ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館所蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について」『鳴滝紀要』、第17号、9〜38頁、2007年3月。【招待論文】
Wolfgang Michel: On the Manuscript "llustrated Mirror of Dutch Plants" (Siebold Museum, Nagasaki) and its Background. Narutaki Bulletin, No. 17 (March 2007), pp. 9-38.  
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Keywords:
江戸時代、本草学、植物学史、医史学、医学史、紅毛流外科、蘭学、日本、長崎、出島、江戸期、17世紀、寛文年頃、阿蘭陀草花鏡図、阿蘭陀本草図経、薬草調査、薬草見知、本草学、本草書、出島商館、アイヒシュテットの庭園、シーボルト記念館、加福吉左衛門、本木圧太夫、富永市良兵衛、立石多兵衛、楢林新右衛門、名村八左衛門、中嶌清左衛門、中山作左衛門、フランス・ブラウン、ゴットフリード・ヘック、アンドレアス・クライヤー、コンスタンチン・ランスト、ダニエル・シックス、ドドネウス、陽月_士、薬草ノ名並和文扣、蘭方草木能毒集、阿蘭陀外科指南、薬艸口訣、紅毛外科療治集、證治指南、本草綱目、爾雅、図経本草、本草衍義、
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ミヒェル・ヴォルフガング

シーボルト記念館所蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について

 

はじめに

筆者が2001年にシーボルト記念館の企画展で展示されていた「阿蘭陀草花鏡図」の奥書からその重要性に気づき、翌年の日本医史学会の大会でその内容を報告した後[1]、中村輝子と遠藤次郎は類似の写本「阿蘭陀本草図経」を発見し、両者の比較研究を行い[2]、また遠藤正治はそれらの写本に見られる植物の比定に取り組んだ[3]。本論文は、その後入手した和文と蘭文の新史料を踏まえながら「阿蘭陀草花鏡図」の特徴及び当時の背景をさらに追究するものである。

 

1 「阿蘭陀草花鏡図」


本資料はシーボルト関連のものではなく、1998年に佐賀県杵島郡白石町在住の嬉野雅彦氏により寄贈された巻物(28x1337cm)である。江戸時代に鍋島藩の医師を務めた同家の先祖から伝わったものとされているが、当時の状況を解明できる裏付けとなる資料は残っていない。
題目「阿蘭陀草花鏡図」に続いて、81点の植物を示す、鏡を思わせるような丸い水彩図がある。画法は比較的簡単で、土に根を下ろしている植物もあれば、枝1、2本だけのものもある。それぞれの絵の上に寒、熱、温、冷、平、微温、微熱、微寒、平熱という中国本草学で性質や薬性を示す「五性」(熱・温・平・涼・寒)が見られる。
絵の右横には「ロウザ」、「セントウリヨムミノウリス」、「ワアトロアヒヨム」、「ヘルトウレイル」などラテン語とオランダ語の植物名が記載されている。絵の下にはそれぞれの和名及び40字から150字程度の解説文があり、発芽や開花の時期、葉、茎、花、実の特徴、繁殖の場所、採集の時期や加工法などが述べられている。ところどころ、文献を模写する際起こりかねない漢字の誤りがあるので、この巻物は著者による原本ではないと思われる。
大抵の解説にはある「図経」からの引用文が見られるが、「阿蘭陀草花鏡図」の制作者によるものと「図経」からの抜粋の分を区別するのは困難である。説明は、甘、苦、辛、甘酸、甘酸、甘平、甘凉、苦平、苦辛、甘平など五行思想の「五味」(酸・苦・甘・辛・鹹)で終わっており、植物の用法や治療方法に関する記述はない。また、七六番の「ニコチヤアナ」(タバコ)と七七番の「シツフレスノウト」(杉実)の場合は「図不及論」という記述で、制作の際に利用されたその他の資料の存在が示されている。
巻末の奥書は「阿蘭陀草花鏡図」の背景を次のように伝えている。

「右此一巻者阿蘭陀外科/草花見フランスフロム来朝之時/公方様ヨリ被仰付/草華之油取指上則此絵ヲ/相認申儀予仕上後世為/乎鑑自晝畢誠世稀也其/方外療数年被尽粉骨一/流依通達則准一子授與之/豈不可有可秘蔵可秘々々/延宝七年三月吉日」

蘭文資料の以前の調査で「油取」つまり薬油の製造のために来日した「フランスフロム」は、幕府の依頼で1671年に来日し、数年にわたり出島商館長日誌などの蘭文資料に現れる薬剤師Frans Braunであることが判明した[4]。したがって、「阿蘭陀草花鏡図」は1660・70年代の幕府による「薬草政策」に関連する貴重な和文資料の一つとなる。

fig 01
図1 「ハルシカホウム」(「阿蘭陀草花鏡図」シーボルト記念館蔵)

 

 

2 1660年代の薬草政策について

宗田一が『日本医療文化史』で述べた史上初の「公式製薬伝習」とその背景を蘭文資料で検証した際、筆者は1660年代に国内の薬草資源開発及び蒸留技術移転に目を向けた幕府の興味深い試みに気づいた。カスパル・シャムベルゲルの1650・51年の活動が契機となった、西洋外科術に対する高い関心や継続的な学習、それにともなう蘭方医薬品の需要増加はそのような試みにつながる一つの大きな刺激だったが、1650年代からの江戸と大阪のいくつかの大火が残した財政的負担、海外貿易による金銀の流出など国内経済の厳しい状況も見過ごしてはならない。寛文4年頃から、幕府が不必要と思われる消費の抑制を進めたのは偶然ではない。寛文8年に、高価な織物をはじめ動物、焼き物、楽器、時計等々の輸入禁止が出島商館長に通達された。和文史料は残っていないが、当時の江戸城で出された、高価な医薬品の国産化推進の発想は、東インド会社の資料にはっきりと観察できる。1667年11月6日、慣例に従い、就任した出島商館長ダニエル・シックス(Daniel Six)は前任者のコンスタンチン・ランスト(Constantin Ranst)とともに長崎奉行所を訪れた。シックスによれば、同じ時期に交代する奉行河野権右衛門と松平甚三郎との会談で異例の要請が出された。

「最後に、様々な新鮮な薬草からエキス、薬油、蒸留酒を抽出できる経験豊かな年配の人物の派遣及びそのために必要な器具の提供を要請された。そのほかに、種を新鮮な状態で日本へ運べないので、植え付け、繁殖用に様々な苗も。皇帝[=将軍]と帝国顧問官[=老中]によるこの要求は、江戸ですでに十分に言及されたにもかかわらず、上記の奉行たちを通じて至急にあらためて持ち出された。それをより真剣に受けとめ、総督殿に報告する必要のためである。[5]

迅速に会社の前向きな姿勢を示したいバタビア総督は、1668年に今後のさらなる納入を約束し、とりあえず乾燥した薬草を送付した[6]。1669年も同様なものを届けたが、1670年及び1671年に種と苗が奉行に手渡された。オランダから取り寄せなければならなかったガラス製の蒸留器の納品は1671年になった[7]。専門家の派遣も容易ではなかった。バタビアには2つの薬局があり、それらを運営するドイツ人医師クライヤー(Andreas Cleyer, 1634-1697/98)が社内の医薬品供給の総責任者でもあったが、薬剤師の人材は常に不十分だった[8]。1669年の初夏にようやく一人の薬剤師が日本へ赴いた。しかし、この若いヘック(Godefried Haeck[9])の能力に対する日本側の疑問は多く、経験豊富な専門家ではないことを十分に認識していた総督府は[10]、1671年に「薬剤師で薬草熟知者」フランス・ブラウン(Frans Braun)、そして1674年にその特別任務のためにオランダで採用された「医学博士、薬草熟知者、蒸留師、及び化学者」ウィレム・テン・レイネ(Willem ten Rhijne, 1647-1700[11]を長崎へ赴かせた。3人は日本人とともに長崎湾での薬草調査に出向いたり、納品された種や苗に関する説明を行ったりしていた。ブラウンは持参した大型の蒸留装置を「皇帝」の経費で建てられた「実験所あるいは蒸留小屋」に設置し、1672年に一連の薬油蒸留技術の教授を行い、医者であるテン・レイネは患者の治療にあたり、医療や医薬品に関する説明を行った。
茴香油、丁子油、肉豆蒄油、陳皮油、ローズマリー油、テレピン油など、単純な蒸留法から7日間を要する複雑な樟脳油(Oleum Camphorae)の製造方法までの伝習は短期間で実った。1672年5月に
はブラウンの手を借りずに数名の日本人医師が出島の装置で丁子油などを蒸留できるようになり[12]、それ以降も「皇帝の蒸留小屋」[13]でヨーロッパ人や日本人による蒸留に言及する記述が商館長日誌に見られる。

fig 01
図2 本木良永旧蔵の出島図に見られる「油取家」[14]

 

それに対し、輸入された種と苗の栽培は期待通りに進まなかった。1671年5月にヘックは3回も奉行所に呼ばれた。

「昨年バタビアから送られた種を蒔くために、同月十日再びヘックが呼ばれた。その際彼が3回蒔いた種がどうして発芽しないのかということについて質問され、ヘックは[次のように]返事した。自分自身もよく分からない。しかし、自分の判断によると、その種はまずオランダからバタビアへ、そしてそこからここへ運ばなければならなかったので古くなり駄目になった。また、ここの気候と祖国の気候および種の性質が合わないのであろうと答えた。[15]

その上、要請された丁子、肉豆蒄及び肉桂の苗を東インド会社が提供しなかったこともあり、若き秀才テン・レイネが1674年にブラウンの後任者として長崎に到着したときには幕府の熱はすでに冷めてしまっていた。

蒸留技術の移転については、すでに詳細に報告してあり、ここでは「阿蘭陀草花鏡図」と関わる薬草調査に的を絞ることにする。

 

 

3 紅毛人薬草見知による長崎での薬草調査

ヘック、ブラウンの日本での活動から、幕府が薬草に精通する専門家を要請した理由が判明する。その一つは種と苗の栽培に関する知識の提供だった。長崎での幕府の御薬園は一般に延宝8(1680)年に誕生したとされているが、1671年に商館長が副館長、外科医、薬剤師とともに「皇帝の薬園」(s 'keijsers thuijn)という薬園を訪れ、栽培の行方を見守った[16]。また、バタビアから届いた植物の目録をもとに阿蘭陀通詞が報告書をまとめる際、ブラウンは通詞全員に数回にわたり説明を行った[17]

ヘックもブラウンもテン・レイネも阿蘭陀通詞、日本人医師などと一緒に長崎湾内の有用植物を探さなければならなかった。このことの意義は決して小さくない。紅毛人に国内植物の調査を依頼していた幕府の関係者は、李時珍の『本草綱目』など中国系の本草書だけでは日本の植物は十分に把握できないという認識を持っていたに違いない。これは、列島の自然の特殊性に目を向ける日本独自の本草学の前兆でもある。

長崎に到着して間もなく薬草狩りを命じられたヘックは、まだ正式に就任していない1669年8月1日に通詞たちと出かけ、夕方までに24種の薬草を確認できた。この調査活動は不定期的に継続して行われ、阿蘭陀通詞は数回ヘックの説明をまとめ、奉行に報告書を提出した。これらの報告に遡る写本及び出島商館の記述を照らし合わせるとヘックの調査活動は後任者ブラウンが到着した1671年の初夏まで続いていた(表1)。興味深いことに、ヘックが見つけた薬草の一覧表がバタビア総督に送付され、植物資源に敏感なクライヤー、マイスターなどの関係者の興味を引いた[18]。クライヤーが1679年11月19日に作成した東インド産の有用薬品のリストに含まれる日本のものはヘックたちの報告に基づくものに違いない[19]。また、バタビアに辿り着いたケンペルが1689年クライヤーの家に宿泊し日本の研究を準備していた際、知日派に植物の総合調査を頼まれたことも上記の文脈の中で評価しなければならない[20]

表1 薬剤師ゴットフリード・ヘックによる植物調査
調査日(陰暦) 調査成果 出典
1669年8月1日(寛文9年7月5日) 24種 出島商館日誌、1669年8月1日[21]。「薬草ノ名並和文扣」[22]
1669年8月23日(寛文9年7月27日) 12種 出島商館日誌、1669年8月23日[23]。「薬草之名并和之扣」[24]
1670年4月 出島商館日誌、1670年4月6日(館長代理ギリス日誌の抜粋)[25]
1670年4月26日(寛文10年3月7日) 33種 「阿蘭陀薬艸功能之書」[26]。「繕生室医話」下乾「薬草ノ能」[27]
1670年5月18日(寛文10年3月29日) 7種 「阿蘭陀薬艸功能之書」[28]
1670年7月12日(寛文10年5月25日) 17種 「阿蘭陀薬艸功能之書」[29]
1671年4月28日 わずかな成果 出島商館日誌、1671年5月22日(副館長ファン・ヘイニンゲン日誌の抜粋)[30]
1671年5月7日 わずかな成果 出島商館日誌、1671年5月22日(副館長ファン・ヘイニンゲン日誌の抜粋)[31]
1671年6月29日 収穫なし 出島商館日誌、1671年6月29日[32]

 

「薬草ノ名並和文扣」は宝暦年間以降写されたものであるが、ここに見られる薬草数及び調査日付の記述は商館長日誌の記録と一致していることから、その信憑性は高い。薬草調査に参加した通詞楢林新右衛門(鎮山)から楢林栄哲へ伝わりその門下人高須清馨が移した「阿蘭陀薬草功能之書」(自筆本)も同様に証拠力の高いものである。関場不二彦がいくつかの特徴を『西医学東漸史話』で説明したが[33]、その所在が不明になっていた「證治指南」(6巻)を筆者が昨年入手するまで、さらなる分析は不可能だった。宗田一が『日本医療文化史』[34]で挙げている桂川甫筑による「薬草ノ能」は「阿蘭陀薬草功能之書」(寛文10年3月7日付の分)と一致しており、1660年代出島で西洋外科学を学んだ平戸藩医嵐山甫安に遡ると考えられる。

上記の調査成果をそのまま合計すれば、90以上の種類になるが、寛文10年8月6日に通詞たちが仕上げた報告は同年の3回の調査をまとめつつ、前年の成果も組み込んだものである。

「右三度ニマカリ出取申候薬草合五十七色之能付薬草見知申候阿蘭陀人申聞候通詞我々立会和ケ申指上申候己上
戌八月六日  通詞  加福吉左衛門 印
         同 本木圧太夫  印
         同 富永市良兵衛 印
         同 立石多兵衛  印
         同 楢林新右衛門 印
         同 名村八左衛門 印
         同 中嶌清左衛門 印
         同 中山作左衛門 印」

