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「平田長太夫の阿蘭陀流外科修業証書とその背景について」。ミヒェル・ヴォルフガング、吉田洋一、大島明秀共編『史料と人物 (III)』中津市歴史民俗資料館 分館 医家史料館叢書 X、中津市教育委員会、平成23年1〜38頁)
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ENGLISH ABSTRACT

「平田長太夫の阿蘭陀流外科修業証書とその背景について」


ヴォルフガング・ミヒェル

 

はじめに

 一七世紀後半に出島蘭館医が日本人弟子に授与した外科免許状は、初期紅毛流外科の医学的・社会的受容を示す重要な史料である。本論文においては、その修業証書の普及及び特徴を分析し、深水通氏から中津市歴史民俗資料館に寄贈された新しい史料を紹介することにする。

 

一、出島商館における医術修行のはじまり

 紅毛人の外科学と日本人との出会いは平戸オランダ商館の時代にまで遡る。オランダ東インド会社の船が停泊している間に船医たちが上陸し、ときおり日本人の患者も診察していた[1]。商館が長崎に移ってからは外科医が出島に常駐し、商館長の江戸参府にも同行するようになる。そのため医学交流の条件も向上し、商館医に対する日本側からの問い合わせや医薬品の注文などが徐々に商館長日誌に見られるようになった。一六五〇年に特使フリジウス(Andries Frisius)と共に江戸へ赴いたシャムベルゲル(Caspar Schamberger、一六二三〜一七〇六)は三〇年戦争で治療経験を積んだ外科医で、彼と、西洋のノウハウを積極的に取り入れようとしていた大目付井上筑後守政重との出会いにより、西洋外科学に対する関心は急激な高まりを見せる。異例の一〇ヶ月間にもわたるシャムベルゲルの江戸滞在中、紅毛流外科の基盤が築かれ、その後、薬品や薬草、種子、書籍や器具類の注文が著しく増えている。出島商館長日誌には日本人による外科医への相談や往診依頼に関する記述が次第に多くなる。シャムベルゲルが日本を離れてまもなく、その後任の外科医たちは長期間にわたって、西洋外科学を習得しようとする日本人の訪問を受けた。手順はいつも同じであった。まず長崎奉行が商館長に要請をする。商館長はそれを了解し、通詞と入門志望者同席の上、外科医に指導を命じる。その最初の例は一六五二年の夏の日誌に見られる。

「本日、通詞全員と島の乙名が来て、奉行与兵衛より、我々の外科医が日本人に技術指導をするよう依頼された。これは御奉行様特別のご厚意であり、喜んで承諾した。」[2]

 幕府の高官が蘭館医に強い関心を寄せたことも、新しい医術の普及を促進したと思われる。一六五七年一月一四日に長崎奉行黒川与兵衛は、大目付井上の命令で儒医向井元升が何ヶ月もかけて出島で作成した報告書に署名するよう、ツァハリアス・ワーゲナー(Zacharias Wagener、一六一四〜一六六八)と外科医ハンス・ハンケ(Hans Hancke)に要請した。

「日曜日、昼食をすませるとしばらくして奉行のもとから、通詞全員と、これまで何度も触れた日本人医師が遣わされ、ヨーロッパ流の治療術に関する2冊の書物について語った。これらの書物は、この医師が大目付筑後殿の命を受け、我々の上位外科医が誠実にまたよい文体で語ったものを、通詞の助けを得て翻訳したものだ。これから奉行の名においてこの書物を江戸へ持参し、大目付に渡す所存であるという。しかしまず外科医が署名し、さらには私自らも署名して、外科医が上述の医師にさまざまな著作を基に教授したことには全く間違いがなく、最高の知識をもって行われたものであることを保証しなければならなかった。私自身は異様でばかげた理由づけだと思い、断りたかったが、逆らう余地はほとんどなく、奉行の要求に従わざるを得なかった。」[3]

 これは蘭館の外科医が、その教えがきちんと相手に伝わったことを保証した最初の例となっている。江戸へ持参した書物は同年の大火で焼失したと思われる。ワーゲナーとハンケの名を記した写しを、書写者は不明だが九州大学図書館が所蔵している。[4]

fig 01
図一 写本「阿蘭陀伝外科類方」に見られる商館長及び商館医の認証(九州大学附属図書館医学図書館蔵)

 

 

二、修業証書の交付

 同じ時期に奉行の依頼で波多野玄洞に対する外科教育が始まった。出島日誌には、代官末次平蔵の叔父だと記されている[5]。玄洞への教育は長期間に及んだ。ワーゲナーが一六五七年秋に日本を離れたとき、後任の商館長ブヘリオン(Joan Boucheljon)は、玄洞が「外科医の部屋へ自由に出入りできる」よう依頼された。ブヘリオンはこれを承諾し外科医には、望まれればいつでも指導するよう命じた[6]。一六五八年七月の日誌には、玄洞はこの五、六ヶ月間、毎日指導を受けている、と書いてある[7]。彼はまもなく江戸へ行くことになっており、オランダ語で、オランダ人外科医に指導を受けたことを証明して欲しい、と要請した。代官への敬意もあり、奉行もこの教育を承知していたので、ブヘリオンは外科医のデ・ラ・トンブ(Steven de la Tombe)に、この証明書を発行するよう命じた[8]。これがオランダ語による最初の免許状だが、残念ながら行方不明になっている。

