ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩医大江春塘について」『中津市歴史民俗資料館 分館 医家史料館叢書』第6号、中津市、2007年3月、58〜77頁。
Wolfgang Michel: On Ôe Shuntô, Physician of the Nakatsu Clan. Nakatsu Municipal Museum for History and Folklore, Medical Archive Series No. 6, Nakatsu, March 2007, pp. 58-77.

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Cover Sosho 6

 

Keywords: Dutch studies, rangaku, bastaardt woorden-boek, Ooye Suntoo, Ōe Shuntō, Lodewijk Meijer, Woordenschat, Hendrik Boom, Jacobus Paracelsus, Okudaira Masataka
中津藩、江戸、蘭学、蘭学者、安全寺、藩医、大江春塘、大江医家、『バスタールド辞書』、ローデウェイク・メイエル、『語彙宝函』、春塘(軍司)、大江玄仙、大江雲澤、大江梅英博久、奥平昌高。

 

 

ミヒェル・ヴォルフガング

中津藩医大江春塘について


 

 はじめに

オランダ人メイエルの『語彙宝函・バスタールド部』といわゆる中津辞書として歴史に名を残した『バスタールド辞書』の対訳版を準備する際、後者の編者大江春塘(1787〜1844年)に関する情報の乏しさに悩まされた。本稿では新史料をもとに、春塘の生涯を再検証することにした。

 

図1 大江春塘の墓(中津市安全寺)

 

 

 1、先行研究と現存史料について

1822年に江戸で刊行された『バスタールド辞書』の正式な蘭語書名には大江春塘は「中津領主の侍医大江春塘」と記されている。

Nieuwe-gedruct bastaardt woorden-boek. Door Ooye Suntoo. Leefarts van den landsheer Nakats, t' Jedo. 1822.

日本語の語形を重視するヘボン式のローマ字表記と違い、ここでは発音を反映させようとしているため、江戸後期まで「え」のいわゆる初音として存続していた弱い [ɪ] が見られる(OoyeJedo)。

辞書を編纂できるほどの「領主の侍医」は当時の尺度でも大変貴重な人材だったに違いないが、彼を描写する史料は意外に乏しい。その一つは中津市の安全寺の墓の碑文である。文は中津藩儒者山川義之が撰したものである。

[正面]
「英長院釈昇道居士
 恵教院釈貞道信女
[裏面]
天保甲辰六月二十日大江君春塘
卒、其子博容議立石、君諱博文、
大江其姓考、梅英以医仕君、其長
子弗嗣、文化乙亥命為近習医師、文
政癸未賜十人之_、後七年出為外
班医師、寿五十八葬安全寺、先塋配
安倍氏、有四男二女、伯仲、夭叔乃博
容、嗣□□山時氏、長女適、小幡元如
次未嫁、余不敏甞辱君知逐次其概云
安政六己 未八月十二日
山川義之撰
磯田鎮武書」

(裏面の読み下し)天保甲辰6月20日大江君春塘卒す。其の子博容は立石を議し、君を博文と諱し、大江の其の姓を考す。梅英は医を以て君に仕え、其の長子弗嗣は、文化乙亥命ぜられ近習医師と為る。文政癸未10人の餼を賜ふ。7年の後、外班医師と為り出て、寿58にして安全寺に葬る。先塋は安倍氏を配し、4男2女有り。伯仲。夭叔の博容。嗣の□□山時氏。長女適。小幡元如次未嫁。余は敏からずして甞て君を辱なうし、逐次其の概を知りて云わん。安政6己未8月12日。山川義之撰す。磯田鎮武書す。

 