上記の和文資料は、日付及び調査活動については述べているが、「薬草見知」ヘックの名を挙げているのは「阿蘭陀薬草功能之書」のみである(「コツトフレイル」 = Gottfried)。奉行や通詞たちは彼の人柄や能力に対し疑念を抱いており、奉行は早くも「より年配で経験豊富な人」の派遣を求めた[35]。商務員ギリスの日誌によれば、1670年の4・5月頃ヘックは通詞を介し奉行から、両親や兄弟、薬草に関する知識等々、多くの事柄について質問を受けた。商館日誌は彼の返事を箇条書き的にしか伝えていないが、ヘックは15才から薬局で働き、バタビア要塞の薬局(winkel)にも数年間勤めたことがあるが、およそ40〜50種類の植物しか知らなかったことがわかる[36]。たしかに、50数種の植物を確認してからは、長崎での調査は進展していない。1670年8月6日付の報告は最終報告だったと推定してよさそうである。

ヘックの苦労に言及する手紙が残っている。1670年にバタビアから最初の種が届いた際、通詞たちは一ヶ月以上にわたり、それらの播種期、開花期、成熟期や功能と利用について様々な説明を求めたが、十分に満足できる情報を得られなかった[37]

1671年夏、後任の薬剤師フランス・ブラウンが出島に上陸した[38]。彼は待望の蒸留装置を持参しており、その設置と製薬術の教授で忙しかったが、長崎湾での合同調査にも参加したとの記述が1672年の日誌に残っている。

「本日、我々の上位外科医、薬剤師及び庭師は薬草を探すために野原へ出かけ、かなりの量を見つけた。その功能と特徴は通詞たちが後ほど記録する予定だ。[39]

 同年6月11日(寛文12年5月16日)に通詞全員が商館で上記の薬草の功能などの記録を作成した[40]。また、翌年、江戸参府の準備をする商館長が出島に残る代理に手渡した指示書に、薬剤師ブラウンの薬草狩りを求める奉行からの命令が届いた際には、反論せずに許可を出さなければならないという項目も含まれている[41]。1673年の商館日誌では薬油蒸留や薬草栽培については述べているが、残念ながら植物調査には殆ど言及していない。寛文12年の市法商法の導入のためか、商館と奉行所との間の駆け引きが激しくなり、盗み、侮辱、暴力事件まで起こるといった日蘭双方が神経をとがらせる時期となった。この状況のもとで、ブラウンの調査活動がいつまで続いていたかは明らかではない。また、ヘックの調査に関連する和文資料は確認できたものの、ブラウンの名を示す写本としてシーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」はこれまで唯一の事例である。

 

 

4 西洋本草書の輸入の始まり

ヨーロッパの本草書の輸入は紅毛流外科の誕生とともに始まる。1650年に商館医カスパルに感銘を受けた大目付井上筑後守政重は、その翌年に「生き生きした図版の本草書」及び解剖書のポルトガル語版を注文していたが[42]、1652年[43]及び1655年[44]に送付された本は当時の通詞たちにはまだ読めなかったオランダ語でドドネウス(Rembert Dodoens / Dodonaeus, 1517-1585)がまとめた本草書[45]だった。政重はポルトガル語による説明を求めたが、そのために十分な知識と語学力を持つオランダ人は停泊中の船にも商館にもいなかった[46]。3冊目を納品した際の注文主の反応はオランダ人たちを驚かせた。シャムベルゲルの治療を受け[47]、井上筑後守と同様に西洋の医療に強い関心を寄せた小田原城主稲葉美濃守正則(1623-1696)は、挿絵が小さすぎて質も良くないので、もっと大きな絵が入っているものを送って欲しい、と本を返品してしまう。気の短いドイツ人商館長ワーゲネル(Zacharias Wagener, 1614-1668)は相手の判断力を疑った。

「なんという哀れな人々だ。著作の素晴らしさをほとんど理解できず、このような本が靴屋の靴と同じように、様々な種類を取り寄せられると思っている[48]

それでも1657年老中になった美濃守は、約20年間にわたり日蘭の交流において大きな役割を果たし、オランダ人の「パトロン」として讃えられた[49]。1666年に、それまでの実力者だった酒井忠清及びその同僚阿部忠秋が老中職を免ぜられ、その翌年に幕府は蒸留、専門家の派遣と薬草を要請した。久世広之に関しては2,3の関連記述があるものの、当時の老中として西洋の医薬学に関心を寄せたのは、誰よりも稲葉正則だった。1660・70年代の幕府の動きにおける彼の役割は決定的なものだったと断言できる。

ドドネウスの木版画に満足しなかった稲葉正則のために、東インド会社は1668年、バシリウス・ベスラーが1613年に刊行した17世紀の最高傑作とされる『アイヒシュテットの庭園』(Hortus Eystettensis[50])を日本に送った[51]。ドドネウスは薬草の特徴と功能について詳細に述べたが、薬剤師ベスラーは解説文よりも367枚の超大型の図版のために膨大な資金を費やした。アジアとアフリカから移植された植物種を含むドイツ・アイヒシュテット司教の庭園を描写するこの3冊には、注文主稲葉は大喜びするはずだったが、今度は言語の問題を克服しなければならなかった。

商館の阿蘭陀通詞も薬剤師ヘックもブラウンもラテン語の文章を訳せなかったようだ。そのためか、長崎奉行は1672年9月に、停泊していた船及び商館内の外科医の中にこの本を翻訳できる人はいないかという問い合わせをした。商館長はこのようなことは各人の職業と能力を超えるものだと回答したが、翻訳できる人物を日本へ派遣しなければ書籍はバタビアへ送り返されると依頼主が揺さぶりをかけた。その後、内容に関するある程度の説明が行われたと思われる。1673年の春に長崎代官末次平蔵は解剖書とともに『アイヒシュテットの庭園』を老中のために江戸へ持参することになった[52]

ドドネウスの『本草書』と『アイヒシュテットの庭園』は注文品として会社の記録に残っているが、薬草専門家として日本へ派遣されたヘックとブラウンは参考文献としてレオナルド・フックスなどの数冊の本草書を持参してきたと考えられる。野外調査で見つけた植物あるいは納品された苗や種について説明するたびに、これらの文献を利用したはずである。

 

 

5 「阿蘭陀草花鏡図」の洋名

現代植物学から見れば、「阿蘭陀草花鏡図」が提供してくれる情報は量的にも質的にも十分とは言えない。当時の交流を追う本論文では出島の阿蘭陀通詞がカタカナで記録した植物名の原型を把握することにとどめ、植物の比定は専門家の課題として残すことにする[53]

初期紅毛流外科の文書と同様「阿蘭陀草花鏡図」には様々な言語が混在している。名称の大半はヘックの調査で記録されたものである。彼はApium、Flores Sambuci、Bursa pastorisなど様々なラテン語の名称を知っていたが、Mente、Heete Netel、Vijfvingher-cruydt、Distel、Vloy-cruydtのオランダ語名もあり、Water apium(オランダ語・ラテン語)の様な当時の文献に見られない個人的な組み合わせもある。ドイツ人だったヘックはオランダ語名の一部を知らなかったようだ。ドイツ語のKnabenkrautに相当する蘭名はKullekens-cruydtだったが、彼はドイツ語とオランダ語を混用してしまった。ドイツ語のSchaffgras/Schafgrassはオランダ語ではGeruweと呼ばれるが、ヘックは前者を好んだようだ。ラテン語名の語尾に見られる多少の間違いから、彼は大学教育を受けていないことがあらためてわかる。

 

表2 阿蘭陀草花鏡図」に見られる洋名
「阿蘭陀草花鏡図」の仮名表記 ローマ字表記(17世紀のつづり)  ドドネウス『本草書』[54]に見られる名称(l=ラテン語、n=オランダ語、d=ドイツ語、g=ギリシャ語、i=イタリア語) 「阿蘭陀本草図経」に収載
01 ロウザ Rosa Rosa (l)
02 ヒヨウラス Violas[55] Violen (n); Viola (p)
03 セントウリヨムミノウリス Centaurium minoris Centaurium minor (l); Kleine Santorie (n)
04 ヘルトフレイル Wilde Vlier[56] Wilde Vlier (n); Hadich, Hadick (n); Ebulus (l)
05 ワアトロアヒヨン Water apium Water Eppe (n); Apium aquae, Apium aquatile (l)
06 アルトミジャ Artemisia Artemisia (l); Bijvoet (n)
07 カツヘレ子レス Capillus veneris Capillus veneris (l); Vrouwen-hayr (n)
08 エスロウコ Loock[57] Loock (n); Allium (l)
09 アヒヨン Apium Apium (l); Eppe (n)
10 スカアフスカレス Schaffgras Schaffgras (d); Geruwe (n)
11 ヲルサハストウルス Bursa pastoris Bursa pastoris (l); Teskens-cruydt (n)
12 レリヨウロン [Flos] Liliorum[58] Lilium (l); Lelie (n)
13 フロウリスサンフイシ Flores Sambuci[59] Flos Sambuci (l); Sambucum (l); Vlier (n)
14 ナストロスヨン Nasturtium Nasturtium (l); Kersse (n)
15 メンテ Mente Mente, Munte (n); Mentha (l)
16 カツヘレホウニヤ Capper ? Capper met houwen (n) ?
17 ラアテギスタリシヤアノ Radix taraxaci[60] Taraxacon (l); Kancker-bloemen, Papen-cruydt (n)
18 サトレイカアツフセンテ Saturegia Absinthi Saturey (n); Saturegia / Saturei (l)
19 ヘアテネツトル Heete Netel Heete Netel, Brandende Netel (n); Urtica, Urtica Romana (l)
20 ウエルトサルヒヤ Wilde Salvia Wilde Savie (n); Salvia (l)
21 アキリモウニヤ Agrimonia Agrimonie (n); Agrimonia[61] (i); Eupatorium, Eupatoria (l)
22 ハシリコン Basilicom Basilicom (n); Basilicum (l); Basilicon (g)
23 スイロンク Zuring / Zurinck Zurinck, Surckel (n); Oxalis, Rumex (l)
24 ホルトラアカ Portulaca Portulaca (l); Porceleyne (n)
25 ヘツベレ Pappel Gensz-Pappel (d), Kleyne Wilde Maluwe (n), Malva pratensis (l)
26 ヘンフルバアル Himbeere ? Hinnebezien, Frambezien (n); Himbräme, Himbeere (d); Rubus Idaea (l)
27 ブロネル Pruynelle Prunella (l); Pruynelle (n)
28 フロウリストウニセリ Flores tunetensis Flores tunetensis (l); Thunis-bloeme (n)
29 マルバ Malva Malva (l); Maluwe (n)
30 フランタアゴ Plantago Plantago (l); Weghbre, Wegheblat (n)
31 レニハアル Kleyn Varen Kleyn Varen (n); Filix (l)
32 アヽツトザル Acetosella Acetosella (l); Kleyne Surckel, Schaeps Surckel (n)
33 ヘイフヘンケル Vijfvingher cruydt Vijfvingher cruydt (n); Pentaphyllon (g)
34 ヘルトアンデイヒ Wilde Endivie Wilde Endivie (n); Cichorium (l)
35 カネヘ Kennep Kennep (n); Cannabis (l)
36 トウトネツトル Tote Nettel Tote Nessel (d); Doove Netel (n); Urtica mortua (l);
37 ヘイトロタラストロス Hydrolapathum ? Hydrolapathum (l); Water Patich (n)
38 ラアデキスイリヤス Radix Irias[62] Ireos, Irias (l); Lisch (n)
39 ウエンテ Winde Winde (n); Smilax (l)
40 イツヘリシ [Flos] Hyperici[63] Hypericon (g); Hypericum (l); Sint Jans-cruydt (n)
41 ハツハアブリス [Semen] Papaveris[64] Papaver (l); Heul, Man-kop (n)
42 ムウルハイ Moerbey[65] Moerbezie boom (n); Morus (l);
43 ハルベイナ Verbena Verbena, Verbenaca (l); Iiser-cruydt (n);
44 ヘンケル Venckel Venckel (n); Foeniculum (l)
45 カナベンクルイト Knaben-cruydt Knabenkraut (d); Kullekens-cruydt (n)
46 カリヨフラアタ Caryophyllata Caryophyllata (l); Caryophyllate (n)[66]
47 ハルシカホウム Persica-boom Persica (arbor), Malus Persica (l); Perse-boom (n)
48 トウビネツトロ Doove Netel[67] Doove Netel (n); Taube Nessel (d)
49 テストル Distel Distel (n); Acanthus (l)
50 ルウタ Ruta Ruta (l); Ruyte (n)
51 カモメリ Camomille Camomilla (l); Camille, Comomille-bloemen (n)
52 カラナタアツフル Granaet-appel Granaet-appel-boom (n); Malus Punica (l)
53 ヘイトロセリ Petroseli Peterseli (n); Apium, Petroselinum (l)
54 アネイジ Anijs Anijse (n); Anisum (l)
55 アルクエカンケ Alkekengi[68] Alkekengi (l); Solanum vesicarium, Vesicaria (l); Kriecken over Zee (n)
56 ソラアノム Solanum Solanum, Solatrum (l);  Nascaye (n)
57 ヘンテカラス Beemdt Gras Beemdt Gras, Lobel Gras (n)
58 ヘルトヘンケル Wilde Wijngaert Wilde Wijngaet (n), Labrusca (l);  
59 コウトヲルトル Goudtwortel Goudtwortel (n); Affodille (n); Asphodelus (l)
60 ゲンフル Gengber Gengber, Gember, Gimber (n); Zinzinger (l)
61 マルカリイヤ    
62 スコルヘンチヤ Scolopendria[69] Scolopendria (l); Phyllitis (l); Herts-tonghe (n)
63 カルモス Calmus[70] Calmus (l); Arcorus (l); Lisch (n)
64 モス Mosch Mosch (n); Muscus (l); Mosz (d)
65 サビイナ Sabina Sabina (l); Savel-boom (n)
66 セネイブル Genever Genever-boom (n); Iuniperus (l)
67 ケレスン Klissen Klissen (n); Personata, Acium (l); Bardana, Lappa maior (l)[71]
68 ホリホウデ Polypode Polypodium (l); Boom-Varen (n)
69 ホリキノム Polygonum Polygonum (l); Duysent-knoop (n) X
70 ロツフルス Lobus/Robus   X
71 アルヘイズ Aalbezie Aelbezien (n): Ribesium / Grossularia Rubra (l) X
72 メリシ Melisse Melisse(n); Melissa (l)[72]; X
73 カルメンダ Calamintha Calamintha (l), Wilde Paleye (n), Wilder Poley (d) X
74 ヘイチラアルホウリヤ Hedera folia[73] Hedera minor (l); Kleyne Veyl (n) ? X
75 ヘレキス Helix Helix (g); Hedera Helix (l); Groote Veyl (n) X
76 ニコチアナ Nicotiana Nicotiana (l); Bilsen-cruydt van Peru (n) X
77 シツフレスノウト Cypress-noot[74] Cypresse-noot(kens) (n); Cypress-boom (n); Cypressus, Cupressus (l) X
78 エレリカ     X
79 ハセンセ     X
80 フロウクルイト Vloy-cruydt[75] Vloy-cruydt (n); Persicaria (l); Flohkraut (d) X
81 レヘスラコム[76] Levisticum Levisticum (l); Lavass, Lavetse (n);

