ヴォルフガング・ミヒェル「村上玄水の略歴」『村上玄水資料I』村上医家史料館 資料叢書1、中津教育委員会、中津、平成15(2003)年、1〜6頁。
Wolfgang Michel: Short Biography of Murakami Gensui. In: Wolfgang Michel (ed.): Murakami Materials 1. City of Nakatsu, Nakatsu 2003, pp. 1-6. (Murakami Medical Archive Series, No. 1)
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村上玄水の略歴


ヴォルフガング・ミヒェル

 村上玄水については玄水が著した文書や玄水宛の書翰などが残されているが、特に重要なものは、豊後日出藩の儒者・帆足万里により玄水の墓石に刻まれた見事な碑文であろう(図1)[1]。これらの情報を総合すると、玄水の生涯の詳細は不明のままでありながら、その大きな動きや輪郭が見えてくる。ここでは今井正樹の基礎的研究を踏まえながら、玄水の生涯を概観する[2]。詳細な分析は別の機会に行うこととする。

図1 村上玄水の墓石(中津市、東林寺)

村上玄水(諱は卓・字は玄立のち玄水)は天明元年、豊前中津藩で御典医村上玄秀の長男として生まれた[3]

 玄水が生まれる前年に、第3代藩主奥平昌鹿が死去している。昌鹿は在位期間(宝暦8〜安永9)こそ短かったが、和歌や絵画などに関心を示し、訳書『解体新書』を著した前野良沢ら蘭学の先駆者を支援したことでも知られている。跡を継いだ第4代藩主昌男は、天明6年に24才の若さで死去。嗣子不在であったため、急遽薩摩藩主島津重豪の二男が養子に迎えられ、昌高と名乗り、天明6年8月、第5代藩主となった。経済政策の面では、昌高はほとんど成果を上げられなかった。度重なる凶作や寛政3年、5年の町方騒動、文化9年の農民一揆などに、奥平10万石の困難な状況が表れている。

 しかし昌高は、学問を奨励した藩主として名を成した。昌高はまず寛政八年、片端町に進脩館(しんしゅうかん)を設立した[4]。教授に任ぜられたのは、儒学者・倉成龍渚(りゅうしょ)(寛延元年〜文化九年)と野本雪巖(せつがん)である。倉成は、師・藤田敬所の古義学を講じた。また学則に、経義朱註を主とし、併せて古註を用いることを定めた。進脩館の教授として、吹出浜(中津市)古表社祀官家に生まれた九州国学の三大家の一人渡辺重名の名も見られる。重名は荒木田久老、本居宣長のもとで国学を修め、進脩館で国書の講釈を行なった。中津藩上士の子弟は7、8歳頃必ず入学したが、のち、町人の子弟も入学できるようになった。国学、漢学、洋学、漢洋医学、筆道、算術、兵学、弓術、馬術、剣術、槍術、砲術、抜合、柔術、遊泳という15学科は文事も兵事も重視する方針を反映している。

 玄水の幼年期や青年期に関する情報はあまり多くない。彼は寛政8年に進脩館に入り倉成龍渚及び野本雪巖の指導を受けた。当時の資料として漢詩(七言絶句)の写本が若き玄水の意欲を示している[5]。同じ寛政10年、久留米へ赴き、久留米藩の儒官・梯隆恭(たかやす)に入門する。[6]ここで玄水は三年間特に兵法・軍学を学んだ。村上史料館に伝わる資料から、玄水が非常に真剣にこれらの学問と取り組んだことがうかがわれる。数巻からなる写本『軍法極秘傳書』の中に、詳細な陣の図や兵法作戦図(図2)などが多数見られる。梯隆恭の教えは『武候全書口訣』全6巻や『戦法秘伝口訣』全一巻にまとめられているが、これらの資料には西洋の影響は見られない。また、玄水が所有していた師範の著書『孫子提要』[7]からは、これが主に古兵法に新たに手を加えたものであったことがわかる。[8]

図二『軍法極秘傳書』の陣の図(村上医家史料館所蔵)

