ヴォルフガング・ミヒェル「薬剤師ゴットフリード・ヘックによる長崎郊外の薬草調査について」『言語文化論究』第21号(2005年)、1〜20頁。
Wolfgang Michel: Gottfried Haeck's Botanical Research in the Vicinity of Nagasaki. Studies in Languages and Cultures, No. 21 (2005), pp. 1-20.

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[German Summary]


 

ミヒェル・ヴォルフガング

薬剤師ゴットフリード・ヘックによる長崎郊外の薬草調査について


 

はじめに

寛文10年(1670)、長崎奉行の指示により出島商館の「コットフレイル」が長崎近郊で50数種の植物を採集しているが、これに初めて注目したのは関場不二彦だった[1] 。その後宗田一も紅毛流外科の誕生を追究する際、この活動について述べている[2] 。本論文ではオランダ東インド会社の記録と、新発見の和文史料をもとに当時の出来事とその背景を詳細に解明し、同時にその位置づけについても考察する。

 

 1 紅毛流外科の台頭と新しい医薬品の需要

1650年に出島蘭館医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger, 1623-1706)が10ヶ月もの間江戸に滞在し、その際に身分の高い患者の治療を行ったことで、幕府はオランダ人の外科術や医薬品に目を向けるようになった[3] 。その後いわゆる「紅毛流外科」が次第に普及していくが、歴代の出島商館医が紹介した膏薬、軟薬、薬油に必要な薬草などを特定し調達するには困難を極めた。初期の紅毛流資料は原文の読みを単にカタカナで表記しただけで、漢字訳や解説文が登場するのはずっと後になる。

「阿蘭陀外科医方秘伝」 アムステルダム薬局方 (1636)
ヱンフラストガラサデイヤ Emplastrum Gratia Dei
一 セイラ 四十目 Cera [= 蜜蝋]
一 コルホウニヤ 四十目 Colophonia [= 松やに]
一 セイベヱルジネ 四十目 Sevum hircinum [= 羊脂]
一 テレメンテイナ 二十目 Terebinthina
一 メイラ 三匁 Myrrha [= Olibanum, 乳香] [4]
一 マステキス 三匁 Mastix [= 樹脂]
一 ヘルテ 三匁 Aerugo [= verdigris, 緑青] [5]
右煉合ル時ホルトカルノ油少入ル[6]

1650年代以降、東インド会社への医薬品の注文が、かつてない勢いを見せた。注文主としては、安藤右京進重長、稲葉美濃守正則、井上筑後守政重など権力者の名が目立つが、井上に仕えた藤作のように侍医による注文も確認できる[7]

輸入を拡大しながら、国内の資源を開発する動きも活発になった。蘭方の処方に見られる植物名について理解を深めるためか、西洋外科術の導入を積極的に進めていた大目付井上筑後守は、シャムベルゲルの日本滞在中すでにヨーロッパ植物学を代表するドドネウス(Rembert Dodoens/Dodonaeus, 1517-1585)の本草書[8] のポルトガル語版を注文している。しかし、1652年に井上宛てに送付された本はオランダ語版で、当時の通詞たちにはまだ読めなかった[9] 。彼はポルトガル語による説明を求めたが、そのために十分な知識と語学力を持つオランダ人は停泊中の船にも商館にもいなかった[10] 。1655年の送り状に見られる2冊目も井上のためのものだった。3冊目を納品した際の注文主の反応はオランダ人たちを驚かせた。シャムベルゲルの治療を受け[11] 、井上と同様に西洋の医療に強い関心を寄せた小田原城主稲葉美濃守正則は、挿絵が小さすぎて質も良くないので、もっと大きな絵が入っているものを送って欲しい、と本を返品してしまう。気の短い商館長ワーゲネルは相手の判断力を疑った。

「なんという哀れな人々だ。著作の素晴らしさをほとんど理解できず、このような本が靴屋の靴と同じように、様々な種類を取り寄せられると思っている[12] 。」

それでも1657年老中になった美濃守は、約20年間にわたり日蘭の交流において大きな役割を果たし、オランダ人のパトロンとして讃えられた[13]

本草書の挿絵に対する不満は美的な理由からだけではなかっただろう。様々な植物を見たことがある人ならドドネウスの簡単な木版画で記憶が甦り、手元にあるものを評価できるが、そうでなければ、絵が伝える特徴のみに頼って植物を特定することは、おそらく無理であっただろう。


 

2 薬草狩りの始まり

オランダ商館が平戸から長崎へ移転してから、出島に閉じ込められたヨーロッパ人の行動範囲は著しく狭くなった。気晴らしのためか、長崎奉行の計らいで1647年以降商館員全員が一年に一、二回、通詞、検使などの同伴で長崎市内とその近郊に日帰りで遠足に出かけるようになった。その目的は薬草の採集だったが、商館長日記には、それは名目上の理由に過ぎない、との記述が残っており、シャムベルゲルが来日するまでに、実際に薬草が採集されたのは1647年だけだった[14] 。しかし、シャムベルゲルの離日後この遠足は様子が変わったようだ。

「8時頃、通詞孫兵衛がボンジョイ二人とやって来た。奉行与兵衛殿は我らを案内して薬草を採集するよう日本人医師数人にも同行を許したため、彼等も一緒だった。そこで、予は同行者を商務員・・・[中略]・・・途中や山地には、薬草が多くあった。そのなかには、オランダにもないような、葉が広くて美しく、味の好いばいかうつぎ、おばこ、山よもぎ、えぞきんみずひき、すももその他があったが、我らがそのうちから少し採り、日本人が籠に入れた[15] 。」

その後の商館長も薬草・薬品調査に言及している。1656年、井上筑後守のためにドイツ人外科医ハンス・ユリアン・ハンケ(Hans Juriaen Hancke)に教示を受けていた著名な儒医向井玄升は、奉行の許可で外科医と数人の商館員を市内の薬屋へ連れて行き調査を行った[16] 。1657年、同様の記述が商館日誌に残っており[17] 、その翌年の遠足に参加した波多野玄洞[18] は長崎代官末次平蔵のおじで、オランダ人商館医ステフェン・デ・ラ・トンブ(Steven de la Tombe)より出島での教育の成果を証明する免許状を受けたことで知られている[19] 。1660年にも日本人医師が参加したと記されている[20]


 

3 幕府による専門家派遣の依頼

このような薬草狩りを繰り返し行うにつれ、その弱点も明らかになったであろう。ギルド出身の外科医は主な医薬品を把握していたが、植物を特定できる知識は限られていて、専門家の派遣を求めるのは時間の問題だった。