 

 

6 「阿蘭陀草花鏡図」とその周囲の資料

出島商館の阿蘭陀通詞が作成に関わった報告は、大抵は様々な写本として広まっていた。その一部は長崎や江戸の提出先で作成されたものだった可能性もあるが、ヘック関係の資料が示すように、通詞の個人的写しが門人などに伝播したこともある。しかし、「阿蘭陀草花鏡図」の場合は、類似の写本はなかなか確認できない。2005年関西の古書店のカタログに掲載された「本草図」という一冊の写本(「肉筆着彩図80図」)の写真に見られる二つの絵図と文章は「阿蘭陀草花鏡図」と完全に一致しているが、資料の行方は明らかではない。

その他の関連資料を追求した中村輝子と遠藤次郎は「阿蘭陀草花鏡図」と数々の類似点を示す「阿蘭陀本草図経」を発見し、両者の関係について2003年に報告した[77]。『国書総目録』は、この文書の保管先として7ケ所を挙げている[78]。上野益三が『年表日本博物学史』で紹介している宝永6年の写本はそれとは別なもののようだが、その所在は不明である[79]。また、中村・遠藤[80]及び筆者[81]の調査ではさらに数部が発見されたので、「阿蘭陀本草図経」は江戸期に比較的幅広く普及していたことが容易に想像できる。興味深いことに、現存の写しの多くは18世紀以降に作成されたのである。これらの資料の序文が一致しており、下記の通りである。

「余自少壮住于肥州長崎而承 官吏命而師事於紅毛国之名医而執几杖而学外療于茲有年焉。夫阿蘭陀流者、草木花薬之油治療病疾痛或調和於膏薬得験不為不多非他流之所能及焉。故業此流者不可不知其名義其主治其気味焉。予嘗随而遊行山野而瞰見千草万木亦有日也。因得十一千百矣僅至於五十余種気味功毒実與本草綱目有不同者雖然非用私心是師伝経験之微意也。故綴一冊名阿蘭陀本草
陽月窻士叙」[82]

序文の内容は上記の薬草調査と初期紅毛流外科の特徴とかみ合っている。その上に、掲載してある絵とその解説文は「阿蘭陀草花鏡図」と酷似しているので、この「阿蘭陀本草図経」は寛文年間頃の紅毛人の活動と大いに関係があると断言できる。文章を執筆した人物は通詞ではなく、また若い頃に長崎に住んでいたが、ずっと後に「阿蘭陀本草図経」をまとめた場所は長崎ではない。中村・遠藤がすでに述べたように杏雨書屋蔵の写本の一つに記載された序文の最後で写者は「文書の著者陽月窻士は山村宗雪」と説明している[83]。この写本は幕末頃に作成されたようだが、「陽月窻士」に関する解釈はいろいろな可能性があり、さらなる裏付けの発見を待たなければならない。

寛文9(1669)年以降の通詞の報告から「阿蘭陀本草図経」や「阿蘭陀草花鏡図」にまで及ぶ関連の資料に見られる植物の順序を比較してみると二つの流れが浮き彫りになる。最初の二つの報告を伝える36種の薬草の順序を完全に受け継いだ写本及び版本(「薬草ノ名並和文扣」、「蘭方草木能毒集」、『阿蘭陀外科指南』の「薬艸口訣」[84])はその一つである。当初の調査に参加したと思われる医師中村宗與が貞享元(1684)年に発表した『紅毛外科療治集』の記述も(巻4、「紅毛能毒二十八種」)この資料郡に追加してよい。「阿蘭陀薬艸功能之書」(「證治指南」)が示す、通詞が寛文10年に作成した改訂総括版を反映する写本としては、現時点で「繕生室医話」の「薬草ノ能」及び「阿蘭陀本草摘要」しか確認できていないが、それはもう一つの流れと見なしてよさそうである。内藤記念くすり博物館蔵の写本[85]は別にして「阿蘭陀本草図経」の各写本の内容の変動はさほど大きくないようだが、これらの「阿蘭陀本草図経」もシーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」も順序の点においては上記の二つの資料群には当てはまらない。前者では、著者の「陽月窻士」は通詞の報告資料に手を入れ、植物を春草、夏草、秋草、冬草及び木に分類している。西洋の本草書においても珍しいこの発想は1669年に長崎に上陸した『アイヒシュテットの庭園』から来ていると思われる。「阿蘭陀草花鏡図」の方は、植物の並び順において上記のすべての写本とは完全に異なっている。掲載してある植物名はヘックの調査活動に由来する文書とほぼ一致しているが、「ロウザ」の例が示すように、記述の内容上の相違点もある(表3)。

表3 関連写本に見られる「ロウザ」の記述

「薬草之名并和文扣」(京都大学附属図書館蔵)

「ロウザ いばらノ花
花をせんし汁を取子共不通ニ用申候花をらんひきニテセんし水を取眼気ニ目を洗花をセんし汁を取白砂糖を加薬仕又セんしてためのんど痛ニ少ツヽ用」

「薬草ノ能」(「繕生室医話」)(京都大学附属図書館蔵)

「ロウザ イハラ
性冷 小児大便[不]通シ兼ル時花ヲ水ニテ煎ジ其水ニテ目ヲ洗也。喉痛ニハ花ヲ右ノ如ニ煎ジ其水ヲ白砂糖ニ加薬シテ煉薬ノヤウニ又煎シ少ツヽ用ユ。」

「阿蘭陀薬艸功能之書」(「證治指南」附録)(筆者蔵)

「小児大便[不]通兼候時花ヲ水煎其汁ヲ小茶碗半分ツヽ朝夕用申候   眼気ニハ花ト水ヲ銅瓶ニテ煎ジ其水ニテ目ヲ洗申候 只痛申候ニハ花ヲ右之如クニ煎其汁ニ白砂糖ヲ加薬仕焼リ薬之様ニ[虫食い]又煎シ少ツヽ時ゝニ用申候」

「阿蘭陀本草摘要」、九州大学付属図書館蔵

 ロウサ 同 茨花
主治小児ニ便秘スル時ハ水煎小茶碗半分宛朝夕服ス○服目ニ花ト水銅ノコシキニ入煎其水ヲ汲テ目ヲ洗フ○咽喉痛花ヲ如前煎シ其水ニ白砂糖ヲ加ヘ再ヒ煎煉薬ノ如クニシテ少シツヽ時々可用

中村宗與『紅毛外科療治集』巻4、「紅毛能毒二十八種」(東北大学付属図書館蔵)

「阿蘭陀イゲ性ハ冷花ヲ浸(セン)ジ汁ヲトリ童子大便不通ニ用ユ阿蘭陀ノコシキニテ花ノ水ヲトリ目ヲ洗テ吉又花ヲ煎ジシルヲトリ白砂糖ヲ加煎ジカタメ咽(ンド)(イタム)ニ少宛用」

『阿蘭陀外科指南』(元禄9年刊)(国際日本文化研究センター蔵)

「ロウザ 冷 茨
花ヲ水ニテ煎ジ。其汁ヲ小兒大便通ジカヌルニ。小茶碗ニ半分ヅゝ朝夕用フ。花ト水ヲランビキニテ煎ジ。其水ニテ目ヲ洗ヘバ。眼病ニ吉。花ヲ右ノ如クニ煎ジ其水ニ白砂糖ヲ加ヘ。又煎ジ。テ煉薬ノ如クシ。喉痛ムニ少ヅゝ切々用ルナリ」。

「阿蘭陀本草図経」(岡山大学附属図書館蔵)

「ロウサ  和名イバラセウビ
性冷。二月葉生。三、四月花開、紫赤ナルヲロザロント云。又紅ナルヲロウザト云。木本薄白ク、梢青シ。葉丸シテ茎刺アリ。
主治。花ヲ採リ、ランビキニテ煎シ、水ヲ用。或陰乾、或蜜漬、或油ニ浸シ、諸瘡ニヌル。眼病熱甚疼痛スルニ、花ノ水ヲ温メ洗フ。大人、小児小便不通ニ湯ニテ用。同口中、咽喉腫痛ニ右ノ水ヲ白砂糖ヲ加、煉合服ス。打撲ニ用。同傷シ骨出ルニハ木綿ニ塗ツケテ良。」

「阿蘭陀本艸」(内藤記念くすり博物館蔵)

「ロウザ  性冷  イバラセウビ也
花ヲ採ランビキニテ煎其水ヲ用或陰乾或蜜漬或油ニ浸シ万ニ傳シ用ユル也
一 眼病熱気甚発疼痛スルニ花水ヲ温目ヲ洗吉
一 小兒大小便不通時湯ニテ用
一 大小人倶ニ口中咽喉腫痛時花ノ水白砂糖ヲ加煉合服
一 身ヲ打損痛ニ用テ吉并打破テ骨出処ニ木綿ニ塗テ付論和名 イハラシヤウヒ也 一名テウシユント云  図経ニ云二月ニ葉ヲ生テ三四月ニ花開其状八重ニ咲紫色ニ有テロウサロント云又紅花開ヲロウザト云唐ヨリ種子渡リ日本ニ生其状木也本ノ方皮薄白梢青葉丸茎ニ刺ヲ生蔪幹茂也 味甘香也イバラセウビンハ花ノ色白咲ク其状五葉一重也平澤山野ニ多生味甘平微寒也」

『阿蘭陀草花鏡図』(シーボルト記念館蔵)

「冷  阿蘭陀人云 ロウザ  和名イハラセウヒンノ類也。
図経ニ云、二月ニ葉ヲ生シテ三四月花咲。其状八重ニシテ色紫赤有ヲロウザロン[86]ト云也。又云紅色ニ有ヲロサアロント申也。此花唐ヨリ種子ヲ渡。今多生其形木也。木ノ方皮薄白梢青葉ノ状丸。茎ニ刺生|幹葉毛茂也| 味甘プテ香プ|
イハラセウヒンハ平澤山野ニ多生。花色白其状五葉一重也。味甘平微寒也。」

阿蘭陀通詞が1670年にそれまでの調査成果を総括したとき、記述が改訂されたのは理解に難くない。当初は長崎付近で見つけた植物を描く必要はないと判断されたのであろう。しかし、資料が通詞、薬草狩りに参加した役人や薬草通の範囲を超えさらに広く普及すれば、そのような情報を望む声が上がっても不思議ではない。日本の植物につけられた洋名の適正さも評価できず、漢名と和名の使用上の問題も山積していたので、植物自体の描写はますます重要になったと思われる。

「阿蘭陀本草図経」及び「阿蘭陀草花鏡図」は、通詞報告の一歩進んだ受容の産物と言える。残念ながら、ここに見られる絵図の由来は明らかではない。たとえ、実物を模写したとしても、中国の『図経本草』や『本草綱目』の画法の影響が強かったであろう。植物の特徴を伝える要素は何かという文化的、時代的に変容する写実性の捉え方に加えて、木版による技術的な制約も見過ごしてはならない。洋書の場合も同様の問題がある。ドドネウスの『本草書』が収録している木版画の太くて堅い線は対象の姿を歪曲してしまい、文章を読めない日本人にとっては理解し難いものだったに違いない。

16世紀から人気の高いフックスの「本草書」の図版と「阿蘭陀草花鏡図」の絵図の一部は似ているが、図3の例が示すように、このような類似点は確かな関連づけにはつながらない。

すでに1654年に日本に上陸したドドネウスの『本草書』(Cruijdt-boeck)の構成は違うが、上記1660年代に上陸した『アイヒシュテットの庭園』は植物図版を四季で分類している。残念ながら、「阿蘭陀本草図経」の筆で書かれた絵は大変簡単なもので、『アイヒシュテットの庭園』の洗練された銅版画との比較では明白な結論に至らない。また、ドドネウスの『本草書』に見られる、より単純な木版画との類似性も確認できない。

 

fig 01 fig 01 fig 01
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図3 「マルバ」の絵図(右からフックス『本草書』[87]、ドドネウス『本草書』、『アイヒシュテットの庭園』[88]、「阿蘭陀本草図経」[89]、「阿蘭陀草花鏡図」)

 

阿蘭陀草花鏡図」の内容に目を通すと、カタカナの植物名や薬油名の他に、西洋人の足跡を示す記述は多少確認できる。例えば「サトレイガアツフセンテ」について、こう記している。

「阿蘭陀伝云、此草イタリヤ国野多生。然彼國ニ合戦有。手負人多死人共、此野ニ臥テ居合戦治後十四五日■テ死體取置時。手負人疵不腐能皆愈ナリ。」

また、「レリヨウロン」の関連でもオランダに言及している。

「阿蘭陀ニハ花ヲ用、巻丹者ヲニユリト云。山丹ハヒメユリト云。花其日開夜合者ヲ名夜合花ト。」

その反面では、「以竹刀」、「三月三日」、「五月五日」、「七月上ノ申ノ日」「九月上ノ戌ノ日」のような中国の思想を反映する記述は比較的に多いし、近隣諸国などの説明もヨーロッパ人によるものではない。

「如此相類異名和漢同。今窮者此野菊也。」(カモメリ)
「此花唐ヨリ種子ヲ渡。今多生其形木也。」(ロウザ)
「此草唐種子ヲ渡今多生薬能多。」(ウエルトサルヒヤ)
「唐ヨリ渡。今窮者実細薫大小倶同。」(アネイジ)
「上品者高麗ヨリ渡也。人形如者在神効。」(スカアフスカルフ)