 久留米は長崎街道沿いにあった。オランダ商館長一行は久留米を経由して小倉へ行き、そこからさらに江戸へと向かった。もしかしたらここで玄水が、町を通過する出島商館長ウイレム・ラスやウイレム・ワルデナール、あるいは蘭日辞書の編纂で有名なヘンドリック・ドゥーフらを見ていたかもしれない。また久留米にいれば長崎からやって来る人と話す機会はいくらもあった。玄水がのちに蘭学に示した興味が、この時期に育まれていったことは間違いない。

文化3年、玄水は中津へ帰還する。この年、安芸国宮島出身の中井亀助(厚沢、1778〜1832)が長崎遊学からの帰路、中津を訪れた。厚沢は以前広島で師・星野良悦の木製骨格模型を見たことがあり、江戸で大槻玄沢の門下生として桂川甫周、杉田玄白などと交遊する顔の広い蘭方医であった。彼は吉雄耕牛の門下にも従遊し、水銀系薬品に関する「升汞丹製法秘訣」をまとめたこと及び、稲村三伯の『江戸ハルマ』の増補版を出版したことで知られている。厚沢の弟子の中では特にシーボルトに鳴滝塾初代の塾頭に任じられた岡研介が注目に値する[9]。厚沢は玄水に西洋の解剖学(「内景方説」)について語り、多大な影響を与えたようだ。玄水は家督を継ぎ医業の道へ進む決心をする[10]

 玄水は非常に優秀だった。文化8年3月には、奥平藩御典医(外局)になっている。二ヶ月後、中津で疱瘡が流行したとき、玄水は非常によく働いたようで、銀百疋を賜っている[11]。当時、中津藩ではいくつかの動きが見られた。蘭学を奨励していた藩主昌高の命により、文化七年、日蘭辞書『蘭語訳撰』が刊行された。昌高は次男昌暢(まさのぶ)に家督を譲ったのちも、たびたび藩の政治に携わった。

 文化9年11月、玄水は近習医師に任ぜられる[12]。しかしそれ以降何年かは情報がない。のちの文化15年3月に父・村上玄秀(華林堂)が七三歳で死去、37才の玄水は7代目として跡を継ぐことになり、それにより彼は九州の医学史に名を残すことになった。

 翌年の文政2年3月7日、21〜22才の強壮な男性が中津藩刑場「長浜」で処刑された。玄水は人体解剖を願い出て許された。死体は桶に入れられ、翌朝まで見張りがつけられた。天候の影響を避けるため、2間4方に葦の屋根が設けられ、解剖場は垣で囲まれた。翌朝、中津藩をはじめ、筑前、肥前などから57人の医師が集まった。見学者の数や国許から、この解剖がかなり前から計画され、中津藩主・奥平昌高の支持があったことが推測される[13]。(図3)

 

中津城下 辛島正庵、松川修山、大江軍司、根来東俊、根来東林、小幡恵意、大江貫如、原田養賢、久恒玄篤、藤本玄泰、東玄硯、橋本玄成、平野玄遂、加来道一、藤野玄悦、松本賢立、田代一徳、重松元恭、村上玄水
古城、中津鶴居 横井湧泉、横井専意
下毛郡 伊藤玄伯、藤本杉亨、篠島白民、安田円、久恒寿斉、思塚幽玄、簗玄亨、朝山玄固、久恒圭甫、田口明哲、宮永頑輔、田淵元亨、一松耕玄、美原硯民
宇佐郡 土岐春良、末松拙斉、木下東庵、大江玄一、敷田謙亨
築上郡 恒遠文恭、大辺杏寿、宇野広範、林玄達、橋爪圭民、生口綱輔、星見文侑、金苗見竜、中村寛助、今永良平、今永圭司、土佐井玄良
日田 日田圭司
神田 福田運平
田深 山下玄一
月股 柳井龍徳
大阪 坂金吾
図3  村上玄水による人体解剖の見学者

