Wolfgang Michel: Travels of the Dutch East India Company in the Japanese Archipelago. In: Lutz Walter (ed.): Japan - A Cartographic Vision. Prestel-Verlag, Muenchen, New York 1993, pp. 31 - 39.

 

JAPANESE TRANSLATION

東インド会社が行なった日本列島の旅について


ヴォルフガング・ミヒェル

 オランダの東インド会社(VOC)は1609年以来日本の舞台に登場し、最初は日本で「南蛮人」と呼ばれたイベリア人に対して、また短期間ではあったがイギリス商館に対して手ごわい競争相手となったオランダ人だけは、控えめながらも巧みな政治力があり、またスペインやポルトガルとは宗教的、政治的な敵対関係にあったこともあって、キリスト教禁止令の後もヨーロッパ人追放からは首尾よく逃げられることができた。「紅毛人」の商館は1641年強制的に平戸から長崎に移され、彼らの活動は制限されてはいたが、日本との貿易から得た利益は、さまざまな不自由を補うに十分なものであった。1549年から1639年までの「キリスト教の世紀」がイベリア人宣教師や商人であったとすれば、それ以後はこの小さな出島蘭館が19世紀に至るまでヨーロッパの日本像や日本人のヨーロッパ観を形成する上で決定的な役割を担うようになった。

 商館の周辺

 九州の北西海岸線は極めて複雑な地形になっており、至る所で島が視界を遮り、岩礁や浅瀬はたちまち不注意な舵取りの命取りになった。東インド会社が最初に商館を置いたのが平戸島であり、そのため大して大きくもないこの地が多くの日本図には「Firando」と記されている。オランダ人の中にはこの地域の地理を研究して貢献した者がいたが、その中にフランス・ヤコプス・フィッセルがいる。彼はVOCの舵取りとして九州近海の水域を熟知していただけでなく、1632年と1634年には有名な日本の商家角倉のジャンク船の舵を取っている。その後彼はバタヴィアのインド総督ヘンドリック・ブルーワーに地図の改良を依頼されることになる。彼の仕事は高く評価された。17世紀に書かれた平戸と五島周辺の海路図がどのようなものであったかは、フォン・シーボルトが1851年に出版した地図(_参照?) を見れば分かる。このような航海上のデータが載っている資料は日本にやってくる全てのVOC船が持っていたに違いない。

 1641年以来オランダ商館は長崎湾に作られた小さな出島(「Disima」、「Cisma」等)に置かれた。当時の日誌などを読むと、ここへの入港は決して容易なものではなかったようである。目測を誤ったり、台風で押し流されたりしなければ、男女諸島の海域を航行するのが普通だった。女島は古地図ではしばしば「Meaxuma」や「Meaxima」と記されているが、ケンペルのように「Matsima」と却ってわかりにくくしてしまった例もある。舵取りにとって次の、重要な目印は野母崎で、近くには三ツ瀬の岩群があり、オランダ人は「雌鳥と雛」と呼んでいた。ここでも不注意は禁物で、島や岩礁が多いため北側を迂回していた。その後左舷に鋭く尖った高鉾島が見え、多くの旅行記には「神父の山」と記されている。伝えられるところによれば、ここではかつて宣教師が海に突き落とされたという。その先で湾はさらに狭くなる。船の到着は遠見によっていち早く伝えられ、まもなく奉行所の役人が乗船する。幕府はキリスト教の侵入を極度に恐れていた。上陸する前にオランダ人船長はキリスト教的なものや印などが付いたものは全て集め、樽や箱に詰めなければならなかった。十字架が彫ってあれば硬貨もこういった厳しい検閲を免れることはできなかった。船が着いてからのことは、ヴィンズハイムの薬剤師ヨーハン・ヤーコプ・メルクラインが1651年に自分が経験したことをこう記している。

「全員が皆等しく詳し調べを受ける。各人の名前と年令が日本人からも同胞からも尋ねられ、それを当地の役人が記録する。商品、武器、弾薬、それに舵や帆までもきちんと保管される。」

