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ミヒェル・ヴォルフガング
はじめに筆者が2001年にシーボルト記念館の企画展で展示されていた「阿蘭陀草花鏡図」の奥書からその重要性に気づき、翌年の日本医史学会の大会でその内容を報告した後[1]、中村輝子と遠藤次郎は類似の写本「阿蘭陀本草図経」を発見し、両者の比較研究を行い[2]、また遠藤正治はそれらの写本に見られる植物の比定に取り組んだ[3]。本論文は、その後入手した和文と蘭文の新史料を踏まえながら「阿蘭陀草花鏡図」の特徴及び当時の背景をさらに追究するものである。 1 「阿蘭陀草花鏡図」本資料はシーボルト関連のものではなく、1998年に佐賀県杵島郡白石町在住の嬉野雅彦氏により寄贈された巻物(28x1337cm)である。江戸時代に鍋島藩の医師を務めた同家の先祖から伝わったものとされているが、当時の状況を解明できる裏付けとなる資料は残っていない。 「右此一巻者阿蘭陀外科/草花見フランスフロム来朝之時/公方様ヨリ被仰付/草華之油取指上則此絵ヲ/相認申儀予仕上後世為/乎鑑自晝畢誠世稀也其/方外療数年被尽粉骨一/流依通達則准一子授與之/豈不可有可秘蔵可秘々々/延宝七年三月吉日」
蘭文資料の以前の調査で「油取」つまり薬油の製造のために来日した「フランスフロム」は、幕府の依頼で1671年に来日し、数年にわたり出島商館長日誌などの蘭文資料に現れる薬剤師Frans Braunであることが判明した[4]。したがって、「阿蘭陀草花鏡図」は1660・70年代の幕府による「薬草政策」に関連する貴重な和文資料の一つとなる。 2 1660年代の薬草政策について宗田一が『日本医療文化史』で述べた史上初の「公式製薬伝習」とその背景を蘭文資料で検証した際、筆者は1660年代に国内の薬草資源開発及び蒸留技術移転に目を向けた幕府の興味深い試みに気づいた。カスパル・シャムベルゲルの1650・51年の活動が契機となった、西洋外科術に対する高い関心や継続的な学習、それにともなう蘭方医薬品の需要増加はそのような試みにつながる一つの大きな刺激だったが、1650年代からの江戸と大阪のいくつかの大火が残した財政的負担、海外貿易による金銀の流出など国内経済の厳しい状況も見過ごしてはならない。寛文4年頃から、幕府が不必要と思われる消費の抑制を進めたのは偶然ではない。寛文8年に、高価な織物をはじめ動物、焼き物、楽器、時計等々の輸入禁止が出島商館長に通達された。和文史料は残っていないが、当時の江戸城で出された、高価な医薬品の国産化推進の発想は、東インド会社の資料にはっきりと観察できる。1667年11月6日、慣例に従い、就任した出島商館長ダニエル・シックス(Daniel Six)は前任者のコンスタンチン・ランスト(Constantin Ranst)とともに長崎奉行所を訪れた。シックスによれば、同じ時期に交代する奉行河野権右衛門と松平甚三郎との会談で異例の要請が出された。 「最後に、様々な新鮮な薬草からエキス、薬油、蒸留酒を抽出できる経験豊かな年配の人物の派遣及びそのために必要な器具の提供を要請された。そのほかに、種を新鮮な状態で日本へ運べないので、植え付け、繁殖用に様々な苗も。皇帝[=将軍]と帝国顧問官[=老中]によるこの要求は、江戸ですでに十分に言及されたにもかかわらず、上記の奉行たちを通じて至急にあらためて持ち出された。それをより真剣に受けとめ、総督殿に報告する必要のためである。[5]」
迅速に会社の前向きな姿勢を示したいバタビア総督は、1668年に今後のさらなる納入を約束し、とりあえず乾燥した薬草を送付した[6]。1669年も同様なものを届けたが、1670年及び1671年に種と苗が奉行に手渡された。オランダから取り寄せなければならなかったガラス製の蒸留器の納品は1671年になった[7]。専門家の派遣も容易ではなかった。バタビアには2つの薬局があり、それらを運営するドイツ人医師クライヤー(Andreas Cleyer, 1634-1697/98)が社内の医薬品供給の総責任者でもあったが、薬剤師の人材は常に不十分だった[8]。1669年の初夏にようやく一人の薬剤師が日本へ赴いた。しかし、この若いヘック(Godefried Haeck[9])の能力に対する日本側の疑問は多く、経験豊富な専門家ではないことを十分に認識していた総督府は[10]、1671年に「薬剤師で薬草熟知者」フランス・ブラウン(Frans Braun)、そして1674年にその特別任務のためにオランダで採用された「医学博士、薬草熟知者、蒸留師、及び化学者」ウィレム・テン・レイネ(Willem ten Rhijne, 1647-1700)[11]を長崎へ赴かせた。3人は日本人とともに長崎湾での薬草調査に出向いたり、納品された種や苗に関する説明を行ったりしていた。ブラウンは持参した大型の蒸留装置を「皇帝」の経費で建てられた「実験所あるいは蒸留小屋」に設置し、1672年に一連の薬油蒸留技術の教授を行い、医者であるテン・レイネは患者の治療にあたり、医療や医薬品に関する説明を行った。 それに対し、輸入された種と苗の栽培は期待通りに進まなかった。1671年5月にヘックは3回も奉行所に呼ばれた。
「昨年バタビアから送られた種を蒔くために、同月十日再びヘックが呼ばれた。その際彼が3回蒔いた種がどうして発芽しないのかということについて質問され、ヘックは[次のように]返事した。自分自身もよく分からない。しかし、自分の判断によると、その種はまずオランダからバタビアへ、そしてそこからここへ運ばなければならなかったので古くなり駄目になった。また、ここの気候と祖国の気候および種の性質が合わないのであろうと答えた。[15]」
その上、要請された丁子、肉豆蒄及び肉桂の苗を東インド会社が提供しなかったこともあり、若き秀才テン・レイネが1674年にブラウンの後任者として長崎に到着したときには幕府の熱はすでに冷めてしまっていた。 蒸留技術の移転については、すでに詳細に報告してあり、ここでは「阿蘭陀草花鏡図」と関わる薬草調査に的を絞ることにする。 3 紅毛人薬草見知による長崎での薬草調査ヘック、ブラウンの日本での活動から、幕府が薬草に精通する専門家を要請した理由が判明する。その一つは種と苗の栽培に関する知識の提供だった。長崎での幕府の御薬園は一般に延宝8(1680)年に誕生したとされているが、1671年に商館長が副館長、外科医、薬剤師とともに「皇帝の薬園」(s 'keijsers thuijn)という薬園を訪れ、栽培の行方を見守った[16]。また、バタビアから届いた植物の目録をもとに阿蘭陀通詞が報告書をまとめる際、ブラウンは通詞全員に数回にわたり説明を行った[17]。 ヘックもブラウンもテン・レイネも阿蘭陀通詞、日本人医師などと一緒に長崎湾内の有用植物を探さなければならなかった。このことの意義は決して小さくない。紅毛人に国内植物の調査を依頼していた幕府の関係者は、李時珍の『本草綱目』など中国系の本草書だけでは日本の植物は十分に把握できないという認識を持っていたに違いない。これは、列島の自然の特殊性に目を向ける日本独自の本草学の前兆でもある。 長崎に到着して間もなく薬草狩りを命じられたヘックは、まだ正式に就任していない1669年8月1日に通詞たちと出かけ、夕方までに24種の薬草を確認できた。この調査活動は不定期的に継続して行われ、阿蘭陀通詞は数回ヘックの説明をまとめ、奉行に報告書を提出した。これらの報告に遡る写本及び出島商館の記述を照らし合わせるとヘックの調査活動は後任者ブラウンが到着した1671年の初夏まで続いていた(表1)。興味深いことに、ヘックが見つけた薬草の一覧表がバタビア総督に送付され、植物資源に敏感なクライヤー、マイスターなどの関係者の興味を引いた[18]。クライヤーが1679年11月19日に作成した東インド産の有用薬品のリストに含まれる日本のものはヘックたちの報告に基づくものに違いない[19]。また、バタビアに辿り着いたケンペルが1689年クライヤーの家に宿泊し日本の研究を準備していた際、知日派に植物の総合調査を頼まれたことも上記の文脈の中で評価しなければならない[20]。 表1 薬剤師ゴットフリード・ヘックによる植物調査