通詞報告とのもっとも大きな相違点は、葉、茎、花、実などの特徴、発芽、開花の時期など、「阿蘭陀本草図経」にも「阿蘭陀草花鏡図」にも見られる植物学的な記述である。発芽を示す情報はドドネウス、フックスなどの西洋専門書には見られないので、中国の本草書の影響も考えなければならない。殆どの項目で、ある「図経」が利用されている。挿絵も記述の一部も酷似しているので、「阿蘭陀草花鏡図」が挙げている「図経」は「阿蘭陀本草図経」を指しているのではないか、という疑いが湧いてくる。しかし、「阿蘭陀本草図経」系の資料群に含まれている内藤記念くすり博物館蔵の「阿蘭陀本艸」は「阿蘭陀草花鏡図」と同様に「図経」から引用している。さらに、「阿蘭陀草花鏡図」の最後の13種の植物は「阿蘭陀本草図経」のすべての写本に含まれていないにもかかわらず、「阿蘭陀草花鏡図」はこれらの植物についても「図経」に基づいて解説している。また、アルケカンケ、セントウリヨムミノウリス、スカアフスカルフ、アヒヨン等々に関する「阿蘭陀草花鏡図」の記述は「阿蘭陀本草図経」の関連解説を部分的に省いたり、増やしたりしている。それに加え、延宝7年の日付を示す「阿蘭陀草花鏡図」に対し、その序文で壮年期頃の薬草調査と回想する「阿蘭陀本草図経」は、かなりの年月が経ってから成立したようで、後者は前者の底本とは言い難い。「阿蘭陀草花鏡図」も「阿蘭陀本草図経」も別個に成立した可能性は決して低くない。

それならば、「図経」は中国の書籍を指しているという仮説を立ててもよさそうだ。例えば、江戸期の日本における受容上の問題を別にしてその書名が似ているので、宋時代の蘇頌が撰した『図経本草』と照らし合わせてみても、はっきりした関連性は確認できない[90]

それにしても、「阿蘭陀草花鏡図」のいくつかの項目に中国の文献が利用されたことは確かである。それらを17世紀で和刻本としてかなり流通していた明代の『本草綱目』の関連記述と照らし合わせてみるといくつかの類似点が浮上してくる[91]

「阿蘭陀草花鏡図」
カツヘレホウニヤ […] 本草云、葉作叢■ニ曰、去家ヲ千里勿食羅摩枸杷ヲ此二物補、益精気強盛陰道也。
『本草綱目』巻三十六
去家千里、勿食羅摩枸杞、此言二物、補益精気、強盛陰道也

これは陶弘景が編纂した『本草集注』に遡り、『本草綱目』にも収録してある名句である[92]

「阿蘭陀草花鏡図」
ヲルサハストウルス    和名薺菜(ナツナ)。一名葶藶。一名丁藶。一名蕈(テン)蒿(カウ)。一名大室。一名大適。
図形云、正月ニ苗生。根白葉少長茎ニ実成付茂也。本ノ方ニ成付実熟マデ梢ニ花咲。其状細白花有。実ノ状平ニシテヤハズノ如シ。生所平澤田野多二月盛也。三月葉落。立夏ノ後実ヲ採陰乾ス。
雷公云、凡使赤鬚子ヲ用ル事ナニレ|真ニ葶藶子ニ相似リ|
制法ハ糯米ト相合シテ焙、其米熟スルヲ待テ米ヲ去。單ニ搗テ用。一説ニ、紙ヲ鍋ニシキテ焙シ可也。常ニ菜ヲ用艸也中調水腫脹滞ヲ治雖然返食シテ腎虚水衰也。麺類同食脊痛猪肉同食命ヲ絶。河豚ニ同食忽死。
『本草綱目』巻十六
葶藶    釋名 丁藶。蕈蒿。大室。一大適。狗齊
別録曰 […] 立夏後採実.陰乾. […] 宏景曰 […] 頌曰 […] […]  斅曰、凡使勿用赤鬚子.眞相似.[…] 李時珍曰 […] 。

「葶藶」に関する両方の解説文の接点にはほんのわずかだが、「茵蔯蒿」の場合は、唐代の『新修本草』、宋代の『証類本草』や明代の『本草綱目』が収録した引用としてしか伝わっていない5世紀の雷斅が現れている。

「阿蘭陀草花鏡図」
サトレイガアツフセンテ    和名河原艾。一名茵蔯蒿。図経云*、正月末二月苗生。葉細シカラヱモキヲ用本意也。又家蒿蔯ニ似リ。大ヲ高三四尺極テ芬香(カウハジ)。味甘辛。
阿蘭陀伝云、此草イタリヤ国野多生。然彼國ニ合戦有手負人多死人共、此野ニ臥テ居合戦治後十四五日返テ死體取置時手負人疵不腐能皆愈ナリ。此草ノ香授數テ臥故也。最上ノ薬能ヲ窮油ニ煎疵ヲウリヨアツフセンテ[93]ト名付。
唐本草雷公曰、凢使須ク茎八角ナル者葉採得根ヲ去細末シテ用ト云。葉実根ヲ合勿使コト火ヲ忌也。
『本草綱目』巻十五
「茵蔯蒿    釋名[…]
集解 別録曰 […] 宏景曰 […] 韓保昇曰 […] 頌曰 […] 茎葉都似家蒿蔯而大.高三四尺。気極芬香.味甘辛。 […] 斅曰、凢使.須用葉有八角者.陰乾去根.細剉.勿令犯火。李時珍曰 […] 

さらに、「萹蓄」を描写する『本草綱目』は「阿蘭陀草花鏡図」と同様に「図経」を取り上げている。 残念ながら、『図経本草』での記述は、「阿蘭陀草花鏡図」とは異なっている[94]。また、「阿蘭陀草花鏡図」に見られる『爾雅義疏』[95]からの引用の始まり「竹、萹畜」は『本草綱目』で省略されている。

「阿蘭陀草花鏡図」
ホリキノム  和名萹蓄。一名粉節艸。一名道生屮。俗曰ウシクサ、萹竹。
図経云、山谷今在処有之。春中布地。生道傍。苗似瞿麥。葉細緑色如竹。赤茎如釵[?]股。節間花出。甚細微青黄色。又有紅色。根如菖根。四五月採苗院乾。謹按爾雅云。竹、萹畜。郭璞注云、似小藜赤茎節。好生道傍。可食[!]、亦緑王芻也竹篇竹。節謂此萹蓄。味苦平也。
『本草綱目』巻十六
萹蓄  釋名 萹竹。萹辨。扁蔓。粉節草。 […] 
集解 別録曰 […]宏景曰 […] 頌曰.春中布地.生道傍.苗似瞿麥.葉細緑如竹.赤茎如釵[?]股。節花出。甚細.微青黄色.根如菖根.四五月採苗院乾.蜀図経云.四五月採苗院乾.郭璞注爾雅云.似小藜赤茎節.好生道傍.可食殺虫.是也.或云.爾雅王芻此也.李時珍曰.其葉似落帚葉而不尖.弱茎引蔓.促節.三月開細紅花.如蓼藍花.結細子.爐火家焼灰煉霜.用一水扁筑.名■.音督.出説問.気味 苦平無毒 […]

「阿蘭陀草花鏡図」の記述は『本草綱目』から写されたという状況ではないが、記述の構造あるいは文体は酷似しており、中国本草学は受け継がれているに違いない。

念のために、『本草綱目』の編集に大いに利用された唐愼微の『證類本草』を見ることにした。「阿蘭陀草花鏡図」及び「阿蘭陀本草図経」と似たような形に発芽、開花の時期や葉、茎、花、実の特徴を述べながら『図経本草』(「図経曰」)、『爾雅』、『本草衍義』等文献からを抜粋を並べている。

上記のような中国の文献に基づく記述は寛文9・10年の報告を反映する写本には見られない。 また、「阿蘭陀草花鏡図」がその他の写本より数多くの漢名及び日本語の俗名を収載していることからは、その執筆者の名称に関する問題意識の高さとともに手探り状態であったことがうかがえる。

紅毛人「薬草見知」に言及する他の写本は多少あるが、ブラウンの名を挙げているのは、この「阿蘭陀草花鏡図」のみである。奥書の日付としては、ブラウンが日本を去って数年後の延宝7(1679)年とある。「阿蘭陀本草図経」の殆どの写本にはオランダ人の名前は記されていないが、「阿蘭陀本艸」(内藤記念くすり博物館蔵)のみは冒頭に「阿蘭陀コツトフレイル」を挙げている。しかし、「阿蘭陀本草図経」系統の写本の序文では著者の「陽月窻士」は若い頃の長崎での思い出を描写しながら、「薬草見知」の名に触れていないので、「阿蘭陀本艸」のこの特殊性はさらなる調査に値する。

「阿蘭陀草花鏡図」系のさらなる写本の発見を期待したいが、上記の状況からある程度の流れを読み取れる。寛文9年と10年にヘックの指導下で編集された報告は植物学的記述を示さず、当該の薬草の効能と医療における用法に専念している。元禄9年に京都で刊行された『阿蘭陀外科指南』の「薬艸口訣」はこの通詞報告の内容を集録している。

寛文11年から長崎付近での薬草調査を行ったブラウンはヘックより多くの知識を持っていたので、前者の報告をもとにさらに充実した資料が作成されたと思われる。紅毛人の薬草狩りには植物に詳しい通詞以外の人物が参加していた。その一人は『本草綱目』との相違点を念頭に後ほど「阿蘭陀本草図経」をまとめ、もう一人は、「阿蘭陀草花鏡図」をまとめた。二人とも通詞職ではないが、通詞の資料をもとに、独自の視点からその内容を再編集してみたのである。どちらもまだ未確認の「図経」からの引用文を踏まえている。「阿蘭陀本草図経」の執筆者は薬草の利用を追究し、「阿蘭陀草花鏡図」は植物自体の特徴に重点を置いている。

 

おわりに — 日本独自の薬草学へ

これまで多くの著者が日本独自の本草学の始まりを、貝原益軒が宝永6(1709)年に出版した『大和本草』と結びつけているが[96]、上記の状況を考えると、この長年の定説は大いに検証に値すると言わざるを得ない。中国本草学の転用における問題点及び日本植物の特殊性はすでに1660・70年代に認識されていたに違いない。その背景には紅毛流医術による刺激があったものの、国内の資源開発への幕府の意欲も見過ごしてはならない。紅毛人に日本植物の調査を依頼したことは、中国から受け継いだ規範に対する盲信の揺らぎの表れであり、単なる解釈学と文献学だったそれまでの本草学との決別を示している。「本草綱目」との相違点を指摘する「阿蘭陀本草図経」の序文は、このような姿勢の広まりを裏付けている。それでも「阿蘭陀草花鏡図」のあらゆる用語と引用からわかるように、紅毛人の教示を解釈、受容する際、中国の豊富な知識は相変わらず利用されていた。

日本独自の植物学が最初から国際交流に組み込まれたことも注目に値する。ヘックとブラウンはクライヤー、ケンペル、ツンベリー、シーボルトなど、江戸期の日欧交流史に名を残したヨーロッパ人に加えるべきである。シーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」は当時の阿蘭陀通詞が作成した資料の伝播を語ってくれる貴重な具体例である。

 

 

資料  「阿蘭陀草花鏡図」[97]

[1] 冷  阿蘭陀人云 ロウザ   和名イハラセウヒン[98]ノ類也。
図経ニ云、二月ニ葉ヲ生シテ三四月花咲。其状八重ニシテ色紫赤有ヲロウザロン[99]ト云也。又云紅色ニ有ヲロサアロント申也。此花唐ヨリ種子ヲ渡。今多生其形木也。木ノ方皮薄白梢青葉ノ状丸茎ニ刺生。幹葉毛茂也。 味甘シテ香シ。
イハラセウヒンハ平澤山野ニ多生。花色白其状五葉一重也。味甘平微寒也。

[2] 冷  ヒヨウリス   和名駒引草[100]ト云。
図経云、正月ニ苗生シテ、葉細ク長ク茎葉共長生五六寸延。一頭ニ葉数多生。二月花咲。三月落花。茎毛枯香カモメル[101]ニ似テカスカナリ。根黄色有。味辛。
男駒引花白シテ実不成。
女駒引花紫色ニシテ葉録色有。表薄赤シテ実成付。其状芥子ノ実似リ色白茎芦頭ノ方紫色有。
葉柔ニシテ筋荒有。

[3] 温  セントウリヨムミノウリス  和名タヒラコ[102]ト云艸也。
図経云、正二月ノ間、花咲茎凡芦頭ノ方紫色有。梢青枝葉毛茂ナリ。
枝毎ニ花咲ツホミ青状細先ノ方黄色ニ有。開テフサノ如シ葉柔ニシテ長ク吹切大ニシテ荒有。

[4] 平  ヘルトウレイル   和名小テマリ花[103]ト云木ノ類也。
図経云、二月ニ花咲。其状細白花也。葉少長三月末落花。

[5] 温  ワアトロアヒヨム   和名キンホウケ[104]。一名ハ田カラシ。
一名ハ水莨或金色花ト云金ハ誤カ。董毛建又天炙ト名ク。或毛莨毛カ。図経云、二月ニ苗生。三月ニ花咲。其色黄ニシテ状細、芦頭ノ方薄白大ニシテ葉ノ吹切大荒。
生事水辺多也。
此艸外療ニ用可也。

[6] 温  アルトミジイヤ   和名艾草。一名医艸。一名炙草。
図経云、二月ニ葉生。秋花咲実成。茎八角ニシテ枝葉茂也。葉ノ表録色ニ有、裏薄白吹切荒大也。生事野原或田畠ノ辺ニ多。
味甘平也。
常用三月三日、五月五日、七月七日陰乾ス可也。ヨモキモクサ求臺同。

[7] 微温  カツヘレヘネレス   和名虎尾艸。
図経曰、二月ニ苗生。茎葉共ニ状少。芦頭ノ方黒赤シテ葉和カ也。頭ヨリ茎多生。
所生堀切或路端或岸ノ片原也。

[8] 微熱  ヱスロウコ   和名小蒜。
図経云、正月ニ苗生。而二月ニ盛也。三月ニタウヲ生実。其状丸熟シテ黒シ根白有。葉少長生田野多。茆蒜コビルノビル大蒜也。山蒜ハ子ビル今按ノヒルト云。沢蒜也。一名南蒜。蒜顆ヒルサキ小頭也。俗云ニンニク。如此相類多同気而薬性異。今窮此図ノヒルト名。
味甘辛。

[9] 温  アヒヨン   和名防風。一名銅芸。一名茴草。一名百枝。一名屏風。一名茴根。
図経云、砂濱多生。四時不断有。春新葉生盛。其状芦頭ノ方薄白脊ノ方赤斑也。梢青葉録色也。頭ノ二マタナルヲ用。即物狂尾二マタナル者用、忽癇疾起餘リ状ヲ薬種ニ用可也。
制法云、蘆頭ヲ去上気ヲ洗剉焙使。頭ノ方ハ中焦ヨリ上ノ風ヲ去、尾ノ方ハ中焦ヨリ下ノ風ヲ去。葉ハ中風ノ湿熱ノ汗ヲ出。 苗ヲ名珊瑚菜。