 これ以降二七年にわたって免許状に関する記述が商館日誌に見られる。免許状がどのくらいの頻度で発行されたのかはわからない。数年にわたって何も記されていないこともあるが、これは単に商館長に関心がなかったためだという可能性も否定できない。それでも六〇年代終わりから七〇年代初めにかけて、医術の教育を受けるため多くの医師が長崎へ派遣されている。その中には一〇年もの養成期間を見込んで派遣されてきた、老中稲葉正則に仕えた医師の一二歳になる息子もいた[9]。現在知られている免許状が、たいていこの時期に発行されているのも偶然ではない。最後の免許状が一六八五年に黒田藩の原三信に交付されているが[10]、それ以降は紅毛流外科が十分に確立され、このような外国人による証明書は不要になったようだ。史料により裏付けられている修業証書交付の詳細は表一の通りである。

 

 

表一 史料にみられる修業証書の交付

西暦
和暦
取得者
出典
一六五八年七月一〇日 波多野玄洞 出島商館長日誌(NA, NFJ 71)
一六六五年一月二一日 (寛文四年一二月一三日) 嵐山甫庵 免許状(平戸観光資料館所蔵)
一六六五年 寛文五年三月十一日(添文) 朝枝喜兵衛 岩国藩「御家中系図」、「御取次所日記」
一六六六年一一・一二月 「寛文六年陽月吉祥日」 平田長太夫 全文の写し(深水家旧蔵、中津市歴史民俗資料館蔵)
一六六七年一二月一七日 「筑後主君の医師」 出島商館長日誌(NA, NFJ 81)
一六六八年一月二一日 寛文七年一二月六日 瀬尾昌琢 免許状(京都大学所蔵)
一六六八年二月二八日 西吉兵衛(玄甫) 免許状(写真、古賀十二郎『西洋医術伝来史』、六九頁に’載。現物の所在は不明)
一六六八年一〇月 「寛文八年九月吉祥日」 太田黒玄淡 免許状(溝上家所蔵、杉立義一旧蔵)
一六七三年一二月一七日 「筑後主君の医師」 出島商館長日誌(NA, NFJ 87)
一六七四年二月一六日 「筑後主君の医師」 出島商館長日誌(NA, NFJ 87)
一六七五年二月一〇日 「延宝三年乙卯正月十六日」 江藤幸庵 一部の写し(江藤家所蔵)
一六八五年一〇月一八日 貞享二年九月二一日(通詞証明’貞享三年八月二十九日) 原三信 免許状(原三信家所蔵)

 

 

三、商館長の厳しい評価

 歴代の商館長は出島における外科教育と弟子たちが受け取る免許についてあまり評価していない。一六七四年二月一六日の日誌でカンフフイス(Johannes Camphuijs、一六三四〜一六九五)が酷評している。

「奉行は外科学の教育を受けさせるよう、またも医師を送ってきた。ロバに博士号を与えるため、外科医には大急ぎで仕事をさせる。通詞によると、この医師は筑後守に仕える医師であり、先だって外科学の教育を終了し立派な免許を受け取った別の弟子と同じように、そのようなオランダ語の免許状を取得させるため、奉行が取り計らったということだ。」[11]

 日本人が非常に急いでいた様子は他の商館日誌にもときおり見られる。商館長ハパルト(Gabriel Happart)は一六五四年に次のように書いている。

「夕刻外科医が皇帝の医師長宗悦殿の屋敷に招かれて色々の病気とその治療法及び薬について尋ねられた後、丁重な酒食のもてなしを受けた。この異教徒らは医師と少時の談話で予習も記録もせず、ヨーロッパの医術を学ぼうと考えるらしい。」[12]

 このような疑問は根拠がないわけではない。例えばドイツ・ライプチヒ外科医組合規定(一六二七年一一月二七日)での外科試験項目が示すように、ヨーロッパでは若い外科医は学ばなくてはならないことが多かった。

Vom Haupt 頭について
Von der Hirnschal 頭蓋について
Von der Dura und Pia Mater 脳硬膜と脳軟膜について
Von Halß und Brust 首、胸について
Von Bauch= undt Weit=Wunden 腹の傷と内臓が射抜かれた傷について
Von Achßell undt Hüfften 肩と腰について
Von Arm und Bein 腕と足について
Von verrenckten und verstauchten Gliedern 手足の脱臼と捻挫について
Von zerbrochen gliedern 手足の骨折について
Vonn Geschoßenen Gliedern. 手足の射創について
Von Geschnittenen Gliedern. 手足の切り傷について
Von verwundten glenckenn 関節の負傷について
Vonn offenen erzunten undt geschwollenen
    Schäden
口が開いたり、炎症を起こしたり、腫れた傷について
Von Tödtlichen Wunden 致死の傷について
Von Bluttstellung, wundt träncklein undt
    Pulver leschungen
止血、飲み薬、粉による血止について
Von Aderlaßen 瀉血について
Von Sÿmptomen und Zufallen 症状と発作について
Von allerley gefehrlichen gebrechen und
    Schäden
危険な損傷について
Von Kraffts[,] Wirckung und Eigenschafft
    der Pflaster
膏薬の効力と作用、性質について
Von Praeparierung undt Zurichtung der Pflaster 膏薬の準備と調合について
Von Auff= und Zurichtung der Werckstätte」[13] 仕事場の建設とその設備について

