Yoshio Genkitsu - Life and Works of a Forgotten Scholar of “Dutch Studies”[in Japanese]. Studies in Languages and Cultures (Faculty of Languages and Cultures, Kyushu University), No. 21 (2008), pp. 89-109.
ミヒェル・ヴォルフガング「吉雄元吉 ー 忘れられた蘭学者の生涯と著作について」『言語文化論究』第23号(2008年3月)、89ー109頁。
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Keywords: Yoshio Genkitsu, Dutch Studies, Western Studies, rangaku, Sugita Gempaku, Sugita Genpaku, Rangaku Sentei, Hendrik Casper Romberg, Hermanus Letzke, Barend Hakvoord, Willem Bartjens, Rikugadô, Thomas Sydenham, Yoshio Kôgyû, Kyoto, Asada Sohaku, Maeno Ryôtaku
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W・ミヒェル

吉雄元吉 ー 忘れられた蘭学者の生涯と著作について


 

 はじめに

18世紀末頃から19世紀初頭にかけて、長崎や江戸などから蘭学者が相次いで上京し、上方蘭学を勃興させた。究理堂を設立した小石元俊、最初の蘭和辞書『ハルマ和解』を編集した稲村三伯、文化7年刊の『訳鍵』及び『蘭学逕』で知られる三伯の門下人藤林晋山、西洋の諸医学説の総合化を図った小森桃塢や文政2年から開業し、天保10年医学校兼図書館の順正書院を設立した新宮凉庭など、著名な医師・蘭学者に関する研究は豊富な成果を挙げてきたが、すでに寛政12年頃から「蓼莪堂」でオランダ語及び医学を教授していた吉雄元吉(きつ)(号紫溟)、別名王貞美)の生涯は、いまだ謎に包まれている。

関西の古書店で「王貞美」による写本「遠西奇水抜萃」を発見した筆者が、内容の専門性に刺激され調べたところ、吉雄元吉は、杉田玄白の「鷧斉日録」に「紫溟先生」として登場しているだけでなく[1]、漢方最後の巨頭淺田宗伯の『先哲医話』[2]にも引用されていることがわかり、この高度な語学力と知識を備えた人物とその著作をあらためて追究することにした。

 

1 先行研究

残念ながら先行研究はあまり豊富ではない。最初に元吉を採り上げた大槻如電(修二)は、『日本洋学年表』(明治10年刊)において、写本「蘭訳筌蹄」及び「缺舌医言」に基づき、元吉の生涯と著書を概観している[3]。以降の研究としては1943年に著された『日本医事新報』の中の原田謙太郎による「玄白と紫溟」という短い記事や、1980年刊『京都の医学史』に1頁半の記載が見られるが、内容的にはどちらも大槻如電の記述の繰り返しが中心で、新しい発見をほとんど付加することができなかった[4]

 

2 元吉の生涯について

吉雄元吉の出生地は不明であるが、遊学の手引き書として明和4年から一世紀にわたり京都の文化人の姓名・字号・住所・俗称などを紹介した『平安人物志』の文政5年(1822)版から、彼が王貞美という中国名を使用したことがわかる。

「王貞美 字元吉号紫溟室町二条南 吉雄元吉[5]

元吉関係の写本に見られる著者名も同様の状況を反映している。大槻如電は『新撰日本洋学編年史』で写本「鴃舌医言」の自序の一部を引用している。

「中国優於侏離、而医之事実、侏離却在中国之上、余疑之、問蘭人論部児[6]

この「論部児」は1783〜1785年及び1786〜1787年の計3年間出島商館長を務めたロムベルヒ(Hendrik Casper Romberg)と思われる。また、同じ資料で元吉の門人山田恭がオランダ人医師との交流に言及している。

「紫溟先生、自幼学医於蘭医烈帰父、既而能明其道、通其術、来居于京師、治洛民、沈痾痼疾、無一不治、是故請治者、常満門、如先生可謂当世巨擘也[7]

それによれば元吉は少壮の頃、出島商館医「烈帰父」に医学を学び、その分野に精通するようになったのち京都に移住し、医家を立てていたようである。『日本洋学編年史』という大槻如電の増訂版を編集した佐藤榮七は、「烈帰父」を商館医レツケであると見ている[8]。しかし、ヘルマヌス・レツケ(Hermanus Letzke)は1798年7月から1803年7月まで出島で勤務していた。その他の写本が裏付けるように、それは元吉がすでに京都で活躍していた時期にあたり、幼い頃におけるレツケとの交流はあり得ない。しかし、「烈帰父」を思わせる18世紀後半の蘭館医名は見当たらないので、現時点でこの件を解決するのは不可能である。

勿論、元吉は蘭館医「烈帰父」と交流する以前にオランダ語や医学の基礎教育を受けたはずである。門下人高谷鹿介と岡崎文明が元吉の口授に基づいてまとめた「蘭訳筌蹄」には、「吾師西先生」及び「西勃海先生訳文法則」という、彼の恩師を指す記述がある。その人物については、下記でさらに検討する。難病や持病の治療も成功させる元吉の腕前は群を抜いていたようだが、当時の京都で活躍していた著名な蘭方医と彼との関係には言及されていない。

すでに大槻如電は長崎通詞吉雄家との関係の追究を試みているが、元吉の家系については確認できなかった。文化4年(1807)に写された「蓼莪堂外科伝書」には、長崎大村地方の「式見浦」での3歳児の火傷の症例が見られ、出島商館医の上記の教授もあるので、元吉は九州出身と推測できる。

「肥前 四季見浦ノ人三歳ノ児誤テ炉中倒レ半身ヲ火傷ス膏ヲ貼シテ後愈テ其手著肩而ハナレス歴年シテ治ヲ請フ予断開シテ著所テレメンテイナヲ合セフラントウヱイン[9]ヒタシ木綿ヲ以テ貼シテ愈其 断開ノトキ出血多カラサリシナリ」

学塾の名称「蓼莪堂」(りくがどう)を示す最も古い資料は、すでに述べた「蘭訳筌蹄」である。門人が記録した師の教授の中で1740年に刊行された蘭書に関して、こう説明している。

「千七百四十年 [...] 按スルニ此年数是歳寛政年ヨリ六十一年前ニ当ル」

元吉が京都へ移住した時期に、学舎や塾が相次いで設立された。その中で、蓼莪堂は小石元俊(享和元年頃開塾)と稲村三伯(文化3年開塾)の前に位置づけられる早いものである。しかし、その知名度が低かったためか、文化10年(1813)刊『平安人物志』は、塾名も元吉の名も収録していない。もう一つの文書「蓼莪堂外科伝書」は文化13年に写されたが、その成立年はそれより早かったと思われる。文政5年(1822)の『平安人物志』には吉雄元吉は医家部門に掲載してあるので、彼は少なくとも23年にわたり京都で医業に従事していたことになる。

『詩経』に由来する「蓼莪」は、遠い故郷に残した両親に親孝行できない哀しみを表している[10]。中国名王貞美を好む元吉が漢学に高い関心を寄せたことは、『孟子』に見られる句「南蛮鴃舌之人」を参考に題名を付された写本「鴃舌医言」からも窺える[11]。紅夷の書物を解読していたとはいえ、オランダ語は漢語ほど洗練されていないのは一目瞭然である。また、台湾大学図書館が所蔵している『磨光韻鏡後篇』(浪速書林積玉圃梓、安永7年(1778)跋)に見られる朱文角の「蓼莪堂印」は、漢学に対する関心を裏付けている[12]

元吉とその他の蘭学者との交流に光を当てる資料は極めて乏しいようである。当時の京都で活躍する先駆者たちと親しく付き合っていたとすれば、覚え書きや書簡などが残っているはずであるが、究理堂などの資料目録にはそのようなものはいっさい含まれていない。享和元年(1801)に完成したケンペル著・志筑忠雄訳の「鎖国論」は、その後写本として知識人の間で広まり京都にも届いた。大島明秀は、忠雄の弟子・末次忠助(独笑子)に遡る写本の興味深い転写経緯を報告している。九州大学の桑木文庫収蔵のこの「鎖国論」の奥書に「文政三年歳庚辰春三月写 / 奇陽末次独笑子蔵本 / 王氏家蔵」などの長い説明がある。それによれば、文政3年の後、元吉と思われる王氏の所蔵写本あるいはその写しが京都寺町の「鳩居堂」に伝わり、文政13年(1830)に、奥書者中川處黙に写された[13]