しかし、1660年代から国内資源の開発に目を向ける、より一般的な原因も浮上してくる。明暦の大火の後処理が当分の間大きな負担となったことは容易に想像できる。さらに、寛文4年の金輸出解禁に伴い、銀貨に加え金貨もオランダ貿易を通じて流出し、そのうえ金山の産出量が減少し、通貨不足がじわじわと広まり始めた。同じ頃、幕府が不必要と思われる消費を抑制する動きも目立つようになる。寛文3年、江戸と京都の女の衣服価格の上限が設定され、寛文5年、流通機構への統制が強まり、食料品の販売時期が制限された。翌年9月には幕府が医薬品市場へ介入し、江戸市中の薬種商に座の結成、独占を命じた。寛文8年の秋、オランダ商館長は長崎奉行から輸入禁止の品々に関する通達を受けた[21] 。その内容は高価な織物をはじめ動物、焼き物、楽器、時計等々多岐にわたった。翌年7月19日にヒルヴェルスム号の船乗りが血赤珊瑚を持参したため、奉行が商館長に厳重に抗議した。会社は徹底的な対策を余儀なくされ、バタビア総督府は1670年4月18日に詳細な告令を出すことになった[22] 。それに加えて寛文6年の大坂の大火と寛文8年の江戸の大火を考慮すると1660年代後半、幕府が国内経済の状況に着目し、銀の流出及び無駄な消費を抑えるためにあらゆる対策を試みていたことは間違いない。

高価な輸入医薬品も検討の対象になった。その関連の和文史料はまだ見つかっていないが、東インド会社の業務日誌、書簡、報告などにはそれに関連する記述が豊富に残っている。1667年11月6日、新商館長ダニエル・シックス(Daniel Six)は前任者のコンスタンチン・ランスト(Constantin Ranst)とともに長崎奉行所を訪れている。シックスらに対し、交代する奉行河野権右衛門通定と松平甚三郎隆見から、「皇帝と帝国顧問官は、植物学と薬油蒸留に詳しい人物が日本へ派遣されることを望んでいる」との要請が伝えられ、また蒸留に必要な装置一式の他、「納入された種はあまり新しいものではなく、種蒔きに適さない」ということで植物の苗を注文している。両奉行はこの依頼が大変重要なものであること、また長崎奉行所も承知しておかねばならないものであると告げ、この依頼についてはすでに江戸で十分な説明がなされているとも述べた[23]

「最後に、様々な新鮮な薬草からエキス、薬油、蒸留酒を抽出できる経験豊かな年配の人物の派遣及びそのために必要な器具の提供を要請された。そのほかに、種を新鮮な状態で日本へ運べないので、植え付け、繁殖用に様々な苗も。皇帝[=将軍]と帝国顧問官[=老中]によるこの要求は、江戸ですでに十分に言及されたにもかかわらず、上記の[長崎]奉行たちを通じて至急にあらためて持ち出された。それをより真剣に受けとめ、総督殿に報告する必要のためである。」

このような依頼に対して迅速に対応すれば、貿易をめぐる環境も良くなるので、バタビア総督府は、翌1668年夏には今後のさらなる納入を約束し、薬草を日本に送った[24] 。ガラス製の蒸留器のみはオランダから取り寄せなければならなかったので、納品は1671年になった[25]


 

4 薬剤師ヘックの来日

当時のバタビアには、要塞と市内に薬局があり、その運営を任されたのはロッテルダム出身の薬剤師クルイス(Hercules Cruys)及びドイツ人医師アンドレアス・クライアー(Andreas Cleyer, 1634-1698)だった。社内の医薬品は原則としてアムステルダム薬局方に基づき製造されたものだったが、ヨーロッパからの運搬には問題が山積しており、安定供給と経費削減が大きな課題になっていた[26] 。バタビアの薬局で勤務していた薬剤師の数はあまり多くなかったようだ。最も優れた人物を日本へ派遣するには抵抗感もあっただろうと思われるが、1669年に日本へ出向したのはまだ若いGodefried Haeckだった。名字のつづりは、ドイツ出身であることを示しており、その読みはヘックとなる。出島商館長は彼をapotheeker off kruijdenkenner en distelateur(薬剤師あるいは薬草熟知者及び蒸留師)と呼んでいるが、ヘックは大学で薬学など学んだことがなく、薬局に務めながら薬草や製薬などに関する知識を身につけていた[27]

長崎に到着した1669年7月9日に、ヘックは長崎奉行河野権右衛門に蒸留技師で薬草の専門家であると紹介されたが、彼は最初から日本側の要望を満たしてはいなかったようだ。一応礼を述べた奉行は、もっと年配で経験豊かな人の派遣と蒸留装置、薬草の種や球根、苗木を送るよう要請した[28] 。同様の通知が10月12日に商館長に渡された[29] 。1669年5月20日のバタビアより商館長シックスに宛てられた書簡を見ると、奉行の不満は妥当だったことがわかる。

「2年前に日本人が希望していた蒸留と薬草の専門家は今、こちらに向かっている。しかし彼が日本人の要求を満たせるかどうかはわからない。このような技術や知識を一人で備えている者はきわめて少なく、オランダでもまれであり、ましてインドまで行こうなどとは思わない。それでも今回の者が日本人の希望に沿わなければ、より適任者を探すために最善を尽くそう[30] 。」

寛文9年(1669)の秋から長崎で勤務する奉行松平甚三郎は同僚権右衛門と同意見であった。翌年の1月に商館長デ・ハース(François de Haas)は江戸参府の準備を始めた。蒸留器がまだ届いていないので、デ・ハースはヘックの同行については、奉行にその決定を任せたが、個人的にはそれが費用の無駄であると判断していた[31] 。結局、ヘックは長崎に残ることになった[32]

商館長一行の江戸参府中、商務員ギリス(Adriaen Gillis)が長崎での主な出来事を記録していた。1670年6月4日に出島へ戻ったデ・ハースはその記録の抜粋を業務日誌に転記した[33] 。ギリス日誌の一部は省略されたが、同年の4・5月頃ヘックが通詞を介し奉行から、両親と兄弟、薬草に関する知識等々、多くの事柄について質問を受けたことがわかる。彼の返事は箇条書き的にしか記されていないが、幾つかの重要なことを明らかにしている。ヘックは15才から薬局で働き、バタビア要塞の薬局(winkel)にも数年間勤めたことがあり、およそ40〜50種類の植物を知っていた。この尋問の結果が記録され奉行に渡されたことからは奉行及び江戸幕府の高い関心が窺える[34] 。さらに別の日に奉行は蒸留装置はバタビアで製造されるのか、バタビアで薬油の蒸留をしているのかどうかと尋ねた。ヘックによると、銅製品の製造は可能だが、ガラス器具はすべてオランダから取り寄せねばならないということだった[35] 。その説明は正しかった。幕府の粘り強い要請に押されてか、硝子職人が初めてバタビアに到着したのは1675年だった[36]

ヘックは奉行や通詞たちが、彼の人柄や能力に対し疑念を抱いていたことを感じたようである。東インド会社との雇用契約が1671年7月で切れるためオランダへ帰国したいとして、同年初めに薬剤師の勤務を解いてもらう旨を申し出ている[37] 。すべての書簡の内容を奉行所に報告する通詞たちは、即時商館長に対しヘックの解任はバタビア総督ではなく長崎奉行が決めることである、としてこの件の重要性と主導権の所在をあらためて強調している[38]

バタビア総督府はヘックの請願を了解し、1671年夏、後任の薬剤師フランス・ブラウン(Frans/Franz Braun)を日本へ派遣した[39] 。その理由を示す史料は残っていないが、ヘックはその後も日本に留まることになり、翌年9月11日、商務助手として商館長日誌に名が挙がっている[40] 。彼が薬剤師より有望な商務員としてのキャリアを追求したのかどうか、また、いつ離日したのかは不明である。


