ミヒェル・ヴォルフガング「江戸・明治期の信州における医療器械について」。『信州モノづくり博覧会 ー モノづくりの東西交流』図録、長野市立博物館、2006年1月、55〜63頁。
Wolfgang Michel: Medical Instruments in Shinshû During the Edo and Meiji Period. In: Inventions in Shinshû. Special Exhibition Catalogue, Nagano City Museum, Nagano, January 2006, pp. 55-63.
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https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/handle/2324/2900
Catalogue

 

 

W・ミヒェル

江戸・明治期の信州における医療器械について


 近世医療の世界

今日西洋医学対東洋医学という二極的な形で対比させられている国内の医療の歴史を江戸時代に遡って調べてみると、その多様性に圧倒されそうになる。各地域の伝統を継続する民間治療をはじめとして、中国の金元医学を受け継いだ後世方派、それより遙かに古い『傷寒論』を中心に経験や実証に基づく方法論を唱えた古方派、様々な理論と経験を結びつける折衷派、西洋の医学と医療を取り入れようとしていた蘭方の流派があり、これらは西洋医学であれ東洋医学であれ、海外からもたらされる「教義」に対する日本人の独自性と弾力性を物語っている。朝廷、幕府、藩に仕える医師の場合には一定の身分制度が導入されていたものの、医学・医療の世界が原則として自由だったことが、その柔軟さの一因といえるかも知れない。反面では、町、村、街道などで患者の治療にあたる人々の実力は様々だった。また、専門家としての養成や位置づけは西欧における大学や同業者組合のような組織ではなく、個人を元祖に家系に似た連続性をもつ「流」という集団の中で行われたので、知識の共有と普及は多少遅れ気味だったと思われる。いずれにしても、発達した街道と流通システムのおかげで、有用なあるいは興味を引くような物や情報が地方まで届いたことは、現存の器物と文書資料から見てとれる。当時の各流派や地域の特異性は、広範囲で均質的な土台の上に成り立っていたようである。

 

 江戸期の医療器械

現在の医療文献に見られる医用器械、医療器械、医科器械、医療器具、医療道具などの用語は明治期以降誕生したもので、治病と衛生に関する器具機械の総称として使われている。当時の発達の勢いはすさまじいものだった。大正12年、医科器械の研究と普及のために日本医科器械学会が設立された。昭和9年に医科器械全般を論じた北川順は既に12の分野に区別したが、その後細分化と高度化は進む一方である。

江戸時代に遡ると、用語も器物の数も著しく少なくなる。文化文政年頃の外科道具師の製品紹介は引き札1枚で十分だった。また、江戸中期にその外科術と開発力で歴史に名を残した華岡青洲が使った手術道具は20〜24種類に過ぎない[1]。しかし、外科以外の分野も忘れてはならない。賀川玄悦は難産を救うために「回生鈎」を考案し、19世紀の産科医が利用した探頷器、纒頭絹(てんとうけん)、包頭器などは西洋人の興味も引いた。眼科医は中国と西欧両方の医術を視野に入れていた。天保8年刊の『続眼科錦囊』が描く漢蘭折衷派の眼科器械は36種に及ぶ。17世紀に遡って、伊良子道牛を元祖に代々医業を営む伊良子家の器物資料を見ると、華岡流の道具を含む十数種類の外科道具とともに、初代道牛が元禄年間に創製した整形術用の竹籬(ちくり)が注目に値する。いうまでもなく、内科(本道)の医師は生薬やお灸だけを応用したわけではない。中国から伝わった九針と各利用法は日本でさらに変化し、16世紀後半の僧侶無分が考案した打鍼と杉山和一が発明した管鍼に発展した。後者は今日世界中で使われている。歯科器械として抜糸鉗子など口中療治の道具も十数種類日本で確認できる。漢方薬の調合のための挽き臼、薬研、乳鉢、箱篩(はこぶるい)、薬匙、天秤、製丸器、計数匙なども医療器械に含まれる。また、西洋医学の教育が徹底された幕末頃には外科医療器械のセットも日本人の手に入るようになった。

 

図1 その鉄釉の地と不規則模様で風変わりな高遠焼の蒸留器(ランビキ)。高遠町立歴史博物館蔵

 

多目的利用のものもあった。虫眼鏡は17世紀から、顕微鏡は18世紀初頭から輸入されたが、医学関係での利用はおそらくずっと後のことになる。硝子製の西欧蒸留装置は早くも寛文12年に陸上げされ大いに注目を浴びたが、日本の医師は19世紀まで、比較的扱いやすく価格も安い陶器製ランビキを薬油と蒸留酒の製造に使っていた。

摩擦起電機に関する知識は18世紀半ばに日本に伝わり、平賀源内が安永6年頃に製作した「エレキテル」として早くも国産化に成功した。松代藩の佐久間象山の「ガルハニセスコックマシネ」(電気ショック機器)は、文久2年には夫人の病気治療に使用され、効果を上げたと記されている。しかし、国内外の珍品を売る店が描かれた摂津名書図絵(寛政8年刊)に見られるように、エレキテルは医療器械としてよりも庶民の好奇心をかき立てる見せ物としての性質が強かった。同様な現象はヨーロッパでも見られた。