ライプチヒでは外科医の弟子の基礎教育は三年間かかっている。試験に合格した者は従弟期間修了証を交付してもらい修行の旅に出る。それでも数年後帰ってきた若い外科医たちの多くは親方(Meister)に昇進するための受験は許可されなかった。親方の息子でないと相当の実力がなければ、出世の機会は与えられなかった[14]。また、オランダ東インド会社の外科医採用試験の準備のためにヘルスが刊行した『外科学試験』(Cornelis Herls: Examen der Chyrurgie, 1645, 1663, 1723)にも約二三五ページに及ぶ解剖学をはじめとした、病気や治療方法に関する数々の項目が示され、一七世紀後半の外科医に対する要求の幅広さを物語っている[15]

fig 02
図二 コルネリス・ヘルス著『外科学試験』より[16]

 日本ではヨーロッパ人外科医と弟子との間に言葉の壁もあった。長崎の儒医向井元升が五〇年代に大目付井上筑後守政重の命により出島でさまざまな病気とその治療についての報告書を作成したときには、元升が商館を訪れる度に、阿蘭陀通詞全員が呼ばれたようだ。

「我々はまたも、通詞全員で、筑後殿のために既述の医師元升に薬品の作り方を説明して忙しかったのである。」[17]

 一六九〇年に来日したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer、一六五一〜一七一六)も、通詞の語学力に失望した。彼は、部屋小使い今村源右衛門英生[18]にオランダ語を「文法的に」教えた結果、源右衛門は「これまでの通詞では及ばないほど、オランダ語を書き、上手に話せるようになった」と自負を述べている。[19]

 出島での外科授業に費やした期間が短いという批判は当たっているだろう。しかし弟子たちが長期間オランダ商館にいたとしても、どれほどの知識が身についただろうか。例えば、ヨーロッパの外科医にとってすべての基礎だった体液病理学は日本人弟子にどのように説明していたのか。また、東洋医学との接点のない意味不明の用語にあふれる説明を聞いた日本人はそれをどこまで理解できただろうか。[20]一七世紀に広まった紅毛流外科の写本の中に、体液病理学に関しては、一つの短い概観しか見られないのも、決して偶然ではない。[21]

 

 

四、嵐山甫庵の修業証書

 日本ではどのようなことが教えられていたのか。一六六五年に商館長フロイス(Jacob Gruys)と商館長代理のニコラース・デ・ロイ(Nicolaes de Roij)[22]、外科医ダニエル・ブッシュ(Daniel Busch)が署名し平戸藩の医師嵐山甫庵(一六三三〜一六九三[23])に交付した免許状には貴重な手掛かりが残されている。

 甫庵は寛永一〇年筑前から平戸へ移住した商人半田三郎兵衛の次男として生まれた。名は春育、号は委庵、次いで甫庵(甫安)と称した。寛永一四(一六三七)年、松浦鎮信(一六二二〜一七〇三)が平戸藩主となったが、寛永一八(一六四一)年に幕府が命じた平戸オランダ商館の長崎への移転は地元の経済に強い打撃を与え、東インド会社に対する借金を返済できなくなるほど藩の財政を圧迫してしまった。この厳しい時期に成長期を過ごした甫庵は、商業には将来を託したくなかったためか、何らかの医学教育を受けたのち鎮信公の医師となった。

 

fig 02
図 三 嵐山甫庵の修業証書(平戸市生月町「島の館」蔵)

 

 寛文元(一六六一)年、甫庵は藩主の計らいで長崎奉行黒川与兵衛へ懇請し、オランダ商館において外科術の修行を許可された。出島に出入りするには、様々な規制に従わなければならなかった。寛文元年九月四日付(一六六一年一〇月二六日)の起請文に血判した甫庵は、日本の風俗や土地に関する情報の漏洩、オランダ人との商売、酒宴等々、任務以外のことは一切行わないことを堅く誓約しなければならなかった。

「阿蘭陀人江外科稽古入門之節起請文前書之事
一 對阿蘭陀宗門之[儀]一圓承申間敷事。
一 おらんだに對し、日本之風俗土地之様子、一切咄申閒敷事。
一 阿蘭陀外科傳授之通他見他言仕間敷候。併、右之流相殘ため、肥前守弟子を申付習せ候は可爲各別、雖然他方には一切此洩し申閒敷候事。
一 阿蘭陀江此方より何ニても音物遣申閒敷候、勿論衣類食物其外少之物ニても囉申閒敷事。
一 阿蘭陀と少之商賣も仕閒敷事。
一 阿蘭陀ニ被頼、何ニても商賣之取次仕閒敷候。尤日本人よりも被頼、商賣之取次仕閒敷事。
一 對阿蘭陀何ニても隠密の談合密々之筆談一切仕閒敷事。
一 稽古の内出島ニて何ニても不作法或は酒宴仕閒敷事。
右之條々於相背は   [以下誓詞の文言]
寛文元辛丑年九月四日
               判田李庵 〔血判〕
   大河丞之助殿
   和田與右衛門殿」[24]