 

5 長崎近郊の薬草調査

ヘック到着直後、様々な疑問を抱えながらも長崎奉行はヘックに対し、出島の阿蘭陀通詞らと共に長崎近郊で薬草を集めるよう命じた。最初の薬草狩りは1669年8月1日に行われた。この日は24種の薬草を確認できたとの通詞の報告を受け、奉行はとりあえず満足した[41] 。8月23日の2度目の採集でも数種の発見により好成果を挙げた[42]

バタビア総督府宛ての書簡からは、ヘックが見つけた薬草の一覧表が総督と東インド協議会へ送られたことしかわからないが[43] 、史料調査により最初の2回の薬草狩りに関する阿蘭陀通詞の報告書が「薬草ノ名並和文扣」という写本として伝わっていることが明らかになった[44] 。それには、まず24種の薬草の名称とその使用に関する簡単な説明が記されている。

ロウザ(いばらノ花 冷性)、サトレイガ(いんちん草 温性)、ヘヱテネツトル(いら草 微温)、ウエルトサルヒヤ(くわつかう 温性)、アギリモウニヤ(ししやき草 冷性)、テストル(あさみ 微温)、バジリコン(かうしゆニ似申候草 温性)、ハルベイナ(やくも草 冷性)、カツヘレネレス(とらのを草 微温)、アルトミジヤ(よもき 温性)、ホルトラアカ(すべりひう 冷性)、ヘンテカラス(ひへ 温性)、ハツヘレ(なもめ 温性)、ヘンフルバアル(つるいちご 冷性)、ブロネル(うつほ草 温性)、ブランタアゴ(おはこ 冷性)、レニハアル(へご 温性)、スイロング(すいち 冷性)、ウヱンデ(いしミかわ 温性)、スコルヘンテレヤ(けいそく草 微温)、スカアフスカルブ(山にんしん 冷性)、マルバ(大あをい 微温)、ホリホウデ(わらび草 微温)、ラアデキスイリヤス(からすあふきノ根 温性)。(括弧内の用語は写本による和訳)

最後に、日付と通詞の名が記されている。

「〆 廿四色   酉ノ七月五日   加福吉左衛門 富永市郎兵衛 楢林新右衛門 中嶋清左衛門」

写本の後半にはさらに12種の薬草に関する同様の記述が見られる。

メンテ(薄荷 温性)、カルモス(セきセうふ 温性)、ルウタ(はませり 温性)、モス(岩松 微温)、カネヘ(あさ 温性)、イツヘリシ(おときり草 温性)、アツツトサル(こかね草 冷性)、ムウルバイ(桑実 冷性)、ケレスン(牛房 温性)、フロウリスドウニセイ(日本 セきちく 微温)、トウビネツトロ(しろを 温性)、サビイナ(いふき 温性)。

最後の日付と通詞の名は以下のとおりである。

「〆 十二色   酉ノ七月廿七日   富永市郎兵衛 名村八左衛門 中嶋清左衛門」

上記の日付を換算するとちょうど出島商館長日誌が挙げている1669年8月1日と23日になる。さらに、1回目に24種の薬草が見つかったという商館日誌の記述と「薬草ノ名並和文扣」に見られる「廿四色」も一致しているので、この写本の信憑性は極めて高いと言える。

1669年10月末、例年の長崎奉行の交代が行われ、松平甚三郎が長崎で勤務することになった。翌年2月に甚三郎の命令により、通詞全員が蒸留技術及び薬草採集の時期に関して情報収集を行った。ヘックは5・6月を薬草狩りに最も適した時期と考え、道具と材料があればオランダで蒸留されるすべてのものを日本でも製造できると説明した[45] 。甚三郎もまたヘックに対し1670年4月、5月、7月12日の長崎近郊での薬草調査を命じた[46] 。7月の調査はまずまずの成果を上げたようだ[47] が、8月下旬に甚三郎が、日本にはこれまで見つけたもの以外の薬草があるかと追及したのに対し、ヘックは長崎近郊でしか調査が認められていないため、はっきりとは言えないと答えた[48]

またこの植物採集に初めて注目した関場不二彦は、「阿蘭陀薬艸功能之書」と題した写本を参考に3つの日付を報告している[49] 。それらを西暦に換算すると、再び商館長日誌と整合して史料の信憑性を強く裏付けている。

寛文10年3月7日(1670年4月26日)、寛文10年3月29日(1670年5月18日)、寛文10年5月25日 (1670年7月12日)

このように地元の植物調査は進んでいたが、ヘックに対する不満は一向に消えなかった。商館長は薬草に精通する年配者は長旅と様々な(環境)変化でよく死去してしまうのでこのような人々をオランダから呼び寄せるのは容易ではないと説明し、もう少しの辛抱を求めたが[50] 、奉行所からたびたび苛立ちを込めた通知が届いた。

1671年には商館長が江戸へ参府する期間中、長崎に残ったヘックが奉行の指示に従って4月28日及び5月7日に薬草狩りに出かけた。発見された2、3種類の薬草について彼がいつもの如く、その効能と利用について説明していた[51] 。6月29日の様子を見ると、ヘックの薬草に関する知識はついに底をついたようだ。

「奉行の指示により迎えが来て、商館の薬剤師と助手一名が、湾と反対側の場所に薬草を探しに出かけていった。夕刻五時頃戻ってくる。遠くまで行ったにもかかわらず、新しいものは何も見つからなかった[52] 。」

その後の調査に関する記述は残っていない。日本側の関係者はおそらく間もなく到着する、より高い専門知識を持つ後任者ブラウンを待っていたのであろう。

 


図1 「蘭方草木能毒集」(筆者蔵)


 


 

 6 ヘックと種子の輸入

これをもってヘックによる薬草調査は終わったようだが、彼の任務はそれだけだった訳ではない。そもそも蒸留技術も教える予定だったが、必要な器具などが届かなかったので、長崎奉行は商館長に対し、あらためて蒸留装置と薬草の種子や苗を要求した[53]

1668年及び1669年に日本に届けられた薬草はおそらく乾燥したものだったと思われる。受取人の目立った反応はなかったようだ。1670年の夏、蒸留器はまたも届かなかったが、会社はより多くの乾燥薬草と種子とともにそれらの名称と性質を示す目録を送った。残念ながらその目録の行方は不明である[54] 。間もなく種子の由来、その新鮮さ及び種蒔きの適切な時期に関する問い合わせが商館日誌に記された[55]

乾燥薬草はあまり受取人の関心を引かなかったようだが[56] 、種子については奉行松平甚三郎が目録の翻訳を指示し、自分の庭用に種子を譲り受けた。この目録の翻訳は、ヘックの助けを借りながらも、約1ヶ月間かかった。通詞たちは、種蒔きに最適な時期、花が咲く時期、再び種子をつけるかどうか、オランダではいつ種を蒔くのか、など目録に書かれていない質問もした[57] 。会社の資料によれば、種子や植物の多くがオランダからではなく、イタリア、トルコ、エジプト、ジャワ、その他の東インド地域から来ており、入手が非常に困難なものであると説明した[58]

