Wolfgang Michel: Japanese Place-Names on Old Western Maps. In: Lutz Walter (ed.): Japan - A Cartographic Vision. Prestel-Verlag, Muenchen, New York 1993, pp.48 - 50.


ヴォルフガング・ミヒェル

JAPANESE TRANSLATION

西欧の地図に見る日本の地名<


今日西洋の地図では日本の地名を表記する場合、アメリカ人宣教師J。C。ヘボン (1850ー1911年) が考案した方法を用いている。ヘボンは日本語の音節をローマ字に書き換える方法を考え出し、子音の再生には英語を、母音にはラテン語を当て、その容易さもあってまたたくまに普及した。しかしそれ以前のヨーロッパにおける日本地図は、そのような標準化がなされておらず、そのため同じ地名がさまざまに表記されている。たとえば九州の肥前は「Figen」、「Fiien」、「Fi∫en」、「Fi∫in」、 「Fiseen」、 「Fisien」、「Fisen」、「Fidsen」、「Fitsen」となっている。中には混乱したものもあるが、表記法は異なっても当時の日本語の音をかなりよく表わしているものもある。しかし地理学上の表示を比較したり、製作者の仕事を評価する前に、言語的な背景を明らかにする必要がある。 日本語を表記する際、まずヨーロッパ人のそれぞれの母国語が問題になる。耳で聞いた音韻は脳で既成の「見本」、つまりいわゆる音素体系のパターンと比較される。ほとんどが未知の外国語の場合、無意識に母国語のフィルターを通すことになる。そのため自分の言葉に存在しない一定の現象は容易に「聞き逃してしまう」。例えば、ヨーロッパの言語では特別な意味上の機能を持たない日本語の重子音(促音)は無視されることが多い。そのため欧米人には「本音が出た」と「骨が出た」の区別がなかなかできないことがある。

また何となく「聞き慣れた」ような日本語の音韻の一部は、意識せずに母国語の音素に当てはめてしまうこともよく観察される。たとえば ヘボン式で「fu」と表わされる「フ」の場合ある。ヨーロッパの「f」は前歯と下唇の間を呼気が通ることによって発せられる音であるが、日本では両唇が近づくだけで、触れなくてもよい。続く「u」の音も西洋では唇を丸めるが、日本語の「ウ」ではそうではない

「ラ」でも同様のことが見られる。ヘボン式で「r」と書かれる音は舌先が一度だけ歯槽をたたく振動しない音韻で、ヨーロッパ人には非常にわかりにくい。また、母国語の音素体系に合わせるため、外国語では別々の音素を一緒にしてしまうことも起こりうる。例えば、ドイツ語の「laufen」(走る)と「raufen」(けんかする)の区別は、訓練されていない中国人や日本人にとっては極めて困難である。半面、ドイツ出身の蘭館医ケンペルは出島に2年間にわたって滞在していたが、「チ」 と「ジ」、「チャ」と「ジャ」、「チュ」と「ジュ」 等を正確に識別するには至らなかった。

また、たとえ日本語の音韻組織をある程度把握したとしても、それにより自然と日本語のローマ字表記が確立されたわけではない。文字は音韻とは別で独自の伝統を持つものである。現代の標準化されている言語に於ても言葉の音韻を正確かつ完全に書き表すことはできない。例えばドイツ語の長母音の「o」の表記には「ohne」、「Boot」や「los」に見られるように、様々な方法がある。また短母音の短さを指すため、たいていは次の子音を二重に書くことが多いが、「sobald」などのように、一定の条件の元ではそうはならない。「she」、「sea」、「see」や「rough」、「stuff」、「boat」、「bold」 等を比べてみれば、英語でも母音の書き方はかなり混乱していることがわかる。同じヨーロッパ人にとってさえ悪夢のようなフランス語の綴りにはここでは触れないことにする。それに17〜18世紀ヨーロッパの言語の正書法がまだ初歩的な段階にあったので、日本地図における地名に様々な綴りが見られるのは当然のことであろう。