「薬草ノ名並和文扣」は宝暦年間以降写されたものであるが、ここに見られる薬草数及び調査日付の記述は商館長日誌の記録と一致していることから、その信憑性は高い。薬草調査に参加した通詞楢林新右衛門(鎮山)から楢林栄哲へ伝わりその門下人高須清馨が移した「阿蘭陀薬草功能之書」(自筆本)も同様に証拠力の高いものである。関場不二彦がいくつかの特徴を『西医学東漸史話』で説明したが[33]、その所在が不明になっていた「證治指南」(6巻)を筆者が昨年入手するまで、さらなる分析は不可能だった。宗田一が『日本医療文化史』[34]で挙げている桂川甫筑による「薬草ノ能」は「阿蘭陀薬草功能之書」(寛文10年3月7日付の分)と一致しており、1660年代出島で西洋外科学を学んだ平戸藩医嵐山甫安に遡ると考えられる。 上記の調査成果をそのまま合計すれば、90以上の種類になるが、寛文10年8月6日に通詞たちが仕上げた報告は同年の3回の調査をまとめつつ、前年の成果も組み込んだものである。 「右三度ニマカリ出取申候薬草合五十七色之能付薬草見知申候阿蘭陀人申聞候通詞我々立会和ケ申指上申候己上 上記の和文資料は、日付及び調査活動については述べているが、「薬草見知」ヘックの名を挙げているのは「阿蘭陀薬草功能之書」のみである(「コツトフレイル」 = Gottfried)。奉行や通詞たちは彼の人柄や能力に対し疑念を抱いており、奉行は早くも「より年配で経験豊富な人」の派遣を求めた[35]。商務員ギリスの日誌によれば、1670年の4・5月頃ヘックは通詞を介し奉行から、両親や兄弟、薬草に関する知識等々、多くの事柄について質問を受けた。商館日誌は彼の返事を箇条書き的にしか伝えていないが、ヘックは15才から薬局で働き、バタビア要塞の薬局(winkel)にも数年間勤めたことがあるが、およそ40〜50種類の植物しか知らなかったことがわかる[36]。たしかに、50数種の植物を確認してからは、長崎での調査は進展していない。1670年8月6日付の報告は最終報告だったと推定してよさそうである。 ヘックの苦労に言及する手紙が残っている。1670年にバタビアから最初の種が届いた際、通詞たちは一ヶ月以上にわたり、それらの播種期、開花期、成熟期や功能と利用について様々な説明を求めたが、十分に満足できる情報を得られなかった[37]。 1671年夏、後任の薬剤師フランス・ブラウンが出島に上陸した[38]。彼は待望の蒸留装置を持参しており、その設置と製薬術の教授で忙しかったが、長崎湾での合同調査にも参加したとの記述が1672年の日誌に残っている。
「本日、我々の上位外科医、薬剤師及び庭師は薬草を探すために野原へ出かけ、かなりの量を見つけた。その功能と特徴は通詞たちが後ほど記録する予定だ。[39]」
同年6月11日(寛文12年5月16日)に通詞全員が商館で上記の薬草の功能などの記録を作成した[40]。また、翌年、江戸参府の準備をする商館長が出島に残る代理に手渡した指示書に、薬剤師ブラウンの薬草狩りを求める奉行からの命令が届いた際には、反論せずに許可を出さなければならないという項目も含まれている[41]。1673年の商館日誌では薬油蒸留や薬草栽培については述べているが、残念ながら植物調査には殆ど言及していない。寛文12年の市法商法の導入のためか、商館と奉行所との間の駆け引きが激しくなり、盗み、侮辱、暴力事件まで起こるといった日蘭双方が神経をとがらせる時期となった。この状況のもとで、ブラウンの調査活動がいつまで続いていたかは明らかではない。また、ヘックの調査に関連する和文資料は確認できたものの、ブラウンの名を示す写本としてシーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」はこれまで唯一の事例である。 4 西洋本草書の輸入の始まりヨーロッパの本草書の輸入は紅毛流外科の誕生とともに始まる。1650年に商館医カスパルに感銘を受けた大目付井上筑後守政重は、その翌年に「生き生きした図版の本草書」及び解剖書のポルトガル語版を注文していたが[42]、1652年[43]及び1655年[44]に送付された本は当時の通詞たちにはまだ読めなかったオランダ語でドドネウス(Rembert Dodoens / Dodonaeus, 1517-1585)がまとめた本草書[45]だった。政重はポルトガル語による説明を求めたが、そのために十分な知識と語学力を持つオランダ人は停泊中の船にも商館にもいなかった[46]。3冊目を納品した際の注文主の反応はオランダ人たちを驚かせた。シャムベルゲルの治療を受け[47]、井上筑後守と同様に西洋の医療に強い関心を寄せた小田原城主稲葉美濃守正則(1623-1696)は、挿絵が小さすぎて質も良くないので、もっと大きな絵が入っているものを送って欲しい、と本を返品してしまう。気の短いドイツ人商館長ワーゲネル(Zacharias Wagener, 1614-1668)は相手の判断力を疑った。 「なんという哀れな人々だ。著作の素晴らしさをほとんど理解できず、このような本が靴屋の靴と同じように、様々な種類を取り寄せられると思っている[48]
それでも1657年老中になった美濃守は、約20年間にわたり日蘭の交流において大きな役割を果たし、オランダ人の「パトロン」として讃えられた[49]。1666年に、それまでの実力者だった酒井忠清及びその同僚阿部忠秋が老中職を免ぜられ、その翌年に幕府は蒸留、専門家の派遣と薬草を要請した。久世広之に関しては2,3の関連記述があるものの、当時の老中として西洋の医薬学に関心を寄せたのは、誰よりも稲葉正則だった。1660・70年代の幕府の動きにおける彼の役割は決定的なものだったと断言できる。 ドドネウスの木版画に満足しなかった稲葉正則のために、東インド会社は1668年、バシリウス・ベスラーが1613年に刊行した17世紀の最高傑作とされる『アイヒシュテットの庭園』(Hortus Eystettensis[50])を日本に送った[51]。ドドネウスは薬草の特徴と功能について詳細に述べたが、薬剤師ベスラーは解説文よりも367枚の超大型の図版のために膨大な資金を費やした。アジアとアフリカから移植された植物種を含むドイツ・アイヒシュテット司教の庭園を描写するこの3冊には、注文主稲葉は大喜びするはずだったが、今度は言語の問題を克服しなければならなかった。 商館の阿蘭陀通詞も薬剤師ヘックもブラウンもラテン語の文章を訳せなかったようだ。そのためか、長崎奉行は1672年9月に、停泊していた船及び商館内の外科医の中にこの本を翻訳できる人はいないかという問い合わせをした。商館長はこのようなことは各人の職業と能力を超えるものだと回答したが、翻訳できる人物を日本へ派遣しなければ書籍はバタビアへ送り返されると依頼主が揺さぶりをかけた。その後、内容に関するある程度の説明が行われたと思われる。1673年の春に長崎代官末次平蔵は解剖書とともに『アイヒシュテットの庭園』を老中のために江戸へ持参することになった[52]。 ドドネウスの『本草書』と『アイヒシュテットの庭園』は注文品として会社の記録に残っているが、薬草専門家として日本へ派遣されたヘックとブラウンは参考文献としてレオナルド・フックスなどの数冊の本草書を持参してきたと考えられる。野外調査で見つけた植物あるいは納品された苗や種について説明するたびに、これらの文献を利用したはずである。 5 「阿蘭陀草花鏡図」の洋名現代植物学から見れば、「阿蘭陀草花鏡図」が提供してくれる情報は量的にも質的にも十分とは言えない。当時の交流を追う本論文では出島の阿蘭陀通詞がカタカナで記録した植物名の原型を把握することにとどめ、植物の比定は専門家の課題として残すことにする[53]。 初期紅毛流外科の文書と同様「阿蘭陀草花鏡図」には様々な言語が混在している。名称の大半はヘックの調査で記録されたものである。彼はApium、Flores Sambuci、Bursa pastorisなど様々なラテン語の名称を知っていたが、Mente、Heete Netel、Vijfvingher-cruydt、Distel、Vloy-cruydtのオランダ語名もあり、Water apium(オランダ語・ラテン語)の様な当時の文献に見られない個人的な組み合わせもある。ドイツ人だったヘックはオランダ語名の一部を知らなかったようだ。ドイツ語のKnabenkrautに相当する蘭名はKullekens-cruydtだったが、彼はドイツ語とオランダ語を混用してしまった。ドイツ語のSchaffgras/Schafgrassはオランダ語ではGeruweと呼ばれるが、ヘックは前者を好んだようだ。ラテン語名の語尾に見られる多少の間違いから、彼は大学教育を受けていないことがあらためてわかる。 表2 阿蘭陀草花鏡図」に見られる洋名
6 「阿蘭陀草花鏡図」とその周囲の資料出島商館の阿蘭陀通詞が作成に関わった報告は、大抵は様々な写本として広まっていた。その一部は長崎や江戸の提出先で作成されたものだった可能性もあるが、ヘック関係の資料が示すように、通詞の個人的写しが門人などに伝播したこともある。しかし、「阿蘭陀草花鏡図」の場合は、類似の写本はなかなか確認できない。2005年関西の古書店のカタログに掲載された「本草図」という一冊の写本(「肉筆着彩図80図」)の写真に見られる二つの絵図と文章は「阿蘭陀草花鏡図」と完全に一致しているが、資料の行方は明らかではない。 その他の関連資料を追求した中村輝子と遠藤次郎は「阿蘭陀草花鏡図」と数々の類似点を示す「阿蘭陀本草図経」を発見し、両者の関係について2003年に報告した[77]。『国書総目録』は、この文書の保管先として7ケ所を挙げている[78]。上野益三が『年表日本博物学史』で紹介している宝永6年の写本はそれとは別なもののようだが、その所在は不明である[79]。また、中村・遠藤[80]及び筆者[81]の調査ではさらに数部が発見されたので、「阿蘭陀本草図経」は江戸期に比較的幅広く普及していたことが容易に想像できる。興味深いことに、現存の写しの多くは18世紀以降に作成されたのである。これらの資料の序文が一致しており、下記の通りである。