 

 

 医療器械の輸入と流通

密貿易は別として、江戸時代の医療器具はすべて長崎の出島オランダ商館及び中国商人用の唐人屋敷を通じて上陸した。中国のジャンク船がもたらした品々には医療器具も含まれていたであろうが、鍼術用の針は国内の職人も製造できたので、輸入量はそれほど多くなかったと思われる。史上初の株式会社として設立されたオランダ東インド会社の貿易資料からは、既に17世紀半ばから西洋医療器具の輸入が始まったことが窺える。紅毛流外科の誕生とともに各種薬や道具の記述が、多くの蘭船の送り状に確認できるようになる。高価なものの多くは商館長の江戸参府の際の献上品として将軍や老中の手に渡ったが、蘭方医学に関心を寄せる医師が増えるにつれ、商館長や商館医が重要と思う人物に少数の器具を贈ることもあった。

 

図2 微塵鏡(江戸後期)。
木祖村宮川家蔵。

 

19世紀の引き札に見られるように、外科道具を扱うのは薬種商が多かったようである。特に地方の医師の状況を考えると、薬と医療器械は同じルートで流通していたことが容易に理解できる。九州の需要は長崎で満たされたが、本州の場合は大坂道修町の商人と江戸日本橋の商人が大きな役割を果たした。

 

 

 医療器械製造者

すでに述べたように、鉗子、メス、焼小手、針などのような単純な輸入品は間もなく国内でも製造されるようになった。地方の医師は製造の際、おそらく近くの鍛冶職人に依頼したと考えられるが、特に鉄製のものの多くには何の刻印も入っていないので、その背景を特定することは不可能である。

江戸後期に蘭方の人気が高まった時に、京都の雙龍軒清水光邦、真竜軒安則、奈加本久則など、一種のブランドの確立が試みられるようになる。真竜軒に至っては製品に保証状を添付していた。これは製造者の意欲の証しである。長崎の広瀬九左衛門の名前も当時の引き札に見られるが、西川如見『長崎夜話草』(享保5年序)には「外科道具 南蠻紅毛廣を根本とす」と記されており、江戸後期の広瀬の実体は疑わしい。

 

図3 フランス・シャリー社の外科器械(幕末頃)。長野市松代町の真田宝物館蔵。

 

 

 

 信州における江戸期の医療器械

冬の山脈地帯では人と物の往来はまばらだったであろうが、冬以外の季節は、中山道とその脇街道により信州は関東と関西という中核地域と結ばれ、また、日本海へも繋がっていた。

松本の中島尚誠堂初代社長の回想録を見ると、明治期の医科器械売りは商品を柳行李に入れて大風呂敷に包み、草履ばきで至る所にいる医師を訪問して注文を受けながら品々を販売していた。江戸時代の町・村医師は、地元で作れない器具をこのような行商人から入手したと思われる。また、伊勢参りなど旅の帰路に京都・大坂に立ち寄り必要なものを入手したこともあったであろう。信州地方に現存する医療器械がその他の地域とほぼ同様な内容であることも、当時の流通システムが十分に機能していたことを裏付けている。

眼科道具についていえば、天明5年から木祖村の民蘇堂で開業した野中家が史料館で公開している家宝は、京都で江戸時代から活躍している眼科医奥沢家の史料館の内容とほぼ一致しており、木曽地方における高度な眼科の歴史を見事に反映している。

同じ木祖村で医師を勤めた宮川家の収集品には、百味箪笥、薬箱、薬匙、天秤、メス、ランセット、各種鋏、聴診器など通常のもののみならず、解剖学関係の写本及び掛軸なども認められ、その専門的関心の幅広さを示唆するものである。

長野市中川町今井の丸山医家の収蔵品からも同様の印象を受ける。蘭方の浣腸器、カテーテル、華岡流のヒストルメスなど数々の外科治療用の器械とともに、鍼術の各種針や製薬道具及び生薬が共存し、江戸時代のいわゆる蘭方医や漢方医と呼ばれる流派の境界線は極めて曖昧であったことが実感できる。12代目宗仙以来の蔵書を記録した、慶応3年の杏林館の蔵書目録に目を通すと、『傷寒論』、『本草綱目』、『難経』など東洋医学の数々の古典と並び、『扶氏経験遺訓』、『医範提綱』、『婦嬰新書』などの西洋医学書が目に付くが、洋書に関しては13代目丹治が積極的に購入した。また、同家の器物の中の木造の箱に入っている一連のものは興味深い。ところどころに見られる製造者の銘から販売元が様々であったことが分かるからである。