元吉が蘭学の巨匠杉田玄白と接触したことは確かである。玄白は『鷧斉日録』において、寛政2年3月11日付で江戸の来福寺での花見に言及している。

「聞下紫溟先生遊来福寺上レ花賦贈。寺有一種桜、天色黄白云。香台柢樹映烟霞 乗興回過長者車多少黄金春自満 布衣持贈一枝花」

玄白は紫溟(元吉)を「先生」と呼んでいるので、二人は対等に交流していたと思われる。1943年12月の『日本医事新報』の記事で原田謙太郎は、玄白が天明6年(1786)に、藩主に随行して小浜に行った帰路、京都に立寄り元吉と知り合ったと推測しているが、当時、元吉がすでに京都へ移住していたかどうか、関連資料からは読み取れない[14]

元吉に遡る写本及び『新撰洋学年表』に基づき、数名の門下人を確認できる。

高谷鹿介(「蘭訳筌蹄」より)、岡崎文明(「蘭訳筌蹄」より)、杉本直(「蘭訳筌蹄」及び「性僻候篇」より)、江尻成功(「性僻候篇」より)、永谷部彰(「性僻候篇」より)、山田恭(『新撰洋学年表』より)

残念ながらこれらの門人の活動についてはまだ何もわかっていない。

元吉の医療法が門下生の枠を超えて伝わっていたことを示す唯一の事例は、蘭学者ではなく、明治漢方最後の巨頭とされている淺田宗伯(1815-1894)の『先哲医話』(1880年刊)にある。

「脹満一証水気下○。有気結。水気者属実。故易治。気結者多虚。故難治。
吉雄元吉曰。患脹満而死者。荼毗之。腸中一塊嶷然存。視之堅硬如石。西洋人曰。腹脹病。動脉大菅生如肉瘤。四肢血脉為之妨害。漸至手足削小。或然。」[15]

 

 

3 元吉の教え

元吉に遡る最初の書物は、『新撰洋学年表』が紹介している「鴃舌医言」であるが、大槻如電が調べた写本の行方は不明である。同様に、合冊「性僻候篇・大西医断・欠舌医言」の形跡も見当たらない。また、杏雨書屋蔵の「性僻候篇」は、元吉の門下生が筆記したという内容だが、表紙も紙も比較的新しいもので、藤浪所蔵印及び氏の独特の筆記体を示しているので、この写本は医史学の先駆者藤波剛一(1880-1942)が、のちに行方不明となった底本に基づいて作成したものと判明した。

1804年 「欠舌医言」文化元年四月(『新撰洋学年表』による。未確認[16] )。
「鴃舌医言」【げきぜついげん】 文化元年成立、1冊(「国書基本データベース」による。未確認)。
1799年 (1805 年) 「蘭訳筌蹄」京師蓼莪吉雄口授(寛政庚申年)、門人高谷鹿介・岡崎文明誌。文化2年写、1冊、27丁(国際日本文化研究センター、宗田文庫収蔵)。
奥書: 「文化二乙丑載四月於蓼莪堂書之杉本直子候」。扉に「以孜々翻訳故留干塾中以為代舌之一具云爾」、「王貞美( 吉雄紫溟)蔵書」の記載あり。後付「西勃海先生訳文法則」。
1816年 「蓼莪堂外科伝書」写本、乾坤2冊、和大。乾巻、34丁。坤巻、19丁。
乾の巻末に、「文政十三年二月十三日(1816) 写始、三月廿六日写畢」とあり。坤の巻末に、「文政十三年三月九日写始、同廿二日写畢」とあり。
坤巻の本文の最後に、「右文化四丁卯年二月上旬下県邑木内氏 俊斉 従平安吉雄玄吉氏伝授之書得之而 / 写者也 / 蓼嶽 伊藤監 写」とあり。また、「伊藤監」の横に「字曰成憲」と「号 称蓼嶽俗名大助呼三一�� 」とあり(京都大学附属図書館、富士川文庫収蔵)。
成立年不明 「蓼莪堂方筌」乾坤1冊、16丁。「謙」の朱印あり。
(大阪市史編纂所、中野操文庫収蔵)。
同上 「蘭方油薬之書」吉雄貞美訳、1冊、16丁(国際日本文化研究センター、宗田文庫収蔵)。
同上 「蘭方油薬之書」吉雄貞美訳、1冊、16丁(大阪市史編纂所、中野操文庫収蔵)。
同上 「遠西奇水抜萃」(外題)「西洋医方抜粋」(内題)王貞美訳定、1冊、19丁(筆者蔵)。
同上 「性僻候篇」吉雄紫溟口授、門人永谷部彰、杉本直、江尻成功筆記、1冊、12丁。藤浪所蔵印あり(杏雨書屋蔵)。
同上 「性僻候篇・大西医断・欠舌医言」吉雄紫溟口授、村長康写、1冊、所在不明の合冊。

上記の閲覧可能な資料の内容には、オランダ語、医術及び医薬品という三つの重点が見出せる。

 

 

3.1 オランダ語学習

元吉の口授に基づいて編集された「蘭訳筌蹄」は、イタリックのローマ字、オランダ語のABC、2つの文字から成る合字(オランダ語、ligatuur)、ABCによる50音表、ローマ字表記の日本語の文章例、ローマ数字、アラビア数字、一連の単語、短い例文、それらに関する詳細な解説や読み方等々を記した体系的な入門書であり印象的な資料である(図1)。書名の筌蹄は目的が達成されると不要になる道具・手段という意味合いをもっており、「荘子」外物によるものである。


二丁

三丁

四丁

十七丁

二十丁

二十一丁
図1 吉雄元吉「蘭訳筌蹄」に見られるABCや例文

 

さらに、オランダ語の文章例の中には、2つの書名が含まれている。その1つはズボレで書店を経営していたバーレンド・ハックフォールト(Barend Hakvoord, ? - 1735)が著した『レッテル・コンスト』のタイトルである。

Opregt Onderwys in de letter Konst. // Zeer bekaam om alle bersoonen [= persoonen ] in korten tyd op d gemakelÿkste wijse te leeren speren [= spellen] leesen en schakerzn [= schrijven] // ten Dienst van alle gemeyne Schoolen en Scholemeesteren beknoptelyk te zamengesteld door B hakvort

原書の初版は1735年以前に刊行されたはずだが、確認できる版は1740年版をはじめとして、ハックフォールト死後の一連の増補改訂版のみである[17]。元吉が写した書名は「Hakvoort」、「zeer bekwaam」、「op de gemakkelijkste wyze」、「leezen en schryven」という上記のMaastricht版にしか見られない特徴を示している。残念ながらこの版のみの発行年は明らかではない。

Opregt onderwys in de letter-konst, zeer bekwaam om alle persoonen in korten tyd op de gemakkelijkste wyze te leeren spellen, leezen en schryven : ten dienste van alle gemeene schoolen en schoolmeesteren [...] by B. Hakvoort. Dezen druk ruim een derde party vermeerderd. Te Maastricht, by d'erven H. Landtmeter.

18世紀中頃から日本に上陸したとされているハックフォールトの教科書は、出島の阿蘭陀通詞が日常会話を通じて身につけたオランダ語知識をより体系的なのものに仕上げ、彼らの読み書き能力の向上に大いに貢献した。通詞たちと交流していた長崎遊学者たちが、この本を抄写したり、関連の説明を記録したりしていたことは容易に想像できる。尾張初の蘭方医野村立栄自筆蘭文抄写本「Beschrijving van Letterkonst No 2」はその事例の一つである[18]。蘭学を志す人々にとって、『レッテルコンスト』は、洋書を自力で解読するための絶好の教材だった。和文解説を付ければ、その利用価値はさらに高まり、オランダ語の初心者でさえ、蘭書を多少検討できるようになる。

吉雄元吉の「蘭訳筌蹄」が示すもう一つの書名にはいくつかのつづりの誤りが見受けられるが、著者名も書名も明白である(■は解釈不可能な文字)。

De vernieuwe cyfferinge van mr willem bartiens / Waer uyt men alle de grond regulen van t reken konst leren kan / Herstelt[,] vermerdert en verbeetert door m[r] Jan van Dam / Dese l■uteste d■ut [= laatsten druk] nee steg worsien [= neerstigh overgesien] en van hovten [= fauten] gezuyvert etc Amsterdam [b]y Jsaak van der butter [= Isaak van der Putte] boek verkoper 1740.