「余自少壮住于肥州長崎而承 官吏命而師事於紅毛国之名医而執几杖而学外療于茲有年焉。夫阿蘭陀流者、草木花薬之油治療病疾痛或調和於膏薬得験不為不多非他流之所能及焉。故業此流者不可不知其名義其主治其気味焉。予嘗随而遊行山野而瞰見千草万木亦有日也。因得十一千百矣僅至於五十余種気味功毒実與本草綱目有不同者雖然非用私心是師伝経験之微意也。故綴一冊名阿蘭陀本草
陽月窻士叙」[82] 序文の内容は上記の薬草調査と初期紅毛流外科の特徴とかみ合っている。その上に、掲載してある絵とその解説文は「阿蘭陀草花鏡図」と酷似しているので、この「阿蘭陀本草図経」は寛文年間頃の紅毛人の活動と大いに関係があると断言できる。文章を執筆した人物は通詞ではなく、また若い頃に長崎に住んでいたが、ずっと後に「阿蘭陀本草図経」をまとめた場所は長崎ではない。中村・遠藤がすでに述べたように杏雨書屋蔵の写本の一つに記載された序文の最後で写者は「文書の著者陽月窻士は山村宗雪」と説明している[83]。この写本は幕末頃に作成されたようだが、「陽月窻士」に関する解釈はいろいろな可能性があり、さらなる裏付けの発見を待たなければならない。 寛文9(1669)年以降の通詞の報告から「阿蘭陀本草図経」や「阿蘭陀草花鏡図」にまで及ぶ関連の資料に見られる植物の順序を比較してみると二つの流れが浮き彫りになる。最初の二つの報告を伝える36種の薬草の順序を完全に受け継いだ写本及び版本(「薬草ノ名並和文扣」、「蘭方草木能毒集」、『阿蘭陀外科指南』の「薬艸口訣」[84])はその一つである。当初の調査に参加したと思われる医師中村宗與が貞享元(1684)年に発表した『紅毛外科療治集』の記述も(巻4、「紅毛能毒二十八種」)この資料郡に追加してよい。「阿蘭陀薬艸功能之書」(「證治指南」)が示す、通詞が寛文10年に作成した改訂総括版を反映する写本としては、現時点で「繕生室医話」の「薬草ノ能」及び「阿蘭陀本草摘要」しか確認できていないが、それはもう一つの流れと見なしてよさそうである。内藤記念くすり博物館蔵の写本[85]は別にして「阿蘭陀本草図経」の各写本の内容の変動はさほど大きくないようだが、これらの「阿蘭陀本草図経」もシーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」も順序の点においては上記の二つの資料群には当てはまらない。前者では、著者の「陽月窻士」は通詞の報告資料に手を入れ、植物を春草、夏草、秋草、冬草及び木に分類している。西洋の本草書においても珍しいこの発想は1669年に長崎に上陸した『アイヒシュテットの庭園』から来ていると思われる。「阿蘭陀草花鏡図」の方は、植物の並び順において上記のすべての写本とは完全に異なっている。掲載してある植物名はヘックの調査活動に由来する文書とほぼ一致しているが、「ロウザ」の例が示すように、記述の内容上の相違点もある(表3)。 表3 関連写本に見られる「ロウザ」の記述
「薬草之名并和文扣」(京都大学附属図書館蔵)
「ロウザ いばらノ花 「薬草ノ能」(「繕生室医話」)(京都大学附属図書館蔵) 「ロウザ イハラ 「阿蘭陀薬艸功能之書」(「證治指南」附録)(筆者蔵) 「小児大便[不]通兼候時花ヲ水煎其汁ヲ小茶碗半分ツヽ朝夕用申候 眼気ニハ花ト水ヲ銅瓶ニテ煎ジ其水ニテ目ヲ洗申候 只痛申候ニハ花ヲ右之如クニ煎其汁ニ白砂糖ヲ加薬仕焼リ薬之様ニ[虫食い]又煎シ少ツヽ時ゝニ用申候」 「阿蘭陀本草摘要」、九州大学付属図書館蔵 ロウサ 同 茨花 中村宗與『紅毛外科療治集』巻4、「紅毛能毒二十八種」(東北大学付属図書館蔵) 「阿蘭陀イゲ性ハ冷花ヲ浸(セン)ジ汁ヲトリ童子大便不通ニ用ユ阿蘭陀ノコシキニテ花ノ水ヲトリ目ヲ洗テ吉又花ヲ煎ジシルヲトリ白砂糖ヲ加煎ジカタメ咽(ンド)痛(イタム)ニ少宛用」 『阿蘭陀外科指南』(元禄9年刊)(国際日本文化研究センター蔵) 「ロウザ 冷 茨 「阿蘭陀本草図経」(岡山大学附属図書館蔵) 「ロウサ 和名イバラセウビ 「阿蘭陀本艸」(内藤記念くすり博物館蔵)
「ロウザ 性冷 イバラセウビ也 『阿蘭陀草花鏡図』(シーボルト記念館蔵)
「冷 阿蘭陀人云 ロウザ 和名イハラセウヒンノ類也。 阿蘭陀通詞が1670年にそれまでの調査成果を総括したとき、記述が改訂されたのは理解に難くない。当初は長崎付近で見つけた植物を描く必要はないと判断されたのであろう。しかし、資料が通詞、薬草狩りに参加した役人や薬草通の範囲を超えさらに広く普及すれば、そのような情報を望む声が上がっても不思議ではない。日本の植物につけられた洋名の適正さも評価できず、漢名と和名の使用上の問題も山積していたので、植物自体の描写はますます重要になったと思われる。 「阿蘭陀本草図経」及び「阿蘭陀草花鏡図」は、通詞報告の一歩進んだ受容の産物と言える。残念ながら、ここに見られる絵図の由来は明らかではない。たとえ、実物を模写したとしても、中国の『図経本草』や『本草綱目』の画法の影響が強かったであろう。植物の特徴を伝える要素は何かという文化的、時代的に変容する写実性の捉え方に加えて、木版による技術的な制約も見過ごしてはならない。洋書の場合も同様の問題がある。ドドネウスの『本草書』が収録している木版画の太くて堅い線は対象の姿を歪曲してしまい、文章を読めない日本人にとっては理解し難いものだったに違いない。 16世紀から人気の高いフックスの「本草書」の図版と「阿蘭陀草花鏡図」の絵図の一部は似ているが、図3の例が示すように、このような類似点は確かな関連づけにはつながらない。 すでに1654年に日本に上陸したドドネウスの『本草書』(Cruijdt-boeck)の構成は違うが、上記1660年代に上陸した『アイヒシュテットの庭園』は植物図版を四季で分類している。残念ながら、「阿蘭陀本草図経」の筆で書かれた絵は大変簡単なもので、『アイヒシュテットの庭園』の洗練された銅版画との比較では明白な結論に至らない。また、ドドネウスの『本草書』に見られる、より単純な木版画との類似性も確認できない。 阿蘭陀草花鏡図」の内容に目を通すと、カタカナの植物名や薬油名の他に、西洋人の足跡を示す記述は多少確認できる。例えば「サトレイガアツフセンテ」について、こう記している。 「阿蘭陀伝云、此草イタリヤ国野多生。然彼國ニ合戦有。手負人多死人共、此野ニ臥テ居合戦治後十四五日■テ死體取置時。手負人疵不腐能皆愈ナリ。」 また、「レリヨウロン」の関連でもオランダに言及している。 「阿蘭陀ニハ花ヲ用、巻丹者ヲニユリト云。山丹ハヒメユリト云。花其日開夜合者ヲ名夜合花ト。」 その反面では、「以竹刀」、「三月三日」、「五月五日」、「七月上ノ申ノ日」「九月上ノ戌ノ日」のような中国の思想を反映する記述は比較的に多いし、近隣諸国などの説明もヨーロッパ人によるものではない。 「如此相類異名和漢同。今窮者此野菊也。」(カモメリ) 通詞報告とのもっとも大きな相違点は、葉、茎、花、実などの特徴、発芽、開花の時期など、「阿蘭陀本草図経」にも「阿蘭陀草花鏡図」にも見られる植物学的な記述である。発芽を示す情報はドドネウス、フックスなどの西洋専門書には見られないので、中国の本草書の影響も考えなければならない。殆どの項目で、ある「図経」が利用されている。挿絵も記述の一部も酷似しているので、「阿蘭陀草花鏡図」が挙げている「図経」は「阿蘭陀本草図経」を指しているのではないか、という疑いが湧いてくる。しかし、「阿蘭陀本草図経」系の資料群に含まれている内藤記念くすり博物館蔵の「阿蘭陀本艸」は「阿蘭陀草花鏡図」と同様に「図経」から引用している。さらに、「阿蘭陀草花鏡図」の最後の13種の植物は「阿蘭陀本草図経」のすべての写本に含まれていないにもかかわらず、「阿蘭陀草花鏡図」はこれらの植物についても「図経」に基づいて解説している。また、アルケカンケ、セントウリヨムミノウリス、スカアフスカルフ、アヒヨン等々に関する「阿蘭陀草花鏡図」の記述は「阿蘭陀本草図経」の関連解説を部分的に省いたり、増やしたりしている。それに加え、延宝7年の日付を示す「阿蘭陀草花鏡図」に対し、その序文で壮年期頃の薬草調査と回想する「阿蘭陀本草図経」は、かなりの年月が経ってから成立したようで、後者は前者の底本とは言い難い。「阿蘭陀草花鏡図」も「阿蘭陀本草図経」も別個に成立した可能性は決して低くない。 それならば、「図経」は中国の書籍を指しているという仮説を立ててもよさそうだ。例えば、江戸期の日本における受容上の問題を別にしてその書名が似ているので、宋時代の蘇頌が撰した『図経本草』と照らし合わせてみても、はっきりした関連性は確認できない[90]。 それにしても、「阿蘭陀草花鏡図」のいくつかの項目に中国の文献が利用されたことは確かである。それらを17世紀で和刻本としてかなり流通していた明代の『本草綱目』の関連記述と照らし合わせてみるといくつかの類似点が浮上してくる[91]。