 解剖は3月8日の朝に始まり、同日夕方まで続いた。中津藩の画員片山東籬(とうり)と助手の佐久間玉江が解剖図を描いた。これは九州初の解剖であり、玄水が自ら執刀した。おそらく彼は観察し記録したものを出版するつもりだったと思われる。玄水が『解剖図説』にどのくらいの時間をかけたのか、現存する資料からは知ることができないが、おそらくかなりの時間を要したと考えられる。というのは解剖の二年後、玄水は病気にかかり、藩の御典医の職を数年間辞しているからである[14]。またこの間に藩主昌高が死去している。昌高の跡を継ぎ藩主となった昌服のもとで玄水は復職した。玄水の原稿『解剖図説』はこの時期になって仕上げられた可能性が高いと思われる。画員片山東籬が文政七年に死去しているため、解剖図を仕上げたのは助手の佐久間玉江である可能性もある。

 玄水は昌服に随行し何度も江戸へ上っている。村上医家史料館の資料は、玄水がこの数年間西洋医学のみならず、天文学、地理学、その他の西洋の学問や、伝統的な陰陽五行説、本草学等にも携わっていたことを示している。彼の薬事控帖及び治療記録も洋の東西に開かれた視野の広さを物語る。

 玄水は、文政6年から長崎に住み、長崎奉行の許しを得て鳴滝塾を開いたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとも面識があった可能性がきわめて高い。というのはシーボルトは文政9年2月、オランダ商館長デ・ステュルレルとともに江戸へ発ったが、玄水は一行とともに長崎から小倉まで随行し、小倉から中津へ戻っているからである[15]。また、玄水が3年後に中津の「善地堂」に写した「矢以勃児杜験方録」も彼のシーボルトに対する強い興味を物語っている[16]


図 3 玄水の「草稿」に見られるオランダのことわざ「Stille Waters hebben Diepgang Den Ao 1822 K. Hoken」(静かな川は底が深い、つまり静かな人は意外に深い知識を持っているものだ。「K. Hoken」は著名な蘭学者桂川甫賢。)[17]

 文政10年〜11年頃、玄水はようやく『解剖図説』の原稿を息子春海が師事していた豊後日出藩の藩儒・帆足万里に送った。蘭語を独修し蘭書を読解する経験豊富な医学者でもあった52才の帆足万里(安永7〜嘉永5年)[18]は、意見と序文を求める玄水の依頼に対し、「もう少し勉強して『序文』に取りかかりたい」と返信している。万里が序文を書き上げたのは、文政12年12月のことである。村上医家史料館に伝わる原稿に朱墨で入れられた訂正は、帆足万里によるものである可能性が非常に高いと思われる。

 同年有名なシーボルト事件が起こった。シーボルトは国外追放となり、シーボルトの地図持ち出しに関わった可能性のある者全員が罪に問われた。シーボルトの弟子たちにもさまざまな嫌疑がかけられた。村上医家には、そのひとりである高野長英が玄水のもとにかくまわれていたと伝えられている。

 文政13年10月18日、51才の玄水は、著名な学者である宇田川玄真(明和6〜天保5)に助言を求めている[19]。玄真は若い頃江戸で桂川甫周、大槻玄沢らに蘭学を学び、日本初の蘭日辞書『波留麻和解』の翻訳にも関わった人物である。玄真は、歴史上重要な薬学の書である『和蘭薬鏡』、『遠西医方名物考』のほか、オランダ語の解剖書を翻訳し、『遠西医範』として出版。さらに、その要点をまとめ、これに銅版画家亜欧堂田善(あおどうでんぜん)による人体解剖図を付けた『医範提綱』を出版した。『医範提綱』といいう書名は玄水のメモ集「草稿」に見られますので、かつては玄水がその本を所有していたと思われる[20]

 文政13年に江戸に滞在していた玄水は、玄真と手紙による接触を試みる。玄水は文政2年に行った人体解剖や、自著『天地文体論』に言及し、自分より約10才年長の玄真による厳しい批評を望んだ[21]。残念ながら両者は全く出会うことなく、玄水は何らかの理由で予定より早く中津に戻らねばならなくなった。その4年後に宇田川玄真が死去。この間、玄水は玄真に自分の著作に興味を持ってもらうことを断念したようである。