この本は1604年に初版が刊行された教科書『De Cyfferinghe』(算術)で、1839年の最終版が出るまで版を数多く重ねていた[19]。著者ヴィレム・バルチェンス(Willem Bartjens, 1569-1639)の名は、慣用句「volgens Bartjens」(「正確に計算すると」、「論理的に考えると」)として今日に伝わるほど広まった。1636年版から、書名は「De Vernieuwde Cyfferinge」(新定算術)となり、17世紀末頃以降の版には、ファン・ダム(Jan van Dam)が増補改訂の責任者として登場している。

吉雄元吉が門下人に説明した書名は、1740年という発行年まで記録してあるが、ヨーロッパのバルチェンス研究では、この版は一度も報告されていない。1693年のアムステルダム版の書名は一致しているが、印刷所は異なっている[20]Isaak van der Putteが印刷したその他の書籍の発行年について調べると、彼が1720年代から60年頃にかけて様々な書物や地図を刊行したことがわかり、1740年という出版年には間違いなさそうである。

元吉の「蘭訳筌蹄」とその他の蘭語学資料との関係はどうであろうか。蘭語学の草分け青木昆陽の「和蘭話訳」と「和蘭文訳」及び前野良沢の「和蘭文訳」との関連性は認められないが、中津藩の奇才前野良沢の「和蘭訳筌」(天明5年自序)の書名のほか、内容の主な項目、収録してある例文とその漢文訓読法など数多くの類似点を示している(表1)[21]

 

前野良沢「和蘭訳筌」 (1785年序)[22]
吉雄元吉「蘭訳筌蹄」 (1799年口授)
「字体・字音」「ロメインス アベセ」、 [...] 「 イタリアアンス アベセ」、「ネデルドイツェ アベセ [...] 又、ドルクレッテレントモ云 」[23] 「ロメインスアベセレツッテル」、「ネーデルドイツセ アベセレツテル」
「合書体」 「二文字ヲ合スル者」」
「テレッキレッテレン」[24] 、「同連字体」 「テレッキレッテルト云亦シケレィフテツテルトモ云」[25]
[五十音字] [五十音字]
Ya ma to woe ta / Na ni wa z A sa ka ja ma / no Foe ta woe ta」、「Naniwazoeni Sackja Kono Fana foeju / Gomoli imawa Falbet Sakoeja Kono Fana」、「Asakajama Kagaseje mijul Jamano Jno asakoe wa Fitowo Omoo Mono kana[26] Maniwazoenisacjako / nofana foevgomoli jm / awo halbet Sakoeja kono hana」、「dagamyamahilonosi / gacalasahimietenla ga
min owoewe wa ca eeelimi a / hoemi
「セイッヘル[27] 即数計字アリ」 「セイツへル 即数計字」
「言類 Hemel, Loopen, Zon, Maan, Dag, Nagt, [...] eeren, studeeren, [...] Schat, [...] Klapper 」 [計158語] Opregt Onderwÿs in de Letter Konst」、「レッテルコンストノ題言 上」、「レッテルコンストノ題言 中」、「レッテルコンストノ題言 下」
De vier Hoofd Stoffen Vuur, Water, Lucht, Aarde. De vier Getyden des Jaars Lente Zomer, Herfst, Winter [...] Slagmaand, Wintermaand De vernieuwe Cyfferinge van mr. willem barsiens」、「セイッヘリンゲ題言」、「セイッヘリンゲ 題言中之一」、[同中之二及び下は題目なし]
「言類  Yk wensch u goeden dag myn heer [...] Hÿ oeffend zig ste rk in de taalkunde」[ 計25句] hemel  (天) loopen (運) zon (日) maan (月) Dag (昼) nagt ( 夜) [...] Schat (宝) [...] eeren (敬) studeeren (学)」[計61語]
「 短文二編 Opregt Onderwys in de Letter Konst」、「De vernieuwe Cyfferinge van Mr. Willem Bartjens」[解説なし] De (発語) vier  (四) getyden (時) des (助語) jaars 年即歳四時也 [...] De vier hoofd Stolden (大元行) water (水) lucht (空即気) vuur (火) aard (地) 即四大元行 」
「訳字体・音韻」

「イ  Ik (吾) wensch (既欲) u (你) goeden (佳好) dag (昼) mÿn (吾) heer (君) [...] Hy (他) oeffend (精審用ル) zig (助語) sterk (強) in (助語) de taalkunde (方言学). beeter (好) nooit (無遂) te (助辞) begingen (始) als (於 四) niet (無 三) te (助) vol (克 二) ÿnden (終 一)
een (一) on (不) sterfelÿken (朽) naam (名) on (不) sterfelÿken (朽) roem (誉) verkrÿgen (求) 」[片仮名表記の発音及び和訳付き、計27句]

「セイッヘルヲ用ルノ法」 「附録 西勃海先生訳文法例」
「ロメインス セイッヘル」 「訳文法例」
「訳言類 [...] ヘメル 天 ロオペン 運 ゾン 日[...] クラッペル 椰子」 「言語呼方法則」
「デ発語辞 ヒィル四 ホオフトストッヘン大元行 [...] デ ヒィル ゲティデン 時デス 助辞 ヤァル 歳 ス [...] 助辞 即‖歳牌四時ナリ」 [...] 「読声国字ヲ用ル之倒」
「訳語類 イキウ 吾 ェンス 既欲 ユ你 グウデン佳好 ダク昼 メイン吾 ヘエル 君  [...] ヘイ 他 ウゥッヘンド 精審・用心 シク 助語 ステルク 強 インデ 助語 タァルキュンデ 方言学」 「訳字体音韻」
「附録 訳文家法」
「蘭化亭訳文式」  
「レッテルコンストノ題言 上」、「レッテルコンストノ題言 中」、「レッテルコンストノ題言 下」
「セイッヘリンケノ題言上」、「同中之一」、「同中之二」、「同下」  
表1 「和蘭訳筌」と「蘭訳筌蹄」の主な項目

それにしても、「蘭訳筌蹄」は「和蘭訳筌」のただの写しではない。元吉は、「和蘭訳筌」の附録の一部を本文へ回したり、例文を多少増やしたりしながら、ところどころ訳語を変えたのである。また、問題になったセイッヘリンゲの発行年について、良沢は「和蘭訳筌」を仕上げた天明5年(1785)との関係を説明している。

「千七百四十年 [...] 按スルニ、此年数、今年天明乙巳ヨリ四十六年前ニ当ルナリ」(前野良沢「和蘭訳筌」より)

この説明を改めた元吉は、ここで京都での教授の年(1799)を示してくれている。

「千七百四十年 [...] 按スル此年数是歳寛政庚申年ヨリ六十一年前に当ル」(吉雄元吉「蘭訳筌蹄」より)

「和蘭訳筌」の成立後、早くもその写しを入手した元吉は前野良沢と接触したことがあったであろうか。「和蘭訳筌」には、その可能性を示唆する記述がある。良沢が自分のことを語る以下の記述がある。

「凡ソ多位ノ数ヲ呼ブ者、甚交差シテ分弁シ昜カラズ。予、嘗テ筆算筆解ヲ草ス。具ニ呼法ヲ載ス。今此ニ略ス。」(前野良沢「和蘭訳筌」より)

「蘭訳筌蹄」はこの文章を省略していないが、手を加える必要があった。

「凡ソ多位ノ数ヲ呼ブ者、甚交差シテ分弁シ昜カラズ。吾師西先生ノ筆算啓蒙ト云書ヲ草セラシンニ具ニ呼法ヲ載セラレタレバ今是ヲ略ス。」(吉雄元吉「蘭訳筌蹄」より)