それに加えて当時の研究所や出版社での種々の間違いは、特にある地図が他の国で再刊される場合に頻繁に起こった。本来の日本語の音韻についてはほとんど知らなかったにもかかわらず、自国の同胞に読みやすくするため地名の綴りを書き換えるのが普通であった。見過ごしたのか、手の付けようがなかったのか、部分的にそのままの表記が残っていることもある。また、機械的にイタリアの製作者はポルトガル語の「xi」、「qui」を「sci」、「chi」に書き換え、オランダ語版では「u」 は全て「oe」、「c」 は「k」 に書き換えている。a - o, u - n, y - g, ∫ - l - t, T - F - R 等の混同は特に目につき、文字の欠落も珍しくはない。しかし今日ではこのような文字の混同は古地図の伝達史を究明する貴重な鍵になっている。

日本の古地図の地名を理解するためには、それぞれポルトガル、イタリア、オランダ、場合によってはドイツの眼鏡を借りる必要がある。そうすると、「Sat高浮高=v、「Sazzuma」、「Satzuma」や「Cangoxima」、「Cangoscima」、「Kangosima」 が一致してくる。1549ー1639年の「キリスト教の世紀」 に日本で布教していたイベリア人宣教師は、日本語をよく理解し、その音節体系に合ったローマ字綴りの表記方法を開発した。これは標準化されたもので、多少の努力でマスターすることができる。しかし残念ながら、南蛮系の地図ではこの表記が必ずしも活かされたわけではなかった。鎖国時代に出島商館で活躍していたオランダ人の日本語研究は、イエズス会士の研究にはるかに劣っていた。しかし、東インド商会の業務書類から日本の商品名、人名、地名表記について一定の傾向が見られる。ケンペルもこの延長線上にいる。彼はできるだけ「正確に」、聞いたまま、又は聞こえたように日本の音韻を記録するため、あらゆる表記法を試している。繰り返し写された彼の地図では、17世紀末のドイツ語の表記が底流になっている。場合によっては、ドイツ語を読むつもりで声に出してみないとわからないこともあるが、たいていは日本語にかなり近いものになっている。

しかし、今日では奇妙に映るローマ字綴りの一部が当時の学者のみの責任ではないという点を見過ごすわけにはいかない。たとえば、「Fingo」(肥後)、「Cangoxima」 (鹿児島)、「Midzke」 (見附)、「Jedo」 (江戸)、 「Quanto」(関東ミ)が示しているように日本語の発音も変化してきている。以下にいくつかの重要な現象を挙げてみる。

まず「ハ」行を見てみよう。現代語では 「ha」、「he」、「ho」における語頭音は ヨーロッパの「h」とほぼ一致し、「hi」 でも比較的近いと言えよう。それに対して当時の語頭音はすべてすでに「フ」の例で述べた両唇音として発音されていた。従ってヨーロッパ人がたとえば「Facatta」(博多)、「Farima」(播磨)、「Figen」、「Fiseen」(肥前、「Fiunga」、「Fioega」 (日向)などでわかるようにほとんど例外なく日本語の「ハ」行を「fa」、「fi」、「fu」、「fe」、「fo」と書いていた。

現代語の語中音では「g」が鼻音化するのはよく知られている。当時はさらに有声の閉鎖音である「g」、「d」、「b」の前では「a」、「u」、「o」、ときには「i」も鼻音化する傾向があった。そのため、「Nangasaqui」(長崎),「Tsicungo」(筑後)、「Cangoxima」(鹿児島)、「Finda」(飛騨)、「Yendo」(江戸)、「Sando」 (佐渡) などで見られるように「n」を入れることが多かった。

16世紀頃から、無声子音にはさまれたり、無声の歯擦音に続く「イ」 や「ウ」 が無声化する傾向が強まっていたが、それはイエズス会士の文献ではわからない。聞いたままを記していたケンペルの資料のみがこの現象をはっきり示してくれる: Midzke (見附)、Famamatz (浜松)、Minakutz (水口) 等。