[10] 冷  スカアフスカルフ   和名山人蔘。一名胡蔔。一名胡蘿。蔔或野胡蘿蔔。
図経云、二月苗生。葉細茎少枝茂。四月ニ花咲。形五葉白花ニシテ細茎。長二三尺ニ高生根白田畠辺多生。四月八日ニ花ヲ採得陰乾可也。
味甘辛。
上品者高麗ヨリ渡也。人形如者在神効。根ヲ採竹刀ニテ麁皮ヲ去暴干使。制法云、少焙テ用可也。微温テ而升降ス。一名人御。一名鬼蓋。一名神草。一名人微。一名土精。一名血参。

[11] 冷平  ヲルサハストウルス  和名 薺菜(ナツナ)。一名葶藶。一名丁藶。一名蕈(テン)(カウ)。一名大室。一名大適。
図形云、正月ニ苗生。根白葉少長茎ニ実成付茂也。本ノ方ニ成付実熟マデ梢ニ花咲。其状細白花有。実ノ状平ニシテヤハズノ如シ。生所平澤田野多二月盛也。三月葉落。立夏ノ後実ヲ採陰乾ス。
雷公云、凡使赤鬚子ヲ用ル事ナカレ[105]。真ニ葶藶子[106]ニ相似リ。制法ハ糯米ト相合シテ焙、其米熟スルヲ待テ米ヲ去。單ニ搗テ用。一説ニ、紙ヲ鍋ニシキテ焙シ可也。常ニ菜ヲ用艸也中調水腫脹滞ヲ治雖然返食シテ腎虚水衰也。麺類同食脊痛猪肉同食命ヲ絶。河豚ニ同食忽死。

[12] 平温  レリヨウロン     和名白百合。一名重箱。一名逢花。一名強瞿。一名摩羅。図経、二月ニ苗生。茎丸根白葉大ニシテ花白者花開。五六月葉録色ナリ。八月ニ根採■テ乾。芦頭ヲ去剉使。阿蘭陀ニハ花ヲ用、巻丹者ヲニユリト云。山丹ハヒメユリト云。花其日開夜合者ヲ名夜合花ト。如此相類多。今窮此者白百合也。味甘。

[13] 温  フロウリスザンフイシ  和名山トウシン[107]。一名庭床ト云カ何茂木ナリ。図経云、二月葉茂リ三月花咲。其状白花ニシテテマリクワ[108]ニ似リ。五葉ニシテ一フサツヽ五結有。木皮薄カキ色也。梢ノ皮青シ葉形丸キ様ニシテサキ少長ナメラカ也。実秋熟シテ赤珊瑚珠ノ玉ノ赤ニ似リ。又庭床ノ木別ニ名有也。今究者是也。

[14] 温  ナストロスヨン又云メリロウ[109]、和名仏耳草[110]
図経云二月苗生。三月花咲。其状フサノ如シ。黄色也。茎葉共ニ薄青白シテ葉ノ形少長。茎丸枝多茂也。四月半ニ落花ス。人家辺所田畠荒地ニ多生草也。俗名モチフツ[111]也。

[15] 温  メンテ  和名薄荷艸。
図経云、二月ニ苗生。葉録色ニシテ其状丸厚シテ柔ナリ。茎四角有。蘆頭ノ方紫色有。薫有者羅薐ト云。不香者ハツカト云。味辛苦。

[16] 温  カツヘレホウニヤ  和名枸杷[112]。一名地骨皮。一名杷根[113]。一名杷忌。一名地輔。一名羊乳。一名却暑。一名仙人杖。一名西毒杖。
図経云、茎四時不断、葉春夏秋也。間ニ採得用モ可也。秋ニ至実成。其形細長。幹ニ棘有者真ノ枸杷也。実円幹ニ刺有者ヲ枸棘ト云。根ノ皮ヲ地骨皮ト云。制法、正月上ノ寅日根ヲ棘。三月上辰ノ日茎ヲ採。五月上之午ノ日葉ヲ採。七月上ノ申ノ日花ヲ採。九月上ノ戌ノ日実ヲ採得。陰乾致用。茎六角也。
本草云、葉作叢談ニ曰、去家ヲ千里勿食羅摩枸杷ヲ此二物補、益精気強盛陰道也。[114]

[17] 微寒  ラアテキスタリシヤアノ  和名麥門冬。一名禹葭。一名羊韭
一名愛韭。一名馬韭。一名羊蓍。
図経云、四時不断有。二、三、八、十月ニ根採陰乾ス。採得五気洗去用。
制法云、心ヲヌキ去日ニ干剉焙使也。鐵気ヲ忌一切ノ薬中ニ入与、則諸薬ヲ引道専腎精ヲ補最上也。味甘平也。

[18] 温  サトレイガアツフセンテ  和名河原艾。一名茵蔯蒿[115]
図経云、正月末二月苗生。葉細シカラヱモキヲ用本意也。又家蒿蔯ニ似リ。大ヲ高三四尺[気]極テ芬香(カウハジ)。 味甘辛。
阿蘭陀伝云、此草イタリヤ国野多生。然彼國ニ合戦有手負人多死人共、此野ニ臥テ居合戦治後十四五日返テ死體取置時手負人疵不腐能皆愈ナリ。此草ノ香授數テ臥故也。最上ノ薬能ヲ窮油ニ煎疵ヲウリヨアツフセンテ[116]ト名付。  唐本草雷公曰、凢使須ク茎八角ナル者葉採得根ヲ■細末シテ用ト云。葉実根ヲ合勿使コト火ヲ忌也[117]

[19] 微温  ヘヱチネツトル  和名イラ[118]ト云草也。
図経云、二月ニ苗生。茎芦頭ノ方薄赤黒。其状四角有少平目ニシテ正中ニ溝凹如。此有葉ノ付節毎ニ竹ノ皮似タルハカマアリ葉録色筋薄白筋ノアイノヽ葉ノ地クマ高茎ニ刺有。是ヲ取ニ随手ニ當所甚疼腫、然モ無毒気。故治事易シ。生里人家近所又多相似ル者多薬性異。

[20] 温  ウヱルトサルヒヤ  和名藿香[119]
図経云、二月ニ苗生。茎状丸葉円シテ薄シ柔ナリ。節毎ニ枝付少葉二葉三葉宛有。表裏トモニ薄青。本草液[120]云、入手足大陰経助或脾ヲ開胃ヲ止呕補衛進食。
製法曰、凡藿香ヲ取得水ニ浸新布袋ニ入ユリテ土石ヲ去。又清水ヲ以テ袋倶洗日ニ干、キサミ用火ヲ忌ナリ。此草唐種子ヲ渡今多生薬能多。
味辛甘。

[21] 冷  アキリモウニヤ  和名鹿焼草[121]ト云。
図経云、凡二月ニ苗生。茎形丸芦頭ノ本ヨリ茎多生真出梢黄色花咲。末ニ花開、間ニ本ノ方実熟。其状細花少フサニ似リ。此艸相似ル者多。其性異不可見誤。

[22] 温  ハジリコム  和名香薷[122]。一名シヤカウ草。一名コヌカ草。
図経云、三月ニ苗生。其状茎四角有節ノ間、長節毎ニ葉左右ニ付。又葉少長少葉モ有柔ナリ。薫射香ニ似リ。其ノ葉ヲ採。秋惠ヲ取陰乾シテ用。火ヲ忌也。味辛。

[23] 冷  スイロング  和名羊蹄[123]
図経云、凡二月ニ苗生。三月ニ花咲。四月落花茎丸シ。青ク葉録色ニ茎立筋有。花赤細。 味醎。

[24] 冷  ホルトラアカ  和名馬歯莧[124]。一名スベルヒユ。一名五行草。一名馬ヒエ。
図経云、六月ニ生苗。根白茎丸芦頭ノ方薄、赤ナメラカニ有葉厚ク筋ナシ。録色ニシテ裏薄白黄色。花咲実成。生処人家辺多含水金ヲト云。味甘酸。

[25] 温  ハツベレ  和名ナモミ草。一名■【=艹柿】薟草。一名火薟草。一名蒼耳屮。
図経曰、四月苗生。茎丸葉廣厚シ。録色茎ニ斑ナルアサ有。秋ニ至黄色ノ花咲。生処田畠ニ多。五月五日、七月七日、九月九日ニ採得テ■乾九酒ニ浸蒸事九度、曝テ細末使可也。火炊草ハ女ナモミヲ云蒼甘草ハ男ナモミ二種其状同実ヲ炒用也。

[26] 冷  ヘンフルバアル  和名覆盆[125]
図経云、三四月花咲実成五月熟。其色黄者樹子ト云、赤者苺子ト云。味皆同甘辛平也。二種共ニ茎ニ刺有花状五葉白花也。産山野ニ多。五月麥田ノ中ニ生者苺子ト云ヘトモ実熟テ紫色ニ有、アシクタチ[126]ト云。性異諸薬ニ無益。此覆盆相類多。薬能異根用蓬薬ト云。実ヲ用時覆盆也。

[27] 温  ブロネル  和名ウツホ草[127]。一名威霊仙。一名五霊仙。一名夏枯草。一名シンタウ草。
図経云、四月ニ苗生。茎四角ニ有。節毎ニ葉付左右ニ分。其状少長吹切細花ノ状車如輪。七月ニ花吹。其色紫或青白。穂青鬚多。山野ニ多生。水聲ヲ不聞者隹也。採事冬ニ至丙丁戊巳ノ日。製法、採得土気ヲ洗去剉酒ニ浸一宿而焙テ用、茶ヲ忌也。根ヲ使故冬至採モ可也。雖然草枯テ後不見故、夏至採ト云リ。葉ヲ使時ウツホ草ト云リ。花ヲ用夏枯草ト云。実ヲ用時シンタウ草也。味苦辛。

[28] 微温  フロウリストウニセリ  和名石竹。
図経曰、二月ニ苗生。茎少葉細長録也ニ有リ花。四月ニ咲。其状少八重或一重五葉ニ有モアリ。何茂四色也。庭前多生、種子ヲ求テ植物也。平澤山野多生者ヲナデシコ或トコナツト名。雖爲相類異。又石菊錦竹瞿麥大菊千辨者ヲ名洛陽花ト。然今窮者此図ヲ本トス。

[29] 微温  マルバ  和名葵。
図経云、二月ニ苗生。茎丸生。其高四五尺有。葉表録色裏青。其状廣ク厚ク丸ク、花四五月ノ間咲盛ニ七月ニ及テ有。故梢ニ花咲ハ本ノ方ニ実成熟花形微大也。八重成一重又白花紅花紫四色共ニ薬能祥也。製法、五月ニ葉ヲ採、陰乾実ヲ用ハ冬葵子ト云。炒テ使蜀葵カラアヲヒト云。戎葵同味甘

[30] 冷  フランタアゴ  和名車前。一名當道。一名恭首[128]。一名牛遺。一名蝦(ヤ)(マ)衣。一名勝烏。一名芣(フ)(イ)。一名勝馬。一名牛舌。一名車輪菜也。
図経云、四時ニ不断有春葉新生。其形横廣筋有。表録色裏薄青也。花咲其状細白花ナリ。実成付形穂ニ似リ。多生道路也。製法、五月ニ根採、七八月ニ子ヲ採陰乾。酒ニテ炒使隹也。一窠有九葉。内薬茎長一尺二寸者カ全堪用。味甘鹹。

[31] 温  レニハアル  和名小ヘコ[129]
図経日、二月苗生。其形蕨菜ノ為老葉ニ似リ。平澤山野多生。土中ノ芦頭ヨリ茎一本宛出。色茎黒葉青然相類多。或ハゼンマイ。或モロムキ。或スダ、或ワラビ。品異今薬性祥究者此小ヘコ也。蕨菜最。

[32] 冷  アヽツトサル  和名小金草。一名カタハミ草[130]。一名スイモノ草[131]。酸(サン)草。酸母草。
雀兒酸三葉酸ト字ヲ見。四時ニ生、花春夏ニ咲。其色黄ニ細茎少。本ノ方赤黒。味酸。

[33] 温  ヘイフヘンゲル  和名カナモラ[132]。一名葎草。
図経云、生故墟道傍。葉如箟麻而小薄。蔓生有細刺[133]。花黄白子亦類麻子。四五月採茎葉■乾用。俗名菖葎蔓又名菖勤蔓。味甘苦。

[34] 冷  ヘルトアンデイヒ  和名馬肌草[134]
図経云、二月ニ苗生茎芦頭ノ方赤。其形四角有又少平目ニ或ヒシナリニ有。葉録色ニ吹切長大ニ荒幹多茂ナリ。花白其状円星ニ似リ。三月ニ花咲生平沢田畠多。味甘酸。

[35] 温  カネヘ  和名麻。
図経云、二月半ニ農人種子ヲ蒔産出。其長五六七八尺高。其状四角、有葉細長録色ナリ。梢ニ花咲、其状細薄白。男アサハ実ナラズ、女アサ実ヲ生熟シテ、黒名麻仁油ニ煎可也。六月前拂皮取苧ニ用。製法、上皮去炒研テ使。味甘平。

[36] 温  トウトネツトル  和名ツリカネ草[135]
図経云、二月苗生茎芦頭ノ方大ナリ。又平目少白葉少長録色柔花白。其状鐘ニ似、開陰向者也。人家辺多生。

[37] 温  ヘイドロタラストロス  和名カキトウロ[136]。一名ウツホ艸[137]。一名積雪草。連錢草。地錢艸。海蘇胡。薄荷等並同今究者此カキトウ[ロ]也。性異。
図経云、二月苗生。蔓少赤黒。其長七八寸。或一尺葉廣一寸。或薄吹切細如錢。河谷多生。八九月採苗葉陰乾。因好近水生。常當寒冷不死。故名積雪草。 味苦。

[38] 温  ラアデキスイリヤス  和名カラスアフギ[138]。一名ヒアフギ[139]。一名射干。
図経云、川谷田野春生苗。高二三尺。葉似蠻薑徠長棑列如趐弱。故名烏扇。蒲烏。翣扇[140]亦扇也[141]。六月花開。如萱草而小黄紅辨上有細文根多鬚。三月三日採根陰乾。人家多植。製法、凢使米浸一宿濾出日乾用肉白根似高良姜、而節多其黄有白花状棘有。実六月熟黒葉録色而筋立有。味苦平也。

[39] 温  ウヱンテ  和名石見川[142]。一名牛ノヒタイ[143]。一名龍鬚。一名龍薥。一名草續断。一名龍珠。一名懸莞。一名草毒。一名ミソクハ[144]。一名ヒキノツラウチ如此相類未詳。今窮此図石見川ト名者、水聲不聞。地形高所畠  ニ生者或平沢水辺有者不。
図経云、四月苗生。茎少刺有。葉真牛ノヒタイニ似リ。六月花咲。状細白、ツホミ赤熟シテ黒子。五月五日、七月七日茎採陰乾。使根。八九月ニ採モ可也。味苦微寒微温無毒。