 オランダ船は季節風に乗って7月から入港して来る。荷揚げの間乗組員はだいたい船に乗ったままが、商館へ渡るときには、必ず奉行所に申請をし、その理由を説明しなければならない。船長だけは長い間検査されなかった。そのため彼は特別大き作りの上着を着こんで密輸品をぎっしり詰め込み、機会あるごとに出島と船の間を往復していた。荷物の積み降ろしには日本人の人足が雇われた。品物は東南アジア、中東やヨーロッパからのもので、絹、錦織り、毛織物、染色用木材、水牛の皮、鹿皮、胡椒、丁子、ナツメグ、砂糖、白檀、水銀、辰砂、サフラン、錫、鉛、硝石、硼砂、明礬、麝香、阿仙薬、珊瑚、琥珀、コバルト、鏡、眼鏡、虫メガネ、時計、ときには「異国の」動物やその他の珍品があった。手に入りにくい珍品は通常この国の御偉方のために取っておかれ、献上品にしたり、支払いに使ったりしていた。他の商品は決められた期間内に規定の条件で長崎で売られた。遅くとも11月には銅棒、樟脳や磁器、箪笥等々を積んで再び出帆して行った。

 九州北西部の詳細な地図はたとえばファン・デル・アー(目録番号__)、レーラント(目録番号_)、ソイテル(目録番号_)そしてもちろんシーボルト のものに見ることができる。ケンペルは1680年代の日本の木版画に基づいて長崎湾の地図を作成していた(目録番号_)。ショイッヒツェルはそれを1727年自分のケンペル英語版に取り入れ、さらにベランは1763年にその復刻版を出している(目録番号_)。1661年11月から1662年11月まで商館長を務めたディルク・ファン・リールは九州に近づいたとき、海から見た風景を巧みに旅行日誌に描いている。 さらにモンタヌスの日本資料やシーボルトの「日本」に至るまでどの資料にも繰り返し出島の地図や景観図が現れる。取引が済み、船が出た後にはスケッチをするだけの十分な時間があったのであろう。



 江戸参府


 江戸への旅はVOCの代表者に礼拝を許した徳川幕府の初代将軍家康にまで遡る。もちろんそれにはそれ相応の恭順の意を表わさなければならなかった。しかし商館長は本来ならばただの上位商務員に過ぎないのだが、日本の商人が夢にも見られないような特権を享受していた。しかし、日本での行動は制限され、費用は膨大で、特にケンペルが描写している将軍綱吉の「妙な」要求でヨーロッパから見ればだんだんオランダ人が多大な利益のために従っている「貢ぎの旅」になりつつあった。実際に、幕府の代表者と直接接触することはVOCにとって極めて重要なことであった。ここでは関係を確認し、問題を片付け、今後の貿易計画を立てた。たとえば1627年と1648年のように謁見が拒否されるのは危険信号で、関係修復のために一層の努力をする必要があった。また政治や礼儀、面子についてのさまざまな問いを別にしても鎖国の後、この旅はヨーロッパ人にとって出島の監獄を一時的に離れ、国と人々を観察できる唯一の機会になっていた。

 君主の宮殿を訪ねる旅は、その準備、出発、到着や主要目的である謁見があり、ただの物見遊山の旅よりもはるかに劇的なものだった。従って日本の場合も「江戸参府」の紹介は決してめずらしいものではない。有名なケンペルの「日本誌」のずっと以前から筆は執られていた。ライプチヒのカスパル・シャンベルゲルによる「日本旅行記」は残念なことに行方がわからない。 おそらく彼は1669年オランダ語とドイツ語で出版された「東インド会社遣使録」を1部購入していたと思われる。この中では1649年と、50年の、彼が同伴した使節団やドイツ人同胞の商館長ツァッハリアス・ワーゲナールが1657年と1659年に行なった参府等が紹介されているからである。詳細にわたる記述は著者のアルノルドゥス・モンタヌスがイエズス会やVOCの文献、日誌等から抜粋し、人類全体の歴史や文化にわたってさまざまな付説を加えている。 銅版画の多くはグロテスクではあるが、本文から「余計な」裝飾を取り除いてしまえば、全体としては正確な記述が後に残る。日本滞在を生き生きと描いているスウェーデン人オロフ・エリクソン・ヴィルマンは1651年に長崎に来ている。 ケンペルは1690年から92年まで出島蘭館医を務め、自分の研究をまとめる際、もちろんモンタヌスから種々のヒントを得ている。彼の業績によって後世の人々が無視できない基準が確立された。 結局彼に劣らぬ後継者としては、スウェーデン人トゥンベリーと19世紀のドイツ出身フォン・シーボルトの二人のみがいる。3人とも大学を出た医師で貿易とは関係なく、商館の商人達よりも周辺を観察するだけの十分な時間を持っていたし、日本人患者や医学に興味を持っていた通詞や日本人医師達のおかげで様々な情報を直接手に入れることができた。