至る所でそれぞれの専門範囲の枠を超えた、当時の持ち主の好奇心や遊び心を示すものが確認できる。上記の蔵書目録には四書五経、『史記』、『左伝』、『国史』などの古典が見られ、宮川家の場合は微塵鏡と望遠鏡がその代表的なものとなる。長野市中川町今井の丸山医家の顕微鏡も純粋な研究道具として用いられたのではなかった。特に丸山家10代目の関心は医術のみにとどまらず書画、押花、茶道、詩作を好み、地域の文人の典型であったようだ。

現存の古い顕微鏡は必ずしも医学研究のために使われたわけではない。長野丸山医家の豪華な顕微鏡(万延元年購入)の利用に関する足跡は残っていないが、木祖村で代々医師を営んだ宮川家の微塵鏡(京都の嶋本万右エ門製)を容れた箱の蓋の裏側に「此顕微鏡何方御参候とも見終り候ハゝ早速持主へ御返し可被下候」と記してあり、この顕微鏡が人々の手から手へと回りながら様々なモノの観察に使われ、各人の好奇心が自分一人だけのものではなく、共同体全体を刺激するものだったことを示している。また、明治期に東京のいわしや松本商店から購入された上田佐藤家の輸入品は、人間の医療のためではなく、養蚕を脅かす微粒子病の検査のために導入され、発達していく産業が必要とする高度な器具の事例として興味深い。

松代真田宝物館が保管している外科器械は、もう一つの医療の場へと導くものである。銃や大砲等近代的兵器が導入された戊辰戦争は国中の医師に多大なインパクトを与えた。松代藩は将来に備えるためか、穿顱器(せんろき)、圧絡帯、瀉血器などの治療・手術用フランス製(Charriere社)外科器械セット(図3)とともに、禁血帯、骨鋸、切断刀、鋏などのイギリス製(Maw & Son社)切断器具セット(2点)を購入した。後者のセットの一つは利用された形跡を示している。

 

図4 小林清隆発明の「平流乾燥電気装置」(明治29年頃)。木祖村宮川家蔵。

 

 

 明治期の転換

明治2年、新政府がドイツ医学の導入を決議すると、漢方医学から西洋医学への転換が急速に進み、ドイツ製品を中心に大量の新しい医療器械が医療の現場に次々と現れた。その市場に着目した東京のいわしや松本市左衛門や石代十兵衛、大阪の山口庄兵衛と白井松之助、名古屋の八神幸助などが草分けであった。初期の医科器械商のほとんどは、薬種商、硝子壜商、鍼術用針製造業などから転業した者である。地域を巡回する業者は、次第に乗合馬車、自転車、車、ついには電車を利用するようになった。海外の製造者から医療器械を輸入する業者の中では、東京のいわしや松本と信州との関係が深かった。また、信州地方での長年の経験に基づいて松本で設立された中島尚誠堂という地元業者の役割も重要だった。東京の業者松本市左衛門の『医用器械図譜』、大阪の白井松之助が刊行した『医療器械図譜』などの前書きに記されているように、次から次へと導入される見知らぬ器械の普及において、これらのカタログは販売促進の資料というだけでなく、地方の医師たちの教材として刊行され、製造販売者の高い誇りを表すものでもあった。

これら明治初期のカタログに、「瓦爾華尼電気機」(がるばにできき)、「感流電気装置」、「摩擦電気装置」などの名称で、近代の大型医療器械の原点となった、比較的構造の複雑な電気治療器が登場した。既に18世紀半ば頃にはエレキテルという摩擦起電機が知れ渡っており、このような輸入品のさらなる国産化は比較的順調に行われたと推察できる。木祖村宮川家の「平流乾燥電気装置」(図4)は、明治29年の「保険証」により、東京の小林清隆の新発明品で、製造元は熊本市の電機会社であることが分かる。さらに「鍼灸電気術」による治療を行った西二葉町の大河内十七次郎の名刺が保険証とともに保管されている。これらは明治年間に政府により排除された漢方界から、西洋系の医療装置を導入して自らの足場を固めようとする者が現れたことを裏付ける器物として注目に値する。

 

 

 参考文献

·    「更級医師会史」編集委員会編著『源遠流長 更級医師会のあゆみ』、更級医師会、1999年。

·    柳澤文秋『長野県明治医事誌』、社団法人上田市医師会附属医学史料館、1977年。

·    『中島尚誠堂創業五十周年記念 医療器械とともに六十三年 明治大正昭和三代の医療寸見』、中島尚誠堂、松本、1970年。

 

[1] バヨネット型剪刀、小手剪刀、曲剪刀、直剪刀、裁断刀、コロンメス、嘴管、球頭ヒス、鳥嘴型鉗子、大鉗子、先反鉗子、金槌、尿道管、烙鉄、篦、鋭篦、喞筒、口内鏡、有孔球頭ヒス、舌圧子、骨膜剝離子、吹粉器、穿刺針、弓鋸。



 

追加の図版

抜歯鉗子など歯科器械セット(幕末・明治初期)。長野市川中島町の丸山家蔵。

鼈甲製の顕微鏡(国産、1860年頃)。長野市川中島町の丸山家蔵。

外科道具箱(19世紀〜)。長野市川中島町の丸山家蔵。

 

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