これは陶弘景が編纂した『本草集注』に遡り、『本草綱目』にも収録してある名句である[92]。
「葶藶」に関する両方の解説文の接点にはほんのわずかだが、「茵蔯蒿」の場合は、唐代の『新修本草』、宋代の『証類本草』や明代の『本草綱目』が収録した引用としてしか伝わっていない5世紀の雷斅が現れている。
さらに、「萹蓄」を描写する『本草綱目』は「阿蘭陀草花鏡図」と同様に「図経」を取り上げている。 残念ながら、『図経本草』での記述は、「阿蘭陀草花鏡図」とは異なっている[94]。また、「阿蘭陀草花鏡図」に見られる『爾雅義疏』[95]からの引用の始まり「竹、萹畜」は『本草綱目』で省略されている。
「阿蘭陀草花鏡図」の記述は『本草綱目』から写されたという状況ではないが、記述の構造あるいは文体は酷似しており、中国本草学は受け継がれているに違いない。 念のために、『本草綱目』の編集に大いに利用された唐愼微の『證類本草』を見ることにした。「阿蘭陀草花鏡図」及び「阿蘭陀本草図経」と似たような形に発芽、開花の時期や葉、茎、花、実の特徴を述べながら『図経本草』(「図経曰」)、『爾雅』、『本草衍義』等文献からを抜粋を並べている。 上記のような中国の文献に基づく記述は寛文9・10年の報告を反映する写本には見られない。 また、「阿蘭陀草花鏡図」がその他の写本より数多くの漢名及び日本語の俗名を収載していることからは、その執筆者の名称に関する問題意識の高さとともに手探り状態であったことがうかがえる。 紅毛人「薬草見知」に言及する他の写本は多少あるが、ブラウンの名を挙げているのは、この「阿蘭陀草花鏡図」のみである。奥書の日付としては、ブラウンが日本を去って数年後の延宝7(1679)年とある。「阿蘭陀本草図経」の殆どの写本にはオランダ人の名前は記されていないが、「阿蘭陀本艸」(内藤記念くすり博物館蔵)のみは冒頭に「阿蘭陀コツトフレイル」を挙げている。しかし、「阿蘭陀本草図経」系統の写本の序文では著者の「陽月窻士」は若い頃の長崎での思い出を描写しながら、「薬草見知」の名に触れていないので、「阿蘭陀本艸」のこの特殊性はさらなる調査に値する。 「阿蘭陀草花鏡図」系のさらなる写本の発見を期待したいが、上記の状況からある程度の流れを読み取れる。寛文9年と10年にヘックの指導下で編集された報告は植物学的記述を示さず、当該の薬草の効能と医療における用法に専念している。元禄9年に京都で刊行された『阿蘭陀外科指南』の「薬艸口訣」はこの通詞報告の内容を集録している。 寛文11年から長崎付近での薬草調査を行ったブラウンはヘックより多くの知識を持っていたので、前者の報告をもとにさらに充実した資料が作成されたと思われる。紅毛人の薬草狩りには植物に詳しい通詞以外の人物が参加していた。その一人は『本草綱目』との相違点を念頭に後ほど「阿蘭陀本草図経」をまとめ、もう一人は、「阿蘭陀草花鏡図」をまとめた。二人とも通詞職ではないが、通詞の資料をもとに、独自の視点からその内容を再編集してみたのである。どちらもまだ未確認の「図経」からの引用文を踏まえている。「阿蘭陀本草図経」の執筆者は薬草の利用を追究し、「阿蘭陀草花鏡図」は植物自体の特徴に重点を置いている。 おわりに — 日本独自の薬草学へこれまで多くの著者が日本独自の本草学の始まりを、貝原益軒が宝永6(1709)年に出版した『大和本草』と結びつけているが[96]、上記の状況を考えると、この長年の定説は大いに検証に値すると言わざるを得ない。中国本草学の転用における問題点及び日本植物の特殊性はすでに1660・70年代に認識されていたに違いない。その背景には紅毛流医術による刺激があったものの、国内の資源開発への幕府の意欲も見過ごしてはならない。紅毛人に日本植物の調査を依頼したことは、中国から受け継いだ規範に対する盲信の揺らぎの表れであり、単なる解釈学と文献学だったそれまでの本草学との決別を示している。「本草綱目」との相違点を指摘する「阿蘭陀本草図経」の序文は、このような姿勢の広まりを裏付けている。それでも「阿蘭陀草花鏡図」のあらゆる用語と引用からわかるように、紅毛人の教示を解釈、受容する際、中国の豊富な知識は相変わらず利用されていた。 日本独自の植物学が最初から国際交流に組み込まれたことも注目に値する。ヘックとブラウンはクライヤー、ケンペル、ツンベリー、シーボルトなど、江戸期の日欧交流史に名を残したヨーロッパ人に加えるべきである。シーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」は当時の阿蘭陀通詞が作成した資料の伝播を語ってくれる貴重な具体例である。 資料 「阿蘭陀草花鏡図」[97][1] 冷 阿蘭陀人云 ロウザ
和名イハラセウヒン[98]ノ類也。 [2] 冷 ヒヨウリス
和名駒引草[100]ト云。 [3] 温 セントウリヨムミノウリス
和名タヒラコ[102]ト云艸也。 [4] 平 ヘルトウレイル
和名小テマリ花[103]ト云木ノ類也。 [5] 温 ワアトロアヒヨム
和名キンホウケ[104]。一名ハ田カラシ。 [6] 温 アルトミジイヤ
和名艾草。一名医艸。一名炙草。 [7] 微温 カツヘレヘネレス
和名虎尾艸。 [8] 微熱 ヱスロウコ
和名小蒜。 [9] 温 アヒヨン
和名防風。一名銅芸。一名茴草。一名百枝。一名屏風。一名茴根。 [10] 冷 スカアフスカルフ
和名山人蔘。一名胡蔔。一名胡蘿。蔔或野胡蘿蔔。 [11] 冷平 ヲルサハストウルス 和名 薺菜(ナツナ)。一名葶藶。一名丁藶。一名蕈(テン)蒿(カウ)。一名大室。一名大適。 [12] 平温 レリヨウロン 和名白百合。一名重箱。一名逢花。一名強瞿。一名摩羅。図経、二月ニ苗生。茎丸根白葉大ニシテ花白者花開。五六月葉録色ナリ。八月ニ根採■テ乾。芦頭ヲ去剉使。阿蘭陀ニハ花ヲ用、巻丹者ヲニユリト云。山丹ハヒメユリト云。花其日開夜合者ヲ名夜合花ト。如此相類多。今窮此者白百合也。味甘。 [13] 温 フロウリスザンフイシ 和名山トウシン[107]。一名庭床ト云カ何茂木ナリ。図経云、二月葉茂リ三月花咲。其状白花ニシテテマリクワ[108]ニ似リ。五葉ニシテ一フサツヽ五結有。木皮薄カキ色也。梢ノ皮青シ葉形丸キ様ニシテサキ少長ナメラカ也。実秋熟シテ赤珊瑚珠ノ玉ノ赤ニ似リ。又庭床ノ木別ニ名有也。今究者是也。 [14] 温 ナストロスヨン又云メリロウ[109]、和名仏耳草[110]。 [15] 温 メンテ 和名薄荷艸。 [16] 温 カツヘレホウニヤ 和名枸杷[112]。一名地骨皮。一名杷根[113]。一名杷忌。一名地輔。一名羊乳。一名却暑。一名仙人杖。一名西毒杖。 [17] 微寒 ラアテキスタリシヤアノ 和名麥門冬。一名禹葭。一名羊韭 [18] 温 サトレイガアツフセンテ 和名河原艾。一名茵蔯蒿[115]。 [19] 微温 ヘヱチネツトル 和名イラ[118]ト云草也。 [20] 温 ウヱルトサルヒヤ 和名藿香[119]。 [21] 冷 アキリモウニヤ 和名鹿焼草[121]ト云。 [22] 温 ハジリコム 和名香薷[122]。一名シヤカウ草。一名コヌカ草。 [23] 冷 スイロング 和名羊蹄[123]。 [24] 冷 ホルトラアカ 和名馬歯莧[124]。一名スベルヒユ。一名五行草。一名馬ヒエ。 [25] 温 ハツベレ 和名ナモミ草。一名■【=艹柿】薟草。一名火薟草。一名蒼耳屮。 [26] 冷 ヘンフルバアル 和名覆盆[125]。 [27] 温 ブロネル 和名ウツホ草[127]。一名威霊仙。一名五霊仙。一名夏枯草。一名シンタウ草。 [28] 微温 フロウリストウニセリ 和名石竹。 [29] 微温 マルバ 和名葵。 [30] 冷 フランタアゴ 和名車前。一名當道。一名恭首[128]。一名牛遺。一名蝦(ヤ)蜞(マ)衣。一名勝烏。一名芣(フ)苡(イ)。一名勝馬。一名牛舌。一名車輪菜也。 [31] 温 レニハアル 和名小ヘコ[129] [32] 冷 アヽツトサル 和名小金草。一名カタハミ草[130]。一名スイモノ草[131]。酸(サン)草。酸母草。 [33] 温 ヘイフヘンゲル 和名カナモラ[132]。一名葎草。 [34] 冷 ヘルトアンデイヒ 和名馬肌草[134]。 [35] 温 カネヘ 和名麻。 [36] 温 トウトネツトル 和名ツリカネ草[135]。 [37] 温 ヘイドロタラストロス 和名カキトウロ[136]。一名ウツホ艸[137]。一名積雪草。連錢草。地錢艸。海蘇胡。薄荷等並同今究者此カキトウ[ロ]也。性異。 [38] 温 ラアデキスイリヤス 和名カラスアフギ[138]。一名ヒアフギ[139]。一名射干。 [39] 温 ウヱンテ 和名石見川[142]。一名牛ノヒタイ[143]。一名龍鬚。一名龍薥。一名草續断。一名龍珠。一名懸莞。一名草毒。一名ミソクハ[144]。一名ヒキノツラウチ如此相類未詳。今窮此図石見川ト名者、水聲不聞。地形高所畠 ニ生者或平沢水辺有者不。 [40] 温 イツヘリシ 和名ヲトキリ草[145]。 図経云、凡生二月苗。茎丸節毎生付左右ニ分テ、少長葉先丸茎ヲイタキ廻ツテ柔ナリ。録色而秋分及花咲黄色ナリ。其状細山野多生。 [41] 冷 ハツハアブリス 和名芥子。ヤウ。アウ。ケシ。罌(アウ)子粟也。甖粟。鶯粟。嚢子。御米並同花ヲ名。甖粟花。 図経云、十一月農人種子ヲ蒔、十二月苗生。以正月植之。三四尺長高茎丸葉長大吹切荒録色有柔ナリ。四月花開。其状芙蓉ノ花ニ似。赤色或白色八重有亦一重シテ或紫色ニ咲。実成熟、其実状如罌子。其米如粟。故名罌子粟。一名米嚢子。俗呼米殻。八九月ニ落巻。製法云、実未熟間竹針ヲ以上ヨリ刺。其白汁出採テ貯(タクワエ)テ乾使。其殻名罌栗。白水浸裏幕去剉焙。味甘平也。 [42] 冷 ムウルハイン 和名桑実。 [43] 冷 ハルベイナ 和名益母草[146]。俗云メハシキ艸[147]。荒蔚ト字見亦云鬱(ウツ)臭(シウ)草。 [44]