これまで頻繁に引用されている山崎有信の『豊前人物志』(1939年刊)は墓碑の情報を参照しているが、その他の出典不明の記述については信憑性は評価できない[1]。中津辞書を追究しながら様々な史料を初めて紹介した辛島詢士は大江春塘に関して、上記の墓碑や『中津歴史』(1891年刊)及び『下毛郡誌』(1927年刊)を挙げているが、両文献は史料的な裏付けを示していない[2]。家臣人名事典編纂委員会が1989年に発表した『 三百藩家臣人名事典 7』もまた同様の問題を抱えている[3]。昭和48年に謄写版として『奥平藩臣略譜集録』を発表した生田重倫は、分限帳などに基づき数多くの情報をまとめたが、大江春塘には言及していない。この満足できない状況を少しでも改善するため、中津の小幡記念図書館で調査したところ、「御家中系図 嘉永三年改」において春塘に関するこれまでで最も詳細な記述が見つかった[4]

大江久
先祖委細之義者、嫡家従大江有慶就書出候、畧之
大江梅英博久二男
博文 軍司 春塘 本國豊前
生国豊前
母東學院秀甫女
[1815] 文化十二亥年十月廿八日御近習御醫師被 召出二人扶持被下候
[1817] 同十四丑年六月十八日 御帰城御迎被仰付、同七月六日出立仕候
[1817] 同年八月十五日於江戸表御宛行籾十五名被下候
[1819] 文政二卯年五月十五日午前抱御中間被下候
[1821] 同四巳年十一月十日御用有之候ニ付、出府致候様被 仰付候
[1822] 同五午年閏正月出立仕候
[1822] 同年三月十二日剃髪名改被 仰付御召古御紋附御羽織被下候
[1822] 同年十一月廿四日於江戸表御書物御用有之候ニ付、長崎表江罷越候様被 仰付出立翌未年正月彼地着仕候
[1823] 同六未年三月十日長崎表御用本人公義御用ニ付、出府致候ニ付、伺之上中帰仕候
[1823] 同年七月四日家業出精ニ付、藥種料半高被下候
[1823] 同年九月廿八日御用ニ付長崎表江罷越、同十二月廿一日御用向相濟帰着仕候
[1823] 同年十二月廿八日御用向出精相勤候由ニ而捨人扶持被 仰付、同日長崎表江御用有之候ニ付、罷越候様被 仰付候
[1824] 同七申年正月十三日長崎表出立仕、同二月廿九日帰着仕候
[1826] 同九戌年正月十一日 御参府御供立帰被 仰付、同十五日 御廽郡御供被 仰付候
[1826] 同年二月廿三日家業出精仕候由ニ而藥種料本高被下候
[1826] 同年四月二日御用ニ付、長崎表江罷越候
[1826] 同年六月朔日御参府御供ニ而出立仕候
[1827] 同十亥年閏六月廿五日家業出精仕候由ニ而藥種料壹両増被下候
[1829] 同十二丑年二月十五日御帰城御供御迎被 仰付候處四月廿二日御類焼ニ付、早 御帰城ニ成御迎御間ニ合不申候ニ付、被成御免候
[1829] 同年九月朔日長崎表御用ニ付罷越候
[1830] 同十三寅年三月十九日有故而御近習被成、御免遠慮被 仰付候
[1839] 天保十亥年十一月御改革被 仰出候ニ付、年来被下来候午前抱差上功奉願候処、五ヶ年御受被遊御紋付御羽織頂戴被 仰付候
[1844] 弘化元辰年六月廿日死去仕候

残念ながら、この久(博羲)で終わる系図は、春塘の父の名を挙げながらも、それ以前のことや、中津のもう一つの大江医家に関する情報は提供していない。1979年に辛島詢士の論文が発表されたとき、春塘の子孫にあたる大江蔵人が中津市京町で内科医として活躍していたので、辛島が掲載した春塘以降の系図は当時の家督蔵人が提示したものであろう[5]。しかしこの系図には、養子として迎えられた小笠原藩医多田丈庵の次男が欠落していることが、「嘉永三年改」からわかる。