蓼莪堂の「蘭訳筌蹄」に見られる「西先生」は同資料の附録に再び現れている。良沢の文書に「訳文家法」及び「蘭化亭訳文式」となっている題目は元吉の「蘭訳筌蹄」では「西勃海先生訳文法例」及び「訳文法例」に変更された。前野良沢が「和蘭訳筌」を執筆したことには、数々の先行研究のお陰で反論の余地がないし、後世に影響を与えた彼の漢文訓読法も有名である。従って「蘭訳筌蹄」に見られる西勃海は「元吉の師は前野良沢である」という結論になるが、元吉あるいは元吉の門弟が選んだ「西勃海」という名称も元吉と良沢の師弟関係もこれまで一度も報告されていないので、この件はさらなる検証を必要としている。

いずれにせよオランダ語に関しては、吉雄元吉は当時の一流資料を入手しており、それを1799年頃京都の蓼莪堂で教材として使用していたことは確かである。

 

 

3.2 医療

宝暦4年 (1754)山脇東洋の監視下で行われた画期的な腑分け以来、解剖学に対する関心が高まりつつあった。元吉が蓼莪堂を開設してまもなく、稲村三伯(海上随鴎(うながみずいおう))、藤林普山、小森玄良、小森桃塢による解剖が相次いで行われ、稲村三伯が文化5年に描いた「解剖場図」が示すように多くの見学者が集まった[28]。しかし、元吉はこれらの活動に参加していなかったようである。彼に遡る資料には、外科的処置及び、人体関係のオランダ語と日本語の用語が豊富に含まれているが、解剖学には目を向けていなかったようである。

文化元年(1804)に成立したとされている「鴃舌医言」だけは診察法を描いているようだが、大槻如電が明治10年(1877)に内容を以下の通りに列記してから、この写本の行方が不明になった。華夷弁の思想を感じさせる「鴃舌」は、蘭方を志す医師として、風変わりな書名である。

「缺舌医言 京都医人吉雄元吉撰
採脈、観望、審問、聞声、苟筌、治術、薬性、軽重、定症、運動、大過、不及、往来、瀉血、潜」

冒頭の項目と漢方の診察法(望・聞・問・切)との類似性は一目瞭然であるが、その後の章題は、蘭方系の文書にも見られるし、また、瀉血は西洋医術に違いない。同書の自序からは、中国及び西洋医学に関する元吉の考えを窺うことができる。

「中国優於侏離[29]、而医之事実、侏離却在中国之上、余疑之、問蘭人論部児[30]、彼応応曰、和蘭交易致冨、日月所照、無地不到、無益不收、由是推之、如医術、昔伝自中国、中国却失其伝、論説紛然、至不可究之者乎、不然、中国賢哲多、豈有劣鴃舌之理哉、意者、是由伝其旧軌、輿不伝其古轍而已、今余所以従缺舌者、取之其不失旧軌、而有功事実也云爾[31]

元吉の心境が色濃く伝わっている。中国は優れた文明国だったが、ロムベルヒが讃えるオランダが交易により得た富と遠方まで及ぶ力は無視できない。医学においても中国はかつて日本へ伝えた優れたものを失い、学説は紛乱状態に落ちてしまった。その賢知と哲学の衰えを悲しむ元吉は、オランダの智恵を借りながら、以前の過ちを繰り返さずに古い道に戻ることを目指しているようだ。それは現代人にとって多少逆説的な復古主義に見えるが、「発展」や「進歩」のない概念体系では、妥当な選択肢だった。残念ながら「鴃舌医言」の自序全体の姿は伝わっていない。

「性僻候篇(せいへきこうへん)」の題言は「缺舌医言」と同様に洋学よりも漢学を連想させている。写本の存在を初めて認識したのは、宗田一だったが、その内容にはいっさい触れていない[32]。元吉はこの文書だけで、西洋病理学への接近を試みている。紅毛流外科が誕生した17世紀中頃以来、医師や学者らのほとんどはこの困難を極める分野を避けていた。元吉は「酸味液篇」、「荷烈液篇」、「謄汁液篇」、「粘稠液篇」、「血急液篇」及び「壊血篇」という章題の下で、近世系の体液病理学(humoral pathology)を論じている。黒胆汁液(melancholia)、黄胆汁液(cholera)、血液(sanguis)、粘液(phlegma)という古来の四体液はここで「胆汁液」、「血液」及び「粘稠液」(「zeymig vocht[33])として再確認できる。これらの体液に、イアトロ化学の概念として酸性とアルカリ性が加わっている。

「酸味液篇 夫酸味液ハ西洋ニ謂之 zuuren der vogt (シユイユレンデルホグトト云) 其酸味アル液ナリ其病ヲ成ス事」
「荷烈液篇 西洋是ヲ呼テ謂 rook zoud (ロークソウド)[= loogzout]ト云羅甸コレヲ arcalinius (アリカリニユス)[= alcalinius]ト云是也」
「粘稠液篇 和蘭ニzeymig vochtト称スルモノハ身中ノ液粘稠ニ化シテ流散シ キ物ヲ云即中華ニ所謂ル痰飲ナルモノ之也」

ライデン大学教授シルビウス(Franciscus Sylvius, 1614-1672)が病理学に持ち込んだこの「辛味論」は、その後とりわけオランダの名医ブールハ−フェ(Herman Boerhave, 1668-1738)によりさらに発展した。「血急液篇」及び「壊血篇」に見られる血液とその循環に対するこだわりもブールハ−フェ流医学の特徴の一つであるので、「性僻候篇」はその系統の医書あるいは蘭館医の説明に基づいていると思われる。

 

外科治療

元吉の医学は、上記の病理学のみならず外科学、薬学、内科学と多岐にわたっている。「蓼莪堂外科伝書」乾巻の項目が示すように、外科学は何よりも瘍学である。

脳疽、疔瘡、脱疽、瘰癧、鬢疽、咽喉並纒喉風、時毒、癭瘤、肺癰、流注毒、乳癰並乳巖治、附骨疽、腸癰、痔漏脱肛、下疳便毒、嚢癰、懸癰、臀癰、小腹癰、腋癰、梅瘡結毒、多骨疽、鶴滕風、婦人隂瘡、傷寒発頥即蝦蟆瘟、瘭疽附リ天蛇毒俗称指瘭疽、鶴口疽、柘榴疽、穿踝疽、翻花瘡、鼻痔、骨槽風、白紫癜風、口歯病、破傷風、趺撲、湯火焼、杖瘡、甲疽、繭唇、痞癖、血箭血痣、鷲掌風、腎嚢風、疥癬、臁瘡

病名自体は『外科宗伝』など中国系外科書から取ったものである。西洋の腫瘍名を漢方の腫瘍名に書き換える方法はすでに明暦2年蘭館医の説明をまとめた儒医向井玄升が用いている。身体の表面に出る病状は観察しやすいので、蘭方医療における漢方系の腫瘍名の多くはすでに17世紀から定着していた。治療方法及び用いられた医薬品の説明は次第に詳細になっていく。カタカナ表記のままで伝習されるものもあり、当て字に書き換えることや内容の漢訳の場合も少なくない。元吉の説明には西洋医学を色濃く伝えるラテン語やオランダ語の薬品名及び道具名が見られる。

薬品名:舎利別(siroop[34]、「ワークワメリキユリス」(Aqua Mercurialis)、「ワークワフランタキユス」(Aqua Plantagius)、「シンフレイキス」(simplex)、「サルヘイテルラハルホル」(Salpeter)、「ヘイトミツテル」(heetmiddel)、「メリロサーリン」(Mel rosarum)、「レイム」(lijm)、「アルイメン」(aluymen)、「テリアヽカ」(Theriaca)、「クロシイ サフランノヲソヽクシヨン」(Croci, Safran Oxycroceum)、「テヤハルマ」(Diapalma)、「カンフルフランドウェン」(Camphorbrandwijn)、「ハシリキユム」(Basilicum)、「ワークワカルシス」(Aqua Calcis)、「アネテイ」(Anethi)、「セリウザトウノツチヲトギ事ナリ」(Cerussa)、「ワークワロサアリユム」(Aqua Rosarum)、「ワークワトロメンテラ 薄荷ノ水ナリ」(Aqua Menthae)、「サルアルモニヤ」(Sal Ammoniacis)、「ワークワヒツテルヲリユム」(Aqua Vitrioli)、「ヘイトロカナノフル」(Petra Cananor[35])、フリンヒムユステム(Plumbum ustum)、ホウトル(water)、「カンフル、ヒツテル樟脳、胆礬」(Kampfer, Vitriool)、「ワークワキユルセン 牛房水ナリ」(?)、「マンコツフ、阿片ナリ」(mankop)、など
医家器械:「ナアルト」(naald、針)、「カウルツヒ」(?)、「フラントヘイセル」(brandeysen、焼金)、「シカール或セイリン」(schaar, schering、鋏)、「玉抜」、タンケ(tang)、「スポイト」(spuit)、「メイチャ」(mecha[36])、トロンヘツストル(?)、「毛引」、「第一刀」、「煉り器」、「ランセツタ」(lancetta)など