温 ヘンケル 和名イノンド[148]
。 [45] 温 カナアベンタルイト[149] 和名半夏。一名守田。一名地文。一名水玉。一名示姑[150]。ハトヒスイ[151]ト云草也。 [46] 温 カリヨウアラタ 和名丁子草[152]。一名川厚艸[153]。 [47] 温 ハルシカホウム 和名桃木。 [48] 温 トウビネツトロ 和名シロウ草[154]。カラウジ[155]。カラヲ[156]。俗云マヲ。 [49] 温 テストル 和名薊菜、馬薊[157]。小薊。如此相類多。今窮者大薊也。俗云名鬼薊[158]。 [50] 温 ルウタ[159] 和名浜水斳
[160]。 [51] 温 カモメリ 和名野菊[161]。一名節花。一名日精。一名女節。一名女華。一名女茎。一名更生。一名周盈。一名陰成。一名傳延年。如此相類異名和漢同。今窮者此野菊也。 [52] 冷 カラナアタアツブル 和名楉榴[162]。石榴皮[163]。酸榴皮[164]。 [53] 温 ヘイトロセリ 和名芹。 [54] 温 アネイジ 和名小茴香。俗云クレノヲモト草[165]。 [55] 寒 アルケカンケ 和名保(ホ)々(ヽ)公(ツ)岐(キ)。酸漿名醋漿苦葴。燈籠草。金燈籠。紅姑小者名苦■【=䒑+職】カシヂ。洛神珠。 [56] 冷 ソラアノム 和名小茄。 [57] 温 ヘンテカラス 和名稗 鳥禾 稊■【=禾+夷】[166]並同今按クロヒヱ。 [58] 温 ヘルトヘンゲル 和名葡萄ヱビ。俗音ブタウ。蒲桃。同紫葡萄。今按クロブタウ。野葡萄者イヌヱビ[167]。 [59] コウトヲルトル 和名萱草。ワスレクサ。謖[言+矣?]草。鹿葱萱。 [60] ゲンフル 和名生薑。 [61] マルガアリヤ 和名忍冬。一名金銀花。今俗云スイバナカツラ[168]。 [62] 微温 スコルヘンデレヤ 和名鶏足草。 [63] 温 カルモス 和名菖蒲。 [64] 微寒 モス 和名岩松。 [65] 温 サビイナ 和名イフキ。 [66] 温 セイネブル 和名ソナレ松。 [67] ケレスン 和名牛房。ムマフラキ。 [68] ホリホウデ 和名蕨。ワラビ。■、同紫蕨。俗云ゼンマヒ。■仝蕨拳ワラビノ穂也。 [69] ホリキノム 和名萹蓄[170]。一名粉節艸。一名道生屮。俗曰ウシクサ、萹竹。 図経云、山谷今在処有之。春中布地。生道傍。苗似瞿麥。葉細緑色如竹。赤茎如■【=金+必】股。節間花出。甚細微青黄色。又有紅色。根如菖根。四五月採苗院乾。謹按爾雅云。竹、萹畜。郭璞注云、似小藜赤茎節。好生道傍。可食[殺虫]、亦緑王芻也竹篇竹。節謂此萹蓄。 [70] 寒 ロツフルス 和名コシ草[171]。 [71] 冷 アルヘイズ 和名蛇苺[172]。懸鉤子[173]。 [72] 温 メリシ 和名ヲリダ屮[174]。ヒキヲコシ、村立トモ。 [73] 温 カルメンダ 和名鹿草[175]。 [74] 平 ヘイチラアルホウリヤ 和名ツタ。蔓。 [75] 寒 ヘレキス 和名升麻。 [76] 温 ニコチヤアナ 和名タバコ[177] [77] 寒 シツフレスノウト 和名杉実 [78] 温 ヱレリカ 和名イチハツ。鴟尾草。花名紫羅傘[178]。 [79] 平 ハセンセ 和名シノネ草[179]。
[80] 寒 フロウクルイト 和名犬蓼[180]。 [81] 温 レヘスラコム 和名紅白芷。 右此一巻者阿蘭陀外科/草花見フランスフロム来朝之時/公方様ヨリ被仰付/草華之油取指上則此絵ヲ/相認申儀予仕上後世為/乎鑑自晝畢誠世稀也其/方外療数年被尽粉骨一/流依通達則准一子授與之/豈不可有可秘蔵可秘々々/延宝七年三月吉日 草鏡終
[1] ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について」『日本医史学雑誌』第48巻第3号、470〜471頁、2002年。
[2] 中村輝子、遠藤次郎、ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館蔵「阿蘭陀草花鏡図」の検討」『薬史学雑誌』第38巻第2号、221頁、2003年。
[3] 遠藤正治「「阿蘭陀本艸図経」「阿蘭陀草花鏡図」の植物について」第51回慾斎研究会例会(2004年11月21日)、未定稿。
[4] Wolfgang Michel, Elke Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan『日本医史学雑誌』第50巻第4号(2004年)、463〜492頁。
[5] "Ten laetsten wiert g'eijscht een bejaert persoon bequaem en g'expermenteert omme te trecken extracten, olien en wateren uijt allerhande groene medicinale cruijden,
beneffens de nodige instrumenten daer toe moetende dienen. Item diverse jonge spruijten daer men de zade niet wel versch in Japan om te zaijen van can overbrengen, omme aen te planten en voort te connen queeken: welcke voorz:
mandaten en 't versoeck van de distelateur en cruijden kenner, door des Keijsers last ende der Rijcxraden ordre door meergen[oemde] governrs, nu expres op 't laetst van 't vertreck wiert de novo indachtigt, hoewel 'tzelve genoech in Jedo was geschiet op dat het selwe te naeuwer te observeeren en voor ernst te achten, mitsgaders aen den Ed. Heer Governor Generael te rapporteren hadden." 出島商館日誌、1667年11月6日(National Archief 1.04.21(以下はNA)、Nederlandse Factorij Japan (以下はNFJ) 80, 6.11.1667)。
17世紀末頃東インド会社の歴史をまとめたPieter van Damも、この要求の重要性を認識している(Pieter van Dam: Beschryvinge van de Oostindische Compagnie. 's-Gravenhage, M. Nijhoff, 1976, Deel II, 2, p. 443)。
[6] バタビア総督府より出島商館長宛ての書簡、1668年6月29日( NA, NFJ 299, Ingekomen en uitgaande brieven, 29.6.1668)。
[7] この蒸留器と蒸留技術の導入については、以下を参照。Wolfgang Michel, Elke Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan『日本医史学雑誌』第50巻第4号、463〜492頁。
[8] Tan, Sian Nio: Zur Geschichte der Pharmazie in Niederländisch-Indien (Indonesien) 1602-1945. Würzburg, Jal-Verlag, 1976. Kraft, Eva: Andreas Cleyer. Tagebuch des Kontors zu Nagasaki auf der Insel Deshima 20. Oktober 1682 - 5. November 1683. Bonn (Bonner Zeitschrift für Japanologie, Band 6), 1985.