 当時の蘭館医は和文史料に「アルマンスカーツ」として登場しているHermanus Katz(ヘルマヌス・カッツ)だった。日本人医師の養成は商館医の本来の職務ではなかったし、通詞を介した医学・医療の教授は、関係者全員に大きな負担を強いるものだった。一六六二年一一月に離日の準備を進めていたカッツは、一年間の協力に対し平戸藩主から銀三〇枚を贈られた。その後、甫庵の医学修行は新任外科医ダニエル・ブッシュ(Daniel Busch / Bosch)の下で続けられた。「蕃国治方類聚的伝」が伝えている三人目の師匠「ハルム」は、一六六二年から出島で勤務していた下位外科医アブラハム・ファン・ケルペン(Abraham van Kerpen)と思われる。松浦鎮信は翌年の秋に彼にも銀一〇枚を授けた。こうして長期にわたり商館の外科医に師事していた甫庵は、一六六五年にブッシュからオランダ語の修業証書を受けた[25]。この免許状は現存する最古のものだ。

「Wij ondergeschreven getuijgen
ende attesteren voor de waerheijt, dat
den Japander genaemt Choan, dienaer
van de Heer van Firando, eende geruijmen
tijt bij de hollandse Chirurgijns heeft
geleert, ende in de ars van de
Chirurgie (voor soo veel ons bekent is)
volkomen is onderwesen, so dat hij
de kraghten van de hollandse medica=
menten redelijk wel is bewust,
daer van hij ons volkomen blijken
heeft laten sien, ende dien volgende
den selven voor een goet genees mr[=genees meester]
verklaren.
    Japan ten Comptoire Nangasacki
    Desen 21en Januarij ao  1665
     Jacob Gruijs
     Nicolaes De Roij
     D. Busch Chirurgijn
       des Eilandt Decima」
(我ら下記の者共は、平戸侯の臣にして甫庵と名乘る日本人が、久しい間オランダの外科医たちについて勉強し、(我らの知る如く)完全に外科の医術を教授せられたことを承認し、かつ証明する。これによつて彼はオランダ医薬の効能に精通し、それについて我らに充分の証拠を与えた。よって我らは彼を良外科医と宣言する。
 於 日本、長崎商館    一六六五年一月二一日
   ヤーコブ・フロイス
   ニコラース・デ・ロイ
出島の外科医D.ブシュ)

 オランダ語の文章には、オランダ通詞七名と出島乙名馬田九朗左衛門が署名した「訳文」が付されている。

 
 鬚■
 證話
伴田甫庵療功者
心弟也黙逢先
師今亦任 官堆
之公契以呈
肝底補授之因
以顯其験書其
據而以所属之

 
右傳之條箇
阿蘭陀外科
原流金瘡内
耗痾痼等秘
蜜不差毫釐 
相授證証無
所疑也故通
詞右勝會而
以所者也
阿蘭陀カビタン
ヤコツプ コロイシ
仝ヘトヽル
ニクラシ ドロヽイ
仝メストル 外科本師
ダンネル ボツシ
 
此審國之證人
猶 本師之所
明右有審墨
筆中 
  阿蘭陀通詞
    志筑孫兵衛〔黒印〕
  仝 西吉兵衛〔黒印〕
  仝 横山與三右衛門〔黒印〕
  仝 加福吉左衛門〔黒印〕
  仝 本木庄太夫〔黒印〕
  仝 冨永市郎兵衛〔黒印〕
  仝 名村八左衛門〔黒印〕
 長崎出島乙名
   馬田九郎左衛門〔黒印〕
 
 龍飛 寛文甲辰
   臘月拾三
   冏[26]
 伴田甫庵雅醫
     前
 
 序 
疾者以時間
風土懸場也人
不可不食学不
可不生然 場
為逆為疾学
生余 肉凍留血
令感物予而以混
緊残矣誠車達
其色則通其
珪矣是以予
従尾学之嚢
尋會之面待三
国以自序之
  旹
 龍飛 
 甲辰
 雪冲 圭
伴田甫庵
    春育」

 さらに指導の内容についての説明も興味深い。

鬚■大方

・膏薬治方          製薬
  仝剤効能治方
・ラフメントノ療方      製薬[27]
  仝機効能治方
・ホロカへシノハ器剤      製薬
 仝方効能治方
・ハツハスノ療方       製薬
 仝機効能治方
・シロへフノ療方       製薬[28]
 仝方効能治方
・煎油秘方          製薬
 仝方効能治方
・テリヤアカノ方       製薬[29]
 仝剤効能治方
・メデリダアテノ方      製薬[30]
 仝方効能治方
・レリエスニリライノ方    製薬
 仝方効能治方
・コンへクシアメキノ方    製薬[31]
 仝方効能治方
・ヲツフヨムノ方       製薬[32]
 仝方効能治方
・ヘレシヒタールノ方     製薬
 仝方効能治方
・ソヒリマートノ方      製薬[33]
 仝剤効能治方
・ロフトウリウンノ方     製薬[34]
 仝方効能治方
・アヽクワヒイテリヨーリノ煎方 [35]
・フランタビニー       煎方 [36]
 