[40] 温  イツヘリシ  和名ヲトキリ草[145]

図経云、凡生二月苗。茎丸節毎生付左右ニ分テ、少長葉先丸茎ヲイタキ廻ツテ柔ナリ。録色而秋分及花咲黄色ナリ。其状細山野多生。

[41] 冷  ハツハアブリス  和名芥子。ヤウ。アウ。ケシ。罌(アウ)子粟也。甖粟。鶯粟。嚢子。御米並同花ヲ名。甖粟花。  図経云、十一月農人種子ヲ蒔、十二月苗生。以正月植之。三四尺長高茎丸葉長大吹切荒録色有柔ナリ。四月花開。其状芙蓉ノ花ニ似。赤色或白色八重有亦一重シテ或紫色ニ咲。実成熟、其実状如罌子。其米如粟。故名罌子粟。一名米嚢子。俗呼米殻。八九月ニ落巻。製法云、実未熟間竹針ヲ以上ヨリ刺。其白汁出採テ貯(タクワエ)テ乾使。其殻名罌栗。白水浸裏幕去剉焙。味甘平也。

[42] 冷  ムウルハイン  和名桑実。
図経云、二月葉茂ナリ。其状廣厚録色柔有。三月ニ花咲。其状少長陰向者■【=土+淕のツクリ】。其長四五寸。薄白実ノ状陽梅子似。然共少長八角有熟而黒紫色汁。赤四月落散味甘葉採蚕養師虫ニ喰ス根ノ皮ヲ用。時桑白皮ト名土三尺下ノ皮ヲ用。製法、白水ニ浸上皮ヲ剉去、焙使火鉄気ヲ忌。味甘寒無毒。名延年巻雪。

[43] 冷  ハルベイナ  和名益母草[146]。俗云メハシキ艸[147]。荒蔚ト字見亦云鬱(ウツ)(シウ)草。
図経曰、河澤処々有。二月苗生。幹葉倶茂也。録色ニシテ吹切長大。五月五日ニ採陰乾。銅鉄忌木ノ葉研ニテヲロス。製法、日乾少焙テ使黒焼モ用。 味辛甘。
九月ニ採、子ヲ名荒蔚子。実用時益明ト或大札或貞蔚ト曰。竹刀ヲ用。

[44]  温  ヘンケル  和名イノンド[148]
図経曰、二月苗生。茎丸立筋有。葉細録色。幹多茂ナリ。
巻薄黄色ニ咲。実細白シ。香茴香ニ似。味甘辛。

[45] 温  カナアベンタルイト[149]  和名半夏。一名守田。一名地文。一名水玉。一名示姑[150]。ハトヒスイ[151]ト云草也。
図経曰、夏至第三候生葉又半生。因名半夏。五月八月ニ採モ可也。然五月根少軽。八月根大重。五月葉生。延随不ト云ヘトモ、地ヲ耕ニ依半夏散共、故今五月ニモ取事有。薬性時。八月採得土ノナメリヲ熱湯ニテ七度洗滑ヲ去。日ニ干用時薑ニテアヱテ焙臼ニテ摶碎、生姜少加搗合神麯ノ如。円平麯二三夜子セテ日干置半夏カウシト云。醋製可生微寒熟温。
味辛平也。

[46] 温  カリヨウアラタ  和名丁子草[152]。一名川厚艸[153]
図経曰、二月苗生。茎丸幹付。節間長葉録色有。其状円筋少茂。六月花咲。其形細黄色。五葉有。根鬚黒薫丁子似。味辛。

[47] 温  ハルシカホウム  和名桃木。
図経曰、二月花咲葉後生。三月三日採陰乾。実名桃仁。七月採炒湯浸皮ト尖リヲ去剉用鐵ヲ忌。花ハ冷性子ハ温ナリ。味苦甘平也。仁ノ苦者血滞ヲ破甘者新血ヲ生。

[48] 温  トウビネツトロ  和名シロウ草[154]。カラウジ[155]。カラヲ[156]。俗云マヲ。
図経曰、二月苗生。茎丸長三尺餘。延葉丸録色ナリ。裏方白霜降タルニ似。葉筋青有、本未通三筋有。六月葉ヲ採陰乾。八月花咲。其状少長陰向テ握田野川谷岸多生麻也。

[49] 温  テストル  和名薊菜、馬薊[157]。小薊。如此相類多。今窮者大薊也。俗云名鬼薊[158]
図経曰、二月苗生。茎丸生出高三尺延。葉長吹切荒葉ノ未刺有録色ナリ。三月花咲。秋分及有。其形星ニ似。赤白ニシテ毛ノ如シ。茎幹葉多茂ナリ。
生平澤田野ニ多。
味辛。

[50] 温  ルウタ[159]  和名浜水斳 [160]
図経曰、三月苗生蘆頭ノ方大。其色薄黄色ナメラカ也。幹多茂也。葉細六月花咲。其状粟米ヲ付タルニ似。色薄青実成熟而白薫其香。
味苦辛。

[51] 温  カモメリ  和名野菊[161]。一名節花。一名日精。一名女節。一名女華。一名女茎。一名更生。一名周盈。一名陰成。一名傳延年。如此相類異名和漢同。今窮者此野菊也。
図経曰、三月苗生。茎紫色葉録色花黄色。其形細一重開薫香味甘ヲ本ス苦者不。九月花採陰乾。或日干。臍茎去使火忌平澤谷野多。正月根採。三月採葉。五月採董。九月採華。

[52] 冷  カラナアタアツブル  和名楉榴[162]。石榴皮[163]。酸榴皮[164]
図経云、五月花咲。其色赤葉少長幹多茂。実有酸甘二種華有。火榴白榴子葉榴也。品実皮ヲ酸榴皮、木ノ根ノ皮ヲ石榴根ト名。
製法、米泔浸使実状円秋熟赤実堅数多有。

[53] 温  ヘイトロセリ  和名芹。
図経曰、八月苗生。根細長白鬚多。茎芦頭方白葉丸録色有。四時共不断盛也。
水辺多生。 味甘酸。
水斳(キン)水■(クロイ)竝仝。

[54] 温  アネイジ  和名小茴香。俗云クレノヲモト草[165]
図経云、三月葉生。五月半高三四尺長。七月黄色花咲。九月実採。茎丸立筋有。葉細長幹茂也、録色也。節毎ニ竹ノ皮ニ似リ枝付大也。茴香状八角ニシテ赤色有。味辛平也。唐ヨリ渡。今窮者実細薫大小倶同。
製法、塩加少炒用。

[55] 寒  アルケカンケ  和名保(ホ)(ヽ)(ツ)(キ)。酸漿名醋漿苦葴。燈籠草。金燈籠。紅姑小者名苦■【=䒑+職】カシヂ。洛神珠。
図経云、春苗生茎丸葉八角有。薄柔ニシテ節、毎葉付花咲。其茎状少長白巻五葉実成。上皮形六角有。其内ニ子ヲ生。状丸熟而赤外皮共赤成。九月半採得用。味甘酸。

[56] 冷  ソラアノム  和名小茄。
図経曰、五月苗生。茎丸葉八角有微厚花白。八月子成。九月熟シテ黒其形円。味甘辛平也。

[57] 温  ヘンテカラス  和名稗  鳥禾 稊■【=禾+夷】[166]並同今按クロヒヱ。
図経云、農人四月種子蒔畠多生也。茎細長。其高三四尺。延葉状長録色有。節之間長穂ヲ生皮黒有。粟粒同熟秋分得。
味甘平也。

[58] 温  ヘルトヘンゲル  和名葡萄ヱビ。俗音ブタウ。蒲桃。同紫葡萄。今按クロブタウ。野葡萄者イヌヱビ[167]
図経云、三月葉生茎丸少長葛似実丸熟黒。味甘苦。

[59] コウトヲルトル  和名萱草。ワスレクサ。謖[言+矣?]草。鹿葱萱。
男草竝仝金草華。今按キスゲニ似鹿葱花而無斑文。其千葉者有毒。図経曰、二月苗生。葉長廣柔茎丸有。花黄色也。田野多。庭前植見毎気ヲ益。味甘凉。

[60] ゲンフル  和名生薑。
図経云、初生嬾者其尖微紫名紫薑或作子ハ薑宿根謂之母薑生。四月農人種子植。五月産出葉。形長廣而左右分録色。有花咲無之。故実不成。根以為種子。茎芦ノ頭方赤九月采。製法、炮剉亦其尽用此炮何ニテモ紙曩水浸熱灰埋云味辛。

[61] マルガアリヤ  和名忍冬。一名金銀花。今俗云スイバナカツラ[168]
産園岡墻垣凌冬不凋名田此得蔓延樹上滕多左纒故又名左纒滕。四月開花。香其撲鼻ノ初開色白経又變黄因又名金銀藤。又名鷺鴑藤。又名老翁鬚凡数名者前乃巻其藤之■常此則巻其花之出類也。製法、十月採陰乾剉炙用平澤田野多。味甘。

[62] 微温  スコルヘンデレヤ  和名鶏足草。
図経曰、夏至葉生。四時盛有、其状葉茎共少。芦頭之方黒。葉長延デ筋有。生処岸堀切或道辺多。又相類者有薬性異。

[63] 温  カルモス  和名菖蒲。
図経云、四時盛石菖蒲也。窮薬性祥也。菖五月五日。用昌陽臭蒲並綛名也。水菖蒲又名白昌、溪蓀[169]、劍草。和漢同根露根名。不可用足土之上ニ有者九節用八月、十二月根ヲ採。製法、白水浸土気ヲ洗陰乾用。鐵気ヲ忌皮毛ヲ削去日干可也。味辛。

[64] 微寒  モス  和名岩松。
図経云、生其形鴑【=死+鳥】■【=虫+鳥】之羽似。横廣平長四五寸及録色。有茎之皮鱗似。生処水辺ノ岩間岸多。

[65] 温  サビイナ  和名イフキ。
図経曰、木皮杉ニ似葉録色細シ。四時盛幹葉茂也。子手柏似葉茎ノ皮鱗如有者。

[66] 温  セイネブル  和名ソナレ松。
図経云、葉細其状五葉松葉似。少長薫甚香杉似実成。其形杉ノ子ノ如シ今窮用者実ナリ。

[67] ケレスン  和名牛房。ムマフラキ。
図経云、四時農人種子散産出ス。葉廣大有録色厚茎八角也。筋高長シ。六七月花咲。実成子熟堅黒。味苦根付。

[68] ホリホウデ  和名蕨。ワラビ。■、同紫蕨。俗云ゼンマヒ。■仝蕨拳ワラビノ穂也。
今祥窮者茎也。山野多生。二月苗産出。其色紫黒有、梢青穂白毛有葉老相似者多。モロムキ。ゼンマヒ。スダ。小ヘゴ。皆相類也其性異。味甘苦。

[69] ホリキノム  和名萹蓄[170]。一名粉節艸。一名道生屮。俗曰ウシクサ、萹竹。

図経云、山谷今在処有之。春中布地。生道傍。苗似瞿麥。葉細緑色如竹。赤茎如■【=金+必】股。節間花出。甚細微青黄色。又有紅色。根如菖根。四五月採苗院乾。謹按爾雅云。竹、萹畜。郭璞注云、似小藜赤茎節。好生道傍。可食[殺虫]、亦緑王芻也竹篇竹。節謂此萹蓄。
味苦平也。

[70] 寒  ロツフルス  和名コシ草[171]
図経曰、二月苗生葉録色。有芦頭生五枝葉丸根黄白色少シ。厚強葉左右ニ分。七月採陰乾ニシテ用。相類多。此コシ草生処山野多。

[71] 冷  アルヘイズ  和名蛇苺[172]。懸鉤子[173]
図経云、生処田畠或道辺多生。苺少葉状丸無刺実熟而外赤内肉白。 味甘辛。

[72] 温  メリシ  和名ヲリダ屮[174]。ヒキヲコシ、村立トモ。
図経云四、五月苗生。録色柔也。吹切荒丸茎四角節毎葉左右分少葉付裏薄白青。秋及葉採陰乾使。 味苦。

[73] 温  カルメンダ  和名鹿草[175]
図経云、三四月苗生。茎少丸節毎葉付左右開。録色ヤワラカ也。紫色花咲。其形細生処田畠多生。延長三四寸ナリ。

[74] 平  ヘイチラアルホウリヤ  和名ツタ。蔓。
今按盖藤蔓。大抵木本爲藤草本為蔓相類多。今窮者此図形制祥。

[75] 寒  ヘレキス  和名升麻。
図経曰、生葉似■[䒑+麻]葉根入薬升提元陽不下陥陰。故名升麻又周麻トモ名。俗云鳥ノアシ草也[176]。谷野多生録色裏薄青白シ棘有。八月根採日乾剉用。
味甘苦。

[76] 温  ニコチヤアナ  和名タバコ[177]
図不及論。

[77] 寒  シツフレスノウト  和名杉実
■同赤杉実而多油。白杉虚而乾燥ト云。図不及論。
味苦辛。

[78] 温  ヱレリカ  和名イチハツ。鴟尾草。花名紫羅傘[178]
或曰鴨脚花亦通名蝴蝶。花二月苗生葉。其状横廣録色。筋有花紫色而三葉開丸根黄色白。味酸甘。

[79] 平  ハセンセ  和名シノネ草[179]
図経曰、二月苗生葉録色而長吹切廣柔。四五月花咲。其形細白赤色。平澤田野多根黄色。 味酸。

[80] 寒  フロウクルイト  和名犬蓼[180]
図経云、三四月苗生。茎赤色節毎ニ鬚有葉録色。其状長秋ニ至テ子ヲ成。其形細赤色亦白花。実仝時成付熟実。黒水辺多相類多シ。青蓼或紫蓼水蓼。今窮者ヲイヌタデ葉上有黒點者也。
味苦辛。

[81] 温  レヘスラコム   和名紅白芷。
図経云、二月苗生。根長尺餘白言其色也。気甚香竄。一名芳香。離騒謂之葯言以芳潔白約而為止極。故名白芷[181]凡採得後勿用四條作処生者此名張公藤兼勿用馬藺並不入薬中採得後刮削上皮細剉用黄精亦細剉以竹刀二味等分両度蒸一伏時後出於日晒乾去黄精也。 味辛。

 

右此一巻者阿蘭陀外科/草花見フランスフロム来朝之時/公方様ヨリ被仰付/草華之油取指上則此絵ヲ/相認申儀予仕上後世為/乎鑑自晝畢誠世稀也其/方外療数年被尽粉骨一/流依通達則准一子授與之/豈不可有可秘蔵可秘々々/延宝七年三月吉日

草鏡終

 

 