春塘(軍司) —— 春司(春亭。弘化42年1月卒) —— 久(養子)[6] —— 春水(明治40年5月28日卒) —— 鵬翼(昭和31年12月31日卒、88歳) —— 蔵人

その後、京町の大江家系は途絶え、直系の子孫はいなくなった。

埼玉県久喜市の大江和生が行った調査により、これまで認識されていなかった鷹匠町と京町の両家のつながりが明らかになった[7]。両家の血縁関係を裏付けるのは「小幡記念図書館蔵の「文化三年改」に集録された大江玄仙及び大江雄山(博行)の系図である。

初代大江五郎衛門の長男として生まれた大江玄仙は宝暦4(1754)年に栗崎流外科の免許状を受け、宝暦8年から小姓に召し出された。その後に賜った薬種代金は彼の医療活動を示しているが、外科医に任命されたのは安永三年だった。安永9年に家督となった長男文明は同様に藩医を務めていたが、後継ぎとなる息子がいなかったので、弟元泉が兄文明の養子となった[8]

 

大江五郎衛門(範行) —— 玄仙(玄道) —— 文明(範茂) —— 元泉(範古) —— 元明(範吉) —— 雲澤(範治、達義、1822〜1899) —— 億司(範敏) —— 忠綱 —— 満

 

明治4(1871)年12月に片端町に中津医学校が設立された際、華岡青洲の大坂分塾で医学を学んだのち、その医術と人柄で多くの患者や門人に慕われる大江雲沢が取立方となった[9]。当時、教頭として就任したのは京町の大江春水だった。両家のつながりは鷹匠町の大江文明の後継者問題に遡るようである。大江医家の存続が危ぶまれたためか、玄仙の門人と思われる高瀬村丈助が師匠の娘、つまり文明と元泉の妹と結婚し、京町の大江医家の初代家督となった[10]。従って大江雲澤までの流れは以下の通りである。

 



しかし、春塘の父梅英は次男であり、長男のことを忘れてはならない。春塘の生涯を伝える「嘉永三年改」の大江久系図は冒頭で嫡家の大江有慶に言及しているが、有慶の系図[11]は、その祖父博慶で始まり、久との関係を示していない。「文化三年改」に集録されている大江雄山の系図は、春塘の父博久で始まっている。その長男博元(良策)は養子として迎えられ医家の後継ぎとなった[12]。残念なことに、この嫡家の系図は有慶までしか再現できない。また、博元(良策)の実父高瀬村源助と春塘の祖父高瀬村丈助との関係も不明である。

 

博元(良策) —— 博慶(兼山。養子) —— 博行(雄山) —— 博通(有慶) —

 

 

 2、大江春塘の生涯

上記の史料をもとに、大江春塘の生涯をある程度把握できる。春塘は天明7(1787)年、中津藩医大江梅英博久の2男として生まれた。諱は博文、号は春塘。母は東学院秀甫の娘だった。上記の系図によれば、鷹匠町の大江玄仙の娘と結婚した高瀬村丈助は京町在住の大江医家の初代となり、春塘は3代にあたる。『中津歴史』や『下毛郡誌』では春塘が前野良沢に蘭学を学び、文化初年頃、昌高公の命令で長崎に赴き、6、7年にわたり阿蘭陀通詞の指導を受け蘭書を学習したとされるが、それを裏付ける史料は示されていない。

「嘉永三年改」の大江久の系図には春塘の活動に関する最初の確かな情報が見られる。それによれば、春塘は文化12年(1815)に近習医師に召し出され、二人扶持を賜った。当時27歳だった春塘がどこで誰に医学を学んだかは今後の課題の一つとなる。文化14年、帰城する予定の昌高公のお迎えを命じられ、江戸に到着してまもなく15石を賜った。しかし、昌高公は文政2(1819)年まで江戸に留まることになった[13]。昌高公は文政2年6月20日に中津へ入城したが、その約1ヶ月前に御中間になった春塘は殿様に同行していたと思われる。文政三年4月2日、再び江戸へ出発した昌高公は、「癇癪(かんしゃく)」のために滞府することになった[14]。江戸での滞在が長引いたためか、春塘は文政4(1821)年11月10日に出府を命じられ、文政5(1822)年1月1日に旅立った。