翻訳には多大な時間を要したため、通詞たちは通常の業務が滞るほどであった。商館長デ・ハースは日誌の中でそれを嘆き、また、通詞の数々の質問に関しては、薬剤師のヘックが医学博士ならよかったと書いている[59]

種子の発芽力にも問題があったようで、奉行はオランダの種子で、1年以上たっていない新鮮なものを要求した[60] 。後任者のカエサル(Caesar)も同年11月に、発芽能力や栽培上の問題について報告している[61] 。しかしデ・ハースが説明しているように、新鮮な種子の提供は困難を極めた。なぜなら日本行きの船は毎年、ヨーロッパからの船が着く前にバタビアを出発するからである[62] 。翌1671年の日誌によれば、ヘックに対しても同様な疑問が投げかけられた。

「昨年バタビアから送られた種を蒔くために、同月十日再びヘックが呼ばれた。その際彼が3回蒔いた種がどうして発芽しないのかということについて質問され、ヘックは[次のように]返事した。自分自身もよく分からない。しかし、自分の判断によると、その種はまずオランダからバタビアへ、そしてそこからここ[=日本]へ運ばなければならなかったので古くなり駄目になった。また、ここの気候と祖国の気候および種の性質が合わないのであろうと答えた。種蒔きが終わってから、ヘックは再びここへ連れて行かれた[63] 。」

問題の原因は様々なものであっただろう。気候のためだけでなく、海水による被害、栽培に関するヘックの知識の乏しさ、畑の世話をする日本人の戸惑い等々、成功を阻む要因が数多く存在していた。


 

7 阿蘭陀通詞の報告書について

ヘックの薬草調査に同行した通詞たちは、毎回報告書を作成したようである。上述の「薬草ノ名並和扣」には第1回、第2回の薬草狩りの成果が記されている。薬草は和名を持つ地元の植物だったのでその姿を描写する必要はなかった。ヘックはラテン語あるいはオランダ語名を決めた上で、冷性、温性などガレノス流の性質(temperament)及び医療における利用について説明し、通詞たちがそれを簡潔にまとめた。例えば茨の花については以下のとおりに描写されている。

冷性  ロウザ   いばらノ花
花をせんし、汁を取、子共大便不通ニ用申候。花をらんひきニテセんし、水を取、眼気ニ目を洗、花をセんし、汁を取、白砂糖を加、薬仕。又セんしかため、のんど痛ニ少ツヽ用。」[64]

1669年8月からヘックが長崎近郊で行った薬草調査の報告書は、毎回作成されたようだが、1670年に入ってからおそらく総まとめの作業も開始されたと思われる。寛文10年8月7日付けで加福吉左衛門、本木庄太夫、富永市郎兵衛、立石太兵衛、楢林新右衛門(鎮山)、名村八左衛門、中嶋清左衛門、中山作左衛門の通詞の連署で「阿蘭陀薬艸功能之書」と題して奉行に提出された、と関場不二彦が報告している。この行方不明の写本には、合計57種類の薬草が取り上げられている。それはヘック自身が述べた40〜50種しか知らないとの説明とほぼ一致しているので、2年間にわたる調査の成果は小規模のものだったに違いない。

さらに、関場は嵐山甫安の書にも触れている。この文書は紅毛流外科の医師嵐山甫安(1632-1693)[65] の「藥草ノ能」として「繕生室医話」に納められており、上述の「薬草ノ名並和文扣」と異なる順序、ほぼ同様の内容で33種の薬草と医薬品を描写している[66]

セネイフル(ソナレ松ノ実台ノ実トモ云)、
ヘルトアンデイヒ(マコヤシ草)、
ラアデキスイリヤス(イチハツ)、
ヘンテ(イシミカウ)、
テストル(ヲニアザミ)、
カツヘレヘネレス(トラノヲ草)、
ワアトロアヒヨン(キンモウ草)、
アキリモウニヤ(シヽヤキ草)、
メンテ(薄荷)、
カルモス(大菖蒲)、
ガラナアタアツフル(ザクロ)、
ハツハアブリス(ケシ)、
ロウザ(イハラ)、
スカアフスカルフ(山ニンジン)、
ヒヨウリ(コマビキ)、
フランタアゴ(ヲバコ)、
レリヨウロム(白百合)、
ヘイトロセリ(セリ)、
ヲルサハストウルス(ナヅナ)、
リイニハアル(ヘゴ)、
アヒヨン(山防風)、
イツヘリン(ヲトキリ草)、
ヘンフルバアル(ツルイチゴ)、
アスロウコ(ノビル)、
ズイロンク(スイヂ)、
カモメリ(野菊)、
アツヽトザル(コガネ草)、
アヽクワテリヤアカアリス(テリヤアカヲアラキニ入煎シ其湯気ノシツクヲ取ナリ)、
アヽクワフロウビイラクテアカ(藥色ノ合テアラキニ入シ其湯気ノシツクヲ取ル)、
アヽクワアヽレキシイハルマカア(前同シ)、アヽクワヘステリカア(前ニ同シ)

最後に見られる説明から、この資料は1670年4月26日(庚戊3月7日)の時点での成果を反映していることがわかる。

「部テ三十三色三月七日出島ニテ
右被為 仰付藥草見知タル阿蘭陀ヘ[庚]戊ノ三月七日書取藥草ノ分異名并能書共書付有差上ルナリ」

筆者も関連の写本を入手できた。「蘭方草木能毒集」[67] には、まず最初に上述の36種の植物が同じ順番で、ほぼ同じ文面で紹介され、それにさらに23種の植物についての記載が続いている[68] 。おそらく1670年、1671年の調査の成果が収録されていると思われるが、日付や通詞の名は記されていない。