彼が商館医から教示を受けたことは、いたるところに窺える。「蓼莪堂外科伝書」の巻末にある「金瘡篇」は、古来の粗末な金瘡書と違って、手術開始前の準備を強調している。

「治ヲ施ニ臨ンテ薬品道具ヲ備フヘキモノハタンケコテナリ ナアルト三積針ナリ 四五ツスホイト スベシリシサクリナリ ソントロツフ 木綿 ホツシ シンナシ葉 シカアルハサミナリ サフラン テリアアカ」

これらの道具を用意してから、その使い方に合わせてさらに準備を整えなければならない。「兎唇(みつくち)の術」は同様に説明されているが、その後の「切腹治術」や「頭中の疵並諸疵治術」(突疵、槍疵、矢疵、鉄砲疵)及び「打撲折傷」は簡単にしか紹介されていない。

「蓼莪堂外科伝書」坤巻は一連の漢方系「丸散方」、煎薬や湯薬を紹介した上で、「蘭科水薬方」として25種の薬方を列挙している

「カンフルフラントウウェイン」(Camphorbrandwijn)、「テンクツテルテリアヽカ」(Tinctura Theriaca)、「テンクツテルメラ」(Tinctura Myhrrae)、「テンクツテルシツクシム」(Tinctura Succinum = Tinctura Succini)、「テンクツテルアツヘレシ」(Tinctura )、「テンクツテルコロシイ」(Tinctura Croci)、「テンクツテルアルゲイメス」(Tinctura ?)、「フリンヒムユスチム」(Plumbum ustum)、「ワアクワフランタキユス」(Aqua Plantagis)、「ワヽクワマアチス」(Aqua Martiis)、「ワアクワロサアリユン」(Aqua Rosarum)、「ワアクワメリクリユス」(Aqua Mercurialis)、「ワアクワカルシス」(Aqua Calcis)、「ワアクワカネイル」(Aqua Kaneel = Aqua Cinamomi)、「メリロサアリユム」(Mel Rosarum)、「テンクツテルアロス」(Tinctura Aloes)、「ワアクワアルミネス」(Aqua Aluminis)、「ワアクワアルメシユスチン」(Aqua aromaticum ?)、「ワアクワスヒリチス」(Aqua Spiritus)、「ワヽクワクワセリウザ」(Aqua Cerrusae)、「ワアクワヒツテルヨリン」(Aqua Vitrioli)、「ウイツテヘイン」(witte wijn)、「ホウレスアルメナ」(Bolus Armenis)、「ワアクワシルヒル」(Aqua Sylvii ?[37])、「ヘルフス」(?

「蓼莪堂外科伝書」坤巻の後半は、「眼目火傷」、「歯ヲヌクノ方」、「淋疾」、「収脱肛法」、「脱痔方」、「痒痔」、「孔辺ノ腫」、「小兒肛門不開ノ治方」、「貫線之術」、「面部ニ紫黒色ノ肉高起スルモノヤ鼻痔」など、一連の外科的問題の対応を説明している。「金瘡ノ疵口ノ伝」には7つのスケッチが含まれている(図2)。

 


図2 「蓼莪堂外科伝書」の「金瘡ノ疵口の伝」

図3 「蓼莪堂外科伝書」に見られる兎唇(みつくち)の手術

図4 「蓼莪堂方筌」に見られる灸法

 

 

医薬品

西洋医薬品に関する研究は1650年代まで遡っている。出島商館医が紹介した薬の病理学的背景はわからなくてもその効能は確認しやすいので、医薬品は最初から重要視されていた。吉雄元吉の時代になると、多くの膏薬と軟薬はすでに一世紀半にわたり利用されたが、ヨーロッパの医薬学の発達によりその調合と処方は変化してきていた。また、当初の写本のほとんどは蘭館医たちの説明を単にまとめたものであったが、18世紀中にはヨーロッパの本草書、薬局方や薬学書を反映する和文資料が出回り始めた。

元吉著「蓼莪堂方筌」の乾巻に見られる「蘭方油ノ書」、「蘭科膏薬方」及び「蘭科水薬方」という章立ては洋書の分類を伝えている。膏薬の部では膏薬と軟膏(Emplastra Unguenta)が一緒になっており、水薬は狭義の水薬とチンキ(TincturaeAquae)を区別していないようだ。この乾巻で、元吉は解毒湯、助運湯、補骨飲など、63種の処方及び「蓼莪堂製薬筌 紫溟王貞美撰」の題目の下で42種の調剤薬効などを列記している。前者の処方の大半は漢方系のものであり、後者の調剤薬効のほとんどは蘭方のものとなっている。

「清水液」、「舎利別 セイッロウプ」(= siroop)、「清喉液」、「霊丹ソツヒルマート」(= Sublimat)、「硇砂粉 サルアルモニヤシ」、「揮発塩即阿蘭陀気付」、「更衣丸、「金玉散」、「黄■(ムシ)散」、「乳痛散」、「停痛丸」、「桃花散」、「螻蛄散」、「雄黄丸」、「定胆丸」、「松脂散」、「呼毒法」、「又方ホレダネール」、「抵当液」、「鹿頭丸」、「鳴金丸」、「元亀丸」、「回湯煉」、「不換玉」、「寄良餅」、「黄霊散」、「停帯散」、「的里亜加 [= Theriaca]」、「作麝香法」、「製阿(ア)爾(ル)母(モ)爾(ニ)爺(や)塩」(= Sal Ammoniacis)、「探身丸 非蘭方」、「虎肉湯」、「巴椒散」、「寛筋丸」、「灸法」、「視瞳子治療法」、「白龍散」、「化虎錠」、「亜(ア)可(カ)里(リ)歌(ユ)」(= Alkali)、「泊夫藍」(= Safran)、「揮渇液」、「桃擯散」

「製阿(ア)爾(ル)母(モ)爾(ニ)爺(や)塩」の節の最後には、それを用い癲癇の痙攣を止めたという記述が見られ、そこから元吉の豊富な治療経験が窺い知れる。

「癲癇之治療 王貞美云予家也伝之以救之者以百数焉」

また、湯薬、水薬、丸薬などと並べて紹介されている「灸法」及び「視瞳子治療法」は、元吉の独自の研究成果であろう(図4)。

「蓼莪堂方筌」坤巻は、14種の油薬方、17種の膏薬方、18種の水薬方及び蒸溜などによる薬油の製造法(「取油法」)と効能を収録している。薬品名は以下の通りである(ラテン語名は筆写による同定)。