 


図2 メイエル『語彙宝函』(1688年版)の扉絵。大学の講堂に言語学(正面)、哲学(右奥)、医学、法学、神学の教壇が見られる[15]。壁には『語彙宝函』の3部門(外来語、術語、古語)の題目が刻み込まれている。(筆者蔵)
図3 『バスタールド辞書』(上巻)のタイトルページ。『語彙宝函』の1688年版にしか載っていない天使が『バスタールド辞書』に使用された。(香川大学附属図書館蔵)

この年に春塘が編集した『バスタールド辞書』が印刷された。このような力作は短期間で執筆できるものではなく、春塘は遅くとも文政2年頃に殿様の指示を受けたことが推測できる。この大きな仕事が完成した文政5年3月、彼は髪を剃り、改名し、御紋付きの羽織を賜った[16]。また、同年11月2日に江戸での「御書物御用」のため、長崎行きを命じられた。これは『バスタールド辞書』関係の任務だったと思われるが、その内容は不明である。完成したばかりの辞書を4年に1度しか江戸に行けない出島商館長に届けるためだった可能性は十分考えられる。

『バスタールド辞書』編纂の経緯に関する情報源としては、奥平昌高が巻頭に寄せたオランダ語の序文しか残っていない。その中で昌高公は時計を製造するために様々な道具が必要であるのと同様に、オランダの書物を読み、理解するには、種々の辞書、とりわけ「Bastaarde Woorden」(外来語)が必要であると強調している。オランダものの愛好家と自負していた昌高はまた、同様の考えを持つ数多くの「召使」(dienaeren)の中でも最も優れていた2人の人物の貢献を讃えている。一人は1810年に『蘭語訳撰』を刊行した神谷弘孝[17]、もう一人は『バスタールド辞書』の刊行に多大な労力を注いだ大江春塘という医師である。また間違いの訂正で「Sadayosi」という人物も大いに貢献した。それは、幕府の天文方に仕え、翻訳者及び蘭学者として数々の業績をあげた馬場貞由(佐十郎、1787〜1822)だった。彼は志筑忠雄からオランダ語を、出島商館長ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777〜1835)からオランダ語とフランス語を、また1811年に箱館で幽閉されたロシア海軍士官ゴローニン(Vasilii Mikhailovich Golovnin, 1776〜1831)からロシア語を学んだ秀才であった。彼の協力を得た背景には、昌高公の側近で『蘭語譯撰』の編者神谷弘孝の存在もある。馬場の妻は弘孝の娘だった。

もしも時計を制作しようと思えば、様々な道具を必要とするであろう。そのなかにはなにとりわけ鉄製のナイフ、ヤスリ、コンパスや小さな金槌を必要とするではなかろうか。同様の理由でオランダの書籍を読み、その言葉を理解するために、上記の道具のようなものとして、人は様々な辞書、とりわけ外来語の辞書を必要としている。
私はヨーロッパの物事の愛好家であり蘭書学習の向学心の素質をもっており、同様な素質の召使いも多くいる。そのなかの優れている2人の一人はKamija Filojoshiといい、もう一人は医師のooije zúntooというものである。前者は[4リスト誕生後[18]]1810年に多くの日々を費やし多大な苦労で私が編纂した日蘭辞典を刊行したのである。
後者はこの度、大いなる苦労で外来語の書物を刊行した。それは、B Sadajosiの訂正により洗練されたこの本である。
上記の医師は我らの庭に、非常に愉快で身体によく永久に存続する豊富な実をくれる大木を植え付けたことを嬉しく思っている。それは、我々日本の同胞たちの名誉になることを期待している。
中津の領主源昌高によって誌された
[キリスト誕生後]1822年に 江戸にて[19]