ロウサ(イハラノ花 冷)、
サトレイカ(インチン草 温)、
ヘヱテネツトル(イラ草 微温)、
ウエルトサルヒヤ(クワツカウ 温)、
アキリモウニヤ(シヽヤキ草 冷)、
テストル(アサミ 微温)、
ハシリコン(カウシユニ似タル草 温)、
ハルヘイナ(ヤクモウ屮)、
カツヘレヘネレス(虎尾草 微温)、
アルトミシヤ(ヨモキ 温)、
ホルトラアカ(スヘリヒウ)、
ヘンテカウス(ヒユ 温)、
ハツヘレ(ナモミ 温)、
ヘンフルバアル(ツルイチゴ 冷)、
フロネル(ウツヲ(ボル)草 温)、
フランタアヱ(ヲハコ 冷)、
レニハアル(コヘロ 温)、
スイロンク(スイチ 冷)、
ウヱンテ(イシミカワ 温)、
スコルヘンテヤ(鶏足草 ケイソク屮 微温)、
スカアフスカルブ(山人参 冷)、
マルハ(大葵 微温)、
ホリホウテ(ワラヒ屮 微温)、
ラアテキスリイヤス(カラス扇ノ根 温)、
メンテ(ハツカ 薄苛ノコト 温)、
カルモス(石セヽリ 温)、
ルウダ(ハマセリ)、
モス(岩松 微温)、
カネヘ(アサ 温)、
イツヘリコン(ヲトキリ屮 温)、
アツツトサル(コカネ(ヱ)草 冷)、
ムウルハイ(桑)、
ケレスン(牛房 温)、
フロウリストウニセイ(日本石竹 微温)、
トウヒネツトロ(シロウ シコロノ事 温)、
サヒイナ(イブキ 温)、
セネイフル(ソナレ松 温)、
ヘルトアンテイヒ(マコヤシ 冷)、
ワアトロアヒヨン(金毛花 温)、
トウトネツトル(ツリカネ草 温)、
フロウリスサンホウイシ(山トウシン 温)、
ヘイトロタラストロス(カキトウロ 温)、
セントウリヨムニフウリス(タビラコ 温)、
カラナアタアツブル(ザクロ 冷)、
ハツハアフリス(ケシ 冷)、
ヒヨリ(コマヒキ)、
レリヨウロム(ユリ)、
ヘイトロ(セリ 温)、
ヲルサハストウルス(ナツナ 冷)、
アヒヨン(山木ウフウ 温)、
ヱスロウコ(ノヒル ヒウン)、
カモメイリ(ノキリ)、
カリヨフラアタ(川原屮 丁子屮トモ云)、
アルケカンケ(ホウツキ)、
ソラアノム(小ナスヒ 冷)、
ヘイヘケル(カナムクラ 温)、
ハルシカホウム(桃木 温)、
ケンフル(シヤウカ 熱)、
コウトヲルトル(クワンソウ 寒)、
ヘルトヘンケル(山ブドウ 温)、
カナアヘンルイト(半夏 温)、
ヘンケル(イノント 温)、
ヘルトフレイル(ニハトコ 平)、
マルカアリヤ(忍冬 平)、
カツヘレホウニヤ(クコ 温)、
ラアテキスタリシヤアノ(麦門冬)

その他の関連の写本はまだ見つかっていないが、通詞8名が当時の報告に携わったことを考慮すると、様々な書名で資料が現存する可能性は決して低くないと思われる。そのいずれかが元禄9年に刊行された『阿蘭陀外科指南』に「薬草口訣」という表題で利用されたのである。ヘックの名前あるいは日付に関する記述は一切含まれていないが、「薬草ノ名並和文扣」とは順番がほぼ一致している。

「薬草ノ名並和文扣」 「蘭方草木能毒集」 「藥草口訣」
1 ロウザ ロウサ ロウザ
 [...]
2 サトレイガ サトレイカ サトレイカ
 [...]
24 ラアデキスイリヤス ラアテキスリイヤス ラアテキスイリヤス
25 (1) メンテ メンテ メンテ
26 (2) カルモス カルモス カルモス
 [...]
36 (12) サビイナ サビイナ サビイナ
52 カモメイリ カモメイリ
59 ラアテキスタリシヤアノ
64

ヘルトヘンケル

図2 関連資料に見られる薬草の順序


薬草の総数及び順序が当時の調査成果を反映しているかどうかは不明である。後世の写者が自らその他の資料を追加した可能性は決して少なくない。特に『阿蘭陀外科指南』の著者はあるゆる資料を組み合わせて当時の紅毛流医学の全体を紹介しようと試みていた。個々の薬草に関する解説も多少膨らみぎみだったが、下記の表が示すように、それぞれの原典が同一だったことは一目瞭然である。

「薬草ノ名並和文扣」
「蘭方草木能毒集」
「藥草ノ能」
「薬草口訣」

ロウザ 冷 茨

花をせんし、汁を取、子共大便不通ニ用申候。花をらんひきニテセんし、水を取、眼気ニ目を洗、花をセんし、汁を取、白砂糖を加、薬仕。又セんしかため、のんど痛ニ少ツヽ用。

ロウサ イハラノ花 冷

能花ヲ煎、汁ヲ小児大便不通ニ用。花ヲランヒキニテ煎、水ヲトリ、眼氣ヲ洗、花ノ煎汁、白砂糖ヲ加、煎詰テ、喉痛ニ用。

ロウサ ( イハラ)  性冷

小児大便通シ兼ル時、花ヲ水ニテ煎ジ、其汁ヲ小茶碗半分宛朝夕用ユ。眼気ニハ、花ト水ヲ銅甑ニテ煎シ、其水ニテ目ヲ洗也。喉痛ニハ、花ヲ右ノ如ニ煎ジ、其水ヲ白砂糖ニ加薬シテ、煉茶ノヤウニ又煎シ、少ツヽ切〃用ユ。

ロウザ 冷 茨(イバラ)

花(ハナ)ヲ水(ミツ)ニテ煎(セン)シ。其(ソノ)汁(シル)ヲ小(セウ)兒大便(タイベン)通(ツウ)ジカヌルニ。小()茶碗(チャワン)ニ半分(ハンブン)ヅヽ朝(チヤウ)夕(セキ)用(モチ)フ。花ト水ヲランビキニテ煎ジ。其ノ水ニテ目()ヲ洗(アラ)ヘバ。眼(ガン)病(ビヤウ)ニ吉(ヨシ)。花ヲ右(ミキ)ノ如(ゴト)クニ煎ジ其ノ水ニ白(シロ)砂()糖(タウ)ヲ加(クワ)ヘ。又煎ジ。テ煉(子リ)藥(ヤク)ノ如クシ。喉(ノド)痛(イタ)ムニ少(スコシ)ヅヽ切(セツ)\/用ルナリ

 



 


 

8 日本の植物に目を向けるバタビア総督府

1669年8月1日のヘックの最初の薬草調査に関する商館長日誌の記述は、翌年にバタビア総督府の目を引いた。日本の薬草によりオランダからの医薬品注文を減少させることができる可能性があったので、6月16日付の出島商館長デ・ハース宛ての書簡で、長崎で発見した薬草についての情報提供が求められた。同年10月19日付の書簡では、デ・ハースは同封したリストに言及し、必要ならばその植物を日本人から提供してもらえるだろうと説明している。以降長崎近郊の調査活動に関する資料がバタビア総督府に提出されるようになった[69] 。この動きの背景には1667年から1682年にかけて東インド会社の医薬品の総責任者としてバタビアの両薬局と医薬品倉庫を管理していたクライアーがいたに違いない。就任してまもなくクライアーは会社の貿易圏における代替薬の調査を開始し、ドイツ人庭師マイスター(Georg Meister, 1653-1713)と薬局附属の薬園で様々な植物の栽培を研究していた[70] 。その活動の詳細は不明だが、クライアーが1679年に総督府に提出した代替薬に関する覚え書きにはペルシアから日本まで各地域の医薬品が掲載されている[71] 。また、薬局の運営を辞退してから、彼は商館長として2度も(1682〜1683年、1685〜1686年)来日し、同伴していたマイスターとともに日本の植物に関する資料を収集している。1687年に帰国したマイスターの『東洋的インド的園芸家』(1692年刊)とクライアーがドイツ学士院(Leopoldina)の機関誌で発表した一連の挿絵付きの論文によりヨーロッパ人は初めて日本の植物について知ることになる[72]


 


 