 時折、オランダ商人の日本に関する関心さが非難されることがある。確かに日本人の好奇心はヨーロッパ人のそれを遥に越えていた。しかし商館長の中にはたとえばアンドレアス・クライエルやイサーク・ティチングのように教養もあり、積極性を持っていた者も少なくない。彼らの業務日記はしかし、個人的な研究日誌とは異なり、商取引上重要と思われる出来事がほとんどである。とはいえ、そこには所々、とりわけ不快な場合には個人的な見解も現われている。この「商館日記」を精読してみるのも無意味ではない。また同様に残された会計簿などと照らし合わせてみると、日本での生活像が鮮やかに浮かび上がってくる。

 参府を遂行するためには事前に念入りな打ち合わせが必要であった。人を雇い、食器や箱、食糧やいろいろなものを購入する。さまざまな別れの手続きを済ませた後でようやく出立となる。通常参府の間は毎日の行程、また寄港地や宿泊地、昼食、休憩を取った場所、川を渡ったこと、または通過料を取られる橋などのことが記される。さらに詳細な勘定書をみると、人足の給料、必要な馬の数、さまざまな買い物、献上品や「チップ」等々が明らかになる。熱心な商館長になると、ときには重要な行程の距離まで記している。おそらくこれは宿屋、人足や馬の料金、観光名所などが綿密に記されていた日本の道中記の記述に基づくものであろう。ケンペルもこれからの数冊をヨーロッパに持ち帰っている。

 オランダ商館が1641年強制的に平戸から出島に移されてからは江戸への参府は急速に形式化された。当初は、長崎と兵庫の間は船で行っていた。そこから大坂へ、さらに陸路を東海道に沿って、江戸へ向かう。実質的な権力者として、将軍はVOCにとっては日本の「皇帝」であり、都にいる天皇は「宗教上の首長」だった。平戸時代の商館長はたいてい事務官だけを連れていたが、後には商務員補も同行するようになる。時には外科医も仲間になることがあった。ドイツ人のシャムベルゲルが1649年と50年参府に同行し、その軟膏や膏薬が大いに注目されて以来、商館医は常に同行するようになっていた。このことによって、日本における西洋医学の普及はかなり加速されたのである。

 毎年11月頃に最後のオランダ船が長崎を出てバタヴィアへ向かった。7月に夏の季節風を利用して最初の帆を再び地平線に上げるまでは、出島ではあまりすることもない。16世紀の40年、50年代頃には冬の最中に出帆し、九州の北を回り、それから瀬戸内海に入って、兵庫まで航行した。この海路はたとえばモンタヌス(目録番号_)、タヴェルニエー(目録番号_)の地図に載っている。大陸から吹いてくる強風のため長崎から下関までの旅は非常な困難を伴うものであった。オランダ人が「小舟」と呼んでいた、この航海にはあまり適さない船は何度も入江に錨を降ろし、天候の回復を待たなければならなかった。ワーゲナールの一行が1659年筑前国の沖で遭難して以来、九州は陸路をとるようになっていた。その時期も決められた。1661年からは通常睦月15日に長崎を発ったが、これは太陽暦では2月か3月初めにあたる。大きな荷物はあらかじめ海路下関へ向かうのが普通であった。

 随員の数と費用も莫大だった。責任者として長崎の検使2名が「引率」役で、町使、大、小通詞、さらにVOCの紋章が付いた青い仕事着を着た多くの料理人、従者、人足達がいた。商館長だけが篭でゆられて行くことが許された。本来、彼には許されることがないような特例だった。彼の同胞は馬に乗ってついて行った。後には、たとえばトゥンベリーによれば、彼らにも篭が用意されたようである。途中で馬と人足は交換し、荷物の種類や道によって増えていった。1649年に特使フリージウスの使節が江戸に着いたとき、24人のヨーロッパ人のほかに310人の日本人と128頭の馬がいた。1691年、ケンペルのあの有名な一行は九州では日本人が約100人だったのに対して、最後の行程では150人に増えていた。1776年にトゥンベリーが彼の上司とその書記官と共に旅立ったとき、およそ200の人々がその取り巻きで、またシーボルトも1826年同じように多くの人々に取り囲まれることになった。しかしこれでも日本の大名行列に比べれば小さな集団であった。

