の送り状に見られる情報をまとめると、17世紀半ば頃の望遠鏡の輸入量はときおり驚異的に増えることがあることが明らかになる。 表4 日本行き蘭船の送り状に見られる望遠鏡
出島商館の「Journal」を調べると、送り状に記録されたものが必ずしもすぐに献上されたり売られたりする訳ではないことがわかる。例えば1676年に商館の倉庫にあった61個の望遠鏡のうち、その年にバタビアから届いたのは9個だけである。10個は74年から置いてあり、残りはそれ以前から保管されていた。 61. veer en leger kijckers te weten また、3個の天体望遠鏡(planet of manekijckers)のうち、2個は同年に陸揚げされたが、3個目は以前からあり、故障していて部品が欠けていた。 3. pees planet of manekijckers te weten 支払いが数年遅れるなど、受取人及び立ち会った通詞の「いやらしいやり方」を批判する記述もあり、当時の取引上の摩擦を物語っている[88]。 70年代から90年代までの送り状は残っていないが、出島商館日誌などの資料からは望遠鏡に関する情報がある程度得られる。注文主として、次第に地方の大名の名も現れるようになる。例えば、1679年に注文された3個の望遠鏡は1682年10月に通詞楢林新右衛門により注文主の久留米の4代藩主有馬頼元に届けられた[89]。 Kommen de tolcken en speciall den ondertolck Sinnemon voor den heer van Arima eijsschen 3 pees verrekijckers, die ged.e heer bij tijden van den heer Breevingcq alreets en naederhant meermaels versocht maar noijt erlanght hadde, welcke nu aan hem gegeeven wierden. ここでは注文や納品の過程に阿蘭陀通詞が果たした役割が見えてくる。特に知的好奇心の強い楢林新右衛門(鎮山)のような大通詞がこのような人間の視覚を拡張する道具を徹底的に研究したであろうことは容易に想像できる。18世紀に入っても、望遠鏡の注文は衰えない。1733年の10月に小さい望遠鏡40本も会社に注文された[90]。 望遠鏡の性能については、日本側が過剰評価気味だった。1722年に将軍の名において、通詞名村八左右衛門が4マイル離れた人物を識別できるような強力な望遠鏡の存在について問い合わせた。そのようなものはないと説明されたにも関わらず、商館長ドゥルフェンはバタビアでの情報収集を頼まれた[91]。また、1729年の夏に出島に届いた望遠鏡を調べた今村源右衛門はそれらの状態はよろしいが、将軍はもっと大きなものを頼んだと商館長に説明した[92]。 3.2 輸入望遠鏡の名称及び特徴天体望遠鏡は地球上の観察には利用できないため、注文及び納品の際に望遠鏡のタイプについて触れなければならない。verrekijkerとしか書いていない場合は地上望遠鏡だった。1642年の商館日誌に「遠見箱あるいは望遠鏡」(「blicke buijsen ofte verrekijcker」)という興味深い呼び方が残っている。天体観察用の場合は「惑星を見る望遠鏡」(「planeetkijker」、「Maan en leger-kijckers」[93])、「月を見るための望遠鏡」(「maankijcker」や「planeet kijckers om inde maan te sien」)のような説明となる。ときには「足つきの望遠鏡」(「maankijcker met sijn voedt」)のような書き方から製品のいくつかの特徴がうかがえる。1677年以降ときおり現れる「leger kijckers」(軍用望遠鏡)という名称は、また別の用途を示している[94]。送り状の所々に見られる「daermede 2. a 3. mijl verre sien can」のような表現は、2、3マイル離れたものが見える地上望遠鏡という注文主の要望を伝えるものであろう[95]。「4時間見るための望遠鏡」(「om vier uijren verre mede te sien」)という距離(" )を説明する記述もある。伸縮式望遠鏡の場合は「4段の望遠鏡」(「verrekijker van vier uijttreckende stucken」)のように段の数が示されている。乱暴に扱うとその焦点が外れる恐れがあったので、伸ばし方についての説明の例もある。
N[ot]a int uijtstrecken van de verrekijkers voorß: dient geleth dat d'kruijskens op jder lith van de deselve gesp. recht segen over den anderen gestelt werden, en soo wanneermen daar mede best den verst wil zien, dient men de gemelte cruijskens boven te houden pr memorie.[96]
望遠鏡の入れ物(外筒)と望遠鏡の本体(内筒)は必ずしも明白に区別されていないので、様々な誤解を招くおそれがある。また、金筒の望遠鏡は純金ではなく金メッキだったと思われる。銀筒も同様であろう。外筒も内筒も皮張りであり、とくにシャグラン皮(粒起革)の人気が高かった。 特使フリシウスが1650年に家光に献上した望遠鏡については、会社の記録はイギリス風の作り方とともに望遠鏡の重さをoncenで示している。 1 pees goud gamaljeerde verrekijcker weegt 13 onsen en 't engels seer cierlijck gemackt kost met fatsoen ende glasen 'tsamen ··········· f. 697.-.-[97] ここでは製作に使われた金が製品の価値を高めた[98]。注文主の好みを伝えるために望遠鏡の木製モデルがオランダに送られた場合もあった[99]。18世紀に入ると、小型の象牙製望遠鏡が脚光を浴びたようだ。1736年に長崎代官高木作右衛門はライン地方寸法で6フィートの長さの大型望遠鏡6個及び象牙製の小型望遠鏡などを注文した。 Voor Sacquemon donne 's keijsers rentmeester
Ses groote verrekijksers die helder van glas sijn lang 3. voeten rijnlandse maat Twee kleene ijvoire verre kijkers met een vergroot glas, van binnen benevens en gesleepene glas daar men veelderlij gesigten off verthooningen door siet lang 5 â 5 1/2 duijm rijnlands [...] Hondert vijfftig brillen met ijvoire randen[100] その8年後の秋に長崎奉行大岡備清相及び同奉行石尾織部が同様な小型望遠鏡を求めた[101]。 日本側の文献では望遠鏡はどのように呼ばれたのであろうか。献上品に言及する『通航一覧』には「遠目金」、「遠眼鏡」という名称が見られる[102]。遠眼鏡の特徴について正徳3(1713)年刊の『和漢三才図絵』は以下のように説明している。 遠眼鏡 三重筒を作り、伸縮各の口に玉を嵌む、其本玉老眼鏡の如し、但本朝作る所者は三里以上を視る能はざる也、宜く阿蘭陀看板を用ゆ、蓋し此は彼の国の砂子なり、和砂子と鎔合すれば、則甚だ堅くして別れず[103]。