おわりに — ヘックの活動の位置づけについて

上記の分析が示すように、紅毛流外科の普及につれ生薬、薬草の分野においても様々な変化が起こった。これらの特徴と意義は決して小さくない。種、苗、蒸留器及び専門知識を有するオランダ人の派遣を求めたのは幕府だった。江戸後期の蘭学者と幕府との緊張関係を振り返ると、1650〜70年代の政策責任者の活躍は画期的だったに違いない。両長崎奉行は会社に対し、様々な要請は将軍からのものであり、その内容をバタビア総督へ伝達するようにと再三にわたって念を押し、異例の強い調子で会社側の姿勢に対応したので、この件が老中レベルで決定されたことは確実である。興味深いことに、個人的に様々な医薬品、医書、地球儀等々を注文し、会社のパトロンとされた老中稲葉美濃守正則の姿はこの件の関係ではまったく見られない。ヘックの注文及び毎回の報告書の提出、加えて両奉行の振る舞いには、江戸からの圧力が感じ取れる。また、待望の蒸留器がなかなか納品されないので、せめて地元の植物調査を成功させようとする意欲が色濃く伝わってくる。これは八代将軍吉宗の有名な薬草政策より半世紀も早く起きた画期的な試みだった。また、ヨーロッパ人に国内の植物調査を依頼していた関係者は中国の本草書だけでは日本の植物は十分に把握できないという意識を持っていたに違いない。この精神は、列島の自然の特殊性に目を向ける本草学の新時代を開いたと言われる貝原益軒の『大和本草』(宝永6年刊)を導くことになる。

オランダ東インド会社側が日本側の要望に真剣に取り組んだことは、商館長日誌及び様々な書簡から容易に判断できる。ヘックの個人的な能力に関しては、バタビア総督府も日本の当局も同じ評価に至ったが、長崎湾で行われた薬草調査の成果は、初期紅毛流外科の版本にも反映されたと同時に、バタビア総督府の目を日本の植物に向けさせるなど、その影響は多大なものであった。このヘックの調査活動により、幕末まで続くオランダと日本の植物学交流が始まった。以降、より多くの専門的知識を有する薬剤師ブラウンをはじめとして、会社の医薬品を取り扱ったアンドレアス・クライアー、彼の庭師ゲオルク・マイスター、そして日本の植物界を初めて総合的に調査したケンペルが来日する。そういった意味でヘックの薬草調査や種蒔きは極めて有意義なものに発展したと言える。


 