 海では天候と潮汐に左右される。陸路では1日の行程と宿は定まっている。通常料理人とその助手が先に行き、その後一行が着いたときには食事の準備ができているような手はずになっていた。一般の日本人との接触は公式には考えにいてらていなかった。しかし住民の自発的な反応が完全に押さえつけられたことはない。公式な、また個人の旅行日誌を読むと、いくつかの面が見えてくる。たとえば久留米の町中を通った際、大通りには人っ子ひとりいなかったのに、横道には人が溢れ、皆低く身をかがめて押し黙っていた。東海道では、旅行者がやってくる度に、異人に近づかないよう日本の役人があらかじめ大声で警告したようなこともあった。また宿屋での孤立感を嘆いている。時には窓が釘付けされていることもあった。しかし一方トゥンベリーには奥座敷が家屋で最も美しく、上品であると感じられたし、またでしゃばりな男の子達や、何時間も側から離れない頑固な物乞いの「比丘尼」に悩まされることも稀ではなかった。シーボルトは運がよく、監督官たちの賢さを褒めている。監督官たちは、オランダ人に許されていず、かといってまた、禁止されてもいなかったような行動の目撃者になることを賢明にも避けたのである。また、タヴェルニエーの地図で、岡崎の町の女性は「国中で一番美しい」と書き添えてあるのはどう理解すべきだろうか。1680年の英語版ではこの軽率な注釈は削除されている。

 下関に入港し、いろいろ準備をした後、兵庫までの行程に備える。瀬戸内海は比較的穏やかで、無数の島々は絵のような眺めを提供してくれる。この辺りの地図もまた詳細で、ほとんど知られていない内陸部に比べて多くの地名が記されている。通常、夕方になると穏やかな入江に錨を降ろした。上陸についてはあまり書かれていない。ただ初期の文書では、室では時々「隊」がこぞって浴場に行くこともあったが、ヨーロッパ人は水に対する欲求がそれほど強くない。ケンペルはかつて大真面目に「信じられないほどきれい好きな」日本人と「感覚的なオランダ人」を対比している。そしてヨーロッパ人の鼻は次世紀になっても同様に鈍いままであったようである。

 兵庫を出てからは淀川を上って大坂へ向かう。浅瀬になるので荷物は小舟に積み替えたが、陸路をとることもあった。堂々とした城はこの町の重要性を物語っていたし、ここでは町奉行と城代を表敬訪問して、献上品を渡し、また江戸へ行くための許可証を待った。それは京都所司代から与えられたが、彼はとりわけ訴訟も扱っていたため、オランダの文献ではたいてい「大法官」として現われる。

 最後の行程は荷物の関係でこれまでより多くの人や馬が必要だった。大坂から京都へ、琵琶湖から距離にして488キロの東海道を江戸へ向かう。53の宿場で旅人は宿をとることになるが、これは文学や芸術に多くの足跡を残している。西洋では特に廣重の色彩豊かな版画が知られている。今日でもたとえば手原付近に行くと5メーター半程のそれほど広くない、少し曲がった、両側に小さな木造家屋が立ち並ぶ通りが見見られるが、昔を偲ばせるものがある。1里ごとに小さな「一里塚」があり、分岐点では道標べが方向を示していた。重い品物は船で運んだため、車での輸送はほとんどなかった。ここではあらゆる旅行者が混ざり合っていた。ある者は商売のための旅を、またある者は巡礼や観光の旅をし、また両方とも一緒にする者も多かった。その間をぬって飛脚が走りぬける。これは綿密に作られた配達人の制度で江戸から大坂まで2、3日で手紙を運ぶ。行商人は薬を売り、旅の僧はお守りを与えたり、まじないをしたりした。尼僧によっては身を売るものもいた。あらゆる種類の芸人が人を集める。宿場の店には煙草やお茶、その他の飲み物、名産物、草鞋が並ぶ。日が傾く頃、宿場では宿屋の戸口で女達が待ちかまえており、疲れた旅人を中にひっぱって行く。