3.3 望遠鏡の注文主や受取人最初の望遠鏡は献上品として将軍へ捧げられたが、1640年代以降、幕府の重要人物が注文を出すようになり[104]、望遠鏡は高級貿易品として普及していく。オランダ商館の書類に注文主や受取人の名前が記録された場合もある。老中の阿部豊後守忠秋、牧野内匠頭信成(1640年)[105]、稲葉美濃守正則(1656、1679年)[106]、大目付井上筑後守政重(1647、1656年)[107]、長崎代官末次平蔵(1641年)[108]、長崎奉行馬場三郎左衛門(1636、1654年)[109]、高木作右衛門(1681年)[110]、三宅大学康政(1729年)[111]、日下部作十郎博貞(1720年)[112]、窪田忠任(1736年)[113]、大岡備清相(1744年)[114]、石尾織部(1744年)[115]、平戸藩主松浦壱岐守重信(1636年)[116]、久留米藩主有馬頼元(1682年)[117]など、いずれも徳川体制の重要人物である。輸入が始まってからの約100年間に日本に上陸した望遠鏡が一般国民の手にも入ったかどうかは東インド会社の資料からは判明しない。 4 顕微鏡 4.1 顕微鏡輸入の始まり16世紀末にオランダの眼鏡職人ヤンセン父子によって発明されたといわれる顕微鏡は、17世紀初めにイタリアで改良されmicroscopiumと呼ばれるようになったが、オランダ人レーウェンフック(Antoni van Leeuwenhoek、1632〜1723)の単式顕微鏡及びドイツイエズス会士キルヘルの「Smicroscopium」(vitra muscaria = 蚤眼鏡)という単式顕微鏡も登場した(図1)[118]。また、1663年頃数学者でアムステルダムの市長も務めたフッデ(Johannes Hudde、1628〜1704[119])は、Microscopium simplexとして玉型レンズを開発し、その2年後にレンズ研磨で生計を立てた哲学者スピノツァ(Baruch Spinoza、1632〜1677)とともに望遠鏡のレンズにも挑戦した。
軍事的な利用価値の高い望遠鏡とは違い、顕微鏡の有用性は一目瞭然ではなかった。ヨーロッパでも学者たちが約40年余ほとんど関心を示さなかった。17世紀後半となって、ベーコニズムの台頭により顕微鏡は体系的な調査の道具として評価されるようになったが、18世紀に入ってから学問における顕微鏡の地位は低下する一方で裕福な家庭では娯楽の道具として顕微鏡が普及し始めた。この低迷は18世紀の大半にわたり続いていた[120]。顕微鏡の日本への上陸に時間がかかったことはこのような背景から理解できる。 日本での最初の顕微鏡はヨーロッパ人が調査のために持参したと思われる。フッデ式レンズのサンプルをドイツの医師シェフェル(Sebastian Scheffer)から送ってもらった出島商館長クライアー(Andreas Cleyer)はレーウェンフックの単式顕微鏡も持っており、1682年から1683年にわたる第1回目の日本滞在中その両方を比較した末、フッデ式のレンズがレーウェンフックのレンズを凌いでいるとの結論を、1683年末の帰国途中にまとめた書簡で述べている。同書簡でクライアーは「日本帝国ではこのようなすばらしい学問については誰も知らない」と説明しているので、自分が持参した顕微鏡について日本人と何らかの情報交換を行ったことが考えられる。 Zudeme bedancke ich mich nicht weniger zum allerhöchsten, für die communicirte gläserne sphaerulas[121] anstatt unsern microscopien, davon ich für erst auß Holland zur genüge bin versehen worden, Das der H. Bürgerm. Hutte weltberühmt in dergleichen excellirt, ist mihr bekand, und das noch einige außbündige inventionen von selbigen Herren solten entstehen, außzukommen, wird täglich erwartet, im fall nur das bonum publicum ihm nicht hinderlich, welches für jener zu betrachten seine vocation mit sich bringt.[122] クライアーから強い影響を受けた医師で、元禄2(1689)年に来日したケンペル(Engelbert Kaempfer、1651〜1716)も顕微鏡を持参してきたことは間違いない。彼が残した日本関係の手稿は単式顕微鏡(「microscopium simplex」)に言及しており[123]、また、1712年に刊行された『廻国奇観』には「花は顕微鏡で見た」(「flosculus per microscopium visus」)という言い回しもあり、ケンペルが日本での植物を調査する際、単式顕微鏡を使用したことを裏付けている[124]。彼の植物研究に積極的に協力した部屋小遣い今村源右衛門や大通詞楢林新右衛門も、おそらくその顕微鏡を覗いたであろう。 それにしても、虫眼鏡や顕微鏡という視角拡張装置が17世紀の日本人に対し何らかの影響を及ぼした形跡はいまだに発見されていない。出島商館長日誌に初めてmicroscopiumという言葉が現れたのは1740年代だった。当時のヨーロッパでの研究道具としての顕微鏡の普及を考えると、西洋と同様に18世紀半ばの日本においても、顕微鏡はむしろ娯楽の玩具として受容された可能性が高い。 長崎奉行田付阿波守又四郎のため、象牙の望遠鏡(親指4つ半の長さ)一体及び菱形模様ガラス付きの顕微鏡一体の納品を記録する1744年11月10日の記述が最初のもののようだ。 Voor den Gouverneur Awa No Cammi Samma 1 pees ijvore verrekijker lg 4 1/2 duimen met een microscopium, vergroot en ruijt glaasje van binnen[125] その2年後田付阿波守は再び象牙の小さい望遠鏡と顕微鏡2体を受け取った[126]。顕微鏡の珍しさにも関わらず幕府の大物からの反応はさほど積極的ではなかったようだ。1750年に献上品や贈り物として使われなかった二体の顕微鏡(「twee microscopiums」)は江戸で販売されることになった[127]。1752年の10月に「作右衛門殿の使いが二体の顕微鏡及び薬油を取りに来た」と商館長が書き記している。 