大江春塘と藩主昌高が最高水準の蘭和専門辞書を目指していたのは間違いない。底本のメイエルの『語彙宝函』は1669年の初刊から様々な改訂版でほぼ200年にわたりオランダ人に愛用された辞典である[20]。辛島詢士は大江春塘が利用したのは1698年版(Lodewijk Meijer: Woordenschat. Amsterdam, Hendrik Boom, 1688)だったという判断に至ったが[21]、松田清[22]も筆者[23]も別々の調査で1688年版を底本として確認できた。昌高公らがそれを購入していたのか、江戸や長崎で借りていたのかは明らかではない。医療業務のかたわら約8400語に及ぶ3スタート部の説明を日本語に訳すのはさぞ骨の折れる作業だったであろう。見出し語のほとんどは抽象的概念であり、それらの理解には相当な知識が不可欠だった。

文政6(1823)年3月、春塘は公儀御用のため江戸へ赴き、御用向を伺った上で帰郷する。オランダ商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)の日誌によれば、彼はその年にルネサンス医学の巨匠パラケルススを思わせる蘭名(Jacobus Paracelsus)を授けられた[24]

文政6年9月、春塘は再び長崎へ行き、12月21日に御用を済ませて中津へ帰った。同月28日にこの苦労が報われた。御用に励んだことから十人扶持を賜ると同時に、再び長崎御用を命じられた。彼は文政7(1824)年の正月に出発し、2月29日に中津へ帰った。残念ながら、長年にわたる長崎での活動の内容は全く示されていない。

文政8(1825)年の5月、昌高公に家督を任された次男昌暢が、9月19日入城した。翌年1月11日に春塘は昌暢公と共に廻郡をし、4月に御用で長崎へ行き、6月に殿様の江戸参府のお供に付いた。同年出島商館長スチュルレル(Willem Sturler)と商館医シーボルト(Philipp Franz von Siebold)が江戸へ赴き、隠居した昌高公と数回にわたり交流を持ったが[25]、昌暢公と大江春塘が江戸に到着したとき、商館長1行はすでに長崎への帰途にあった。その後ずっと滞府していた昌暢公が文政12(1829)年に中津へ帰る際、春塘はお迎えを命じられたが、間に合わず役目を外された。同年9月に彼はもう一度御用で長崎へ赴いたが、何らかの事情のため、翌年3月に近習の勤めを解かれた。しかし、その9年後の天保10(1839)年11月に春塘は改革の関係で紋付の羽織を賜った。それは天保4(1833)年に兄の昌暢の家督を継いだ奥平昌猷(まさみち)が打ち出した政策に関連があると思われる。天保9(1838)年に昌猷は下級武士、町人などを救済するため、撫育会所を設立したと伝えられており、春塘がそれに何らかの貢献をしたのかも知れない。その数年後の弘化元(1844)年6月20日、春塘はこの世を去った。冒頭に述べたように、墓は中津市下正路の安全寺にある。

昌高公が西洋人と接触する際、側近の神谷弘孝[26]が大いに活躍していたが、春塘に言及する記述はない。しかし『バスタールド辞書』の序文には、春塘に対する昌高公の高い評価が見て取れる。このように高い語学力を持ち、殿様の覚えもめでたく御用で長崎へ赴く機会に。まれていた春塘が西洋医学について学ばなかったとは考えにくいが、医師としての彼の姿を伝える史料はいまだ未発見である。

 

 

史料

「御家中系図 文化三年改」中津市立小幡記念図書館蔵、請求記号562。

「御家中系図 嘉永三年改」中津市立小幡記念図書館蔵、請求記号580。

オランダ国立公文書館、出島商館長日誌(Nationaal Archief, Nederlandse Factorij Japan No. 235, Dagregister 1821 nov. 5 - 1822 nov. 25)。

