ヴォルフガング・ミヒェル「万物の魅力 ー 信州飯田の市岡家コレクションとその位置づけについて」『生物学史研究』第75号(2005)、3〜10頁。

W. Michel: The Lure of Things - On the Specimen of the Ichioka-Family in Iida (Shinshû). Japanese Journal of the History of Biology, No. 75, Dec 2005, p. 3-10.

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ヴォルフガング・ミヒェル

万物の魅力 ー 信州飯田・市岡家の「標本コレクション」について


 はじめに

生活必需品にとどまらず、興味を抱いたものを集める人間は有史以前の時代から存在していたであろうが、近世のコレクションは制御しがたい本能や欲望の産物というより、人間による社会や外界とのかかわりあいの一定の形態を示す歴史的現象である。本稿は西洋のコレクションの歴史的背景をふまえながら、江戸後期に蓄積された信州飯田の市岡家コレクションの特徴と位置づけを検討することにする。



 西洋のコレクションの世俗化と個人収集家の登場

近世ヨーロッパのコレクションの前身を追求すると、中世の教会が蓄積していた聖書に登場する人物の各種遺品、殉教者の聖遺骨や法具などにたどりつく。特定の場に保管され特定の機会に限って公開されていたこれらの品々は、教義を物的に支えるのみならず、その多くは信者を癒す力を秘めるものとして世間の関心を引いていた。それと類似する収集品は、日本の宝物殿にも見られる。神宝、什宝、刀剣、鏡、仏像、法具などは西洋の場合と同様に見る人の視線を古代にいざない、霊的・神秘的な力を発揮する。1549年以降来日するヨーロッパ人が寺や神社の宝物についての様々な観察を同胞たちに伝えたのは容易に理解できる。

ものや情報が飛躍的に増えるルネサンス及び大航海時代には、西洋の個人コレクションの歴史が始まる。大半の収集家は一般的で代表的なものよりもむしろ無比なもの、ときにグロテスクなものを求めた。「驚異の部屋」(Wunderkammer, stanze delle meraviglie)あるいは珍品陳列室、珍品陳列箪笥(cabinet of curiosities, Naturalienkabinett, Cabinet des Curiosités)に保管された収蔵品は(古)美術品、各種の細工、新発見地の民俗的道具等のような人の手で作られた品々とともに、動植物、岩石鉱物標本のような自然物に至るまでの広がりを見せ、中には目録が刊行されるほど大規模なものもあった[1]

初期の個人収集家は貴族、豪商など一定の資産を費やせる少数派に限られたが、17世紀に入ると、しだいに薬剤師、医師、教授、海外からの帰国者なども台頭してきた。ヴィンセント(1658〜1727)やヴァレンティーニ(1657〜1729)は彼らのコレクションの内容及びその陳列品の理想像について豊富な資料と分析を残している[2]。18世紀末頃になると中欧の中産階級の大部分が陳列室を持つようになった。ヒアシングが18世紀末頃にまとめたドイツのコレクションの膨大な総目録の中では、多数の宮廷顧問官、枢密顧問官のような行政の高級官吏たちの存在が目を引く[3]。300以上の国々から構成されていた帝国では、それぞれの領土を見渡し把握するという彼らの任務及び幅広い人脈が大きな推進力となったと思われる。自然界に秩序を当てはめることは人間だけが有する独特の能力、権力の証と見なされた。

自分のコレクションを研究目的に利用する薬剤師、医師や学者にとっては収集品の特異性よりも類型性こそが重要だった。大自然を縮小した形で自分の管理の下に置くことは、それらの収集家たちを駆り立てる原動力だった。最初はアリストテレスやプリニウスが参考にされたが、それらの権威の教えと矛盾する発見により、研究者たちは新しい研究方法の必要性に迫られた。珍品陳列室では次第に近代的コレクションの重要な特徴である蓄積、同定、分類の方法が発達した。ここでは標本(specimen)という用語の意味も洗練されていた。

1683年にオックスフォード大学に開館したミュージアムではコレクションの新しい形態が誕生したが、このような教育や研究また娯楽のために、人類及び自然界の資料を蓄積、保存、展示する公共の施設が本格的に普及したのは18世紀後半、とりわけフランス革命以降の時代であった。

 

 