Intusschen zijn door gecommitteerde vande Heer Sacquemon donne 2 doosjes microscopiums en eenige olijtijten voor zijns afgehaald[128] ここで「microscopium」に修飾語として付いている「doosje」は小箱を意味するので、箱形つまり「筒鏡」を示していると思われる。 1754年の八月に出島商館に届いた珍品を視察した長崎奉行は商館長に「イギリス製の顕微鏡及び九フィートの一角は陛下及び皇太子に献上する」ことを伝えた[129]。17世紀後半に後世の顕微鏡設計に大きな影響を与えた二つの流れが現れる。イタリアでは旋盤で加工した木、象牙や黄銅の本体の小型顕微鏡が登場し、イギリスでは木、厚紙と皮を利用し三脚付きの顕微鏡が開発された。上記の「Engelse microscopium」はおそらく後者の三脚付きのタイプであろうと考えられる。 5 その他の光学製品 5.1 「暗室」用のレンズ1645年に、ヒレガールスベルヒ号が長崎に運んできた珍品の中には、計12個の「doncker camer glasen」が見られる。 6: pees doncker camer glasen
à f. 7: ······ f. 42:-:-
6: ditos 'twat grooter à f. 13: ·········· " 78:-:- [130] ヨーロッパで「doncker camer」あるいはラテン語で「camera obscura」と呼ばれていた「暗室」は、文字通り窓のない暗い部屋だった。人々はその小部屋に入り、片方の壁に入れてあるレンズが向かい側の壁に投影する外界の画像・映像を楽しんでいた。ヨーロッパでも不思議がられたこの暗室用のレンズを求めたのは、またも大目付の井上筑後守政重だった。彼は本の挿絵を見た上で注文を出したのではないかと思われる。商館長ファン・ツムは翌春の江戸参府の際に虫眼鏡とともにこのレンズを渡したが、井上はそれらに満足せず、すべてのものを返却した[131]。それ以降レンズの取り扱いに関する資料は残っていない。 5.2 拡大鏡ガラス版と水銀で作られた鑑はしばしば日本まで運ばれたが、1637年に平戸候は「非常に拡大する金属製の鏡」の注文を出した[132]。このようなものはバタビアの職人も作れなかったので、納品までは4年もかかった。 4 pees vergrootende spiegels à9 1/2 glider ·········· f. 38: -: - [133] しかし、日本の職人はこの技術を短期間で習得したようだ。すでに述べた商館長クライアーの書簡では、日本人が製作する金属製の鏡について以下のように説明している。 日本全国に金属製の鏡しかないので、日本人はこの類の鏡をよく知っている。凹形の鏡はヨーロッパ人から知り、作れるようになった。自分の顔を見ると怖くなりかねないほどよくできている。その珍しさのため直径が親指の長さかける一八の大きなものを持ち帰った。値段はおおよそ二四ターレル。太陽の陽射し及び普通の光をどれほど集中しているかを見たい。最も質のよい(ガラス製の)鏡と同じように磨かれている[134]。 6 光学製品関係の技術移転について 6.1 ガラス吹きの受容について『長崎夜話草』によれば、蛮国の技術を習得した浜田弥兵衛[135]が元和元(1615)年に長崎で眼鏡を作り始めた[136]。また、寛永11(1634)年中国の僧如定が玉工、ガラス研磨職人とともに長崎で眼鏡の製造を始めたとも伝えられるので、中国の貢献もあったと言える[137]。ガラス吹きの技術移転にはもう少し時間がかかったようだ。 延宝2(1674)年に来日した医学博士テン・ライネ(Willem ten Rhijne、1647〜1700)は日本での任務のためにオランダでガラス吹きの特訓を受けた[138]。すでに上で紹介した出島商館長クライアーの書簡には、日本人は、「ガラス吹きについてもガラス製造についてもまったく知らない」[139]との記述がある。 Ich habe können bemercken, das von dergleichen herlichen wissenschafften im Kayser Reich Japonien bey nimand etwas bekandt ist, weilen si[e] des glasblasens, noch dasselbe zu machen im geringsten keine wissenschafft haben[140] クライアーはその翌年の夏に再び来日しもう1年出島商館長に就任することになった。日本研究及び新資源や新製品の開拓に力を注いでいた彼がどの程度関わっていたかは明らかではないが、貞享4(1687)年に、ガラス吹きの職人ナタニエル・カストラール(Nathaniel Castelaar / Castolaar)が到着した。正式の勤務は10月25日に始まるが、両長崎奉行は、すでに9月26日に彼の作業を視察した[141]。また勤務開始の1週間後、「筑前の殿様」の使いがガラス製の小鳥を受け取りに商館を訪れた[142]。ランプのためガラスの小物(動物など)を作ってもらった長崎奉行は、将軍がカストラールの技を気にいるだろうと判断し、次の江戸参府への参加を勧めた[143]。この助言に従った商館長は、江戸への到着後、献上品を届けるため、商務員レオ、外科医バルテルス及び道具を持参するカストラールを江戸城へ連れて行った。しかし、通常ならば様々なデモンストレーションを求める綱吉が、なぜか彼に興味を示さなかった[144]。東インド会社が初めてガラス吹き職人をバタビアへ派遣したのは、ほんの十数年前の1675年だった[145]。ヨーロッパ人の間でも一見に値するカストラールが江戸で無視されたことは商館長にとって理解しにくかった。 三宅氏也来撰述の『万金産業袋』(享保17(1732)年序)には、「びいどろふき」の絵がある。製造技術は受容されたに違いないが、作業場に置いてある製品は主に瓶や碗のようだ。また、18世紀半ば頃、船から降ろされた荷の中に、書類に記載されていないガラス職人の道具(カッター)3個が見つかった際、商館長ホームド(Hendrik van Homoed)はそれを通詞たちに無償で提供したことから[146]、そのようなものの珍しさが薄れつつあったことが推測できる。 6.2 長崎の望遠鏡職人1700〜1740年までの出島商館日誌について調べれば、日蘭学会が刊行した「marginalia」(傍注)が情報所在の確認作業の大きな助けになる[147]。1729年7月31日、出島商館日誌に長崎在住の「望遠鏡職人」(verrekijker maker)が現れる。彼は会社が献上品として運んでくる望遠鏡を点検し、レンズを「きれいにする」仕事をしていた。 segging dat den keijker door een in Nangasacki woonende verrekijkermaker behandeld en schoon gemaakt sal werden[148] この人物はおそらく、18世紀前半に長崎で活躍した森仁左衛門正勝ではないかと思われる。1731年夏、掃除のために彼に任された望遠鏡にトラブルが発生したため、商館長が分解後の再組み立てはもっと丁寧に行われなければならないとの不満をもらしている記述がある。