 途中には障害になるようなものもある。川には橋がないこともあった。場所によっては渡し船だったり、あるいはそのために用意されている「川越人足」が雇われて、旅人と荷物を肩や輦台に乗せて向こう岸まで運ぶ。新居でオランダ人は関所を通るが、これは全国に76あり、ここでは幕府の役人がすべての旅人を監視し、あやしげな動きが未然に察知できるようになっていた。ここから舞坂までは浅い湾を小舟で渡る。運が悪ければ、途中どこかで大名行列に出くわす。すると脇に寄ってかなり長い間、慎んで待たなければならない。時には貴人のために宿を変えたり、落ち着いたと思ったら不意に宿を追い出されたりした。この時節頂上に雪をいただいた富士山はみんなを魅了した。そこからは一番難所、箱根越えが始まり、元気な馬と人足、そして集中力が必要であった。江戸までの最後の3宿場は今日では東京にはいっており、当時の旅人が見ていた世界とはまったく異なっている。長崎を出てから役30日が過ぎていた。

 江戸には約100万人が住み、18世紀初めにはすでに大都市だった。オランダ人は毎年「長崎屋」に宿をとる。商館長ヤン・ファン・エルセラックは1642年の日記で簡単に描写している。ここは宿主の家の隣にあり、監獄のような建物で、幅約4フィート、長さ60フィートの路地を通って行く。階段を上がると8畳の間があり、通常はここで食事をした。隣にある同じ広さの寝室には衣装箱と寝具があって4、5人が居るには狭すぎる。商務員補と外科医がいる階下の部屋では立って歩くこともできなかったが、他の者の部屋はもっと悪かった。通りに面した部屋には4人の供を従えた武士が泊まり、出入りに目を配っていた。オランダ人がいる部屋の真下には2人の兵士が従者を伴って泊まっており、誰かがオランダ人を訪ねるときは必ずどちらかが付き添った。

 木造の建物は時の流れや地震、特に頻発する火事に弱い。火災はほとんど全ての商館長がどこかで目撃している。270年の徳川支配の間に江戸では80以上の大火事が起こっている。1657年、ちょうど長崎屋に泊まっていたツァッハリアス・ワーゲナールの一行は約10万人の死者を出した明暦の大火をすんでのところで免れた。そのようすを伝えたのはモンタヌスで、劇的な銅版画によって読者を身震いさせた。長崎屋は新築や改築を繰り返しながら何代にも渡って同一の家系によって営まれてきたが、その基本構造は変わっていない。離れに続く狭くて長い路地、上階にある部屋などについてはケンペルもトゥンベリーも書いており、二人とも記述の公平さを心掛けながらも、もう少しましな宿を期待していたに相違ないふしがある。二人ほど寛容ではなかったシーボルトは1826年に、「粗末な公使館」とだけ述べている。

 謁見まではかなり長く待たされることもあり、その間は通詞や役人が忙しく出入りする。問題点を明確にし、「皇帝」や「皇太子」、「顧問官」(老中、若年寄)、町奉行、長崎奉行や重要人物への献上品を決める。VOCの文書を見ると現在でも正確な品名、数量、値段や送り先がわかる。同時に珍品の注文も受け、その中には地図や地球儀もあり、それは翌年か、その翌年に引き渡され、そのうちに支払われる。これらすべての品物は船荷のリストや送り状で確認することができる。

 住民の出入りは禁止されてはいたが、それでもほとんど毎日訪問者は来ていた。役目上出入りする者の他に、しばしば「老中」や「奉行」の息子、他の親類が献上品や外国人を眺めに来た。通常は彼らをもてなし、当時人気のあった赤ワインを大いに「振るまった」。高くついたが、さまざまな情報も得ることができた。また他にも役目上出入りできる者はこの機会を逃さなかった。特に人気が高かったのは商館医で、怪我や病気に苦しんでいる有力者が往診をさせた。侍医も彼を訪ねて情報や薬品を入手した。

 種々の問題が解決し、適当な期間が過ぎると謁見の日が始まる。1603年から1651年にかけて建てられた江戸城は外壁16キロ、内壁6キロ半で、世界的に見ても巨大な城塞だった。それまでの出費に比べると儀式そのものは実にあっけないものだった。まず彼らがしばらくの間別の間で控えていると、商館長が謁見の間に案内される。彼の同胞は入り口から中の様子を窺うこともあるが、時には控えの間で我慢させられることもあった。合図と「オランダカピタン」という声で膝まづき、上体を深く折り、頭を下げる。盗み見できたかも知れないが、陛下は御簾の向こうに座っていて、ほとんど輪郭しか見えない。これですべては終わった。合図があって、日記によればマントを少し引かれて、商館長は恭しく下がり、回りの日本人から無事に謁見を終えたお祝いを受ける。続いて皇太子の館が広大な城内の別棟にあり、そこでも同様のことを繰り返す。その日のうちに順々に「老中」の屋敷に表敬訪問を行ない、相応のお礼を述べることもあった。その後他の有力者にも同様の心づかいをする。