脚注
[1]    関場不二彦『西医学東漸史話』吐鳳堂書店、東京、1933(昭和8)年、上巻、240〜241頁。残念ながら、関場が利用した「證治指南附錄」の所在は不明である。
[2]    宗田一『日本医療文化史』思文閣出版、京都、1989(平成元)年、128、130頁。
[3]    シャムベルゲルとカスパル流外科については、ヴォルフガング・ミヒェル「日本におけるカスパル・シャムベルゲルの活動」『日本医史学雑誌』第41巻第1号(1995年)、3〜28頁。ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(I」『日本医史学雑誌』第42巻第3号(1996年)、41〜65頁。「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(II」『日本医史学雑誌』第42巻第4号(1996年)、21〜45頁を参照。
[4]    メイラは後ほどミイラとして誤解され定着してしまった。
[5]    ヘルテ=ポルトガル語verde。
[6]   「阿蘭陀外科医方秘伝」、写本、者者不明(東京、故佐藤文比古蔵書)。
[7]    Wolfgang Michel: Von Leipzig nach Japan - Der Chirurg und Handelsmann Caspar Schamberger (1623-1706). Iudicium, München, 1999.
[8]    1554年以来この本は版を重ねていたが、日本に届いたのはおそらく1644年版と思われる:Dodonaeus, Rembertus: Cruydt-boeck : met Biivoeghsels achter elck Capitel, uyt verscheyden Cruydt-beschrijvers : Item, in't laetste een Beschrijvinghe vande Indiaensche ghewassen, meest ghetrocken uyt de schriften van C. Clusius : Nu wederom van nieuws oversien ende verbetert. Antwerpen, 1644. 18世紀を中心にこの本草書の受容を追究する興味深い本がある:Dodonaeus in Japan (ed. by W.F. Van de Walle), Leuven UP, International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, 2001.
[9]    National Archief 1.04.21(以下はNA), Nederlandse Factorij Japan (以下はNFJ) 776, バタビア発の船の送り状、1652年11月7日。
[10]    “tzickingodo liet vragen off de niet ijmand onder onsen ware, die dodoneus cruijtbouck hem int Portugees conde vertalen, neen hebbende op g'antwoort, en dat sulcken geheelen werck met geen cleijne kennisse inde tale, als gemeenelick onder ons is, te verrichten sij” NA, NFJ 66, 出島商館日誌、1653年1月17日。
[11]    その件に関するオランダ側の記述がある。「夕刻、小田原の城主稲葉美濃様が、腕に怪我したのを診察するため、城内から外科医を招かれたので、直ちに遣わした。」NA, NFJ 63,出島商館日誌、1650年2月10日。
[12]    “wat aengaet 't voorschreve g'eijste boeck 't selve was wel maer de kruijden daerin afgebeelt waren te kleijn, en niet wel geschildert, souden sien off hem in 't aenstaende een grooter boeck, daerinne oock grooter figuren stonden, konden beschicken, och arme menschen! hoe weijnigh weetje vande voortreffelijckheijt van sulcke of diergelijcke wercken te oordeelen, want meenen dat sulcke boecken van allerleij soort (gelijck in een schoenmakers winckel de schoen) te becomen zijn.” NA, NFJ 72, 出島商館日誌、1659年4月4日。
[13]    NA, NFJ 90, 出島商館日誌、1676年11月14日。
[14]    NA, NFJ 60, 出島商館日誌 、1647年4月11日。NA, NFJ 62, 出島商館日誌、1649年5月5日、1649年9月16日。
[15]    NA, NFJ 65, 出島商館日誌、1652年5月1日。
[16]    NA, NFJ 70,出島商館日誌、1656年12月12日。ハンケについては、以下の文献を参照。ヴォルフガング・ミヒェル「出島蘭館医アンス・ユリアム・ハンケについて」、『言文論究』第7号(1996年)、83〜96頁。
[17]    NA, NFJ 71, 出島商館日誌 、1657年12月17日。
[18]    NA, NFJ 71, 出島商館日誌 、1657年11月14日。
[19]    NA, NFJ 71, 出島商館日誌 、1658年6月17日。
[20]    NA, NFJ 73, 出島商館日誌 、1660年6月19日。波多野玄洞についてはミヒェル・ヴォルフガング、杉立義一「太田黒玄淡の阿蘭陀外科免許状とその背景について」『日本医史学雑誌』 第49巻第3号(2003年)、457〜458頁参照。
[21]    NA, NFJ 81, 出島商館日誌、1668年9月28日。
[22]    NA, NFJ 82, 出島商館日誌、1669年7月19日。その徹底と周知のためバタビア総督府が1670年4月18日に出した告令の内容は出島商館日誌の記述より遙かに詳細なものである。Van der Chijs, J. A.: Nederlandsch-Indisch Plakaatboek, 1602-1811. Tweede Deel, Batavia: Landsdrukkerij / s' Hage: Nijhoff, 1886, pp. 509-512参照。
[23]    “Ten laetsten wiert g'eijscht een bejaert persoon bequaem en g'expermenteert omme te trecken extracten, olien en wateren uijt allerhande groene medicinale cruijden, beneffens de nodige instrumenten daer toe moetende dienen. Item diverse jonge spruijten daer men de zade niet wel versch in Japan om te zaijen van can overbrengen, omme aen te planten en voort te connen queeken: welcke voorz: mandaten en 't versoeck van de distelateur en cruijden kenner, door des Keijsers last ende der Rijcxraden ordre door meergen[oemde] governrs, nu expres op 't laetst van 't vertreck wiert de novo indachtigt, hoewel 'tzelve genoech in Jedo was geschiet op dat het selwe te naeuwer te observeeren en voor ernst te achten, mitsgaders aen den Ed. Heer Governor Generael te rapporteren hadden.” NA, NFJ 80,出島商館日誌、1667年11月6日。17世紀末頃東インド会社の歴史をまとめたPieter van Damも、この要求の重要性を認識している(Pieter van Dam: Beschryvinge van de Oostindische Compagnie. Uitgegeven door F. W. Stapel. 's-Gravenhage, M. Nijhoff, 1976, Deel II, 2, p. 443)。
[24]    NA, NFJ 299, バタビア総督府より出島商館長宛ての書簡、1668年6月29日。
[25]    この蒸留器と蒸留技術の導入については、以下の文献を参照。Wolfgang Michel, Elke Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan『日本医史学雑誌』第50巻第4号、463〜492頁。
[26]    Kraft, Eva: Andreas Cleyer. Tagebuch des Kontors zu Nagasaki auf der Insel Deshima 20. Oktober 1682 - 5. November 1683. Bonn (Bonner Zeitschrift für Japanologie, Band 6), 1985, pp. 36-44.
[27]    NA, NFJ 301 (ingekomen en uitgaande brieven), 商館長François de Haasよりバタビア総督府宛ての書簡、1670年1月9日。
[28]    NA, NFJ 82, 出島商館日誌、1669年7月20日。
[29]    “een ander geschrift, hier voor, van inhoude dat d'Edle Heer Generaal op den eijsch der Rijxradeen een cruijden cender en distelateur gezonden hadden was el gedaan, maar sij zagen gaarn datter noch een perzoon bij gezonden werde van meerder bequaamheijt en jaren en nevens dien d'instrumenten daar toe nodich, wijders alderhande wortels en saaden van medicinale cruijden, nu twee jaren naar den anderen gevordert tot noch niet becomen” NA, NFJ 82, 出島商館日誌、1669年10月12日。
[30]    “De distillateur of kruijdekenner die de Japanders nu een Jaer off 2. aen den anderen geeijst hebben gaet nu op een der schepen over, maer off hij al de qualiteijten hebben sal die de Japanders in hem begeren en weten niet wel. Wel worden hier bericht dat al die qualiteijten selden in een man gevonden worden; dat sulcke persoonen in Hollant selfs seer weijnigh bennen en om na Indien te gaen selden resolveren en daerom hier so schaers uijt te vinden sijn. Daeromme sooder iet aen sijn persoon ontbreeckt dat we onse uijtterste beste willen doen om haer nae desen meerder vergenoeginge te geven.” NA, NFJ 299, バタビア総督府より商館長Daniel Six宛ての書簡、1669年5月20日。
[31]   “Wij [= 商館長] hadden het liever niet, omdat het door gebreck van instrumenten maar verlooren costen zoude wesen” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年1月9日。
[32]    NA, NFJ 83, 出島商館日誌 、1670年1月24日。
[33]    NA, NFJ 83, 出島商館日誌 、1670年6月4日の日付でのギリス日誌の抜粋。
[34]    NA, NFJ 83, 出島商館日誌 、1670年6月4日(ギリス日誌の抜粋)。
[35]    “Offer op battavia geen instrumenten gemaecht werden en off daer niet gedisteleert wert. Antwoort wel eenige copere instrumenten wierd gemaecht, daer eenige olijen inne gedisteleert wierden, maer dat alle glase instrumeten uijt hollant mosten comen.” NA, NFJ 83, 出島商館日誌 、1670年8月24日。
[36]    NA, VOC 1297, fol. 382r (Generale Missive, 1675年1月31日)
[37]    “Den apotheecker Godefried Haeck is U. Ed. h. achtbaerheden instantelijck versoeckende zoo het mogelijck is omme zijn demissie, dewijle zijn tijt in Julij aenstaende compt te expireren en hij inclineert naar 't patria te vertrecken, 't schijnt hij zijn competentie in Japan al heeft, en tot verblijf met jaren resolveren souden, waeromme dan onderdanichst een gunstige antwoort te mogen erlangen”. NA, NFJ 302、商館長Martinus Caesarよりバタビア総督府に宛てた書簡、1671年1月16日。
[38]    “En weegen het versoock door den Appoteeker Godefried Haeck aen haere Edt gedaen om sijn verlossinge sijden het aen den Gouvernr en niet aen den Edle Heer Generaal en stondt sooder [zo er] al een ander quam, dat immers buijten alle reedelijcheijt is waer meed zij oock genochsaem haer stoutheijt toone dat hart om verdraegen valt.” NA, NFJ 84,出島商館日誌、1671年1月15日。