この望遠鏡がバタビアから届いた時に、レンズが曇っていたにもかかわらず、商館長の住まいから3マイル離れている深堀村の人々が道を歩く姿見えたが、きれいにされてから、その性能は他の2つの望遠鏡と比較して間違いなく落ちていた[149]。 […] excepte het metale pronkstukje met sijn toebehooren. ten huijse van s'keijsers saekbesorger Sacquemondonne gebragt, om eerdaegs Jedo waerts in geschenk gesonden te werden, verhaelde hoe de keijser met de silver beslagene machine, als ook de andere tensijnen bijweesen, door den in Nagasacki resideerende verrekijker maker schoon gemaekt, daerna geprobeert, niet vande vereijschte deugd (: in vergelijking van twee der andere :) bevonden is oock om desselfs fraagkons werk egter en vorst slaen toegeschickt te werden, die nende in antwoort, dat den schoonmaker ligtelijk de glaaseen verkeert ingeset heeft, en dewijijl sulx naauw in een kijker luijstert, aparent het ware sigt daer door benomen en verandert is, want teen wijdien ontvingen sagen wij op mijn wooning schoon de glasen beslagen waren, har drie meijlen in de baaij regt uijt te Foekefoeri de menschen op strat gaen, en wat seijen in de kaaijsnees deeden maar het schijnt soo d EE Comp: iets uijt keenis off fraaijs send, altoos met veragting niet gesegt werden (: om reedenen :) dat er iets aen man […] 6.3 商館長から見た国産望遠鏡森仁左衛門など18世紀の日本の職人が製作した望遠鏡はヨーロッパ人の目にどのように映ったのであろうか。出島商館日誌には、それに関する貴重な記述が残っている。1752年5月、商館長一行は奉行の特別許可で、ボートに乗り長崎湾一帯での遠足を行うことになった。商館長は特に高鉾山付近の遠見番にある日本製の望遠鏡に興味を持っていた。商館日誌には以下のような記述がある。 「ここに滞在する我が社の社員全員(出島の見張りのために残った下位外科医及び庭師を別にして)朝七時半に町を通って日本の遊覧用の小舟に乗り、出島乙名、年番通詞三名、稽古通詞三名、下位検使四名とともにまことに完全な自由を楽しみ、パーペンベルヒ[150]まで行った。その近くの遠見番の村へ行き、散歩したり、山に登ったりした。しかし、私が一番興味があったのは、彼らの大型の日本製の望遠鏡を一度調べることだった。(それについて彼らは海上で三五〜四〇マイル離れた船を見ることができると主張している。)しかし、この望遠鏡は大変規模の大きいものだったが、我が社の船が備えている普通の望遠鏡より良いものではないことがわかった。そのガラスは黄色く、我々のほど明るくない。しかし私は彼らを元気づけるため、彼らがいる間、その望遠鏡を大いにほめた。なぜならば、彼らはいつもそのことを大変気にしているからである。[151]」 終わりに本論文は江戸初期における主な光学製品の日本への輸入を追いながら、当時の輸入状況、製品の名称及び特徴、資料に見られる注文主や受取人及び技術移転関係のいくつかの出来事を解明した。以前からアジア製の輸入眼鏡が存在しており、オランダ東インド会社は1640年代に主に高級品を中心に眼鏡市場に参入した。望遠鏡は発明されて間もなく高価な献上品として日本に上陸したが、天体望遠鏡のみならず、日本近海の監視などで軍事的利用価値の高い望遠鏡も17世紀半ば頃から相当な数が輸入された。それに対し1640年代から東インド会社の送り状に現れる虫眼鏡(brandglas, leesglas)の輸入量は極めて低く、娯楽のための玩具として受容されたようだ。そのため、虫眼鏡は寛文8(1668)年に布告された輸入禁止の奢侈品の一つと見なされ、上陸する量はさらに少なくなったと思われる。17世紀初頭に発明された顕微鏡が同世紀の後半にヨーロッパ人の研究道具としての最盛期を迎え、出島商館長クライアーや商館医ケンペルも自家用の顕微鏡を出島へ持ち込んだが、東インド会社の資料には顕微鏡輸入の形跡は見当たらなかった。ヨーロッパで顕微鏡による体系的な研究が低下した18世紀に入ってから、東インド会社によりmicroscopiumが日本にもたらされたが、当時の多くのヨーロッパ人と同様に日本人もそれを主に娯楽のために使ったようである。 ガラス吹きの技術の始まりを追究したところ、1675年にバタビアから派遣された職人カストラールが浮上した。また、その背景はいまだに不明点の多い国産望遠鏡で歴史に名を残した森仁左衛門と思われる18世紀初頭の長崎在住の望遠鏡職人に関するオランダ側の記述も見つかり、輸入望遠鏡に関わる彼の役割が明らかになった。長崎湾の遠見番が利用した国産望遠鏡に関する商館長の評価は厳しいものだったが、沿岸地帯の監視にはその性能は十分だったであろう。 眼鏡を含めて、江戸初期にオランダ東インド会社が日本に運んできた光学製品は献上用の品、珍らしい贈り物、高級な商品であり、幕府の高級官吏など限られた日本人の手にしか入らなかったようだ。 脚注
[1] 大坪元治『眼鏡の歴史』日本眼鏡卸組合連合会、昭和53(1978)年、61〜62頁及び白山晰也『眼鏡の社会史』東京、ダイヤモンド社、1990年参照。
[2] ルイス・フロイス[著]、松田毅一、川崎桃太訳『日本史』東京、中央公論社、第六巻、昭和53(1978)年。これについては『大内義隆記』により裏付けられている。
[3] 『日本史』第四巻。
[4] Nationaal Archiev 1.04.21, Nederlandse Factorij in Japan [以降はNFJ] 55, Dagregister Hirado, 18./19.11.1640; NFJ 66: Dagregister Dejima, 12.11.1653; NFJ 67: Dagregister Dejima, 11.7.1654; NFJ 70: Dagregister Dejima, 26.10.1657; NFJ 75: Dagregister Dejima, 15.6.1662; NFJ 76: Dagregister Dejima, 4.7.1663, 13.7.1663; 13.7.1663.