   器用
・テストレル 圖形[37]
・薬草為水作療 
 仝方効能治方
・テストルメント
 不可以器物
・アナトメーヤ  傳授[38]
   木草原始
・ブツバンブー 
   各傳授
   無繇定
・阿蘭陀式効能治方
 仝諸薬製療方
 仝薬種代理方
・望問瘡種知可否事
 仝症始用薬清療事
 仝症内托療方事
 仝症肺癰腸癰内托事
 仝症真針傳授事
 仝症經絡傳授事
・動經絡放悪血秘傳事
・打間折傷連骨之事
・眼耳鼻歯咽喉治方事
・手足背筋宿引事
・癭瘤余肉血疾治方事
・金瘡療治用薬清療事
 仝症明可否事
 仝症血流連清療事
 仝症血落圓胴堕事
 仝症生悪宕内托事
・身骨鉄玉抜放事
・審國寶種述和名知事
 仝同土病名化倭詞事
・生類山海見季製薬事
・随季知草邑傳授事
   

 主として次のような内容である。
膏薬の製造法と効能、使用法。シロップの製造法。テリアクの処方。薬草の利用法。薬草からの薬油蒸溜。オランダ製薬品の性質と利用法。腫物、打撲傷、骨折、負傷及び目や鼻、耳、歯、喉の治療法。瀉血。弾丸の取り出し方。オランダの専門用語の日本語訳。動植物の医学的利用法。解剖学。

 一見したところでは、ヨーロッパにおける外科医養成とはさほどの違いは見受けられないが、オランダ語による免許状の原文と阿蘭陀通詞が付けた和訳・解説文が一致していない。商館医ブッシュは、甫庵はオランダ医薬の効能に精通しているとしか書いていないし、また、「我らの知る如く」という言い回しもブッシュのいくらか消極的な姿勢を示唆している。いずれにせよ、上記の免状は商館医が教授した医術の内容について、最も詳細に述べたものである。

 

 

五、岩国藩医朝枝喜兵衛の修業証書

 嵐山甫庵が上記の免状を受けた二ヶ月後、岩国の医師朝枝喜兵衛は、出島での医学修行を終了し同様な証書を与えられた[39]。原本は存在していないが、和文史料から、当時の状況をある程度で窺うことができる。岩国藩「御家中系図」にその経歴が記されている。

「慶安元年正月廿七日広正公御意を以て広嘉公御部屋加番被仰付、承応三年三月廿八日広正公御意にて御扶持切米定之御従役被仰付、一人扶持三石二斗被下置、其後広嘉公御側役被仰付、江戸萩御供、御使等数度相勤候、万治三年五月、年来御懇望之外科金瘡医療稽古被仰付、同七月十二日皓台寺月舟和尚同道にて長崎へ罷越、其節御奉行甲斐庄喜右衛門殿黒川與表衛殿え月舟和尚を以て紅毛人の外科稽古仕らせ度由被仰入候処、江戸表御伺に相成御免にて、御奉行より紅毛人カピタンに被仰付、カピタンより外科メステルタニイルに申聞之上、御奉行へ誓約仕、出島へ日々に通ひ稽古仕候」[40]

 藩士朝枝半兵衛景近の四男として周防国玖珂郡岩国城下に生まれた喜兵衛は、若い頃から後に第三代領主となった吉川広嘉(広純)の側役を務めた。万治三(一六六〇)年、生来病弱であった広嘉の健康状態に悪化の兆候が出始めた。以前から外科金瘡医療を志していた喜兵衛は藩命により長崎に下向した。明暦二(一六五六)年に幕命により皓台寺の第三代住職となった月舟宗林(げっしゅうそうりん)は喜兵衛の実兄であった。彼の力添えで、奉行が商館長にその願いを伝え、了承を得た。奉行に誓約書を提出した上で、喜兵衛は日常的にオランダ商館に通い、外科医「タニイル」(Daniel Busch)に医術を学んだ。

 修行は寛文元(一六六一)年九月に一旦打ち切られた。喜兵衛は帰藩し、一一月広嘉に随行して京に上った。寛文三(一六六三)年二月岩国へ帰った。八月二八日、広嘉は父の隠居により家督を継いで第三代領主となり、九月一一日に喜兵衛は再び長崎へ赴いた。今回も何らかの策が必要だった。『御取次所日記』の寬文三年九月一一日条に次の記述がある。

「朝枝喜兵衛長崎へ外科樓古に今朝御下し被成候、喜兵衛へ銀子二枚被遣候、長崎之高木作右衛門へ朝枝喜兵衛御下し被成候付て、御頼可被成御状被遣候、皓台寺へも御状被遣侯」[41]

 今回の修行は寛文五年春まで続いていた。岩国藩「御家中系図」は次のように述べている。

「寛文五年三月十一日、カピタン、へトル、メステルタ二イル、三人之免状を得、猶其節通事名村八右衛門[=八左衛門]、志筑孫兵衛、西吉兵衛、横山与三右衛門、富永市郎兵衛、加福吉左衛門[吉兵衛]、本木庄太夫、出島長高田九郎左衛門等より之判物受取、皆伝之上油薬数品取帰所持仕候 [中略] 広嘉公新規家筋御取立にて、寛文十一年二月十四日二人扶持四石被下置、延宝二年十月廿九日御扶持切米下地に直し、高二十石に被仰付候」[42]