近世日本の収集家について

日本においても海外からの魅力溢れる品々がコレクションの蓄積を促進したようだ。すでに室町時代には中国の漆器、磁器、漢籍、書画などを飾るための違い棚、書院及び押板が座敷の周りに造られるようになった。後に床の間も珍品を披露する場として同様の役割を担った。南蛮人の到来により舶来品の種類はさらに豊富になった。また、日本の朱印船の貢献も忘れてはならない。慶長14年以降、オランダ東インド会社が木綿、生糸などの生活必需品だけでなく、動物、植物、医薬品、道具、焼き物、絵画等々を、ときには献上品用に、ときには商品として運んできた。貿易の世界的規模化は日本の富裕な人々の生活環境を大きく変えたに違いない。

ここでも珍品への欲望を見過ごせない。平戸初代藩主の松浦鎮信が寛永11年に「手に入る最大の犬」や「何であれ珍しい動物」を注文したのは近世初期の異国趣味の代表的な例と言える。しかし資源に乏しく輸入に依存する日本では、物品の実用性も常に重視された。国内の本草学は舶来の本草書、医薬品、植物の苗や種、及び歴代の出島商館医により大いに刺激を受けた。『大和本草』で中国の本草学からの自立を目指した貝原益軒はこのような「ものと情報の交流」に影響を受けた先駆者の一人である。

輸入医薬品の供給量及び価格の問題のためにすでに寛文年間に幕府の命によりオランダの「薬草見知り」の智恵を借り長崎付近の薬草の調査が行われ[4]、吉宗時代になるとついに本格的な国産薬種資源調査へと発展した。ヨーロッパの収集家や学者はほとんどこのような政策と関わらなかったが、野呂元丈、青木昆陽、田村藍水、平賀源内など日本の代表的な博物学者は、何らかの形で幕府の意に沿い国内の産物を追究していた。それに対し、酒造業を営むかたわら、本草学、漢詩文、絵を学び、書画骨董や珍品奇物の収集と考証に努め,知識人のサロンの主宰者でもあった木村蒹葭堂(元文1〜享和2)のような自立した「商人学者」の活動は当時の中央ヨーロッパにも確認できる。

宝暦7年に田村藍水及び平賀源内の提唱により開催された薬品会は西洋では類のない画期的な企画だった。容易に旅ができない時代に、全国各地から動植物・岩石鉱物を持ち寄られることは、専門家や愛好家の研究に便宜を与え、ものや情報の伝播に大いに貢献した。一般大衆に公開されることはなかったが、その後地方でも行われるようになった薬品会は一種の「臨時博物館」だった。

図1 「鉱物標本」蓋裏の墨書:観山海奇知天造工、見神代器 懐太古風。右智寛君之詩 玄孫 昭智識 (飯田市美術博物館蔵)

 

 

 市岡家のコレクション

上記のことを念頭に市岡家へ眼を向けると、江戸後期に代官所の役人を務めた市岡の5代家督智寛(ともひろ)及び7代の嶢智(たかとも)により蒐集、拡充された品々は17・18世紀の欧州中産階級のコレクションに類似していることがわかる[5]。 父智寛(1739〜1808)は千村陣屋の重役を務めながら兵学、漢学、本草学、医学、天文、地理、考古学、和歌、絵画、茶道、華道に力を注いだ。その才能を発揮した業績として特に『伊奈群菌部』(寛政11)が注目に値する。父と同様に好奇心旺盛で絵画の素養を持つ息子嶢智(1765〜1833)はとりわけ本草学に詳しく、信州の山野水辺を歩き回り先学者の説を交えながら988種の植物を色彩図譜『本草図彙』(18巻、文化5)に収録した。現存のコレクションは木箱に収納されている化石、岩石、貝類のような品々、また道具や、書籍、掛け軸及び写本を含めた幅広いものである。文書資料の一部は器物資料と密接に関係している。前者の収蔵品は「標本」として記録されているが、この用語が蒐集・保管の意図を決めつけてしまうおそれがあるという問題を忘れてはならない。市岡家の自然標本のほとんどは「鉱物標本」(7段、市岡智寛蒐集、寛政12年頃)、「貝類標本」(7段、智寛蒐集か、年代不明)、「標本 甲」(7段、智寛蒐集か、年代不明)、「標本 乙」(7段、智寛蒐集か、年代不明)及び「標本 丁」(3段、智寛蒐集か、年代不明)という5つのシンプルな木箱に収納されている[6]。約40種の海藻標本だけは押し葉のように冊子に貼り付けてある。日本の博物館・博覧会の父と称せられる田中芳男(1838〜1916)の生家は飯田家と隣接しており、両家の関係が密接だったので、彼が若い頃このコレクションから刺激を受けたことは容易に想像できる[7]