 

 

参考文献

家臣人名事典編纂委員会『 三百藩家臣人名事典 7』新人物往来社、1989年、223〜224頁。

辛島詢士「中津辞書の穿鑿」『ビブリア』(天理図書館報)第44号、1979年、12〜38頁。

川嶌眞人『蘭学の泉ここに湧く — 豊前・中津医学史散歩』中津、西日本臨床医学研究所、1992年。

川嶌眞人『水滴は岩をも穿つ』福岡、梓書院、2006年。

河野福夫「中津奥平侯の参勤交代(上)」『中津史談』第1巻第2号、1939年3月。

大分県下毛郡教育会編『下毛郡誌』下毛郡教育会、1927年(複製版:東京、名著出版、1972年)。

広池千9郎編述『中津歴史』[大分県]鶴居村、広池千9郎、1891年(『広池博士全集』千葉県小金町、道徳科学研究所、1937年所収)。

生田重倫編集『奥平藩臣略譜集録』謄写版、[出版地不明]197三年。

ヴォルフガング・ミヒェル「中津藩主奥平昌高と西洋人との交流について」。『中津市歴史民俗資料館 分館村上医家史料館資料叢書』第5号、2006年、20〜61頁。

山崎有信『豊前人物誌』1939年(復刻版、美夜古文化懇話会『豊前人物誌』行橋、美夜古文化懇話会、1973年)。

吉田洋1「村上玄水の参勤随行記」、『中津市歴史民俗資料館 分館村上医家史料館資料叢書』第5号、2006年、1〜19頁参照。

Ike van Hardeveld [= Idalina van Hardeveld-Kooi: Lodewijk Meijer (1629-1681) als lexicograaf. Utrecht: Led, 2000.

 

脚注
[1]    屍崎様仁『僕双人物誌』1939年、427頁。
[2]    辛島詢士「中津辞書の穿鑿」、31〜32頁。
[3]    家臣人名事典編纂委員会『三百藩家臣人名事典 七』、223〜224頁。
[4]    「御家中系図 嘉永三年改」、165〜174頁。
[5]    辛島詢士「中津辞書の穿鑿」、31〜32頁
[6]    小笠原藩医多田丈庵の次男(中津藩御家中系図「嘉永三年改」により)。
[7]    大江滿氏(福岡市)及び大江和生氏(久喜市)のご教示に尽よりお礼を申し上げる。
[8]    「文化三年改」、231〜238頁(大江玄仙の系図)。「文化三年改」、115〜124頁(大江鍛義の系図)。
[9]    考池千九郎編述『中津歴史』、250〜251頁。川嶌眞人『水塗は岩をも穿つ』70〜71頁、135〜137頁。
[10]    「文化三年改」、239〜243頁(大江雄山の系図)。「嘉永三年改」、115〜124頁(大江達義の系図)。
[11]    「文化三年改」、159〜164頁(大江様慶の系図)。
[12]    「文化三年改」、239〜243頁(大江遥屍の系図)。
[13]    河野福夫「中津奥平侯の参勤交代(上)」『中津史談』第1巻第2号、1939年。
[14]    昌高公の子勤交替については、吉田洋1「村上玄水の子勤随行詰」を参照。
[15]    taalgeleerdheidt (言語学)、Wijsbegeerte(哲学)、Geneeskonst(医学)、Rechtsgeleerdheidt(法学)、Godtgeleerdheidt(神学)。
[16]    京町系大江医家の家紋は昇り藤紋。鷹匠町系大江医家の家紋は53桐紋。
[17]    神男源内(腔糠)については、ヴォルフガング・ミヒェル「中津藩主奥平昌高と西洋人との交流について」(『村上医家史料館資料叢書』V、48〜56頁)を参照。
[18]    昌高公や大江春塘は、西暦のAnno DominiAo)に含まれている宗教色をどう見ていたのであろうか。
[19]    [nieuwe-gedruct bastaardt woorden-boek, fol. 2a]Voorrede
    Trouwens de Eene plant de Boom en de Andere Eet'er de vruchten van; --- als de Eene één boek, in gemeen gemaakt hebbe, zou ’er ieder anderen gemakkelijk van verkrijgen. Wat ’t boek van Bastaardt woorden belangt, in Holland en andere waareld deer van Europpa, Men heeft ’t gemeen gemaakt, maar bij ons tot nog toe ’t niet, daar door bij ons van ieder Landgenooten het niet kunnen magtig worden, // [fol.2b] schoon de zommigen zijn, die ’t welke van waar hier overgebrekt houden. ik zal waar uit ’t voor beelden geven, als men hier te Land alleen den Boom aan zien kan, en van zijn vrucht nog niet in den Land neemen kan.