 当時の商館長は上述のJacob Gruijsである。ポルトガル語「へトル」(feitor)はオランダ商館長代理の意味で、下位商人Nicolaes Roijのことを指している。寛文五年三月一一日は西暦の一六六五年四月二六日にあたる。商館長らは、すでに三月三日から江戸へ旅立っており、これは通詞による添文の日付である。

 昭和四年に大阪で開催された開国文化史料大観の資料目録に、喜兵衛の子孫と思われる朝枝静峰が出品した次の二点があった。

「紅毛瘡科集  蘭芳外科書巻末に当時の蘭医教授三氏が自署の医学得業状あり(寛文四朝枝喜兵衛長崎にて遊学の上れを受く)
紅毛伝心集、寛文五年長崎にて蘭医ダニエルより授けられたる外科医術筆字せるもの」[43]

残念ながら、現物の行方は不明である。

寛文五年、修行証書及び貴重な油薬を持ち帰った喜兵衛は、岩国に戻り、その後剃髪して以朴と号して医業を営んだ。貞享三(一六八六)年七一歳で死去した。出島商館日誌に関連の記述は見当たらず、現物も失われたが、彼は商館医の免状を受けたに違いない。

 

 

六、平田長太夫の修業証書

 中津市歴史民俗資料館に寄贈された免許は、享保二(一七一七)年に作成された写しだが、阿蘭陀通詞の和文認証と共に外科医のオランダ語原文も模写されたので、原本の形式は確認できる。一六六六年一一月にその証書を与えられた平田長太夫の背景は不明である。

 

fig 04
図四 辛島正庵玄快(一六七八〜一七六九)(中津市辛島家蔵

 

 免許の写しは中津藩医辛島家初代の辛島正庵のために作成された。辛島家の簡単な系図及び中津藩の「御家中先祖書抜書」や「嘉永三年改」があるが、初代正庵の生涯に関するもっとも重要な情報源は肖像画と儒学者藤田順則による経歴を記した掛軸である。その要点はすでに川嶌眞人が報告したが[44]、原文は下記のとおりである。

「本州宇佐郡辛嶋村有故家自先世氏其地名本姓
漆嶋爲宇佐四姓之一正庵先生其後也先生諱玄快
字市佐衛門及祖了誓以専服ばい賈來居于中津元禄
十二年巳卯先生方二十一歳於是師小笠原侯醫官
平田道巴從此業醫術變其俗貌且改姓名曰岡部
道意蓋依母家姓氏也元禄十四年辛巳遊於洛硏
究醫学後適長崎学紅毛瘍科而歸後廢其業元文
四年巳末十月我 君候石爲侍醫實六十一歳也寛保
二年壬戌從 駕赴江戸明年十月還延享三年丙寅
致仕于時六十八歳云向命診脉適嗣元珪世田禄且侍診脉如
𦾔次子素庵亦善醫明和六年巳丑正月二十一日其完
天年九十一歳無病而終
安永四年乙末八月 
本府儒臣七八翁藤田順則識」[45]

 上記の経歴及び「辛島家系図」によれば、辛島正庵は延宝六(一六七八)年宇佐郡辛島村で生まれ、諱は玄快、字は市左衛門といった。元禄一二(一六九九)年から小笠原侯の医師平田道巴に医術を学び、その二年後京都に遊学し、さらに長崎で腕を磨いた[46]。彼は元文四(一七三九)年六一歳で侍医となった。以降中津の医療に尽力した歴代家督の中でも、とりわけ正庵(五代)と長徳が、種痘の関連で注目されている。[47]

 

fig 05
図五 平田長太夫の修業証書[48]

 

 ローマ字の模写がうまく行かなかったため、原文は断片的にしか復元できない。それでも、蘭文証書が二つの部分から構成されていることは一目瞭然である。前半は教授を担当したライエン(Cornelis de Layen)とディルクス(Arnout Dircksz.)に署名され、後半は商人デ・ロイ(Nicolaes de Roij)及び商務助手ロンデル(Louis Rondel)の名を示している。商人デ・ロイの自筆署名に添えられるpropria manuの模写が見られる。

 出島商館長日誌は上位外科医ディルクスの活動について記しており、瀬尾昌宅及び西吉兵衛の免状も彼の署名を示しているが、ライエンは東インド会社の史料で確認できないので、身分の低い下位外科医だったと思われる。

 

fig 06
図六 平田長太夫の修業証書(蘭文)

 日付の一六六六年一一月三日は陰暦の寛文六年一〇月七日にあたる。阿蘭陀通詞が同一〇月(陽月)に書いた認証文は、両外科医の名を当て字で表記している。

「Zoodeij alhijer op het eijlandt Desima
zich onderworpen heeft om de Ch[ir]urghije
te leeren van Cornelis de Liver en Mr.
Arenold Dircsen bekennende zich den
boven genoemden op sijn ellandt geleert
te hebben endehem daer voor ageeren
    Cornelis de Laver
    Arnold Dirckz.
 