上記の収蔵品は人工のものから岩石、貝類などの自然標本まで多岐にわたっており、ヨーロッパの陳列室に置いてあったとしても少しもおかしくない。現世の標本と化石との共存も、旧約聖書に基づく歴史観しか持っていなかった進化論以前の西洋においてはしばしば見られるし、化石を自然のいたずらと見なし、石器時代の遺物について人工のものであることを認識していない事例も数多くある。また、自然収蔵品の利用価値は必ずしも重要ではなかったようだ。市岡智寛がまとめた「伊那群菌部」では初めて食用キノコと毒キノコが区別されたが、標本箱にはたとえば「スランガステイン」(slangensteen、蛇石)などの高価な輸入薬と何の利用価値もないものとが混在している。これらのものが資源開発の資料として蓄積されたとは考えにくい。また、代表的で普遍的なものよりも市岡父子が奇品異物を追求したことも容易に確認できる。

そうはいってもこの木箱の内容は、何の分類もない、ただ珍しいものの寄せ集めではない。「鉱物標本」が入っている重箱のテーマは「石」であり、また「貝類標本」の箱の内容はタコの枕などいくつかの標本を除外すれば、後代に貼られた付箋にあるとおりであろう。その他の箱については段ごとにある程度の整理が認められるが、箱全体に当てはまる共通性は認めにくい。もちろん、『本草綱目』、『倭漢三才図絵』、『本草綱目啓蒙』、また市岡家も所蔵していた『訓蒙図彙』では、自然界のものは分類されているが、収蔵品を整理・保存する際、智寛と嶢智はものの材料や寸法などに影響されたようだ。

とりわけ貝類に関する関心は高かった。内陸部の飯田では海の産物が珍しかったこともあるが、大坂の木村蒹葭堂もすばらしい貝石コレクションを残したし、17世紀後半から刊行された一連の貝類図譜も貝に対する日本での全般的な関心を物語っている。文化9年、市岡嶢智はこれらの書物の多くを把握しており、中国の『本草綱目』、『爾雅』、1751年に和訓をした『書南産志』(何喬遠撰)や日本の『大和本草』、『倭漢三才図会』、『広大和本草』など11の文献に基づく「貝品明鑑」をまとめた。この写本はコレクションの多くの貝に図を付しそれぞれの生態、名称などに関する情報を提示しており、貝を観賞する際の参考資料として利用されたと思われる。また第三者のコレクションを描いた「雲彩寺所蔵古物之図」(寛政10)、「古造異石之図・石図」(寛政10)や「天下諸名家所蔵之奇品異物図」(寛政11)のような資料から、人工・自然の遺物全体にわたる広範さと完全さを目指す智寛の意欲を窺うことができる。市岡家にあったモノは、たまたま捨てられずに集まってしまったものではない。智寛を収集家と見なし、彼が蓄積したコレクションを拡充、調査した息子嶢智がその精神を受け継いだと位置づけても間違いないだろう。しかし、コレクションが研究、開発用でないならば、その意義はどこにあったのだろうか。


図2 「茗荷介」(ネコザメの顎)の標本と『貝品明鑑』の記述(飯田市美術博物館蔵)

 

 

 ものと人とのつきあい

ものを集めながら、それを終始他人に見せないことは例外的現象である。収集家は自分の宝を他人に見せたいものである。そのような意味でほとんどのコレクションは社会的側面を持つ。しかし常に見ることができるものは、その魅力を失いかねない。洋の東西を問わず収集家の多くは収集品へのアクセスをさまざまな手段により管理している。17・18世紀のヨーロッパの陳列室に入るとその基本構造が一目でわかる場合が多いが、標本の大半は整理箪笥にしまい込まれ、見物客の眼から隠 されていた。中身との関連性を示すことで標本披露の演出効果を高める専用の箪笥が作られたこともある。箱、箪笥、棚などにも貴重な材料を使い、豊富な装飾を施すことが多く、引き出しを開けると秩序正しく並んだ標本が現れる場合もあれば、2、3点の美しい収蔵品が強調されている場合もある[8]