注釈
[1]  ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について」『日本医史学雑誌』第48巻第3号、470〜471頁、2002年。
[2]  中村輝子、遠藤次郎、ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館蔵「阿蘭陀草花鏡図」の検討」『薬史学雑誌』第38巻第2号、221頁、2003年。
[3]  遠藤正治「「阿蘭陀本艸図経」「阿蘭陀草花鏡図」の植物について」第51回慾斎研究会例会(2004年11月21日)、未定稿。
[4]  Wolfgang Michel, Elke Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan『日本医史学雑誌』第50巻第4号(2004年)、463〜492頁。
[5]  "Ten laetsten wiert g'eijscht een bejaert persoon bequaem en g'expermenteert omme te trecken extracten, olien en wateren uijt allerhande groene medicinale cruijden, beneffens de nodige instrumenten daer toe moetende dienen. Item diverse jonge spruijten daer men de zade niet wel versch in Japan om te zaijen van can overbrengen, omme aen te planten en voort te connen queeken: welcke voorz: mandaten en 't versoeck van de distelateur en cruijden kenner, door des Keijsers last ende der Rijcxraden ordre door meergen[oemde] governrs, nu expres op 't laetst van 't vertreck wiert de novo indachtigt, hoewel 'tzelve genoech in Jedo was geschiet op dat het selwe te naeuwer te observeeren en voor ernst te achten, mitsgaders aen den Ed. Heer Governor Generael te rapporteren hadden." 出島商館日誌、1667年11月6日(National Archief 1.04.21(以下はNA)、Nederlandse Factorij Japan (以下はNFJ 80, 6.11.1667)。
17世紀末頃東インド会社の歴史をまとめたPieter van Damも、この要求の重要性を認識している(Pieter van Dam: Beschryvinge van de Oostindische Compagnie. 's-Gravenhage, M. Nijhoff, 1976, Deel II, 2, p. 443)。
[6]  バタビア総督府より出島商館長宛ての書簡、1668年6月29日( NA, NFJ 299, Ingekomen en uitgaande brieven, 29.6.1668)。
[7]  この蒸留器と蒸留技術の導入については、以下を参照。Wolfgang Michel, Elke Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan『日本医史学雑誌』第50巻第4号、463〜492頁。
[8]  Tan, Sian Nio: Zur Geschichte der Pharmazie in Niederländisch-Indien (Indonesien) 1602-1945. Würzburg, Jal-Verlag, 1976. Kraft, Eva: Andreas Cleyer. Tagebuch des Kontors zu Nagasaki auf der Insel Deshima 20. Oktober 1682 - 5. November 1683. Bonn (Bonner Zeitschrift für Japanologie, Band 6), 1985.
[9]  2002年の発表では、筆者はGodefried Haeckの仮名表記としてホーデフリード・ハークとしたが、和文資料に見られる「コツトフレイル」という読みや彼がところどころ使ったドイツ語の植物名などを考慮すれば、彼は後任者のブラウンやバタビアの上司クライヤーと同様にドイツ人だったという結論に至り、以降はゴットフリード・ヘック(Gottfried Haeck)という表記にした。ミヒェル・ヴォルフガング「薬剤師ゴットフリード・ヘックによる長崎郊外の薬草調査について」『言文論究』21号(2005年)、1〜20頁。
[10]  "De distillateur of kruijdekenner die de Japanders nu een Jaer off 2. aen den anderen geeijst hebben gaet nu op een der schepen over, maer off hij al de qualiteijten hebben sal die de Japanders in hem begeren en weten niet wel. Wel worden hier bericht dat al die qualiteijten selden in een man gevonden worden; dat sulcke persoonen in Hollant selfs seer weijnigh bennen en om na Indien te gaen selden resolveren en daerom hier so schaers uijt te vinden sijn. Daeromme sooder iet aen sijn persoon ontbreeckt dat we onse uijtterste beste willen doen om haer nae desen meerder vergenoeginge te geven." バタビア総督府より商館長Daniel Six宛ての書簡、1669年5月20日( NA, NFJ 299, Ingekomen en uitgaande brieven, 20.5.1696)。
[11]  "Wilhem Ten Rhijne, en M: doctor, kruijd kender, en distilateur, ofte Chimicus die de heeren onse meesters expres uijt nederlandt hadden gesonden, om den Keyser en het rijk van Japan ten dienst te sijn". 出島商館日誌、1676年1月4日 (NA, NFJ 90, Dagregister Dejima, 4.1.1676)。
[12]  出島商館日誌、1672年5月30日(NFJ 85, Dagregister, 30.5.1672)。
[13]  „Hier op 't eijlant is tot coste van den keijser een laboratorium ofte disteleerhuijsie gemaakt, soo dat onsen appoteker eerlangh sal te werk gestelt werden". 商館長Camphuisよりバタビア総督府宛ての書簡、1672年1月8日 (NA, NFJ 303, Ingekomen en uitgaande brieven, 8.1.1672)。
[14]  「書画絵図集」所収出島絵図(長崎市博物館所蔵)。長崎市出島史跡整備準備審議会編『出島図ー その景観と変遷』改訂版、平成2(1990)年、94頁。
[15]  "en wiert hem oock gevraecht hoe het toe quam, dat het saet t' welck bij haer tot drij maelen nu was gesaeijt niet open quam, waer op hij in antwoordt hadt gedient, hij zulckx niet enken weeren, maer oordeelde het daer bij toe te comen dat het saet eerst uijt hollandt op Bata, en van daer weder hier moest gebracht werden, en door de oudeht tbederven onderworpen was, als oock dat hij sustineerde, dese heete climaet met die vant' vaderlandt, ende natuere vande zaeden, niet over een en moeste coomen" 出島商館日誌、1671年5月22日(ファン・ヘイニンゲン日誌の抜粋)。(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 22.5.1671)。
[16]  "Tegen den avondt op vorigh gekreegen consent van den Gouvernrgingh ick verhelt met Sr vander Plancken, den oppercherurgijn, den nieuwe apoteeker en kruijdenkender, naer s'keijsers thuijn, omme aens te gaen sien nar de groendkruijd door hare Edt van Battavia gesonden" 出島商館日誌、1671年8月10日 ( NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 10.8.1671)。これは長崎代官末次平蔵が運営していた「十禅寺薬園」と思われる。
[17]  出島商館日誌、1672年6月11日(NA, NFJ 85, Dagregister Dejima, 11.6.1672)。
[18]  商館長デ・ハースよりバタビア総督府宛ての書簡、1670年10月19日 (NA, NFJ 301, Ingekomen en uitgaande brieven, 19.10.1670, François de Haas)。
[19]  NA, VOC, fol. 760r-772v (19.11.1679).
[20]  W. Michel: Andreas Cleyer. In: Engelbert Kaempfer: Heutiges Japan (Hrsg. Wolfgang Michel / Barend J. Terwiel). Band I/2, Iudicium: München, 2001, pp. 95-99.
[21]  "s'morgens met den dach quamen de tolken uijt den naam van den Nangasackijschen stadt voog[d] den arbarist off kruijten kender van 't Eijlandt halden om hem te geleijden naar't gebergte ten eijnde om kruijden te zoeken. 'Savonts retourneerende, rapporteert dat hij vierentwintich derleij cruijden gevonden hadde, 'twelk een goet begin en den Gouvernr (soo de tolken zeijde) wel bevallen hadde." 出島商館日誌、1669年8月1日 ( NA, NFJ 82, Dagregister Dejima, 1.8.1669)。
[22]  「〆 廿四色/酉ノ七月五日/加福吉左衛門/富永市郎兵衛/楢林新右衛門/中嶋清左衛門」(「薬草ノ名並和文扣」(外題)、写者不明、京都大学附属図書館所蔵)。
[23]  "den appoteeker is heden uijt geweesen om kruijden te soeken: en heeft tot genoegen van den Gouvernr eenige gevonden" (NA, NFJ 82, Dagregister Dejima, 23.8.1669)
[24]  「〆 十二色/酉ノ七月廿七日/富永市郎兵衛/名村八左衛門/中嶋清左衛門」(「薬草ノ名並和文扣」)
[25]  出島商館日誌、1670年6月4日、商館長代理ギリス日誌の抜粋 ( NFJ 83, Dagregister Dejima, 4.6.1670, Adriaen Gillis
[26]  「以上三十三品/右被為 御付薬草見知申候阿蘭陀人戌三月七日ニマカリ出取/申候薬草之分異名並能付共書附指上申候以上/戌三月十日」(「阿蘭陀薬草功能之書」「證治指南」 付録 天、高須清馨写(文化8年)、旧関場不二彦蔵、W・ミヒェル蔵)
[27]  「都テ三十三色三月七日出島ニテ/右被為 仰付薬草見知タル阿蘭陀ヘ戌ノ三月七日出取薬草ノ分異名并能書共書付差上ルナリ」(桂川甫筑編「善生室医話」嘉永四年写、下乾、京大、富士川文庫)
[28]  「以上七品/右被為 御付薬草見知申候阿蘭陀人戌三月廿九日ニマカリ出取申候薬草之分異名並能付共書附指上申候以上/戌四月二日」(「阿蘭陀薬草功能之書」)
[29]  「以上十七品/右被為 迎付薬草見知申候阿蘭陀人戌五月廿五日ニマカリ出取申候薬草之分異名並能付共書付指上申候以上/戌五月廿八日  薬草見知申候阿蘭陀   コツトフレイル判」(「阿蘭陀薬草功能之書」)
[30]  出島商館日誌、1671年5月22日(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 22.5.1671)。
[31]  出島商館日誌、1671年5月22日(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 22.5.1671)。
[32]  出島商館日誌、1671年6月29日(NA, NFJ 84, Dagregister Dejima, 29.6.1671)。
[33]  関場不二彦『西医学東漸史話』吐鳳堂書店、東京、昭和8(1933)年、上巻、240〜241頁。
[34]  宗田一『日本医療文化史』思文閣出版、京都、1989(平成元)年、128、130頁。
[35]  "des namiddachs comen den tolken met verkaastheijt wegens den gouverneur ons afvragen hoe out de zaden sijn, die nu van Battavia hebben gekregen, en zijne gisteren bij geschrift zijn opgegeven uijt wat landt de comen en op wat tijden vant' jaer mons lant gezaeijt werden Item wat antwt haerede hebben gesz: op des keijser eijsch van een kruijdenkenner van meeeder Jaren en ervarenht. als de jonghst geconden ende jnstrumenten tot het disteleeren noodich"出島商館日誌、1670年8月17日、(NA, NFJ 83, Dagregister Dejima, 17.8.1670)。
[36]  出島商館日誌、1670年6月4日、商館長代理ギリス日誌の抜粋 (NA, NFJ 83, Dagregister Dejima, 4.6.1670)。
[37]  "De overgecomen zaaden hebben de tolken opgenomen en de daer op meer vragen gedaen als haer kan beantwoort werden, langer als een maent zijnse doend' geweest met het opschrijven van den tijt dat se moeten gezaaijt werden, wanneer in haer bloem staen, en op wat tijt rijp zijn haer crachten en de gebruick gelijck in de uijt d'hiernevens gaende copie van 't geene den apotheeker daer van heeft moeten aenwijsen zullen connen sien den apotheker diende hier oock wel een goet doctoor in de medicijnen te weesen en noch soude hij dit volck geen volle contentement connen geven." 商館長ハースよりバタビア総督府宛ての書簡 (NA, NFJ 301, Ingekomen en uitgaande brieven, 19. 10. 1670)。
[38]  バタビア総督府より出島商館長宛ての書簡、1671年5月19日(NA, NFJ 302, ingekomen en uitgaande brieven, 19.5.1671)。
[39]  „Onse opperchirurgijn, appotheker en thuijnier syn heden in't velt geweest om medecinal kruijden te soecken en hebben daervan goede partije gevonden welckers kraght en eijgenschap de tolcken eerst daegs sullen connen op nemen." 出島商館日誌、1672年5月21日 (NA, NFJ 85, Dagregister Dejima, 21.5.1672)。
[40]  出島商館日誌、1672年6月11日(NA, NFJ 85, Dagregister Dejima, 11.6.1672)。
[41]  "Sooder teeniger tijt door den gouverneur ordre mocht komen, dat den appotheker Brouwn om kruijden te soecken int velt mocht gaen, sal zulx sonder tegenspreken laten geschieden en gelisentieert wordende, zoude eenige borsten mede mogen laten gaan, om haar wat te vermaken." NA, NFJ 86, Dagregister Dejima, 6.3.1673, Instructie voor den Ondercoopman Adriaan Wichelhuijsen ende: den dispencier Cornelis Spanbroeck [...] gedurende mijne bowen Rijse getek: Martinus Caesar, 6 maert 1673)。
[42]  "Eijsch van diversche Rariteijten ende goederen door den groot Commissaris Inoije tzickingodonno op 26e Februarij 1652 voor sijn keijserlijcke maijtt. van Japan in Jedo voor hem selfs ende voor verscheijde japanse groote Heeren ao 1651gedaan [...] Een boeck tracteerende vande ontledingh der menschen met de Figuren daerinne gestelt inde portugeessche tale. Eeen kruijdt boeck daer de Figuren na 't leven affgeset sijn oock in de Portugeess tale ende eeninge Historien soo van oorloge als andersints in voorsz: tale" (NA, NFJ 65, Dagregister Dejima, 24.5.1652)。