[39]    NA, NFJ 302 (ingekomen en uitgande brieven), バタビア総督府より出島商館長宛ての書簡、1671年5月19日。
[40]    NA, NFJ 85, 出島商館日誌、1672年9月11日。
[41]    “s'morgens met den dach quamen de tolken uijt den naam van den Nangasackijschen stadt voog[d] den arbarist off kruijten kender van 't Eijlandt halden om hem te geleijden naar't gebergte ten eijnde om kruijden te zoeken. 'Savonts retourneerende, rapporteert dat hij vierentwintich derleij cruijden gevonden hadde, 'twelk een goet begin en den Gouvernr (soo de tolken zeijde) wel bevallen hadde.” (NA, NFJ 82, 出島商館日誌、1669年8月1日)
[42]    “den appoteeker is heden uijt geweesen om kruijden te soeken: en heeft tot genoegen van den Gouvernr eenige gevonden” (NA, NFJ 82, 出島商館日誌、1669年8月23日)
[43]    NA, NFJ 301, 商館長François de Haasよりバタビア総督府宛ての書簡、1670年10月19日。
[44]    「薬草ノ名並和文扣」(外題)、写本、写者不明(京都大学附属図書館所蔵)。巻末の説明文は宝暦年間以降に書かれたので、写本自体は江戸後期のものと推測される。
[45]    “quamen alle de tolkenen uijt gouverneurs beveel den apotheker Godfried Haak afvragen, oft hij hem geheel off maer ten deele verstaet op het trecken van oliteijten, speritus etca uijt alle cruijden en wanneer het den besten tijt zal weesen om opt lant cruijden te gaen zoecken na dat de tolken gij geschrift hadden gestelt zijn anntwoorde (dat hij alle instrumenten en ingredenten hebben) conden trecken en prepareren alle dingen die met vaderlant gemaekt werden als hij de cruijden daerto bequaem zijn hier conde vinden, en dat het inde menden mey en juni zijnde hier conde vinden, ende dat het inde maenden mey en juny best was tiete gaen zokken.” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年2月23日。
[46]    NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年6月4日(ギリス日誌の抜粋)。
[47]    “den apotheker is heeden met den tolken en twee onder bongoisen int velt buijten de stadt geweest ende hebben eenige cruijden gevonden, daer van hijt gebruijck aen her te kennen gaf.” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年7月12日。
[48]    “den apothecker wiert voorden Gouvernr geroepen en door zijn Et afgevraecht offer in Japan geen meer kruijden waren als hij tot noch hadde gevonden. Antwoort dat maer omtrent Nangasacky was geweest ende verder niet con spreken.” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年8月23日。
[49]    関場不二彦『西医学東漸史話』上下、吐鳳堂書店、東京、1933年、上巻、340〜341頁。宗田一『日本医療文化史』、128頁。
[50]   NA, NFJ 84, 出島商館日誌、1671年8月4日。
[51]    “den 28. april en 7 mey   was onsen appoteecker uijt last des gouvers uijtgehaelt, om int veldt kruijden te gaen soecken, eenige gevonden zijnde, zijn doors'gouverns schrijver opgesz:, en den 8e en 9e do hare crachten en hoe die moesten gebruijt werden opgegeven” NA, NFJ 84, 出島商館日誌、1671年5月22日(ファン・ヘイニンゲン日誌の抜粋)。
[52]    “wiert onsen appoteecker benevens een assistent uijt gehaelt door last des governeurs om kruijden te gaen soecken aen de overzijde van de baij en coomen naermiddags omtrent te vijf uren weder, hadden al verre int lant geweest doch niets nieuws gevonden.” NA, NFJ 84, 出島商館日誌、1671年7月29日。
[53]    商館長たちは1670年秋にバタビア総督に対し、この依頼の重要性をあらためて指摘している。“Aen dese voornoemde drie dingen aen den anderen dependerend schijnt de Japansche regeeringe haer veel gelegen te laten zijn ende ware goet haer daerin contentement conde toegebracht werden.” NA, NFJ 301 (ingekomen en uitgaande brieven). 新旧商館長François de HaasとMartinus Caesarよりバタビア総督府宛ての書簡、1670年10月19日。
[54]   NA, NFJ 83,出島商館日誌、1670年8月3日。
[55]    “des namiddachs comen den tolken met verkaastheijt wegens den Governr ons afvragen hoe out de zaden sijn, die nu van Battavia hebben gekregen, en zijne gisteren bij geschrift zijn opgegeven uijt wat landt de comen en op wat tijden vant' jaer in ons lant gezaeijt werden” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年8月17日。
[56]    NA, NFJ 301 (ingekomen en uitgaande brieven), 新旧商館長François de HaasとMartinus Caesarによるバタビア総督府宛ての書簡、1670年10月19日。
[57]   NA, NFJ 83,出島商館日誌、1670年8月4〜17日。
[58]    “wat belangt de wortels en zaden van de medicinale kruijden deselve en sijn noch en comen uijt Hollant niet, maer meest uijt vreemde landen als Italien, Turkijen, Igipten en elders, en sijn oversulx niet wel om te bestellen (dat soo voor eerst haer Et can worden aengedient ofse misschien daer genoegen in mochten scheppen dat soo verkopen willen) evenwel soo veel als hebben weten bij te brengen senden noch.“ NA, VOC 894, p. 393, バタビア総督府より商館長François de Haas宛ての書簡、1670年6月16日。
[59]    “Den apotheker diende hier oock wel een goet doctoor in de medicijnen te weesen en noch soude hij dit volck geen volle contentement connen geven.” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年8月17日。
[60]   NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年9月8日。
[61] “Van de medicinale planten en zaden wert nu soo veel werk niet gemaact als voor desen. Zijnde de planten voorleden jaar gesonden 't enemaal verdort en uijtgegaan, mitsgaders van de zaeden niets opgekomen. Hoedanigh het met de jongst overgecomene planten sal afflopen moet de tijt leren, sullende nae ons oordeel de aancomende winter en coude niet kunnen uijtstaen.” NA, NFJ 303, 書簡、1670年11月12日。
[62]    “In het den Gouvernr vragen oft niet mogelijck wat uijt hollant zaaden van een jaer out in japan te brengen om noch gezaijt te werden in het voor jaer daeraenvolgende hirop gaven tot antwoorde den de nieuw zaaden uijt vaderlant niet connen op battava weesen als naa t'vertreck der japanse scheepen en dan tot het jaer daeraen daemede was dat het niet zoude werden versuijmt om Japan dienst te doen.” NA, NFJ 83, 出島商館日誌、1670年9月8日。
[63]    “en den 10e do [= meij] weder gehaelt sijnde moest hij eenich saet dat verleeden jaer van Bata is gesonden geworden, zaijen; en wiert hem oock gevraecht hoe het toe quam, dat het saet t'welck by haer tot drij maelen nu was gesaeijt niet open quam, waer op hij in antwoordt hadt gedient, hij zulckx niet enken weeten, maer oordeelde het daer bij toe te komen dat het saet eerst uijt hollandt op bata, en van daer weder hier moest gebracht werden, en door de oudeht bederven onderworpen was, als oock dat hij sustineerde, dese heete climaet met die vant' vaderlandt, ende natuere vande zaeden, niet over een en moeste comen, waer mede hij naer het zajen weder gebracht wiert.”NA, NFJ 84, 出島商館日誌、1671年5月22日(ファン・ヘイニンゲン日誌の抜粋)。
[64]    句点は筆者により付された。
[65]    嵐山甫安に関しては、以下の文献を参照。ミヒェル・ヴォルフガング、杉立義一「太田黒玄淡の阿蘭陀外科免許状とその背景について」『日本医史学雑誌』第49巻第3号、461〜464頁。
[66]    「繕生室医話」下乾、「藥草ノ能」、嘉永4年写、(京都大学附属図書館蔵)。
[67]    「蘭方草木能毒集」乾、坤(2冊)、写本、写者不明、(筆者蔵)。
[68]    「蘭方草木能毒集」乾。
[69]    “Bij de ingesloten lijste zullen u E. blijken wat cruijden den apotheker hierbuijten Nangasackij gevonden heeft, ende die wij wel zouden connen becomen als de Japansers ons die wilden gaen plucken en op het eijlant brengen maer de gelegentheijt alhier ist er niet na om daer op eenige staet te connen maken.” NA, NFJ 301, 商館長François de Haasよりバタビア総督府宛ての書簡、1670年10月19日。
[70]    マイスターについては、以下の文献を参照。Wolfgang Michel: Die Japanisch-Studien des Georg Meister (1653-1713).『独仏文学』第35号(1986年)、1〜50頁。
[71]    NA, VOC 1341, fol. 760ff. (バタビア総督及び東印度協議会宛ての覚え書き、1679年11月19日)
[72]    詳細については以下の文献を参照。Wolfgang Michel: Andreas Cleyer. In: Engelbert Kaempfer - Heutiges Japan. Herausgegeben von W. Michel und B. J. Terwiel. Band 1/2, pp. 95-99.

 

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