「蘭方油之書」:「ヲリユ■(ムシ)ムカナニン」(Oleum Mucaginum)、「ヲリユムリコンブリコリヌム」(Oleum Lumbricorum)、「ヲリユムヲリバアニム」(Oleum Olibanum)、「ヲリユムメレヘイデス」(= Oleum Millepedes)、「ヲリユムラウリン」(Oleum Laurini)、「ヲリユムカモメルラ」(Oleum Chamomillae)、「ヲリユムエツヘレシ」(Oleum Hyperici)、「ヲリユムリウタ」(Oleum Rutae)、「ヲリユムロラアニム」(Oleum Solanum)、「ハルサムヘルネラリム」(Balsamus Peruviuanus)、「バルサモヒイタ」(Balsamus Veneta[38])、「ハルサムユツハイニム」(Balsamus Capivi, vel Copayba)、「ヲリユムコロシイ」(Oleum Croci)、「ヲリユムテルラ」(Oleum Terrae
「蘭科膏薬方」:「テヤハルマ」([Emplastrum] Diapalmae)、「デヤツキヘイリム」([Emplastrum] Diachylon)、「デヤホンホリコス」([Emplastrum] Diapompholigos)、「キミニ」([Emplastrum] Cumini)、「ムスラキニム」([Emplastrum] Mucilaginibus)、「ヲシコロシム」([Emplastrum] Oxycroceum)、「タラアナリム」([Emplastrum] de Ranarum)、「ラニユスリユンブリ」(?)、「ザホウニユス」(?)、「デヘンシユム」([Emplastrum] Defensivum)、「バシリキム」([Emplastrum] Basilicum)、「ミイニイ」([Emplastrum de] Minio)、「ステラキムハラセルシ」([Emplastrum] Stipticum Paracelsi)、「テレイギル」([Emplastrum de] Litargyrum)、「ベトウニカ」([Emplastrum de] Betonica)、「メリクリヤアルサルヘ」(Mercurialzalf[39])、「レイム」(?)、「テヤホンホリコス」(Diapompholigos
「蘭科水薬方」:「カンフルブラントウエイン」(Camphorbrandwijn)、「テンクツテルテリアアカ」(Tinctura Theriacae)、「テンクテルメテ」(Tinctura Myrrhae)、「テンクテルシツクシム」(Tinctura ?[40])、「テンクテルエツヘンシ」(Tinctura Hyperici)、「テンクテルアロエス」(Tinctura Aloes)、「テンクテルコロシイ」(Tinctura Croci)、「テンクテルアルゲイメス」(Tinctura ?[41])、「フリンヒムコスチム」(Plumbum Aceticum)、「ワアクワアルミネス」(Aqua Aluminis)、「ワアクワアルメンユスチユン」(Aqua Alumen ustum[42])、「ワアクワセリウザ」(Aqua Cerrusae)、「ワアクワメリクリス」(Aqua Mericurialis[43])、「ワアクワニツテリヨリム」(Aqua Vitriolium)、「ワアクワブランタゲイス」(Aqua plantaginis)、「ウイツテヘイン」(witte wijn)、「ホウレスアルメナ」(Bolus Armeni)、「ロザアロン」(Mel Rosarum)、「ワアクワミルトル」(Aqua ?[44]
「薬油之方」:「テレビンテイナ」、「橘皮油」、「丁子油」、「肉荳蒄油」、「蒔蘿」、「小茴香」、「礒馴松」、「樟脳」

とりわけテレビンチナ油と樟脳油の製造法は「フレス」(fles)、「コルフ」(kolb)、「レトル」(retorte)、「スコーテル」(schottel)、「銅瓶」、「土風呂」、などの器具及び蒸溜技術の知識を必要としている。

これまで報告されていなかった「蘭方油薬之書」として2冊も確認できた。丁数も内容も一致しており、洋書からの翻訳のようである(「京師蓼莪堂吉雄貞美訳」)。写本の前半は19種の油薬の製造方法と治療における利用を簡潔に説明している。

「蘭方油之書」:「ヲリユンエツベリコム」(Oleum Hypericum)、「ヲリユンロザアリユム」(Oleum Rosarum)、「ヲリユンアネテイ」(Oleum Anethi)、「ヲリユンカモメイラ」(Oleum Chamomillae)、「ヲリユンリユンブリ」(Oleum Lumbricorum)、「ヲリユンヲリハアノム」(Oleum Olibanum)、「ヲリユンレリヨウルン」(Oleum Liliorum)、「ヲリユムルウタ」(Oleum Rutae)、「ヲリユンソラアニム」(Oleum Solani)、「ヲリユンゲイル」(Oleum geel = Oleum ovarum[45])、「ヲリユムコウスルフル」(Oleum ?[46])、「ヲリユンテレビンテイナ」(Oleum Terebinthinae)、「ヲリユムクレイベシ」(Oleum ?[47])、「ヲリユンフレイル」(Oleum Sambuci[48])、「ヲリユンカネイル」(Oleum Kaneel = Oleum Cinamomi)、「ヲリユンヒツテリヨウルム」(Oleum Vitriolorum = Oleum Vitrioli)、「ヲリユンテルラ」(Oleum Terrae)、「バルサモヘルネラリム」(Balsamus ?[49])、「バルサモヒイタ」(Balsamus ?[50])、「バルサモコツバイハニム」(Balsamus de Copaiba)、「バルサモコロシイタアト」(Balsamus Croci[51]

ここで登場する「ヲリユンテルラ」に関連して、国産品が紹介されている。

「この土油也以石油代之 越後国村上辺黒川村産也。以其気甚臭俗曰臭(クソ)水 (ウズ)油。」

写本の後半は書名が示す油薬ではなく「蘭方膏薬 蓼莪堂主人訳」として26種の膏薬の製造方法と治療における利用を紹介している。

「蘭方膏薬」:「テヤハルマ」([Emplastrum] Diapalma)、「ヤホムリコス」([Emplastrum] Diapompoligos)、「テヤツキヘイリム」([Emplastrum] Diachylon)、「キミニ」([Emplastrum] Cumini)、「ムスラギニム」([Emplastrum] Mucilaginus)、「メリクリヤアルサルベ」(Mercurialsalbe)、「タラアナリム」([Emplastrum] de Ranarium = de Ranarum)、「ラニユウスリユンブリ」([Emplastrum] Ranius Lumbricorum)、「サボウニユウス」(Saponius?)、「デヘンシユム」([Emplastrum] Defensivum)、「バジリコム」(Basilicum)、「ミイニヨ」([Emplastrum] Minio)、「ステフテキムハラセルシ」([Emplastrum] Stipticum Paracelsi)、「テレイギル」([Emplastrum] de Litargyrum)、「ベトウニカ」([Emplastrum de] Betonica)、「レイム」(lijm)、「デヤホムホリゴス」([Unguentum] Diapompoligos)、「シンブレイギス」([Unguentum] Simplex)、「ヲヽリヨウ」([Unguentum] Aurii)、「アボウストロム」([Unguentum] Apostolorum)、「カンブルホルネルス」(Camphur Borneus)、「コロウチ」(Croci)、「ヒクルマ」(?)、「ミニイヨ」(Minio)、「メリホウテ」([Unguentum] Melilothi)、「カルタング」(?

この文書は大変充実した内容である。「蓼莪堂方筌」の薬品と一致している項目名が多く確認できるが、調合に必要な生薬などもほぼ完全に翻訳されている。

薬品に関する吉雄元吉の意欲的研究を最も鮮明に示しているのは、新発見の「遠西奇水抜萃」(「王貞美訳定」)である。抜粋の底本はオランダの出版物に間違いない。元吉は、選別した水薬の処方名も材料の名称もローマ字で記し、その意味や調合法を漢文で描写している。オランダ語学習の資料以外の文書でローマ字を示すのはこの「遠西奇水抜萃」のみである。門下人や後世の人々が写した文書で、つづりの誤りの責任者は同定しにくい。採り上げている薬品は下記の通りである。

原文

 