[9] 2002年の発表では、筆者はGodefried Haeckの仮名表記としてホーデフリード・ハークとしたが、和文資料に見られる「コツトフレイル」という読みや彼がところどころ使ったドイツ語の植物名などを考慮すれば、彼は後任者のブラウンやバタビアの上司クライヤーと同様にドイツ人だったという結論に至り、以降はゴットフリード・ヘック(Gottfried Haeck)という表記にした。ミヒェル・ヴォルフガング「薬剤師ゴットフリード・ヘックによる長崎郊外の薬草調査について」『言文論究』21号(2005年)、1〜20頁。
[10] "De distillateur of
kruijdekenner die de Japanders nu een Jaer off 2. aen den anderen geeijst
hebben gaet nu op een der schepen over, maer off hij al de qualiteijten hebben
sal die de Japanders in hem begeren en weten niet wel. Wel worden hier bericht
dat al die qualiteijten selden in een man gevonden worden; dat sulcke persoonen
in Hollant selfs seer weijnigh bennen en om na Indien te gaen selden resolveren
en daerom hier so schaers uijt te vinden sijn. Daeromme sooder iet aen sijn
persoon ontbreeckt dat we onse uijtterste beste willen doen om haer nae desen
meerder vergenoeginge te geven." バタビア総督府より商館長Daniel Six宛ての書簡、1669年5月20日( NA, NFJ 299, Ingekomen en uitgaande brieven, 20.5.1696)。
[11] "Wilhem Ten Rhijne, en M: doctor, kruijd kender, en distilateur, ofte Chimicus die de heeren onse meesters expres uijt nederlandt hadden gesonden, om den Keyser en het rijk van Japan ten dienst te sijn". 出島商館日誌、1676年1月4日 (NA, NFJ 90, Dagregister Dejima, 4.1.1676)。
[12] 出島商館日誌、1672年5月30日(NFJ 85, Dagregister, 30.5.1672)。
[13] „Hier op 't eijlant is tot coste van den keijser een laboratorium ofte disteleerhuijsie gemaakt, soo dat onsen appoteker eerlangh sal te werk gestelt werden". 商館長Camphuisよりバタビア総督府宛ての書簡、1672年1月8日 (NA, NFJ 303, Ingekomen en uitgaande brieven, 8.1.1672)。
[14] 「書画絵図集」所収出島絵図(長崎市博物館所蔵)。長崎市出島史跡整備準備審議会編『出島図ー その景観と変遷』改訂版、平成2(1990)年、94頁。
[15] "en wiert hem oock gevraecht
hoe het toe quam, dat het saet t' welck bij haer tot drij maelen nu was gesaeijt
niet open quam, waer op hij in antwoordt hadt gedient, hij zulckx niet enken
weeren, maer oordeelde het daer bij toe te comen dat het saet eerst uijt
hollandt op Bata, en van daer weder
hier moest gebracht werden, en door de oudeht tbederven onderworpen was, als oock dat hij sustineerde, dese heete
climaet met die vant' vaderlandt, ende natuere vande zaeden, niet over een en
moeste coomen" 出島商館日誌、1671年5月22日(ファン・ヘイニンゲン日誌の抜粋)。(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 22.5.1671)。
[16] "Tegen den avondt op vorigh gekreegen consent van den Gouvernrgingh ick verhelt met Sr vander Plancken, den oppercherurgijn, den nieuwe apoteeker en kruijdenkender, naer s'keijsers thuijn, omme aens te gaen sien nar de groendkruijd door hare Edt van Battavia gesonden" 出島商館日誌、1671年8月10日 ( NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 10.8.1671)。これは長崎代官末次平蔵が運営していた「十禅寺薬園」と思われる。
[17] 出島商館日誌、1672年6月11日(NA, NFJ 85, Dagregister Dejima, 11.6.1672)。
[18] 商館長デ・ハースよりバタビア総督府宛ての書簡、1670年10月19日 (NA, NFJ 301, Ingekomen en uitgaande brieven, 19.10.1670, François de Haas)。
[19] NA, VOC, fol. 760r-772v (19.11.1679).
[20] W. Michel: Andreas Cleyer. In: Engelbert Kaempfer: Heutiges Japan (Hrsg. Wolfgang Michel / Barend J. Terwiel). Band I/2, Iudicium: München, 2001, pp. 95-99.
[21] "s'morgens met den dach
quamen de tolken uijt den naam van den Nangasackijschen stadt voog[d] den
arbarist off kruijten kender van 't Eijlandt halden om hem te geleijden naar't
gebergte ten eijnde om kruijden te zoeken. 'Savonts retourneerende, rapporteert
dat hij vierentwintich derleij cruijden gevonden hadde, 'twelk een goet begin en den Gouvernr (soo de tolken zeijde) wel bevallen hadde." 出島商館日誌、1669年8月1日 ( NA, NFJ 82, Dagregister Dejima, 1.8.1669)。
[22] 「〆 廿四色/酉ノ七月五日/加福吉左衛門/富永市郎兵衛/楢林新右衛門/中嶋清左衛門」(「薬草ノ名並和文扣」(外題)、写者不明、京都大学附属図書館所蔵)。
[23] "den appoteeker is heden
uijt geweesen om kruijden te soeken: en heeft tot genoegen van den Gouvernr eenige gevonden" (NA, NFJ 82, Dagregister Dejima, 23.8.1669)
[24] 「〆 十二色/酉ノ七月廿七日/富永市郎兵衛/名村八左衛門/中嶋清左衛門」(「薬草ノ名並和文扣」)
[25] 出島商館日誌、1670年6月4日、商館長代理ギリス日誌の抜粋 ( NFJ 83, Dagregister Dejima, 4.6.1670, Adriaen Gillis)
[26] 「以上三十三品/右被為 御付薬草見知申候阿蘭陀人戌三月七日ニマカリ出取/申候薬草之分異名並能付共書附指上申候以上/戌三月十日」(「阿蘭陀薬草功能之書」「證治指南」 付録 天、高須清馨写(文化8年)、旧関場不二彦蔵、W・ミヒェル蔵)
[27] 「都テ三十三色三月七日出島ニテ/右被為 仰付薬草見知タル阿蘭陀ヘ戌ノ三月七日出取薬草ノ分異名并能書共書付差上ルナリ」(桂川甫筑編「善生室医話」嘉永四年写、下乾、京大、富士川文庫)
[28] 「以上七品/右被為 御付薬草見知申候阿蘭陀人戌三月廿九日ニマカリ出取申候薬草之分異名並能付共書附指上申候以上/戌四月二日」(「阿蘭陀薬草功能之書」)
[29] 「以上十七品/右被為 迎付薬草見知申候阿蘭陀人戌五月廿五日ニマカリ出取申候薬草之分異名並能付共書付指上申候以上/戌五月廿八日 薬草見知申候阿蘭陀 コツトフレイル判」(「阿蘭陀薬草功能之書」)
[30] 出島商館日誌、1671年5月22日(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 22.5.1671)。
[31] 出島商館日誌、1671年5月22日(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 22.5.1671)。
[32] 出島商館日誌、1671年6月29日(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 29.6.1671)。
[33] 関場不二彦『西医学東漸史話』吐鳳堂書店、東京、昭和8(1933)年、上巻、240〜241頁。
[34] 宗田一『日本医療文化史』思文閣出版、京都、1989(平成元)年、128、130頁。
[35] "des namiddachs comen den
tolken met verkaastheijt wegens den gouverneur ons afvragen hoe out de zaden
sijn, die nu van Battavia hebben gekregen, en zijne gisteren bij geschrift zijn
opgegeven uijt wat landt de comen en op wat tijden vant' jaer mons lant
gezaeijt werden Item wat antwt haerede hebben gesz: op des keijser eijsch van
een kruijdenkenner van meeeder Jaren en ervarenht. als de jonghst geconden ende
jnstrumenten tot het disteleeren noodich"出島商館日誌、1670年8月17日、(NA, NFJ 83, Dagregister Dejima, 17.8.1670)。
[36] 出島商館日誌、1670年6月4日、商館長代理ギリス日誌の抜粋 (NA, NFJ 83, Dagregister Dejima, 4.6.1670)。
[37] "De overgecomen zaaden
hebben de tolken opgenomen en de daer op meer vragen gedaen als haer kan
beantwoort werden, langer als een maent zijnse doend' geweest met het
opschrijven van den tijt dat se moeten gezaaijt werden, wanneer in haer bloem