 ケンペルは最初の謁見の後、別の間(白書院)で非公式な第2幕を体験している。そこではオランダ人が、またも御簾の向こうに隠れている将軍のさまざまな質問に答えている。ついには全体が「道化踊り」になり、歌い、踊り、描き、演じたり等々。このようなことが起こったのは元来将軍綱吉が支配していた1680年から1709年の間だけで、彼は知識欲がきわめて旺盛な人だった。しかし、ケンペルの記述と銅版画によってこの光景はヨーロッパ人の日本観のもとになり、シーボルトも130年以上経ってもなおこの「オランダ人の演技」が「次第に廃止された」ことに胸をなでおろしているくらいである。中近東や極東の宮廷ではケンペルの時代にはVOCの代表者に対してもっと耐えがたいことも起こっており、ヨーロッパの君主達も時には同様のことを要求していた。

 しばらくすると返礼が届く。「皇帝」と「皇太子」からは特別な謁見の際に渡された。たいていは高価な絹の着物で、豪華な色彩と着心地の良さはヨーロッパで高く評価され、好まれる余り、時にはVOCが模造品を作らせて需要を満たしたこともあった。出立の許可に伴ってあらゆる注意が与えられた。ポルトガル人を入国させないこと、中国のジャンク船を拿捕しないこと、世界の重要な出来事を報告すること等々。

 長崎への旅は来た時と同じ道を反対の方角へ辿ったが、今度は時間に縛られることもなく、明らかに良い雰囲気だった。途中で寺を見物したり、大坂城もきちんと予定に入っていた。もちろん商館長は、日本人の随員が個人的な買い物を山のようにしたために必要となった人足や馬の多さを嘆いていた。人足も帰路はそれほど急がなかっただろう

 参府の直接的な記述はまず1669年にモンタヌスの地図(目録番号_)、1679年と1726年にタヴェルニエー(目録番号_)、そしてヴァレンタイン(目録番号_)がその後に続く。モンタヌスのタヴェルニエーに与えた影響は極めてはっきりしている。どちらのものにも、すでに取りやめになっていた九州を回る海路が載っており、地名もだいたいにおいて一致する。それに対してヴァレンタインは他のVOC文献を元にしている。彼の地図には長崎から小倉までの陸路が、ケンペル以前のものとして、初めて西洋の地図に表わされている。だが当時最大の地図学上の業績はケンペル(目録番号_)に負うところが大きい。コンパスを隠し持ち、密かにルートを測量していたのである(ワルターの論文_頁を参照)。ショイッヒツェルが出版したケンペルの日本全図には「参府」の際の全ての地名が書かれているが、それぞれを結ぶ線が欠けており、「参府」の経過についてはルートマップを見直さなければならなかった。ケンペルの「日本誌」オランダ語版(1729年)にある日本地図(目録番号_)とティリオンの1734年、1735年それに1738年版(目録番号_)を見比べると、ケンペルが長崎から山家まで、二通りの道を知っていたことがわかる。




 北方探検

 元々東インドの地理的な情報はもっぱらオランダが収集し、研究していた。しかしヘンドリック・ブルーワーが総督の地位に就いた1632年以来、地図の製作においてはバタヴィアが VOC の第2のセンターになっていった。ブルーワーは喜望峰からバタヴィアへの南ルートの発見者として名を成し、このルートをとることで、東インドへの旅は平均6ヶ月に短縮された。より速くて安全な航路を求めるたけでなく、VOCは探検旅行も計画しており、新たな取引先だけが目的ではなかった。極東で売れるような商品がヨーロッパには不足していたため、香料や磁器、高級木材は金や銀で支払っていた。オランダから貴金属が流出するのは望ましくなく、また長く危険な輸送路を考えると、スペイン、ポルトガルが持っていた南アメリカの鉱山、金や銀を運ぶ船に注目するようになった。また金銀を求めて台湾や南アフリカ、スマトラも調査し、ある程度の成功はおさめていた。さらにメキシコから来たオランダの商人が、スペインの船が嵐のためにコースをはずれ、日本の東方、伝説の金銀島に上陸したという噂をもたらしてもいた。次第に引き継がれてイベリアの地図は改良された。中国の沿岸を調べたのはマタイス・ヘンドリクス.・クワストで日本から来たポルトガルの銀船を追いながらのことだった。最初に述べたフィッセルは日本列島だけに取り組んでいたわけではなく、彼の知識はトンキンや海南地方の地図にも及んでいた。有名なアベル・ヤンス・タスマンは2度にわたる南への探検を指揮し、オーストラリア大陸を発見している。