日本を舞台にする19世紀頃の西洋の小説では、仏教の観音が「Quannon」 や「 Kwannon」と綴られている。江戸時代後期、合拗音「クワ」は、江戸では早くから直音「か」となっていたが、場所的には元の音がかなり残っていた。古地図の「Quanto」(関東ミ) 等の例をたとえば「Quano」(桑野)と対照してみると、「qu」による表記は混乱を招くことがわかる。

今日では「En」の方が元の発音により近いのに、日本円は世界中で「Yen」と綴られる。かつては「エ」の前のわたり音韻「j」 が存在しており、そのうちそれは個々の方言にだけ限られるようになってしまったが、ヨーロッパ人はこれを正確に聞き取り、「Jezo」、「Jeso」(蝦夷)、「Jedo」、「Yedo」(江戸)、「Yechingo」、「Jetsingo」 (越後) 等と記録している。

また今日では「オ」と「ヲ」の発音は同一になっている。「ヲ」の昔の語頭音は「ウ」と非常に近いので、西洋人の文献に「vo」や「wo」として記されている: 「Vosumi」(大隅), 「Voxv」、「Suvo」、「Soewo」 (周防ミ)など。

次に地図に見られるポルトガル語、イタリア語、ドイツ語、オランダ語による地名の表記を挙げる。上述の現象を考えながら比較すると、基本的な傾向や間違いの型がすぐにわかるはずである。

Hepburn カルディム
(1646年)
cat. no. 30
ダドリー
(1646年)
cat. no. 31
ケンペル
(1727年)
cat. no. 76a
バレンタイン
(1726年)
cat. no. 46
安芸AkiAquiAchiAkiAki
秋田AkitaAquitaAchita

安房AwaAuaAuaAwaAwa
阿波AwaAuaAuaAwaAwa
淡路AwajiAuangiAuangiAwadsi
備中BitchuBitchuBicchu, BicciuBitsivBitsio
備後BingoBingoBingoBingoBingo
備前BizenBigenBigenBidsenBiseen
豊後BungoBungoBungoBvngoBongo
豊前BuzenBugenBuge[n]BvdsenBoeseen
筑後ChikugoChicungoCe[c]ungoTsikvungoTsicoego
筑前ChikuzenChicujenCecugenTsikvdsenTsikuzeen
出羽DewaDeuaDeuaDewaDewa
越後EchigoYechingoJecingoJetsingoJetsigo
越前EchizenYechiienGiechigen [!]JetsissenJetsizeen
江戸EdoYendoYendoJedoJedo
越中EtchuYetchuJecciuJeetsivJetsioe
蝦夷EzoYezoJezoJesogasima
播磨HarimaFarimaFarimaFarimaTharima [!]
飛騨HidaFindaFind[a]FidaFida
肥後HigoFingoFingoFigoFigo
常陸HitachiFitachiFitacheFitatsFitaits
肥前HizenHigenFigenFidsenFisien
伯耆HokiFoquiFochiFookiFhoki
日向/TD>HyugaFiungaFiungaFivgoFioega
伊賀<IgaIngaIngaIgaIkga
因幡InabaInabaJnabo [!]ImabaInaba
伊勢IseIxeJsseIsieIsie
石見IwamiIuamiGuiuami [!]IwamiIwani
伊予IyoIyoJyo, GioIjoIjo
伊豆IzuIdzuJdsu, IzzuIdsvIds
和泉IzumiIdzumiJzzumiIdsvmiIdsoemi
出雲IzumoIdzumoIdsumoJdsvmoIdzomo
加賀KagaCangaCangaKagaCanga
甲斐KaiCaiCaiKaiKay
河内KawachiCauachiCauachiKawatsiiKawaats
上総KazusaCanzusaCanzuza, CanzuchaDadavsa [!]Cadsa
紀伊Kii no kuniQuinocuniChinocuai [!]KiinokvniKinokuni
上野KôzukeConzuque
KoodsvkeKoodseki
MiyakoMeacoMeaeoMiaeoMiaco
三河MikawaMicauaMicauaMikawaMikawa
美作MimasakaMimasacaMimasacaMimasakaMimasacka
美濃MinoMinoMinoMinoMino
武蔵MusashiMusaxiMusasciMvsasiMoesass
長崎NagasakiNangasaquiNangasachiNangasakiNangasacki
長門NagatoNagatoNagataNagattoNangato
日本Nihon, NipponNipponNifoneNipon
能登NotoNotoNotoNotoNotto
隠岐OkiOquiOchiOkiOki
尾張OwariVouariVoariOwariOwarra
近江OmiVomiOmiOomiOmi
大坂OsakaOzacaOsacaOsaccaOsacca
奥州OshuVoxvVossiuOsiOosioe
大隅OsumiVosumiVsumiOsvmiOsoemi
琉球Ryukyu