[5] "ende honderdenderleij rijsen ende fatsoenen van cleenicheden tot naelden, brillen
ende kammen" (NFJ 55: Dagregister Hirado, 18./19.11.1640).
[6] NFJ 76: Dagregister Dejima, 4.7.1663, 13.7.1663.
[7] 詳細については大坪元治『眼鏡の歴史』78〜80頁参照。
[8] "19435:
stucx neusbrillen vercocht voor Th. 1714:8:2" (NFJ 53: Dagregister Hirado, 1.11.1636)。計算の単位はThael : Maas : Condrijn.
[9] "38421: stucx neusbrillen Th 1:1:5 5/10 t'hondert Th. 443:6:9:" (NFJ 53: Dagregister Hirado, 14.11.1637).
[10] "405: stucx neusbrillen Th: 6:5:-" (NFJ 53: Dagregister Hirado, 7.11.1638).
[11] 東京大学史料編纂所編『オランダ商館長日記 原文編之一』1974年刊、134頁、原文編之二、75頁、原文編之三、330頁。
[12] NA1.04.02, Verenigde Oostindische Compagnie [以下はVOC 1101 (Overgekomen brieven en papieren): Dagregister Hirado, 23.11.1627, 19.12.1628. 1627〜1637年の商館日誌については、永積洋子訳「平戸商館の日記」岩波書店、昭和44(1969)年は大変有用な参考資料である。
[14] NFJ 53: Dagregister Hirado, 11.11.1633.
[15] NFJ 53: Dagregister Hirado, 2.1.1634.
[16] "2 verresiende brillen in forma van rottangh geprepareert à f. 23:6:10 t'pees compt 46:19.4" (NFJ 763: Factuur, 5.8.1636, Grol?)
[17] "Voor de Hr van Firando […] Goede kijckers, ende brillen" (NFJ 53, Dagregister Hirado, 11. 2. 1637).
[18] "De
neusbrillen zijn extraordinaro wel begeert, ende wenschen 2 à 300 stx
van dier soorte becoomen mochten, die van desen jare sijn alle aen verscheijden
Raatsheeren geeijscht ende uijtgedeelt, zoo dat voor 'tvraegen weijnich
behouden hebben." (VOC 1133, missive, Hirado, 26.10.1639)
[19] すべての輸入品は商館の仕分帳にも記載されているが、すぐに売れないものは翌年度の収支決算にまた含まれているので、船の送り状は輸入時点を最も明白に示す資料となる。17世紀の送り状全文は別に発表する予定である。都合により本論文では内容的に興味深い事例及び統計データのみを挙げる。
"300. goede fijne Hollantsche brillen met hare custodien, van diverse ouderdom, daer continueel door de Rijcxraden (dat alle oude lieden van 45. 50. en 60. jaeren
sijn) om versocht is, ende daerom seer nodich is" (NFJ 81: Dagregister Dejima, 25.4.1668).
[21] "den Commissaris Auwasa het door Sinoosje mij anzeggen dat alle de brillen in vier gelijcke parten zoude verdeelen en morgen bij vier heeeren rijcksraden laten brengen" (NFJ 83: Dagregister Dejima, 14.4.1670).
[22] NFJ 81: Dagregister Dejima, 20.-21.6.1668
[23] J.A. van der Chijs, Nederlandsch-Indisch Plakaatboek 1602-1811. Tweede Deel (1642-1677), Batavia: Landsdrukkerij / 's Hage: Nijhoff, 1889, pp. 509-512.
[24] NFJ 792: Factuur, 19.6.1699 (Vrijburg); NFJ 793: Factuur,
27.6.1700 (Donckervliet); Factuur, 26.6.1700 (Abbekerk).
[25] NFJ 147: Dagregister Dejima, 25.10.1736; NFJ 150: Dagregister Dejima, 25.10.1739.
[27] f. (florin) =ギルダー。
[28] NFJ 764: Factuur, 13.6.1640 (Meerman).
[29] NFJ 840, Journal van de negotie des Comptoirs Firando anno 1640, 27.7.1640. 平戸市史編さん委員会編『平戸オランダ商館の会計帳簿 仕訳帳1640年・1641年』平戸市史 海外史料編 三、平戸市、1998年、25頁。
[30] "17 stucx verresiende
brillen namentlijck [/] 2 stx dito heel groot van blijck [/] 7 stx dito cleender [/]
8 stx dito met verguldt leer overtrocken" (NFJ 762: Factuur, 25.6.1634 (Swaen)).
[31] "2 pees blicke verre siende brillen à3 ra
jder 15:6:-" (NFJ 766, : Factuur, Casteel Batavia, 28.6.1642, Paeuw).
[32] 国書刊行会編『通航一覧』東京、国書刊行会、大正2(1913)年、巻252(344頁)。Joseph Needham et al.: Science and
Civilisation in China. Vol.4 Physics and Physical Technology, Part I: Physics, Cambridge UP, 1962, pp. 118f.参照。
[33] 国書刊行会編『通航一覧』巻240、寛文11(1661)年(「文字眼鏡二つ」)。巻241,寛文2(1662)年(「文字眼鏡三つ」)。
[34] 「眼鏡細工、鼻目鏡、遠目鏡、虫目鏡、数目鏡、磯目鏡、透目鏡、近視目鏡、長崎住人、浜田弥兵衛というもの、壮年の頃、蛮国へ渡り眼鏡造り様を習ひ伝え来りて、生島藤七と云う者に教へて造らしめたるより、今にその伝なり此弥兵衛は武芸の達者、細工の上手なりし、弟を浜田新蔵といふ、共に蛮船に乗て世界を周覧せし折節、日本の東南海なる大人国に到り、見たる者也」西川如見著『長崎夜話草』享保5年、五、付録。
[35] 『和漢三才図絵』第二六巻(服玩具)、眼鏡。復刻版。東京、東京美術昭和48年(2版)。
[36] NFJ 764: Factuur, 13.6.1640 (Meerman).
[38] NFJ 764: Factuur, 13.6.1640 (Meerman).
[39] NFJ 778: Factuur, 13.7.1654 (Kalff).
[40] NFJ 771: Factuur, 11.7.1647 (Jongen Prins).
[41] NFJ 147: Dagregister Dejima, 25.10.1736; NFJ 150: Dagregister Dejima, 25.10.1739.
[42] "5. stucx goede neusbrillen van soodaninge fatsoen ende groote als voor desen bij den Commissaris 'tzickingodonne geeijst sijn ende een modell mede gegeven is" (NFJ 65: Dagregister Dejima, 24.5.1652).