市岡家の重箱のふたを開けると当時の歓声まで聞こえてきそうである。一気に箱全体を見るより、一部ずつじっくり味わうことが重要だったに違いない。そのような意味で入れ物自体がコレクションの重要な一部であった。重箱への収蔵方式は2通りある。一つは、ものを糸で段の底に縫いつけ、横にラベルを付ける形式を取っている。このような「立体図鑑」は耕雲堂の灌圃が編集した『貝石画譜』[9]の図版に似ており、標本の有機性を重要視しているので、それらの寸法が配列に与える影響は小さい。もう一つは、箱を枡目に区切り、各枡にものを入れる形式である。中村斎の『訓蒙図彙』(寛文8刊)の図版を思わせるこの仕組みの発想は百味箪笥、薬籠や違い棚にその根元があると思われる。この場合はものの大きさがコレクションの構造に制約を加えてしまいがちである。各枡の中身についてその上に置いてある説明書きの紙により産地と名称がわかるようになっている。大坂の木村蒹葭堂の豪華な貝石標本箱がこれと全く同じような作りであることが興味深い[10]

信州松代の真田宝物館にはもう一つ江戸後期の貝類箱がある。そこに収められた小さくデリケートな貝類、ウニ、フジツボのほか、目を楽しませる色綿にも魅了される。箱の2段目からは、扇子形の2センチ大の紙の上に貝が置かれている。貝類の多様性を示すコレクションとして一定の知性はもちろん認められるが、知より美を優先させるものとして感覚を結晶させている。それに対し市岡の貝石はものの華麗さよりその珍しさという視点から蒐集されたようだ。

役所勤務や商売や文化的活動により市岡家は幅広い交流を楽しんでいた。芳名録の「短冊窟」(寛政5〜天保10)、「名残草」(寛政9〜嘉永3)及び「響応宴集記」(寛政7〜文政3)に見られる和算家、絵師、蘭学者、棋士、本草家の署名は多彩な人脈と手厚いもてなしを物語っている。来客の多くは収蔵品を鑑賞することができたと思われる。その披露により、客と交わす話題が生まれただけではなく、市岡父子が、相手の知識、注目度、社会的評価、社会的地位の向上あるいは再確認を得た。また、見る人も知識を深め、市岡家との関係をより密接にすることが多かったであろう。このコレクションは純粋に学問的な目的のために蓄積されたものとは言いがたい。17、18世紀のヨーロッパと同様に収集家の趣味及び社会的交流との関連性が高いものだった。また、日本には専用の陳列室はなかったので、収蔵箱は客の接待が行われる部屋に近い、取り出しやすい場所に収納されていたと考えられる。茶道に力を注いでいた市岡屋敷の場合は茶室の周辺だった可 能性が高い。

そういう意味で市岡父子を遊戯的人間(homo ludens)として位置づけたくなる。知的好奇心にあふれていることや、外界の観察、記録や把握への意欲には近世学者との共通点が確認できるが、遊び心を押さえる厳しさと体系化及び「仲間」との研究上の連帯強化への執着は感じられない。このような収集家はヨーロッパでも決して珍しくなかったし、一つの類型として今日まで存続してきている。しかし、市岡父子の場合は西洋の収集家との相違点も見過ごしてはならない。

図3 「貝類標本」の3段(飯田市美術博物館蔵)

 

 

 視覚の訓練

アリストテレス学派の信奉者は、真実はいずれ自ずと人に知られるものだ、と信じていたが。啓蒙により、この信念も失われることとなってしまう。真実はそのベールをはがさなければならない。人間が眼を向ける対象は御しがたいものであり、知識とは人が容易く御すことの叶わない対象と闘って獲得しなければならないものなのである。

17世紀初頭の望遠鏡、顕微鏡の発明により、解剖学者、生理学者などにより、人間の視覚に対する疑問は却って一時的に大きくなった。18世紀ヨーロッパでは自然界を観察することの落とし穴について数々の論文が発表されている。眼球の働きの客観性を認めながらも、幻覚症状や視覚印象を評価する人間の精神は、誤解の大きな原因なのではないかという声が1840年代まで聞かれた[11]。現代の多くの分野においても様々な新しい観点から「観察」の性質と有効性に関する議論が続いている。