Rivkv
佐渡SadoSandoSandoSadoSado
相模SagamiSangamiSangamiSangamiSagami
西国Saikoku
Saicocu

讃岐SanukiSanuquiSanuchiSanvkiSannoki
薩摩SatsumaSatcumaSazumaSatzvmaZatsuma
摂津Settsu

SidzvSits
四国ShikokuXicocvScicocuSikokfSikoko
志摩ShimaXimaXima, ScimaSsimaSima
下方Shimo(gata)XimoScimo

下総ShimousaXimosaScimasaSimoosaSimo-oza
下野ShimotsukeXimotcuqueScimotcuqueMoodsvkeSimoodseki [!]
信濃ShinanoXinanoScinamoSinanoSinano
周防SuoSuuoSuuoSvwoSoewo
駿河SurugaSurungaSurungaSvrvngaSurunga
但馬TajimaTaijmaTyamaTasimaTasima
丹波TanbaTambaTambaTanbaTamba
丹後TangoTangoTangoTanTango
土佐TosaTosaTossaTosaTonsa
遠江TotomiTatomi [!]TotomiTootomiThotomi
津軽TsugaruTzugaru [!]ZugaruSugaar
対馬Tsushima
Cuscima [!]TsvssimaTsussima
若狭WakasaVacasaVacata, VasacaWackasaWacasa
山城YamashiroYamaxiro
JamasiiroJammissero
大和YamatoYamatoYamatoJamat[o]Jammato

他の地域ではヨーロッパ人は現地の川、山、谷や地域の名を無視し、地図上でもいいように記していたが、日本の古地図では日本名がかなり残っている。発見者のこのような傾向は沖縄あたりの南洋の海図には残っているが、まもなく失われた。わずかな名残りとして九州近海の宇治群島を18世紀までイスパニア風に「Santa Clara」(聖クララ)と呼んでいた。オランダ人が1643年北方地域の探検の間に命名したものはおそらく情報の不足によるものだろう。上陸は禁止されていたため、海上から見て目立つような目印からオランダ名をつけたようだ。「Ronde holm」(丸島), 「Witte hoek」(白崎),「Walvis Bocht」(鯨湾),「Lange Hoek」(長崎)、「Bay de Goede Hope」(喜望湾) 等。千島列島の 「エトロフ」 とウルップ島の間の「Straat de Vries」 ではとうとう感情が高揚してしまった。北方は無人の地だと信じ込んだ Vriesは「商会の国」の所有を厳かに宣言した。このような精神は南洋でもまったく放棄してしまったわけではない。ジーボルトの1840年の地図では朝鮮半島と日本の間に「クルーゼンシュテルン海峡」(Krusenstern Strasse)と「ブロートン海峡」(Broughton Strasse)が目につき、南部九州の付近では再び「van Diemen」、「Linschooten」や「Colnett]が復活している。しかしこれも地政学上の力関係の前では長くは続かなかった。

 

 Footnotes

1 Horst Hammitzsch: Japan-Handbuch. Stuttgart 1990, pp. 1565ff.参照

2さらなる事例につき以下の文献を参照:
(a) Guenther Wenck: Japanische Phonetik. Band 1-4. Wiesbaden, 1954-1959;
(b) 外山英治「近代の音韻」国語史講座2 - 音韻史・文字史 。東京1972年。

 

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