[43] NFJ 840, Journal van de negotie des Comptoirs Firando anno 1640, 1.1.1640.『平戸オランダ商館の会計帳簿 仕訳帳1640年・1641年』、25頁。
[44] NFJ 771: Factuur, 11.7.1647 (Jongen Prins); NFJ 63: Dagregister Dejima, 12.1.1650.
[45] NFJ 53: Dagregister Hirado, 21.11.1632.
[46] "15 stx neusbrillen
a f. 2:20 ider f. 37:10:-" (NFJ 840, Journal van de negotie des Comptoirs Firando anno 1640, 1.11.1640. 『平戸オランダ商館の会計帳簿 仕訳帳1640年・1641年』、60頁)
[47] VOC 1176: Dagregister Frisius, 2./3.1.1650 (fol. 602v).
[48] NFJ 63: Dagregister Dejima, 13.1.1650.
[49] 『徳川実記』慶安3年3月7日(636頁)。NFJ 1168: Specificatie; VOC 1176: Specificatie, fol.568-584; VOC 1176: Dagregister Frisius, fol. 621r.
[50] "Voor Matsendijro Deosamma oud oom van den tegenwoordigen keijser een man van groot vermogen [...] 10 stucks goede neusbrillen met haer huijskens van 50 à 60 jaren ouderdoms. 4 stucks seer schone verrekijckers." (NFJ 65: Dagregister Dejima, 24.5.1652).
[51] NFJ 81: Dagregister Dejima 20.3.1668, 7.4.1668. NFJ 32: Gedenck-Schrift voor den E: Francois de Haase, Nagasaki, 14.10.1669.
[52] NFJ 91: Dagregister Dejima, 28.4.1678; NFJ 92: Dagregister Dejima, 16.9.1679.
[53] NFJ 105: Dagregister Dejima, 10.4.1692.
[55] NFJ 96: Dagregister Dejima, 30.11.1682.
[56] "Voor den gouverneur Fagiwara Tokij No Cammai Samma 50 pees brillen met ijvore randen" (NFJ 150: Dagregister Dejima, 25.10.1739).
[57] NFJ 96: Dagregister Dejima, 30.11.1682.
[58] J. Needham, Science and Civilisation in China. Cambridge University Press, 1962, vol. 4, I, pp. 114ff.
[59] The voyage of Captain John Saris to Japan, 1612-1613. In: Purchas his pilgrimes in Japan extracted from Hakluytus Posthumus or Purchas his pilgrims [...] by Samuel Purchas ; and edited with commentary and notes by Cyril Wild. Kobe: J. L. Thompson, 1938, p. 113 (3.8.1613).
[60] NFJ 767: Factuur, 23.6.1643 (Swaen).
[61] "Voorschrift nopens de goederen, welke naar Japan niet mogten medegenomen worden." J.A. van der Chijs, Nederlandsch-Indisch Plakaatboek 1602-1811. Tweede Deel, p. 509 (18.4.1670).
[62] 17世紀後半の仕訳帳は残っているが、虫眼鏡に関する記述は見当たらない。ただし小物類は省略されることが多いため、虫眼鏡が本当に輸入されなかったかどうか把握できない。
[63] NFJ 784: Factuur, 28.5.1660 (Oyevaar).
[64] NFJ 769Factuur, 20.6.1645 (Hillegaersbergh).
[65] J.A. van der Chijs, Nederlandsch-Indisch Plakaatboek 1602-1811. Tweede Deel, p. 510.
[66] NFJ 64: Dagregister Dejima, 1.4.1651.
[67] NFJ 778: Factuur, 13.7.1654 (Kalff).
[68] 『和漢三才図絵』第二六巻(服玩具)、眼鏡。復刻版。東京、東京美術昭和48年(2版)。
[69] 詳細については『眼鏡の社会史』51〜53頁参照。
[70] 『遠鏡図説』江戸科学古典叢書三八,恒和出版、昭和58(1983)年。
[71] 「慶長十八癸丑年八月三日、イゲレス今日候殿中、献猩々皮十間、弩一挺、象眼入鉄砲二挺、長一間程之靉靆六里見之云々」(国書刊行会編『通航一覧』東京、国書刊行会、大正2(1913)年、巻之二五二)。『眼鏡の社会史』54〜56頁も参照。
[72] 広瀬秀雄『望遠鏡 美しい星の像を求めて』東京、中央公論社、昭和50(1975)年。
[73] NFJ 53: Dagregister Hirado, 15.11.1633.
[75] NFJ 53: Dagregister Hirado, 25.2.1634.
[76] 1636年に馬場は望遠鏡をもらい(NFJ 53: Dagregister Hirado, 3.9.1636)、1637年の2月に平戸候が質のよい望遠鏡("Voor de Hr van Firando […] goede kijckers, ende brillen" )を注文した(NFJ 53: Dagregister Hirado, 11.2.1636.
[77] 「左門殿」
[78] "Ontrent den middach liet d'Hr van Firando den Tolck Lemon roepen, hem aenseggende: hoe onder anderen door ordre vande Raetsrn Insindo ende Sammondo uijt Arima was aengesz. den Hollantschen Capiteijn te gelasten sijnen verresienden kijcker, die hij alhier in Arima heeft gehadt, alsoo seer claer ende goet is, voor seeckeren tijt haer Hoocheden te leenen." (NFJ 54: Dagregister Hirado, 21.3.1638).
[79] "eenen goeden veerkijcker aen de Majtt. (ingevalle eenen onder ons bevonden wert) te presenteren." (NFJ 55: Dagregister Hirado, 3.-6.1.1640)。納品されたものはあまり評価されなかった。翌年に「金や銀ではなくて明るくて鮮明な」望遠鏡が要求された(NFJ 55, Dagregister Hirado, 28.10.1641)。
[80] 長谷川一夫「大目付井上筑後守政重の西洋医学への関心」。岩生生一編『近世の洋学と海外交渉』、196〜238頁、巌南書店、昭和54(1979)年。永積洋子「オランダ人の保護者としての井上筑後守政重」『日本歴史』327号、昭和50(1975)年、1〜17頁。Wolfgang Michel, Von Leipzig nach Japan - Der Chirurg und Handelsmann Caspar Schamberger (1623-1706). Iudicium Verlag, München, 1999, pp. 113- 116.