当時の洋書の薬品名

campur blandwijn 樟脳火酒 Camphorbrandwijn
tincater theriahca 的里亜加浸[52] Tinctura Theriacae
tinctur hyperesje 劉季奴浸 Tinctura Hyperici
tincter aroes 芦薈浸 Tinctura Aloes
tincuter melha 没薬浸 Tinctura Myrrhae
tincutur sucsinie 琥珀浸 Tinctura Succini
tincter arginus 胆礬浸 Tinctura Aluminis ?[53]
prumbum ustum 燒過鉛 Plumbum ustum
tincutur anzerica 白芷浸 Tinctura Angelicae
tincutur opium 阿芙蓉浸[54] Tinctura Opii / opiata
Zijdeman Sydenham
gemeene abzen [= absinth] water 茵陳水 Aqua Absinthii
waqua arginus 膽礬水 Aqua Aluminis [= Spiritus Aluminis]
waqa armen ustum 枯礬水 Aqua alumen usti
waqua plantago 馬潟水 Aqua Plantago
waqua serinza 化鉛水 Aqua ?[55]
waqa merucuris 耒丹水 Aqua Mercuris
wette wijn 白酒剤 witte wijn [= wijnsteen]
boorus armenia 赤石脂 Bolus Armenia
sulpher water 硫黄水 Sulpher water [= Aqua Sulphuris]
meli rozarum 薔薇蜜 Mel Rosarum
borst middelen 和胸方 borstmiddel[56]
tincutur teriace 的里亜加浸 Tinctura Theriacae
jarapha 薬莉根脂 [Resina] Jalappae
Scammonun 牽丑膏 Scammonium [= Diagridium]
zal absint 茵蔯塩 Sal Absinthium
tincutur castoreum 温肭臍浸 Tinctura Castoreum
Drop ( 舎利別) van corea ninzing 朝鮮人参 Drop van Corea Ninzing[57]
waqua ( 水) wolter(ヲルテル) [= wortel] sine (シネエ) 支那根水 Aqua Radix Sina, Radix China, Chinese wortel
Drop van mancopp 御米穀練 Drop van mancop [= Succus Papaveris] [58]
Dorop van hysoop 牛膝舎利別 Drop van Hysop [= Succus Hysopi]
Dorop van borst pruim 大棗舎利別 Drop van borstpruim [= Succus Muscati]
Drop van kloysermunt[59] 藿香舎利別 Drop van Moschus [= Succus Moschati]

 

上記の薬に関して元吉は底本の記述を単に伝達しているだけではない。

Scammonun 牽牛子
訳曰。牽丑膏。製如前法。而成焉。主治疏滌。美按蘭説。云。此品疏滌藥中之冠。又トモ云其 / 根如擘。由是觀之。則日本所産。恐其品類。// 而非真物邪。将以土地之異。如此不同邪。我未得是非也。虽然。茂質等充之。故暫従之。以徯向来之考。[60]

基本的説明をすませてから彼は「美」として自身の考えを述べている。洋書に基づいてコメントをつけた場合もあり(「美按蘭説云」)、実際の利用経験に基づく場合もある(「貞美試功曰」)。当該の薬をまだ試していないことも記録している(「美曰未試」)。国産品と輸入の比較も行われていた(「美曰。日本の産。其功甚劣」)。オランダでヘイステルと呼ばれる外科学の権威ハイステル(Lorenz Heister, 1683-1758)の説に触れた記述まである(「蘭医歇私的兒云」[61])。セイデマン(Zydeman)は、その薬を初めて製造した人名であるという言葉の意味に関する解説も見られる。

Zydeman 訳曰。此方名。乃人名也。此人初製之。故以其名。直呼其方。」

ローマ字表記は多少乱れているが、桂皮、アヘン、サフラン、丁子で調合されるこの液はイギリスの名医サイデンハム(Thomas Sydenham, 1624-1689)が考案したTinctura opii crocataである。元吉が紹介している薬品名は当時の薬局方などで確認できる別名Laudanum Liquidum Sydenhamiによるものである。

興味深いことに「Drop van Corea Ninzing」、つまり朝鮮人参エキスという水薬は自家製のもので、名前としてオランダ語にしたヒントは「度度毀宇私」の論説から得たと述べている。

「美曰。此方吾製。而銘之以蘭語者。取之。度-度-毀-字-私[=度度毀宇私]。本草論説中之語。」

ドドネウス(Rembertus Dodonaeus, 1517-1585)の本草書(「Cruydt-boeck」)は1652年[62]及び1655年[63]日本に上陸して以来、蘭方系の本草学で繰り返し研究されており、幕府の命を受けて、医官野呂元丈(1693-1761)は寛保元年(1741)から通詞加福喜蔵、吉雄幸左衛門及び出島商館医ムスクルス(Philip Pieter Musculus)らの協力を受けながら、ドドネウスの本草書から「丁卯阿蘭陀本草和解」を抄訳した[64]。残念ながら、元吉がドドネウスの原書を見たのか、それともこの和訳を入手したのかは、明らかではない。


図5「遠西奇水抜萃」の巻頭[65]

図6 セイデマンの薬。「遠西奇水抜萃」より

図7 「Drop van Corea Ninzing」。「遠西奇水抜萃」より

医薬品の分野においても元吉の研究熱と自立心は際立っている。彼にとって洋書は情報源に過ぎず、検証すべきものなのである。同胞の研究者も冷静に見ている。全国の一流の蘭学者と親交していた著名な阿蘭陀通詞・蘭学者吉雄耕牛(1724-1800)に対して、元吉は決して低姿勢ではない。薔薇蜜(Mel Rosarum)に関しては、彼はこう述べている。

「美曰。此方宣大過急流。慓悍荷烈。壊血粘血等。不宣酸液不及之人也。耕牛。定主治。唯謂見症。而不及謂性之四癖。可謂不通蘭説者矣。何也蘭説之要。必先立四癖。而言液之変化。以定薬之当否。因知其不通也。」(「遠西奇水抜萃」11丁)

こういうふうに蘭学の巨匠を批判するならば、京都の蘭学者に対しても厳しい姿勢を取っていたであろう。

 

 

おわりに

当時、成長しつつあった京都の蘭学界で、本来なら注目されていたはずだった元吉は、多少孤立していたかも知れないが、上記の資料に目を通すと彼が優秀な学者だったことには異論がないであろう。元吉は語学の奇才前野良沢に学んだことがあるようで、身についたオランダ語力のお陰で出島商館の医師にさらなる教授を受けた。蓼莪堂でオランダ語学習は重要視され、門弟は前野良沢に遡る資料である程度の読解力を習得しなければならなかった。医学の教えは腫瘍や各種傷という従来の紅毛流外科の範囲を超え、癲癇の治療や作業手順を踏んだ兎唇の手術にまで及ぶほどであった。また、西洋病理学への挑戦も大いに注目に値する。しかし、蘭書を訳せるほどの実力に恵まれながら、元吉は蘭学に対しても漢学に対してもはっきりした自立心を保っていた。情報を比較したり、薬を試用したりして、自家製の新薬を開発するほどの自信の持ち主で、杉田玄白の日誌で彼が先生と呼ばれたことは、単なる世辞ではなかったのである。

 