[43]  "Een Herbarius van dodoneus affesete voor d' Hr Sickingodonne    120:-:-"。 船荷の送り状、バタビア、1652年7月11日 (NA, NFJ 776, Factuur Casteel Batavia, 11.7.1652)。
[44]  "1: affgesetten Herbarium van Dodoneus in Folio met silver beslagen en op d' snee vergult voor Sickingodo cost fl 96:-:-"。船荷の送り状、バタビア、1652年7月11日 (NA, NFJ 776, Factuur Casteel Batavia, 7.7.1655)。
[45]  1554年以来この本は版を重ねていたが、日本に届いたのはおそらく1644年版と思われる:Dodonaeus, Rembertus: Cruydt-boeck : met Biivoeghsels achter elck Capitel, uyt verscheyden Cruydt-beschrijvers : Item, in't laetste een Beschrijvinghe vande Indiaensche ghewassen, meest ghetrocken uyt de schriften van C. Clusius : Nu wederom van nieuws oversien ende verbetert. Antwerpen, 1644. 18世紀を中心にこの本草書の受容を追究する本がある:Dodonaeus in Japan (ed. by W.F. Van de Walle), Leuven UP, International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, 2001.
[46]  "tzickingodo liet vragen off de niet ijmand onder onsen ware, die odoneus cruijtbouck hem int Portugees conde vertalen, neen hebbende op g'antwoort, en dat sulcken geheelen werck met geen cleijne kennisse inde tale, als gemeenelick onder ons is, te verrichten sij"。 出島商館日誌、1653年1月17日 (NA, NFJ 66, Dagregister Dejima, 17.1.1653)。
[47]  その件に関するオランダ側の記述がある。「夕刻、小田原の城主稲葉美濃様が、腕に怪我したのを診察するため、城内から外科医を招かれたので、直ちに遣わした」。出島商館日誌、1650年2月10日 (NA, NFJ 63, Dagregister Dejima, 10.2.1650)。
[48]  "wat aengaet 't voorschreve g'eijste boeck 't selve was wel maer de kruijden daerin afgebeelt waren te kleijn, en niet wel geschildert, souden sien off hem in 't aenstaende een grooter boeck, daerinne oock grooter figuren stonden, konden beschicken, och arme menschen! hoe weijnigh weetje vande voortreffelijckheijt van sulcke of diergelijcke wercken te oordeelen, want meenen dat sulcke boecken van allerleij soort (gelijck in een schoenmakers winckel de schoen) te becomen zijn." 出島商館日誌、1659年4月4日 (NA, NFJ 72, Dagregister Dejima, 4.4.1659)。
[49]  出島商館日誌、1676年11月14日(NA, NFJ 90, Dagregister Dejima, 14.11.1676)。
[50]  Hortvs Eystettensis,  Sive Diligens Et Accvrata Omnivm Plantarvm, Florvm, Stirpivm, Ex Variis Orbis Terræ Partibvs, Singvlari Stvdio Collectarvm, Quæ In Celeberrimis Viridariis Arcem Episcopalem Ibidem Cingentibvs, Hoc Tempore Conspicivntvr Delineatio Et Ad Vivvm Repræsentatio Operâ / Basilii Besleri [= Basilus Besler] Philiatri Et Pharmacopoei. M.DC.XIII. (56 x 47cm)
[51]  部数の少ない1613年版はヨーロッパでも極めて貴重なものであるので、杏雨書屋蔵の木箱入りの初刊本は1668年に納品されたものである可能性がある。附属文書の中に、宇田川が書いたとされる植物の和名が含まれている。『杏雨書屋洋書目録』臨川書店、京都、2006年、18頁〜。(京都大学の松田清氏のご教示にお礼を申し上げる。)。
[52]  出島商館日誌、1673年2月25日NA, NFJ 86, Dagregister Dejima, 25.2.1673)。
[53]  筆者は植物学的比定を行った遠藤正治氏の未定稿(「「阿蘭陀本艸図経」「阿蘭陀草花鏡図」の植物について」2004年)を参照したが、ここでは、欧文文献に見られる植物名を求め、ヘック及びブランが長崎の植物をどういうふうに理解したかを目的ににした。
[54]  Dodonaeus, Rembertus: Cruydt-boeck. Antwerpen, 1644.
[55]  「ヒヨウラス」はポルトガル語violaの複数形であろう。
[56]  そもそもVlierSambucusの蘭名だが、ドドネウスによれば、wilde VlierHadichの別名だった("De Nederlanders pfleghen dit cruydt veel Wilden Vlier te heeten; maer meest Hadick, Haddijck oft Adick, nae den Hooghduytschen", Cruydt-boeck, 1644, p. 620)。
[57]  「エスロウコ」の「エス」はドイツ語のEss-(食べる)かも知れない。
[58]  生薬名。「レリヨウロン」は複数形の2格Liliorumを表記している。Flos(花)を補うべきである。
[59]  生薬名。「フロウリス」は複数形floresを表記していると思われる。
[60]  生薬名。「Taraxaconの根」の意。
[61]  生薬名。
[62]  生薬名。「Iriasの根」の意。
[63]  生薬名。Hypericumの花。「イツヘリシ」はHypericumの2格Hypericiを表記している。
[64]  「ハツハアブリス」はPapaverumの2格Papaverisを表記している。Semen Papaverisという生薬名であろう。
[65]  桑の実として「Moerbey」(現代語moerbei)もあるが、ドドネウスの「本草書」はこの語形を使用していない。
[66]  本格的な蘭語名はまだなかった("Dit cruyt wort nu ter tijt in't Latijn geheeten Caryophyllata, om dat de wortelen nae Gyroffels nagelen schijnen te riecken." Cruydt-boeck, 1644, p. 198)。
[67]  「トウビ」はドイツ語なまりであろう。
[68]  生薬名。
[69]  生薬名。
[70]  生薬名。
[71]  生薬名。
[72]  生薬名。
[73]  生薬名、「ヘデラの葉」(folia)。
[74]  生薬名、「シプレスの実」(noot)。木は「Cypress-boom」。
[75]  オランダ語ではVloy-cruydtよりもPersick-cruydtの方は多かった。"Dit cruydt is hier te lande nae den Hooghduytschen somtydts Vloy-cruydt gheheeten gheweest / maer meest Persick-cruydt." Dodoneus, Crudt-boek, 1644, p. 960.
[76]  ラはテの誤りであろう(レヘスラコム→レヘステコム)。
[77]  中村輝子、遠藤次郎、ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館蔵「阿蘭陀草花鏡図」の検討」『薬史学雑誌』第38巻第2号、221頁、2003年。
[78]  国会図書館・白井文庫(2点)、東京大学附属図書館・鶚軒文庫(1点)、東北大学附属図書館・狩野文庫(1点)、西尾市・岩瀬文庫(1点)、杏雨書屋(4点)、京都府、無窮神習(1点。明和2年写)。
[79]  「三月十五日、『阿蘭陀本草図経』一冊稿成る。オランダ渡来の春草、夏草、秋草、冬草および木の図説。陽月窓士序、大町伯約の宝永己丑之春三月望日の跋がある。」上野益三『年表日本博物学史』東京、八坂書房1989年、104頁。
[80]  内藤記念くすり博物館(1点)。
[81]  岡山大学附属図書館資源生物科学研究所分館・大原農書文庫(1点)、国際日本文化研究センター図書館・宗田文庫(2点)及びその他(1点)、京都・大石家(1点、「若虚堂秘蔵」とあり)。
[82]  「紅毛本草図経」(文化元子ノ三月写、杏雨書屋、杏1048)により。
[83]  「陽月窻士叙 山村宗雪先生之自序也。窻士文字可疑。予遊学于勢陽、視 師家之書。始得觧此書之序。本草書而作陽月甚七誤。甚七而作窻士者無疑。」(「阿蘭陀本草図経」[内題]、杏雨書屋、杏2142)
[84]  『阿蘭陀外科指南』京都、上村平左衛門、元禄9(1696)年刊。国際日本文化研究センター図書館・宗田文庫。
[85]  「阿蘭陀本草」(内藤記念くすり博物館 31084-499.8
[86]    Rosarum
[87]  New Kreüterbuch. In welchem nit allein die gantz histori / das ist namen / gestalt / statt und zeit der wachsung / natur / kraft und würckung / des meyste theyls der Kreuter [...] abgebildet und contrafayt ist [...] Durch den hochgelerten Leonart Fuchsen der artzney Doctorn / vnnd derselbigen zu Tübingen Lesern. [...] Getruckt zu Basell / durch Michael Isingrin / 1543. Reprint: Taschen, Köln 2001.
[88]  [Basilius Besler] Hortvs Eystettensis sive diligens et accvrata omnivm plantarvm, florvm, stirpivm, ex variis orbis terrae partibvs, singvlari stvdio collectarvm, [...] Ioannis Antonii / MDCCXIII. Reprint, Kölbl, Grünwald bei München 1964.
[89]  「阿蘭陀本草図経」(岡山大学附属図書館資源生物科学研究所分館・大原農書文庫170-120
[90]  蘇頌撰『図経本草』(九竜)、竜源出版公司、1988年(輯復本、胡乃長、王致譜、輯注)
[91]  雷斅、『証類本草』及び『本草綱目』について様々なご教示下さった真柳眞氏に心よりお礼を申し上げる。
[92]  家を去って千里を行く、羅摩と枸杞は食うなかれ、この二物は精気を補益し陰道を強盛する。
[93]  Oleum Absinthi。「ヲウリヨ」はラテン語のoleumではなく、以前から利用されていたポルトガル語のoleoから来ている。
[94]  蘇頌撰『図経本草』(九竜)、竜源出版公司、1988年、輯復本、胡乃長、王致譜、輯注。
[95]  『爾雅義疏』第八巻、釋草第十三。
[96]  近年の著書としては大場秀章の『江戸の植物学』(東京大学出版会、1997年)はこの白井光太郎に遡る説を取り上げている。
[97]  句点は追加された。
[98]  イバラショウビ。ショウビ(薔薇)もある。
[99]  Rosarum
[100]  駒牽草もある。
[101]  Camomille、カモミール、カミツレ(Matricaria chamomilla L.)。
[102]  タビラコ(田平子)。
[103]  小手鞠。
[104]  金毛花。
[105]  『本草綱目』巻十六、葶藶(「凡使勿用赤鬚子」)。
[106]  『神農本草経』に見られる。クジラグサ(Descurainia sophia SCHUR.)、ヒメグンバイナズナ(Lepidium apetalum WILLD.)などの成熟種子。
[107]  トウシン(燈心)。
[108]  テマリカ(手毬花)。
[109]  Melilot ?
[110]  ブツジソウ(仏耳草)。
[111]  ふつは九州の方言。艾 [...] フツ薩州 ブツ肥前(小野蘭山『本草綱目啓蒙』享和3年〜文化2年刊、巻11)。
[112]  枸杞(クコ)の誤り。
[113]  杞根(クコン)の誤り。これらの一名の多くは『神農本草経』に収載されている(「枸杞、一名杞根、一名地骨、一名苟忌、一名地輔。味苦寒。生平澤。治五内邪氣、熱中消渇、周痺、久服堅筋骨、輕身耐老。」)
[114]  『本草綱目』巻36。
[115]  インチンコウ(茵蔯蒿)。『本草綱目』巻16。
[116]  Oleum Absinthi。「ヲウリヨ」はラテン語のoleumではなく、以前から利用されていたポルトガル語のoleoから来ている。
[117]  『本草綱目』巻十五、「茵蔯蒿」(「斅曰、凢使須用葉有八角者、陰乾去根細剉勿令犯火」)。
[118]  イラクサ(刺草)。
[119]  カッコウ(藿香)。
[120]  「本草撮要」の誤りか。
[121]  『本草綱目』に未掲載。
[122]  コウジュ(香薷)。
[123]  ギシギシ(羊蹄)。
[124]  ウマヒユ(馬歯莧)。
[125]  フクボン(覆盆)。
[126]  「アシクダシ」であろう。「覆盆  [...] アシクダシ 筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』享和3年〜文化2年刊、巻14)。
[127]  ウツボグサ(靫草)。
[128]  『本草綱目』に未掲載。
[129]  「格注草 [...] 長崎ニテアハコヘゴト云京ニテコシダト云」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻23)。
[130]  カタバミ(片喰草)。
[131]  スイモノグサ、サクショウソウ(酢漿草)。
[132]  カナモグラ、カナムグラ(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14)。
[133]   この句は唐代蘇恭の『新修本草』と一致している。「恭曰。葎草生故墟道傍。葉如箟麻而小且薄。蔓生有細刺」『本草綱目』巻18
[134]  名称、未確認。
[135]  ツリガネソウ(釣鐘草)。
[136]  「積雪草 [...] カキドウロ 筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻10)。
[137]  ウツボ草。
[138]  ヒオウギ(檜扇)。
[139]  カラスオウギ(烏扇)
[140]  原文は「翣翣」だが、「翣扇」の誤りであろう。
[141]  『本草綱目』(巻17)は射幹の釈名として烏扇、烏■、烏吹,鳳扇、烏蒲、鬼扇,扁竹、仙人掌、紫金牛、野萱花、草姜、黃遠を挙げている。
[142]  イシミカワソウ(石見川草)。
[143]  ウシノヒタイ(牛の額)。
[144]  ミゾソバ(溝蕎麦)の誤り。
[145]  オトギリソウ(乙切草)。
[146]  ヤクモソウ(益母草)。
[147]  メハジキ(目弾き)。子供が茎をまぶたに貼って目を開かせて遊ぶことによる。
[148]  スペイン語のeneldoより。「又蛮語にイノンドと云物あり、茴香と同類にして別なり」貝原益軒野『菜譜』上、1704年刊。
[149]  カナアベンクルイト。写しの誤り。
[150]  和姑。写しの誤り。
[151]  未確認
[152]  「丁子草 花ハ丁子ノ形ニ似テ浅葱色ナリ四月ニ開ク葉ハ柳葉ニ似テ筋微シ白シ」貝原益軒『大和本草』巻7、宝永6年刊。
[153]  未確認
[154]  「苧麻 [...] シロソ 肥前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14)。
[155]  カラムシ。写しの誤り。
[156]  未確認
[157]  バケイ(馬薊)。
[158]  オニアザミ(鬼薊)。
[159]  ルウダ。ポルトガル語arrudaより。「ありたさう」(貝原益軒『大和本草』)。
[160]   未確認
[161]  野菊関する『本草綱目』の説明はきわめて短く、「阿蘭陀草花鏡図」が述べている一連の別名は全て『本草綱目』(巻十五)の「菊」の釈名である。
[162]  「楉榴、榴石也」『廣雅』。
[163]  ザクロ(石榴)。
[164]  酸榴皮(『本草綱目』)
[165]  『本草綱目啓蒙』(巻22)は同様な別名を挙げている。
[166]  稊稗か
[167]  未確認
[168]  「忍冬 [...] スヒカヅラ、スヒバナカヅラ雲州」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14下)。
[169]  アヤメ(溪蓀)。
[170]  ヘンチク(萹蓄)。
[171]  「虎耳草 [...] ユキノシタ、キジンサウ筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻16)。
[172]  「蛇苺 クチナハイイチゴ ヘビイチゴ」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14上)。
[173]  「懸鉤子 キイチゴ [...] カナイチゴ泉州  ツルキイチゴ」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻14上)。
[174]  「薺寧和産詳ナラズ ヒキヲコシニ充ル古説ハナラズ」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻10)。ヒキヲコシ(引起)。
[175]  「土当帰 ウド シカ筑前」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻9)。
[176]  「升麻 トリノアシグサ延喜式」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻9)。
[177]  中米から南蛮船で来日したタバコ(多巴古、佗波古、煙草、多葉粉、田葉粉、金絲烟)は、医療にも利用された。
[178]  『本草綱目啓蒙』巻13。
[179]  「羊蹄 シ古歌[...]シノネ和方書 シノネダイコン同上」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』、巻15)。
[180]  イヌタデ(犬蓼)。
[181]  「ヨロヒグサ延喜式 サイキ信州 ムマゼリ勢州 ヤマウド作州 カンラ勢州 今ハ通名」(小野蘭山『本草綱目啓蒙』巻10)。

 

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