Alsoo ’s Tjodoyodonne hem een geruijme tijt
bij onse geneesmeesters in de
chirurgije tamelijk heeft geoefent
en redelijkere ervarentheijt daerdoor gecregen
heeft, soo is ’t dat wij hem seer gaerne voor
een Japans arts willen erkennen
Nangasackij desen 3 November 1666
    Nicolaes de Roij
    Louis Rondel
 
阿蘭陀外科印可之和
平田長太夫阿蘭陀外科令
稽古候阿蘭陀一流之膏藥
并油藥其外秘蜜之藥方
療治之仕掛不残令傳受候
處明白實正也自今以後何国
仁而茂傳受之通療治可在
之候為其一巻遣候
 
寛文六年
      阿蘭陀外科
       古留祢連須天羅阿婦留
  午之
   陽月吉祥日
      同
       阿留農婦戸天連貴世宇
    阿蘭陀通詞
       名村八左衛門〔印〕
   同
       西 吉兵衛〔印〕
   同
       横山与三右衛門〔印〕
   同
       馬田九郎左衛門〔印〕
   同
       加福吉兵衛〔印〕
   同
       本木庄太夫(印)
   同
       冨永市郎兵衛〔印〕
右所傳阿蘭陀
国醫生于余外
療不辞蘊奥
令傳受之事
 享保二年
  酉之    平田道巴
   二月日  杏林〔朱印’衟〕
辛島正庵老」

 比較的短い通詞の認証文は以下の内容である。

「阿蘭陀外科印可の和[49]
平田長太夫、阿蘭陀外科稽古せしめ候、阿蘭陀一流の膏薬并びに油薬、其の外秘蜜の薬方療治の仕掛け、残らず傳受せしめ候處、明白実正なり、自今以後、何国にても傳受の通、療治これ在るべく候、其の一巻のため遣し候」

 写しを作成した平田道巴はこう説明している。

「右は 阿蘭陀国醫生の傳する所、余の外療に、蘊奥を辞せず、傳受せらるの事」

享保二(一七一七)年には、辛島正庵はまだ平田道巴に師事していたとは思われないが、道巴は平田医家の阿蘭陀流医術の由来と伝受を重要視し、その熱意を正庵に伝えていたことは確かである。その前の享保元(一七一六)年、中津藩小笠原家が無嗣子で改易となり、翌年に奥平家が入封したことは、この様な「伝統の再確認」を促したかも知れない。

 

fig 06
図七 平田長太夫の修業証書(奥付)

 

 

七、瀬尾昌宅の修業証書

 一六六八年一月二一日に、三ヶ月間の修行を終了した瀬尾昌宅(諱は淳範、一六四五〜一七一八[50])は免許状を授与されたが、ここでは商館医ディルクスの証明しかない。

「Sinowo Siotack Japanse Doctor, sich ontrent de
3 maanden, bij mij ongergesz opper=chijrurgijn des comtoirs Nangasacky
in de Chijrurgia hebbende laten onderwijsen, ende daar van, als mede van
zijn bevorderinge in de selve konst, eenigh testimonium begerende, verlene
het zijn E. na waarheij als volght.
Dat hij Senowo Siotack, gedurende de bovengen tijdt (waar in ick hem
alle de delden, zo der theorie als der practijcq de heel-konst raackende,
getrouwelijck hebbe verklaart) zich zeer naerstigh zo wel in het aanteijc=
kenen als aanhoren der leerstucken heeft getoont; zo dat wel te vertrouwen
is, dat nu met meerder fondament als te voren de heel-konst zal konnen oeffenen.
  Actum ten Comptoire Nangasacky in Japan, adij 21e Januarij 1668.
    Arnold Dirckz.

一、此瀬尾昌宅阿蘭陀外科一流
之膏藥油藥、其外秘審之藥方療
治之仕掛致相傳候。尤外科之執行
強元來内稽古在之故、一流之得心
頼候。此以後何国仁而茂稽古之
通療治可在之候。為其此一卷遣
 以上。
寛文未年丁未十二月六日
     阿蘭陀外科
       アルノヲトデレキセン判
右長崎 御奉行所様御意以御檢
使 仰付通事共立合出嶋
阿蘭陀外科一流不殘稽古相濟申
候。爲證據我ヒ判形仕候。 以上。
  未ノ十二月六日
  瀬尾昌宅老
     名村八左衛門  〔黒印〕
     西吉兵衛    〔黒印〕
     加福吉左衛門  〔黒印〕
     本木庄太夫   〔黒印〕
     富永市郎兵衛  〔黒印〕
     立石太兵衛   〔黒印〕
     楢林新右衛門  〔黒印〕」
右之通以検使被遂相稽古處紛無之候
拙者共不及加判儀候得共達而御所望
如此候以上
未ノ極月六日
       渡邊金右衛門正綱 〔花押〕
       中村久右衛門安勝 〔花押〕
       矢中友太夫乗直  〔花押〕

 

 

fig 08
図八 瀬尾昌宅の免許状(蘭文)。AとDはArnold Dirckszの頭文字。[51]

 

 通詞の証明に続き、立ち会った奉行所の検使の署名及び花押がある。ディルクスは、昌宅を「医師」(Doctor)と呼んでいるので、短い修行期間で十分だったかも知れない。昌宅は同じ時期に「外科心鏡集」(後に行方不明となる)をまとめ、書家としても名を上げた唐通詞林道栄が序文を執筆した[52]