staen, en op wat tijt rijp zijn haer crachten en de gebruick gelijck in de uijt
d'hiernevens gaende copie van 't geene den apotheeker daer van heeft moeten
aenwijsen zullen connen sien den apotheker diende hier oock wel een goet
doctoor in de medicijnen te weesen en noch soude hij dit volck geen volle
contentement connen geven." 商館長ハースよりバタビア総督府宛ての書簡 (NA, NFJ 301, Ingekomen en uitgaande brieven, 19. 10. 1670)。
[38] バタビア総督府より出島商館長宛ての書簡、1671年5月19日(NA, NFJ 302, ingekomen en uitgaande brieven, 19.5.1671)。
[39] „Onse opperchirurgijn,
appotheker en thuijnier syn heden in't velt geweest om medecinal kruijden te
soecken en hebben daervan goede partije gevonden welckers kraght en eijgenschap
de tolcken eerst daegs sullen connen op nemen." 出島商館日誌、1672年5月21日 (NA, NFJ 85, Dagregister Dejima, 21.5.1672)。
[40] 出島商館日誌、1672年6月11日(NA, NFJ 85, Dagregister Dejima, 11.6.1672)。
[41] "Sooder teeniger tijt door
den gouverneur ordre mocht komen, dat den appotheker Brouwn om kruijden te
soecken int velt mocht gaen, sal zulx sonder tegenspreken laten geschieden en
gelisentieert wordende, zoude eenige borsten mede mogen laten gaan, om haar wat
te vermaken." NA, NFJ 86, Dagregister Dejima, 6.3.1673, Instructie voor den
Ondercoopman Adriaan Wichelhuijsen ende: den dispencier Cornelis Spanbroeck
[...] gedurende mijne bowen Rijse getek: Martinus Caesar, 6 maert 1673)。
[42] "Eijsch van diversche Rariteijten ende goederen door den groot Commissaris Inoije tzickingodonno op 26e Februarij 1652 voor sijn keijserlijcke maijtt. van Japan in Jedo voor hem selfs ende voor verscheijde japanse groote Heeren ao 1651gedaan [...] Een boeck tracteerende vande ontledingh der menschen met de Figuren daerinne gestelt inde portugeessche tale. Eeen kruijdt boeck daer de Figuren na 't leven affgeset sijn oock in de Portugeess tale ende eeninge Historien soo van oorloge als andersints in voorsz: tale" (NA, NFJ 65, Dagregister Dejima, 24.5.1652)。
[43] "Een Herbarius van dodoneus affesete voor d' Hr Sickingodonne 120:-:-"。 船荷の送り状、バタビア、1652年7月11日 (NA, NFJ 776, Factuur Casteel Batavia, 11.7.1652)。
[44] "1: affgesetten Herbarium van Dodoneus in Folio met silver beslagen en op d' snee vergult voor Sickingodo cost fl 96:-:-"。船荷の送り状、バタビア、1652年7月11日 (NA, NFJ 776, Factuur Casteel Batavia, 7.7.1655)。
[45] 1554年以来この本は版を重ねていたが、日本に届いたのはおそらく1644年版と思われる:Dodonaeus, Rembertus: Cruydt-boeck : met Biivoeghsels achter elck
Capitel, uyt verscheyden Cruydt-beschrijvers : Item, in't laetste een Beschrijvinghe vande Indiaensche ghewassen, meest ghetrocken uyt de schriften van C. Clusius : Nu wederom van nieuws oversien ende verbetert. Antwerpen, 1644. 18世紀を中心にこの本草書の受容を追究する本がある:Dodonaeus in Japan (ed. by W.F. Van de Walle), Leuven UP, International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, 2001.
[46] "tzickingodo liet vragen off de niet ijmand onder onsen ware, die odoneus cruijtbouck hem int Portugees conde vertalen, neen
hebbende op g'antwoort, en dat sulcken geheelen werck met geen cleijne kennisse inde tale, als gemeenelick onder ons is, te verrichten sij"。 出島商館日誌、1653年1月17日 (NA, NFJ 66, Dagregister Dejima, 17.1.1653)。
[47] その件に関するオランダ側の記述がある。「夕刻、小田原の城主稲葉美濃様が、腕に怪我したのを診察するため、城内から外科医を招かれたので、直ちに遣わした」。出島商館日誌、1650年2月10日 (NA, NFJ 63, Dagregister Dejima, 10.2.1650)。
[48] "wat aengaet 't voorschreve
g'eijste boeck 't selve was wel maer de kruijden daerin afgebeelt waren te
kleijn, en niet wel geschildert, souden sien off hem in 't aenstaende een
grooter boeck, daerinne oock grooter figuren stonden, konden beschicken, och
arme menschen! hoe weijnigh weetje vande voortreffelijckheijt van sulcke of
diergelijcke wercken te oordeelen, want meenen dat sulcke boecken van allerleij
soort (gelijck in een schoenmakers winckel de schoen) te becomen zijn." 出島商館日誌、1659年4月4日 (NA,
NFJ 72, Dagregister Dejima, 4.4.1659)。
[49] 出島商館日誌、1676年11月14日(NA, NFJ 90, Dagregister Dejima, 14.11.1676)。
[50] Hortvs Eystettensis, Sive Diligens Et Accvrata Omnivm Plantarvm,
Florvm, Stirpivm, Ex Variis Orbis Terræ Partibvs, Singvlari Stvdio
Collectarvm, Quæ In Celeberrimis Viridariis Arcem Episcopalem Ibidem
Cingentibvs, Hoc Tempore Conspicivntvr Delineatio Et Ad Vivvm
Repræsentatio Operâ / Basilii Besleri [= Basilus Besler] Philiatri
Et Pharmacopoei. M.DC.XIII. (56 x 47cm)
[51] 部数の少ない1613年版はヨーロッパでも極めて貴重なものであるので、杏雨書屋蔵の木箱入りの初刊本は1668年に納品されたものである可能性がある。附属文書の中に、宇田川が書いたとされる植物の和名が含まれている。『杏雨書屋洋書目録』臨川書店、京都、2006年、18頁〜。(京都大学の松田清氏のご教示にお礼を申し上げる。)。
[52] 出島商館日誌、1673年2月25日NA, NFJ 86, Dagregister Dejima, 25.2.1673)。
[53] 筆者は植物学的比定を行った遠藤正治氏の未定稿(「「阿蘭陀本艸図経」「阿蘭陀草花鏡図」の植物について」2004年)を参照したが、ここでは、欧文文献に見られる植物名を求め、ヘック及びブランが長崎の植物をどういうふうに理解したかを目的ににした。
[54] Dodonaeus, Rembertus: Cruydt-boeck. Antwerpen, 1644.
[55] 「ヒヨウラス」はポルトガル語violaの複数形であろう。
[56] そもそもVlierはSambucusの蘭名だが、ドドネウスによれば、wilde VlierはHadichの別名だった("De
Nederlanders pfleghen dit cruydt veel Wilden Vlier te heeten; maer meest Hadick, Haddijck oft Adick, nae den Hooghduytschen", Cruydt-boeck, 1644, p. 620)。
[57] 「エスロウコ」の「エス」はドイツ語のEss-(食べる)かも知れない。
[59] 生薬名。「フロウリス」は複数形floresを表記していると思われる。
[60] 生薬名。「Taraxaconの根」の意。
[61] 生薬名。
[62] 生薬名。「Iriasの根」の意。
[66] 本格的な蘭語名はまだなかった("Dit
cruyt wort nu ter tijt in't Latijn geheeten Caryophyllata, om dat de wortelen
nae Gyroffels nagelen schijnen te riecken." Cruydt-boeck, 1644, p. 198)。
[67] 「トウビ」はドイツ語なまりであろう。
[68] 生薬名。
[69] 生薬名。
[70] 生薬名。
[71] 生薬名。
[72] 生薬名。
[73] 生薬名、「ヘデラの葉」(folia)。
[75] オランダ語ではVloy-cruydtよりもPersick-cruydtの方は多かった。"Dit cruydt is hier te lande nae den Hooghduytschen somtydts Vloy-cruydt gheheeten gheweest / maer meest Persick-cruydt." Dodoneus, Crudt-boek, 1644, p. 960.