注釈

[1]   (寛政2年3月11日)「聞下紫溟先生遊来福寺上レ花賦贈。寺有一種桜、天色黄白云。香台柢樹映烟霞一 乗興回過長者車多少黄金春自満 布衣持贈一枝花」杉田玄白著、杉靖三郎校編『鷧斉日録』東京、合同出版 (発売)、1981年(生活社、昭和19年刊の複製)。
[2]   「脹満一証水気気結水気者属故易気結者多虚故難吉雄元吉曰脹満而死者毗之腸中一塊嶷然存之堅硬如西洋人曰腹脹病動脉大菅生如肉瘤四肢血脉爲之妨害漸至手足削小或然」淺田宗伯『先哲医話』上巻、勿誤葯室蔵、1880年、71丁。
[3]   この年表はその後、再発行、拡充されたが、吉雄元吉に関する記述の内容は変更されなかった。大槻如電『新撰洋学年表』東京、大槻茂雄、昭和2年(1927)。大槻如電著、佐藤榮七増訂『日本洋学編年史』東京、錦正社、1965年。
[4]   原田謙太郎「玄白と紫溟」『日本医事新報』第1106号、1943年12月、20頁。京都府医師会編『京都の医学史』京都、思文閣出版、1980年、741〜742頁。
[5]   『平安人物志』文政五年壬孟秋成刻、279頁(医学)。291頁(蘭学)には「吉雄貞美 再出」とあり。
[6]   大槻如電『新撰洋学年表』89頁。
[7]   大槻如電『新撰洋学年表』85頁。佐藤榮七が昭和40年に発表した増訂版『日本洋学編年史』の記述は同様な内容となっている。「吉雄元吉(紫溟)は是の年、医家の門を京都に立て、其学塾を蓼莪堂と称す。門人山田恭の言に、「紫溟先生、自幼学於蘭医烈帰父。既ニシテ而能其道、通其術、来リテ于京師、施洛民。沈痾痼疾、無一レ。是者、常。如キハ先生当世巨擘也。」とあり」(大槻如電原著、佐藤榮七増訂『日本洋学編年史』303頁)。
[8]   「烈帰父はレツツケ(Retzke)なるべし」大槻如電原著、佐藤榮七増訂『日本洋学編年史』303頁。
[9]   (オランダ語)brandwijn、焼酒。
[10]   蓼蓼者莪、匪莪伊蒿、哀哀父母、生我劬労。蓼蓼者莪、匪莪伊蔚、哀哀父母、生我労瘁。瓶之罄矣、維罍之恥、鮮民之生、不如死之久矣、無父何怙、無母何恃、出則銜恤、入則靡至。父兮生我、母兮鞠我、拊我畜我、長我育我、顧我復我、出入腹我、欲報之徳、昊天罔極。南山烈烈、飄風発発、民莫不穀、我独何害。南山律律、飄風弗弗、民莫不穀、我独不卒」。『詩経』「蓼莪章」より。
[11]   『鴃舌医言』「吾聞用夏変夷者、未聞変於夷者也。[...] 今也南蛮鴃舌之人、非先王之道、子倍子之師而学之、亦異於曽子矣。」『孟子』滕文公章句上。
[12]   無相師撰『磨光韻鏡後篇』浪速書林積玉圃梓(見返し)、安永7年(1778)跋。国立台湾大学図書館蔵。
[13]   大島明秀、宮崎克則「「鎖国」の創出 志筑忠雄訳『鎖国論』—「桑木文庫」」、『九州大学附属図書館報』第41巻第1号、2005年、7〜8頁。
[14]   原田謙太郎「玄白と紫溟」『日本医事新報』第1106号、1943年12月、20頁。京都府医師会編『京都の医学史』京都、思文閣出版、1980年、741〜742頁。
[15]   淺田宗伯『先哲医話』上巻、勿誤葯室蔵、1880年、71丁。
[16]   「欠舌」は「鴃舌」の誤りであろう。大槻如電『新撰洋学年表』東京、大槻茂雄、昭和2年(1927)、85頁。
[17]   以下の版は確認できた:1740年、1743年、1752年、1755年、1758年、1756-65年頃、1761年、1769年、1770年頃、1775年、1786年、1795、1802年。
[18]   東京大学附属図書館鶚軒文庫収蔵。松田清は洋学史学会2004年度大会(2004年12月12日)でこの資料を紹介した。
[19]   確認できた版種は以下の通りである:1603, 1632, 1636, 1637, 1693, 1763, 1732, 1752, 1755, 1758, 1761, 1762, 1763, 1768, 1779, 1793, 1794, 1848.
[20]   De vernieuwde cyfferinge van Mr. Willem Bartjens, waer uyt men meest alle de grondt-regulen van de reecken-konst leeren kan. Herstelt, vermeerdert ende verbetert, door Mr. Jan van Dam, en nu in desen laetsten druck neerstigh oversien en van alle voorgaende fauten gesuyvert t'Amsterdam: by de Weduwe van Gijsbert de Groot op den Nieuwen-dyck, tusschen de twee Haerlemmer Sluysen, in de Groote Bybel, 1693.
[21]   沼田次郎、松村明、佐藤昌介校注『洋学』上、東京、岩波書店、1976年、(日本思想大系64)、69〜88頁(「和蘭訳文略」)、89〜126頁(「和蘭訳筌」)。
[22]   松村明校注「和蘭訳筌」、沼田次郎、松村明、佐藤昌介校注『洋学』上、89〜126頁。
[23]   オランダ語「Romeins ABC, Italiaans ABC, Nederduitse ABC, drukletter(印刷活字)
[24]   オランダ語「trekletter」(筆写体文字)。
[25]   オランダ語 「schrijfletter」(筆記体字)。
[26]   「大和歌 難波淺香山の二歌」「難波津に咲くやこの花冬隠り今は春べと咲くやこの花」、「案積山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかな」。
[27]   オランダ語「cijfer」(数字)。
[28]   宗田一『日本医療文化史』京都、思文閣出版、1989年、218頁。
[29]   侏離、意味不明な言葉を話す野蛮人の意。
[30]   この「論部児」は1783〜1785年及び1786〜1787年に計3年間出島商館長を務めたHendrik Casper Rombergと思われる。
[31]   「中国於侏離、而医之事実、侏離却ツテ中国之上。余疑、問蘭人論部児。彼応ヘテ、和蘭交易。日月、無トシテ一レ。無ケレバ益不。由リテレニスニ、如キハ医術、昔伝ハリ中国、中国却ツテ其伝。論説紛然トシテ、至ランカラ乎。不ンバ、中国賢哲、豈ランルコト鴃舌之理哉。意フニ者、唯フルト其旧軌、与上レ其古轍而已。今余所缺舌、取リテ其不旧軌、而シテレバ事実フコト。」大槻如電、佐藤榮増訂『日本洋学編年史』、錦正社、東京、昭和40年(1965)。
[32]   宗田一『日本医療文化史』京都、思文閣出版、1989年、218頁。
[33]   古語「Zeymig」は(液体などが)どろどろの意(ドイツ語「sämisch」参照)。
[34]   舎利別(シャリベツ)、オランダ語siroopの当て字(中国語読みであろう、shèlìbié)。
[35]   インドのKananur / Cannanoreからの血石。「pedros cananor ofte hemathites(NA, VOC 895, NFJ no 302)
[36]   ポルトガル語の用語「mecha」(灯心、糸)はすでに17世紀の写本に確認できる。
[37]   Franciscus Sylviusが開発した薬。
[38]   ここの表記はポルトガル語の「balsamo」を反映している。
[39]   ドイツ語のMercurialsalbeを表記している可能性もある。
[40]   金銀花(Lonicera spec.)のチンキ。
[41]   胆礬(chalcanthite)のチンキ。
[42]   「石灰」(= 明礬)と焼酎で調合するもの。
[43]   「ソツヒルマアタ代礬石」と「アク汁」で調合するもの。
[44]   硫黄と水で調合するもの。
[45]   ラテン語oleum(油)オランダ語geel(黄色、卵黄)の組み合わせである。
[46]   「荵苳」(Lonicera spec.)と「ホルトカルノ油」(オリーブ油)で調合する薬油。
[47]   「反鼻」(Agkistrodon spec.)とオリーブ油で調合する薬油。
[48]   「接骨木花」(Sambucus nigra)とオリーブ油で調合する薬油。
[49]   「弟切油」(Oleum Hyperici)、「杉脂油」(Oleum Terebinthinae)、「焼酎」、「乳香」(Olibanum)、「没薬」(Myrrha)で調合する軟薬。
[50]   「杉脂油」、「火酒」、「樟脳油」(Oleum Camphoratum)、石硇で調合する軟薬。
[51]   「紅花」(Crocus orientalis)、「乳香」、「没薬」「火酒」、「杉脂油」で調合する軟薬。
[52]   「浸」はオランダ語tinktuurを表している。
[53]   「膽礬」(Chalcanthitum)と「火酒」で調合するもの。
[54]   「阿芙蓉」、アヘンのこと。
[55]   「鉛」Plumbum [aceticum] )と「白灰水」(aqua calcis)で調合するもの。
[56]   オランダ語、胸(borst)のための薬品(middel)。
[57]   オランダ語、朝鮮人参の水薬(drop)。
[58]   オランダ語mancop、撹子。
[59]   オランダ語kloyserは未同定。
[60]   「遠西奇水抜萃」13・14丁。句点は原文のまま。
[61]   Lorenz Heister: Heelkundige Onderwijzingen。元吉は独特な当て字「歇私的兒」を用いている。
[62]   Een Herbarius van Dodoneus affesete voor d' Hr Sickingodonne 120:-:-」。船荷の送り状、バタビア、1652年7月11日 (オランダ国立公文書館Nationaal Archief, NFJ 776)。
[63]   1: affgesetten herbarium van Dodoneus in Folio met silver beslagen en op d'snee vergult voor Sickingodo cost fl 96:-:-」。船荷の送り状、バタビア、1655年7月7日 (Nationaal Archief, NFJ 776)。
[64]   野呂元丈訳「阿蘭陀本草和解」寛延3年(1750)成立。
[65]   この写本には、宝暦年頃から明治期にいたるまで京都の三条通柳馬場東南にあった尚書堂製の用紙が利用された。

 


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