 ブルーワーはその後任になるアントニオ・ファン・ジーメンをバタヴィアでは常に側に置いていた。1636年に職を辞したときには、頼まれて調査や航海に関する多くの助言を書き記している。ファン・ジーメンの主要目的にはしかしあの金銀島もあり、それは日本の東方400マイル、北緯37度30分にあると言われていた。本来なら日本から出発するはずだったが、1637年に断念した。その後オランダから、マルコ・ポーロの報告によって大都市カンバルとフレマがあると推測されていたタルタリヤの沿岸も同時に調査するよう指示があり、1639年バタヴィアから2艘の船で出港した。指揮官はクワスト、副官はマールテン・ゲリツ・デ・フリース、もう1艘の船長はタスマンだった。しかしこの航海は日本東方の荒波のため得るものは少なく、島をいくつか発見しただけで、船はかなり傷み、水症と壊血病のために多大な損害を受けていた。彼らの探検日記はテレキがその著書で著している。「クワスト群島」はシーボルトが地図に載せている。

 40年代になってようやくバタヴィアの地図製作者の仕事が立証できるようになった。そのなかには上記のツァッハリアス・ワーゲナールもおり、彼は1632年アムステルダムの出版者であるヴィッレム・ヤンスゾーン・ブロイの元でその技能に磨きをかけ、最初はブラジルの西インド会社で働いていた。1642年に東インドに来るとすぐに助手、地図書きに昇進した。

 1642年に今度は直接タルタリヤへ行くという新たな探検の旅が決まった。日本は恐らく北の方では大陸に続いているかも知れないので、列島の北東沿岸に沿う航路を選んだ。2艘の船が1643年の初めに指揮官デ・フリースに委ねられた。カストリクム号の船長を務めたのはピーテル・ヴィレムズ・クネヒトィエス、ブレスケンス号の船長はヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープだった。しかし、5月20日に船は嵐のために八丈島の近くではぐれぐれになってしまった。ここからカストリクム号は日本の沿岸を北上し、6月7日に蝦夷、現在の北海道に達した。デ・フリースは沿岸から離れて進み、霧の中、蝦夷を通り過ぎてしまったことに気付かず千島列島に着いた(目録番号_?)。そこで彼はエトロフとウルップの間に「フリース海峡」を発見する。そこから南側は「スターテン・ラント」と名付け、そして北側の、おそらく無人の地方は、彼の考えでは北アメリカの一部だということで厳かに「コンパニース・ラント」という名にしてしまった。さらに北西海岸の地図を作っていくうちに新たな出口を発見し、島だということがわかった。サハリンの東海岸は蝦夷の東海岸だと考えていた。それに霧のため、サハリンと蝦夷の間にある海峡を見落としてしまった。これは1787年になってラ・ペルスが記録にとどめ、自らの名前をつけることになった。深い霧と逆風のため7月末にこの探検は打ち切られた。金銀島の探検はその次も成果がなく帰路に就いた。日本南東でブレスケンス号に出会い、11月に2艘は台湾に達した。地理学上の資料はいろいろと持ち帰ったが、商人を喜ばせるようなものは何もなかった。その結果、次の計画は見合わせることになった。

 話はこれで終わるわけではない。ブレスケンス号は途中で日本に近づき過ぎてしまった。嵐の後飲み水や燃料、食糧が不足して「文月」の終わりに南部の山田に上陸した。すぐに船長のスハープと乗組員のうち14歳の若者を含む9人が捕えられ、江戸へ送られた。当時日本の当局が警戒していたのは密かに入国してくるイベリアの宣教師たちで、実際、状況は不利だった。この船は通常の航路を外れてこんな北の方までやってきて何をしていたのか、船長の逮捕後、なぜ船は沖へ逃げてしまったのか、本当に何も隠してはいないのか問つめられた。自分達はオランダ人で、悪意があって九州からここまでやって来たのではないと、日本側に納得させるまではかなりな時間がかかった。モンタヌスは彼の第2「部」で不安と取調べの様子を描写している。そのためにわざわざ長崎から通詞が呼ばれた。 拷問されたイエズス会士を見せて、偽証をするとどうなるかをわからせたようとした。訊問は繰り返し行なわれ、前回の聴取のときのものと比べられた。