[76] ラはテの誤りであろう(レヘスラコム→レヘステコム)。
[77] 中村輝子、遠藤次郎、ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館蔵「阿蘭陀草花鏡図」の検討」『薬史学雑誌』第38巻第2号、221頁、2003年。
[78] 国会図書館・白井文庫(2点)、東京大学附属図書館・鶚軒文庫(1点)、東北大学附属図書館・狩野文庫(1点)、西尾市・岩瀬文庫(1点)、杏雨書屋(4点)、京都府、無窮神習(1点。明和2年写)。
[79] 「三月十五日、『阿蘭陀本草図経』一冊稿成る。オランダ渡来の春草、夏草、秋草、冬草および木の図説。陽月窓士序、大町伯約の宝永己丑之春三月望日の跋がある。」上野益三『年表日本博物学史』東京、八坂書房1989年、104頁。
[80] 内藤記念くすり博物館(1点)。
[81] 岡山大学附属図書館資源生物科学研究所分館・大原農書文庫(1点)、国際日本文化研究センター図書館・宗田文庫(2点)及びその他(1点)、京都・大石家(1点、「若虚堂秘蔵」とあり)。
[82] 「紅毛本草図経」(文化元子ノ三月写、杏雨書屋、杏1048)により。
[83] 「陽月窻士叙 山村宗雪先生之自序也。窻士文字可疑。予遊学于勢陽、視 師家之書。始得觧此書之序。本草書而作陽月甚七誤。甚七而作窻士者無疑。」(「阿蘭陀本草図経」[内題]、杏雨書屋、杏2142)
[84] 『阿蘭陀外科指南』京都、上村平左衛門、元禄9(1696)年刊。国際日本文化研究センター図書館・宗田文庫。
[85] 「阿蘭陀本草」(内藤記念くすり博物館 31084-499.8)
[86] Rosarum。
[87] New Kreüterbuch. In
welchem nit allein die gantz histori / das ist namen / gestalt / statt und zeit
der wachsung / natur / kraft und würckung / des meyste theyls der
Kreuter [...] abgebildet und contrafayt ist [...] Durch den hochgelerten
Leonart Fuchsen der artzney Doctorn / vnnd derselbigen zu Tübingen Lesern.
[...] Getruckt zu Basell / durch Michael Isingrin / 1543. Reprint: Taschen,
Köln 2001.
[88] [Basilius Besler] Hortvs Eystettensis sive diligens et accvrata omnivm plantarvm, florvm, stirpivm, ex
variis orbis terrae partibvs, singvlari stvdio collectarvm, [...] Ioannis Antonii / MDCCXIII. Reprint, Kölbl, Grünwald bei München 1964.
[89] 「阿蘭陀本草図経」(岡山大学附属図書館資源生物科学研究所分館・大原農書文庫170-120)
[90] 蘇頌撰『図経本草』(九竜)、竜源出版公司、1988年(輯復本、胡乃長、王致譜、輯注)
[91] 雷斅、『証類本草』及び『本草綱目』について様々なご教示下さった真柳眞氏に心よりお礼を申し上げる。
[92] 家を去って千里を行く、羅摩と枸杞は食うなかれ、この二物は精気を補益し陰道を強盛する。
[94] 蘇頌撰『図経本草』(九竜)、竜源出版公司、1988年、輯復本、胡乃長、王致譜、輯注。
[95] 『爾雅義疏』第八巻、釋草第十三。
[96] 近年の著書としては大場秀章の『江戸の植物学』(東京大学出版会、1997年)はこの白井光太郎に遡る説を取り上げている。
[97] 句点は追加された。
[98] イバラショウビ。ショウビ(薔薇)もある。
[99] Rosarum。
[100] 駒牽草もある。
[102] タビラコ(田平子)。
[103] 小手鞠。
[104] 金毛花。
[105] 『本草綱目』巻十六、葶藶(「凡使勿用赤鬚子」)。
[107] トウシン(燈心)。
[108] テマリカ(手毬花)。
[109] Melilot ?
[110] ブツジソウ(仏耳草)。
[111] ふつは九州の方言。艾 [...] フツ薩州 ブツ肥前(小野蘭山『本草綱目啓蒙』享和3年〜文化2年刊、巻11)。
[112] 枸杞(クコ)の誤り。
[113] 杞根(クコン)の誤り。これらの一名の多くは『神農本草経』に収載されている(「枸杞、一名杞根、一名地骨、一名苟忌、一名地輔。味苦寒。生平澤。治五内邪氣、熱中消渇、周痺、久服堅筋骨、輕身耐老。」)
[114] 『本草綱目』巻36。
[115] インチンコウ(茵蔯蒿)。『本草綱目』巻16。
[117] 『本草綱目』巻十五、「茵蔯蒿」(「斅曰、凢使須用葉有八角者、陰乾去根細剉勿令犯火」)。
[118] イラクサ(刺草)。
[119] カッコウ(藿香)。
[120] 「本草撮要」の誤りか。
[121] 『本草綱目』に未掲載。
[122] コウジュ(香薷)。
[123] ギシギシ(羊蹄)。
[124] ウマヒユ(馬歯莧)。
[125] フクボン(覆盆)。
[126] 「アシクダシ」であろう。「覆盆 [...] アシクダシ 筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』享和3年〜文化2年刊、巻14)。
[127] ウツボグサ(靫草)。
[128] 『本草綱目』に未掲載。
[129] 「格注草 [...] 長崎ニテアハコヘゴト云京ニテコシダト云」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻23)。
[130] カタバミ(片喰草)。
[131] スイモノグサ、サクショウソウ(酢漿草)。
[132] カナモグラ、カナムグラ(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14)。
[133] この句は唐代蘇恭の『新修本草』と一致している。「恭曰。葎草生故墟道傍。葉如箟麻而小且薄。蔓生有細刺」『本草綱目』巻18
[134] 名称、未確認。
[135] ツリガネソウ(釣鐘草)。
[136] 「積雪草 [...] カキドウロ 筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻10)。
[137] ウツボ草。
[138] ヒオウギ(檜扇)。
[139] カラスオウギ(烏扇)
[140] 原文は「翣翣」だが、「翣扇」の誤りであろう。
[141] 『本草綱目』(巻17)は射幹の釈名として烏扇、烏■、烏吹,鳳扇、烏蒲、鬼扇,扁竹、仙人掌、紫金牛、野萱花、草姜、黃遠を挙げている。
[142] イシミカワソウ(石見川草)。
[143] ウシノヒタイ(牛の額)。
[144] ミゾソバ(溝蕎麦)の誤り。
[145] オトギリソウ(乙切草)。
[146] ヤクモソウ(益母草)。
[147] メハジキ(目弾き)。子供が茎をまぶたに貼って目を開かせて遊ぶことによる。
[148] スペイン語のeneldoより。「又蛮語にイノンドと云物あり、茴香と同類にして別なり」貝原益軒野『菜譜』上、1704年刊。
[149] カナアベンクルイト。写しの誤り。
[150] 和姑。写しの誤り。
[151] 未確認
[152] 「丁子草 花ハ丁子ノ形ニ似テ浅葱色ナリ四月ニ開ク葉ハ柳葉ニ似テ筋微シ白シ」貝原益軒『大和本草』巻7、宝永6年刊。
[153] 未確認
[154] 「苧麻 [...] シロソ 肥前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14)。
[155] カラムシ。写しの誤り。
[156] 未確認
[157] バケイ(馬薊)。
[158] オニアザミ(鬼薊)。
[159] ルウダ。ポルトガル語arrudaより。「ありたさう」(貝原益軒『大和本草』)。
[160] 未確認
[161] 野菊関する『本草綱目』の説明はきわめて短く、「阿蘭陀草花鏡図」が述べている一連の別名は全て『本草綱目』(巻十五)の「菊」の釈名である。
[162] 「楉榴、榴石也」『廣雅』。
[163] ザクロ(石榴)。
[164] 酸榴皮(『本草綱目』)
[165] 『本草綱目啓蒙』(巻22)は同様な別名を挙げている。
[166] 稊稗か
[167] 未確認
[168] 「忍冬 [...] スヒカヅラ、スヒバナカヅラ雲州」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14下)。
[169] アヤメ(溪蓀)。
[170] ヘンチク(萹蓄)。
[171] 「虎耳草 [...] ユキノシタ、キジンサウ筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻16)。
[172] 「蛇苺 クチナハイイチゴ ヘビイチゴ」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14上)。
[173] 「懸鉤子 キイチゴ [...] カナイチゴ泉州 ツルキイチゴ」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14上)。
[174] 「薺寧和産詳ナラズ ヒキヲコシニ充ル古説ハナラズ」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻10)。ヒキヲコシ(引起)。
[175] 「土当帰 ウド シカ筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻9)。
[176] 「升麻 トリノアシグサ延喜式」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻9)。
[177] 中米から南蛮船で来日したタバコ(多巴古、佗波古、煙草、多葉粉、田葉粉、金絲烟)は、医療にも利用された。
[178] 『本草綱目啓蒙』巻13。
[179] 「羊蹄 シ古歌[...]シノネ和方書 シノネダイコン同上」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻15)。
[180] イヌタデ(犬蓼)。
[181] 「ヨロヒグサ延喜式 サイキ信州 ムマゼリ勢州 ヤマウド作州 カンラ勢州 今ハ通名」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』巻10)。
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