    ’t is waarschijnlijk, dat, als men een Horlogie te maaken wilt, zo de verscheidene werk tuigen nooden zou. Waar onder zal men staalmesser, vijls, passels, en Hameltiesen enz. Voor een zeer noodzakelij= // [fol.3a]ker houden, als de Andere, niet waar? Uit dien hoofde om ook de hollandsche Boeken te leezen en dezelve taal te verstaan, moet men de allerhande woorden boeken van nooden heeft, in zonderheid die van de Bastaarde Woorden zo genoodig houden, als gemelde werktuigen.
    Wijl de mijn aart een liefhebber der Europpeese zaaken, en Een hier zuigt der Hollandsche boeken is, heb ik ook veele Evensinnige dienaar zijn 'er van de twee voornaamste. // [fol.3b] De een heet Kamiya Filoyosi en de andere is doctoor ooije Zuntoo genoemt. De eerste heeft in anno 1810. over mijn verzamelde Japansche en Hollandsche woordenboek, van zijn dagen in ruste door, met groote moeite gedrukt.
    de Tweede heeft nu ’t boek van Bastaard woorden, met zeer veel moeite gedrukt, dit werk is het zelfs, en dit is door de Corrigeeren van den Sadayosi volmaakt gezuivert.
    Daar van ik vervlijde, // [fol.4a] dat, de voorgemalde doctor in onze tuin een groot boom plantende, en de welke de vruchten hand over hand voort brengen zal, die zeer aangenaame, gezonde, en tot Eeuwig bewaarbaar zij, En dewelke tot Eet van onze Jappansche landgenooten strekken zal.
    Geschrijven Door          Minamoto Masataka
    Vorst van te landschap Nakats.

    te Jedo Ao 1822.
[20]    その著者については、Ike van Hardeveld: Lodewijk Meijer (1629-1681) als lexicograafを参照。
[21]    辛島詢士「中津辞書の穿鑿」、31頁。
[22]    平成16年10月、香川大学の講演会資料により。松田清氏のご教示に尽よりお礼を申し上げる。
[23]    17・18世紀の版の中で、『語彙宝函』の1688年版だけは語彙、見出し語のつづり及び扉絵の天使という点において春塘の『バスタールド辞書』と一致している。
[24]    オランダ国立公文書館、出島商館長日誌、1822年4月9日(NFJ 235)。
[25]    詳細については、ヴォルフガング・ミヒェル「中津藩主奥平昌高と西洋人との交流について」(『村上医家史料館資料叢書』V)を参照。
[26]    神男源内(弘孝)については、ヴォルフガング・ミヒェル「中津藩主奥平昌高と西洋人との交流について」『村上医家史料館資料叢書』V、2006年、48〜56頁を参照。

 

 

【資料】 中津大江家関係の系図

各写真は原文の2頁をまとめたものである。

 

1、「文化三年改」大江玄仙

 

2、「文化三年改」大江雄山

 

3、「嘉永三年改」大江達義


 

4、「嘉永三年改」大江有慶

 

5、「嘉永三年改」大江久

 

 

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