[81] NFJ 771: Factuur, 11.7.1647.
[82] NFJ 31: fol.151-160: "Berightschrift, door Boucheljon [...] aen sijnen successeur den E: Zacharias Wagenaer" (1.11.1656).
[83] NFJ 70: Dagregister Dejima,
17.12.1656; NFJ 71: 17.11.1657, 6.2.1658, 6.4.1658; NFJ 77: 12.1.1664 ("maankijcker met sijn voedt" ); NFJ 78: 12.11.1664; NFJ 87: 15./22.4.1673 ("mane off planet kijckers" ); NFJ 88: 1.4.1675: NFJ 90: 28.11.1676, 30.3.1677;
NFJ 92: 16.9.1679; NFJ 94: 12.8.1681.
[84] NFJ 71: Dagregister Dejima, 17.11.1657.
[85] 湯如望纂『遠鏡説』北京、中華書局、1985年。
[86] NFJ 868: Negotie Journal 1676-1677.
[87] NFJ 868: Negotie Journal 1676-1677.
[88] NFJ 870 Negotie Journal1685-1686.
[89] NFJ 96: Dagregister Dejima, 23.10.1682.
[90] NFJ 143: Dagregister Dejima, 10.10.1733.
[91] NFJ 132: Dagregister Dejima, 30.5.1722.
[92] NFJ 139: Dagregister Dejima, 1.8.1729.
[93] NFJ 94: Dagregister Dejima, 16.9.1681.
[94] NFJ 868: Negotie Journal 1676-77; NFJ 94: Dagregister Dejima, 16.9.1681.
[95] "schoone kijckers daermen 2. à 3. mijl veerheijts sien can" (1652), "daermen 2. à 3. mijl veerheijts sien can" (1652).
[96] NFJ 784: Factuur, 28.5.1660.
[97] NFJ 1168: Specificatie, fol. 13.
[99] NFJ 64: Dagregister Dejima, 14.11.1650.
[100] NFJ 147 Dagregister Dejima, 26.10.1736.
[101] NFJ 155: Dagregister Dejima, 10.11.1744.
[102] 国書刊行会編『通航一覧』東京、国書刊行会、大正2(1913)年、巻二四〇:慶安3(1650)年(「金の遠眼鏡」)。巻二四一:寛永18(1641)年、寛永19(1642)年(「遠見鏡」)、寛文10(1670)年、寛文12(1672)年(「遠目金六本」)。
[103] 『和漢三才図絵』第26巻(服玩具)、眼鏡。復刻版。東京、東京美術昭和48(1973)年(2版)。
[104] NFJ 58: Dagregister Dejima, 13.6.1644; NFJ 61: Dagregister Dejima, 1.12.1648.
[105] "2 stx Extraordinaje goede verrekeijckers voorde RaatsHeeren Bongodonne ende Taeckemondonne" (VOC1133, Eijsch voor 't jaer 1640, Hirado, 26.10.1639)
[106] NFJ 69: Dagregister Dejima, 17.2.1656; NFJ 77: Dagregister Dejima, 12.11.1664; NFJ 92: Dagregister Dejima, 16.9.1679.
[107] NFJ 771: Factuur, 11.7.1647; NFJ 31: Berightschrift, fol.151-160.
[108] NFJ 52: Dagregister Hirado, 11.2.1637; NFJ 765: Factuur,
26.6.1641 (d'vergulde Buijs).
[109] NFJ 53: Dagregister Hirado, 3.9.1636; NFJ 67: Dagregister Dejima, 23.3.1654.
[110] NFJ 94: Dagregister Dejima, 12.8.1681.
[111] NFJ 140: Dagregister Dejima, 31.7.1729.
[112] NFJ 131: Dagregister Dejima, 21.10.1720.
[113] NFJ 147: Dagregister Dejima, 26.10.1736.
[114] NFJ 155: Dagregister Dejima, 10.11.1744.
[115] NFJ 155: Dagregister Dejima, 10.11.1744.
[116] NFJ 53: Dagregister Hirado, 11.2.1636.
[117] NFJ 96: Dagregister Dejima, 23.10.1682.
[118] Athanasii Kircheri [...] Ars Magna Lvcis Et Vmbrae: In decem Libros digesta; quibus Admirandae Lucis et Umbrae in mundo. Roma: Hermannus Scheus, 1645.
[119] フッデについては、Charles Coulston Gillispie, Dictionary of scientific biography. New York: Scribner, 1981参照。
[120] Marian Fournier, The Fabric of Life. Microscopy in the Seventeenth Century. Baltimore: John Hopkins UP, 1996, chapt. 1.
[121] sphaerula、小玉。
[122] Wolfgang Michel, Ein Ostindianisches Sendschreiben - Andreas Cleyers Brief an Sebastian Scheffer vom 20. Dezember 1683.『独仏文学研究』第41号(1991年)、15〜98頁。
[123] British Library, Sloane Collection, Manuscript Sl 2914, fol. 216r.
[124] Amoenitates Exoticae. Lemgo 1712, p.
[125] NFJ 155: Dagregister Dejima, 10.11.1744.
[126] "Voor den Gouverneur Awa No Cammi Samma 2. pees microscopiums [...] 4. pees klijne ijvore verrekijkers" (NFJ 156: Dagregister Dejima, 3.1.1746).
[127] NFJ 160: Dagregister Dejima, 14.4.1750.
[128] NFJ 162: Dagregister Dejima, 8.10.1752.
[129] "Maakte
den oppertolk Gennemon mij uijt naam van den Heer
Gouverneur Simotskij no Camij Samma bekent dat de staande Engelse microscopium beneevens de eenhoorn lang 9 voeten, van welck laatse op den 19: deesen in dit dagregister gewag is gemaakt buijten de ordinaire te doene schenkagie ten hoore aan zijn Majesteit ende kroonprins zal werden gepresenteerd" (NFJ 164: Dagregister Dejima, 23.8.1754)
[130] NFJ 769: Factuur, 20.6.1645 (Hillegaersbergh).
[131] NFJ 59: Dagregister Dejima, 6.3.1646.