 玄水の晩年の10年間の詳細はわかっていない。この時期は福澤諭吉の母が2才の諭吉を連れて中津へ帰ってきた頃にあたる。天保14年6月、中津藩医・大江春塘が58歳で死去。その翌月、天保14年7月4日、玄水が63才で死去し、八代春海が跡目を継いだ。

 


注釈
[1]  原稿「村上玄水墓碑銘」(村上医家史料館所蔵)。
[2]  玄水については、以下の文献を参照。今井正樹『医亦従自然也 村上医家事歴志』中津、昭和57(1982)年、101から110、119から132頁。川嶌眞人『蘭学の泉中津に湧く』西日本臨床医学研究所、平成四(1992)年、164〜169頁。
[3]  村上家の家系譜については、今井正樹『医亦従自然也 村上医家事歴志』、56頁参照。
[4]  大分県総務部総務課編『大分県史 近世篇 IV』大分、405〜412頁参照。
[5]  漢詩(9枚)、寛政10年(村上医家史料館所蔵)。
[6]「村上玄水墓碑銘」参照。梯隆恭については、以下の文献を参照。学問教育『久留米市誌』上編、597頁〜、久留米市役所編、名著出版、東京、昭和48(1973)年。梯隆恭『久留米市誌』下編、103〜104頁、久留米市役所編、名著出版、東京、昭和(1973)年。梯讓平『増補・久留米藩文化事業史 十志士の面影』63〜67頁、樋口一成編集、「十志士の面影」復刻実行委員会、久留米、平成5(1993)年。
[7]  『戦法秘伝口訣』、『孫子提要』(村上医家史料館所蔵)。
[8]  その他の弓術、船術、指度儀、砲術など玄水による兵法関係の記録数編が村上医家史料館に残っている。また、医業を開始してからも玄水が兵学に関する研究を続けたことを裏付ける資料もある。
[9]  中井厚沢については、以下の文献を参照。中山沃「蘭学を学んだ岡山の医師群像」吉備洋学資料研究会篇『洋学資料による日本文化史の研究 II』岡山大学、平成元(1989)年、14〜15頁、。古賀十二郎『長崎洋学史』長崎文献社、昭和48(1973)年、上巻、71頁、下巻、11,14,15頁。宗田一『日本医療文化史』二三八〜二三九頁。
[10]  「村上玄水墓碑銘」参照。
[11] 「村上玄水墓碑銘」参照。
[12]  「村上玄水墓碑銘」参照。
[13]  今井正樹『医亦従自然也 村上医家事歴志』、146〜147頁。
[14]  「村上玄水墓碑銘」参照。
[15]  今井正樹『医亦従自然也 村上医家事歴志』、109頁。
[16]  外題は「矢以勃児杜経験集」。内題の「矢以勃児杜験方録」の下に「和蘭元千二百十三年ヨリ十七年迄本邦文政六年ヨリ十年迄ニ当ル」の記載がある。シーボルトの治療薬をまとめたこの記録は広く普及したようである。千葉大学附属図書館亥鼻分館、京都の国際日本文化研究センター(宗田一文庫)、九州大学大学附属図書館医学分館などには同様の写本が保管されている。
[17]  文政七(1822)年は桂川甫賢がオランダ商館長ブロムホフとフィッセルとの対談があった年である。日蘭学会編『洋学史事典』雄松堂、東京、昭和59(1984)年、178頁参照。
[18]  帆足万里については、『科学史技術史事典』弘文堂、1983年(「帆足万里」の項)及び大分県総務部総務課編『大分県史 近世篇IV』大分、平成二(1990)年、387〜393頁参照。
[19]  「六祖玄水屈伸録」の2頁目に記載してある(村上医家史料館所蔵)。
[20]  「草稿」表紙の裏側(村上医家史料館所蔵)。
[21]  「文政十有三年」の玄水の下書き(村上医家史料館所蔵)


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