 地図についても繰り返し訊問された。9月末にかつての宣教師で、沢野忠庵として帰化した後大目付井上政重に仕えていたクリストバン・フェレイラが和紙に書いた地図を取り出した。これは「開いた地球儀」だったとスハープと商務官補ヴィレム・バイルフェルトは記している。それによるとそれは東アジアと東南アジアは含んでいるが、タルタリヤと蝦夷に関してはオランダ人の思惑とは異なっていた。フェレイラはこの地図を手に、彼らは嘘をついており、二人が言うような方法では目的地には着けないことを証明しようとした。もちろん二人はこれをきっぱりと否定した。この論争はまもなく「老中」牧野親成が取り上げ、オランダ人はタルタリヤを地図無しでどうやって見つけようとしたのかと尋ねている。船長は彼の航海術と、本で読んだタルタリヤについての一般的な情報を説明した。正確な地図は自分達で作るつもりだった。世界地図があるのにどうしてタルタリヤの地図がないのかという問いに対して、スハープは、[正確な]地図は実際に行ったところでないと作れないと答えた。頑固な牧野が長崎から地図を取り寄せようとしたときに船長は異議を申し立て、それは恐らく陸地の地図であって、(正確な海岸線が載った)海図ではないだろうと反論した。そうだとしたらタルタリヤのものがあるはずはない。ヨーロッパの船はまだ1艘もそこへは行っていないのだからと主張する。もしそうでなければどんな刑に服してもよいと断言した。

 長い審査の後、商館長の支援もあり、最終的に彼らはVOCに引き渡されたが、これは特別な取り計らいによるもので、このような重大な過失にもかかわらず許されたのは稀なことだとほのめかすことも忘れなかった。このためにオランダ人は特別な感謝の意を表したに違いない。

 蝦夷とその住民についてはカストリクム号の資料に基づき、1646年に公になっている。逮捕された乗組員の体験と訊問のようすはスハープとバイルフェルトの日誌や、一部は出島商館の日記に記録され、両方ともモンタヌスが詳しく調べ、まとめている。ケンペルも出島でスハープの記録から抜粋を作っている。フリースの探検はアムステルダムの市長で学者のニコラース・ヴィトセンも1692年、彼の「北と東のタルタリヤ」に取り入れている。 カストリクム号の航海日誌は1858年 ロイペによって出版された。さらにデ・フリースの原本をもとにした地図も残っている(ボスカローの___頁を参照)。

 ブロイの世界地図(1645/46)ではデ・フリースの探検で発見されたものが初めて出版された。確かにここに載っている蝦夷はグロテスクな形をして日本列島の地図に加えられている。しかしこの情報を集めるための旅の経過や条件を考えるとデ・フリースや彼の部下達を非難するわけにはいかない。彼が誤って解釈した蝦夷の海岸線は19世紀までその影響を及ぼしていた(詳細についてはボスカローの論文_頁を参照)。興味深いのは、蝦夷が比較的正確な形で載っていたり、まったく欠けている地図でも、かつての探検路に沿った本州の北東地域には一連のオランダ語の地名が見られたりする点である。「Ronde Holm」(丸島)、「Princen Eylandt」(王子島)、「Witte Hoek」(白崎)、「Walvis Bocht」(鯨湾)、「Shilpats Eylandt」(亀島)、「Hoge Tafel berg」(高平山)、「Croon berg」(冠山)等々。時にはBuccelinius(目録番号_)の小地図のように、「Walvisbocht」(鯨湾)以外オランダ語の地名がほとんどないこともあった。またマルティーニ (目録番号_)、コロネリ(目録番号_)、ヴァレンタイン(目録番号_)、シャテラン(目録番号_)、ブリオン・デ・ラ・トゥール(目録番号_)、セイヤー(目録番号_)、カッシーニ(目録番号_)等の地図ではフリースのオランダ語地名と、日本語名の混在が興味深い。

 

TOPTOP
inserted by FC2 system