[132] "Voor de H NFJ r van Firando [...] Eenen metaelen spiegel die extraordinaerelijk vergroot." (NFJ 53, Dagregister Hirado, 11. 2.1637)
[133] NFJ 766: Factuur, 28.6.1642 (Paeuw)
[134] "Der metallischen hohlspigel sind di[e] Japonier nicht unkündig, weilen in demselben gantzen Reich keine andere gattung zum gebrauch werden adhibirt; Seind plat, und so hell als ein spigel nimmer mehr geschliffen. Di[e] hole gattung haben sie von den Europaeern gesehen und nachgemacht, trefen selbige auch so wol, das sich ein mensch, wan er sich darin besehen will, beijnah erschrecket: Ich habe für di[e] curiositaet einen sehr grosen mit heraußgebracht, der in seinem Diametro, mehr dann achtzehn daumen weit in sich hält, kostet ohngefehr vierundzwanzig Th[ale]r, Umb zu sehen was vor effecten selbiger will erweisen in der concentration der sonnen strahlen und eines gemeinen lichts, welcher so glat polirt ist als der beste spigel." Wolfgang Michel, Ein Ostindianisches Sendschreiben - Andreas Cleyers Brief an Sebastian Scheffer vom 20. Dezember 1683.『独仏文学研究』第41号(1991年)、15〜98頁。
[136] 『長崎夜話草』五、付録。
[137] 『眼鏡の歴史』78頁参照。
[138] J. M. R. van Dorssen: Willem ten Rhijne. Geneeskundig tijdschrift van Nederlandsch Indie. No. 51 (1911), p. 141. バタビアには1675年まで、ガラス吹き職人がいなかった。VOC 1297, fol. 382r.
[139] "weilen si[e] des glasblasens, noch dasselbe zu machen im geringsten keine wissenschafft haben"
[140] Wolfgang
Michel, Ein Ostindianisches Sendschreiben - Andreas Cleyers Brief an Sebastian
Scheffer vom 20. Dezember 1683.『独仏文学研究』第41号(1991年)、15〜98頁。
[141] NFJ 100: Dagregister Dejima, 26.9.1687.
[142] NFJ 100: Dagregister Dejima, 1.11.1687.
[143] "[…] alwaar ongevaar twee uiren coor vragen met het sien hoedanig s'glasblaser met den E e
van Buijtenhem overgecomen, voorden lamp het clene glaswercq van alerdleij
gediertens maacte // waar in na het onsloeschen haar Ed: een bijsonders behagen
schepten, en voor niet ondienstig oordeelde deselve dit Jaar overbleef, om de
reiijse na Jedo bedoen, als niet en twijffelden of the zelve zijn wercq den
keijser aangenaam zoude wesen te zien, zulcx een 't Comp e dienaar meerders als
orinaris zal moeten overblijven" (NFJ 100, Dagregister Dejima, 26.9.1687).
[144] "Van
den morgen vroeg de schenkagie voor af naar 't casteel
gebraagt zijnde, transporteerde ik mij benevens den opperchirugijn Jan Bartolsz. den boekhouder Jacob van Leo, en den glasblaser Nathaniel Castolaar, wiens gereedschap, daar
toe nodigh, agter na gedragen wierd, weijnig tijds daar aen wierd onsen
Opperchirurgijn Jan Bartelsz. geordonneert den nangasackijsen gouverneur
Ginseijmon die buijten op de houte galderij lagh en na de meester toe guam
kruijpen, de pols te voelen en hier van de bevindinge gesegt hebbende kregen
van zijn maijesteijt ons afscheijt, sonder dat onsen glas blaser, zijn kunst
hier heeft vertoont, vermits daar niet na gevraagt wierd, dat ons al vrij
vreemd scheen te wesen, en de Oppertolk Jossoijemon deden vragen, wat daar van
de oorsaak was, die im antwoord diende hij voor vagt geloofde, mits onse
spoedige audientie de keijser daar van door de heeren rijxraden geen kennisse
was gegeven" (NFJ 101, Dagregister Dejima, 16.3.1688)
[145] これはアムステルダム出身のヤン・フラウリング(Jan Vrouling)だった(VOC 1297, fol. 382r)。当時の年次報告にも、関係の記述が残っている (Generale Missiven, 31.1.1675 in:
Coolhaas, W.Ph.: Generale Missiven van Gouverneurs-Generaal en Raden aan
Heren XVII der Verenigde Oostindische Compagnie. Deel IV: 1675-1685. Martinus Nijhoff, 's-Gravenhage, 1971).
[146] "buijten antheijkin der factuir man op gem: boodem vevonden, drie stux kleene houte verrekijkers benevens vier dito
glasemakers instrumentjes om daarmeede glaase te doorsnijden t geen aande
tolken, op haar seer instantig versoe[k] 't vermits 't zelve van geen
importantie is en weijnig kan kosten is afgegeven, en waarvoor zij den houden
desier op eene beliefde wijse hebben bedankt." (NFJ 164, Dagregister Dejima, 14.8.1754).
[147] Paul van der Velde, Rudolf Bachofner, The Deshima Diaries – Marginalia 1700-1740. The Japan-Netherlands Institute, Tokyo 1992.
[148] NFJ 139: Dagregister Dejima, 31.7.1729.
[149] NFJ 141: Dagregister Dejima, 25.8.1731, 26.8.1731.
[150] 高鉾山
[151] "Met alle d'hier overleggende 's E: Comps dienaren (: excepto d'onderchirurgijn, en tuijnier voor toesigt op 't eijland blijvende :) 's morgens om half agten door de stad in een Japans plaisier barcasse stapten versetd zijnde vanden oudsten eijlands ottona, de drie rapporteur tolken, drie leerlingen en vier onderbonghoisen, en 'w genooten waarlijk eene volkoome vrijhijd, vaarende tot onder den Papenbergh toe; alwaar bij d'uijtkijk plaatsen in een dorpje gingen wandelen en d'bergen op klouteren; dog principaal was ik benieuwt haare groote Japanse verrekijkers (: van welk zij ons willen wijs maken de scheepen 35. a 40. mijlen verre in zee te kunnen sien :) eenste mogen opneemen; dog 'k bevond gemeldte kijkers wel van een extra groot formaat mar 't effect niet beter als onse ordinaire kijkers die op 's E: Cmps scheepen werden meede gegeven, zelf waaren de glaasen geel en in verre soo helder als die niet, dog 'k roemde deselve in haar presentie niet weijnig, om haar wat op te hallen, wijl zij altoos daar meede zeer gedrendt zijn." (NFJ 162 : Dagregister Dejima, 20.5.1752).
![]() ![]() ![]() |