外界のものを観察、収集していた市岡父子の文書資料からは視覚に関する問題意識もある程度窺える。西洋の収集家のほとんどは絵を描かなかったが、東洋の文人として多才だった智寛と嶢智の腕前は相当なものだった。嶢智の『貝品明鑑』に見られる「大紅」、「浅桃紅」、「羊絨色」など、貝の色を表す用語の細かい定義は、言葉の客観性に対する不安の表れと言える。また、父智寛がまとめた「画報記聞」(年代不明)にも、色の調合に関する記述があり、色の名称と視覚印象の関連性を確立させようとのねらいが見られる。さらにここには鷹の描き方に関する高取流の鷹匠から伝わった記述もあり、尾羽の数、くちばしのあらゆる特徴や名称、鷹の種類など、鳥類研究者のノートを思わせるような内容で、画報の研究は必然的にものの理解を深めることを印象づけている。

それにしても、三次元の世界を紙に記録する際、現代が求める写実性はまだ追求すべき目標として認識されていなかった。一つの理由は、近世のヨーロッパでも日本でも美術と学問がまだ分離していなかったからである。智寛の場合はもう一つ、「日本的」要素があると思われる。76種の菌類を収録した写本「伊那群菌部」には、細かい線が一切使われなかった。ものを写実的に写すのは彼にとって表面的な描写に過ぎなかった。禅画も学んだ智寛は、大胆な描き方でそれらキノコの本質を十分に押さえられるという考えだったようだ。この禅寺から投げかけられたような問いに対する答えは、未だに容易に出せない気がする。




[1]   Patrick Mauries, Cabinets of Curiosities. London: Thames and Hudson, 2002.
[2]   Vincent Levin, Wondertooneel der nature: geopent in eene korte beschryvinge der hoofddeelen van de byzondere zeldsaamheden daar in begrepen. Amsterdam: François Halma, 1706. Michael Bernhard Valentini, Museum Museorum oder vollständige Schau-Bühne aller Materialien und Specereyen nebst deren natürlichen Beschreibung aus anderen Material-, Kunst- und Naturalien-Kammern, Oost- und Westindischen Reißbeschreibungen. Frankfurt am Main: Zunner, 1704-14.
[3]   Friedrich Carl Gottlob Hirsching, Nachrichten von sehenswürdigen Gemälde- und Kupferstichsammlungen, Münz- Gemmen- Kunst- und Naturalienkabineten, Sammlungen von Modellen, Maschinen, physikalischen und mathematischen Instrumenten, anatomischen Präparaten und botanischen Gärten in Teutschland nach alphabetischer Ordnung der Städte. Erlangen: Palm, 1786-92 (6 vols).
[4]   Wolfgang Michel / Elke Werger-Klein, Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan. In: Journal of the Japan Society of Medical History, vol. 50, no.4, pp. 463-492.
[5]   飯田市美術博物館編『江戸時代の好奇心 - 信州飯田・市岡家の本草学と多彩な教養』飯田、飯田市美術博物館、2004年。
[6]   標本の「甲」、「乙」及び「丁」は飯田市北原斌夫氏蔵。
[7]   飯田市美術博物館編『日本の博物館の父 田中芳男』飯田、飯田市美術博物館、1999年。
[8]   Anke te Heesen, Geschlossene und transparente Ordnungen. In: Gabriele Dürbeck / Bettina Gockel / Susanne B. Keller et al. (ed.): Wahrnehmung der Natur - Natur der Wahrnehmung. Studien zur Geschichte visueller Kultur um 1800, Dresden: Verlag der Kunst, 2001, pp. 19-34.
[9]   京都大学附属図書館所蔵。発行年は不明。
[10]   『木村蒹葭堂貝石標本 江戸時代中期の博物コレクション』大阪市立自然史博収蔵目録14、1982年。
[11]   この議論の詳細についてはシコレの論文がよいたたき台となる。Jutta Schickore, Eröffnung der Augen. Auge und Sehen in der mikroskopischen Anatomie. In: Wahrnehmung der Natur - Natur der Wahrnehmung, pp. 165-177.

 

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