 免許を受領してから、昌宅は江戸に赴き、貞享元(一六八四)年奥医師に列せられ、宝永五(一七〇八)年法眼となった[53]

 紅毛人外科医の授業を受ける際には、奉行所に起請文を提出しなければならなかった。現存する唯一の史料が、当時の厳しい情報管理を色濃く伝えている。瀬尾昌宅の名は寛文七年の「外科稽古之者共」に記されている。

「外科稽古之者共前書
    起請文前書
一阿蘭陀人外科稽古仕迄ニ而不依何事
日本之風俗切支丹宗門物語ハ仕間敷事
一不依何事商売仕間敷候勿論親類
近付頼申候共商売之仕間敷事
一商売之儀ニ無之候共おらんた人方江之
使■おらんた人方より仕間敷事
 附不依何事出嶋之家物通事之者与
 隠密之談合仕間敷事

寛文六年午九月廿九日  挙玄節      (一六六六年一〇月二七日)
            堀玄作
            山村清左衛門
            村上才庵
   寛文七年未五月廿七申付之       (一六六七年七月一八日)
            牧野升朔
   同年六月十八申付之          (一六六七年八月七日)
            水沢久右衛門
   同年十月廿一申付之          (一六六七年一二月六日)
            瀬尾昌宅
進上 御奉行所様」[54]

出島で外科修行をした上記の人物のうち、商館日誌で直接的・間接的に確認できるのは、瀬尾昌宅だけであるが、免状を受けた医師が多数いた可能性もある。

 

 

八、通詞西吉兵衛(玄甫)の修業証書

 現存の阿蘭陀外科免許の蘭文を比較すると、心から称賛されているのはたった一人しかいない。一六六八年に商館長ランスト(Constantin Ranst)、外科医ディルクス(Arnout Dircksz)と下位商人フリート(Daniel van Vliet)が通詞西吉兵衛(きちびょうえ)(玄甫、一六三六〜一六八四)のために署名した免状は異例の長さで、しかも彼のことを絶賛している。この文書は所在が不明ながらKleiweg de Zwaanの『Völkerkundliches und Geschichtliches über die Heilkunde der Chinesen und Japaner』(一九一七年刊)に載っており、西家の所蔵と思われる。

「Constantin Ranst, geboortig van Amsterdam, opperhooft wegens de Vereenigde Nederlantse geoctroijeerde Oostindische Compagnie in ’t Keiserrijcq van Japan. Salut doen to weten alsoo den oppertaelman Nids Kitsibeoije lange jaren soo bij d’Hollanderen als Portugese padres het excerseren der Chirurgie bijgewoont hem darinne doorgaens met goede opmerckinge g’evertueert heeft, soo dat den selven niet alleen rijckelijck behoorde te passeeren de kennisse van alle andere Japanse doctooren, nemaer g’achtet to werden voor een Eropeaens Chirurgijn, daer bij geconsidereert desselfs opinie en genegensheijt desrakende. - hebbe wij den selven Kitzibeoije garene willen estimeren, houden ende promoverende voor den oppersten van alle Japanse doctoiren, die oijt en oijt, immers soo veel t’onser kennisse rijckt, voor desen van d’Hollanderen in deser wijse tot doctoir gemaeckt ende verheven sijn geworden ende dat omme noch veele en b’sondere reedenen ter contemplatie streckende derhalve alle de Japansz: op dese maniere gepromoveerde doctoiren den meergenoemden Kitzibeijoe daer voorn hebben te achten, erkennen aen te nemen ende doorgaens de preferance of Voorsittinge in ’t uijtten van sijn advijs te geven daert behoort.
Aldus gegeven ende tot bekrachtinghe dese met onse gewoone hantteeken ende ’s E: Compagnies chiap[55] bekrachtigt, ten Comptoire Nangasacky dese 20en.    february 1668.
    Constantin Ranst
    Daniel van Vliet
    Arnold Dircksz.」[56]

 商館長として正式な文書を執筆したランストは、自分の出生地を挙げたり、日本を帝国として高く位置づけたりし、オランダ東インド会社の印章(ノータリーシール)を付し、名字Ranstのあとに自筆署名を示すヨーロッパ風の花押(manu propria, 自分の手で)を付けるほど証書の形式に注意を払っている。

「日本帝国におけるオランダ東インド会社の商館長にしてアムステルダム生れのコンスタンティン・ランストは、上位通詞[=大通詞]西吉兵衛が永年にわたりオランダ人及びポルトガル人について外科の実施に参加し、常にこのことに大変勉励したので、本人は他のいかなる日本人医師の知識よりも遥かに勝れているだけではなく、これに関する彼の知見と志望を考慮すれば、ヨーロッパの外科医と見なされることを謹んで報告する。
我々の知る限りに於いて、これまで常々オランダ人にたよってこのような方法で医者として教育せられて資格を与えられた所のすべての日本人医師の中で、最高であると評価され資格付けられたように、我々も心から前述の吉兵衛を評価し、資格付けんと欲するものである。なお、多くの、また特別な理由によりこのように資格を付けられた日本人医師が、皆前述の吉兵衛をこのように評価し、これを承認し、常に関係事項に関する彼の助言が提出にされるに当たり、主宰者としての地位を与へんことを欲するものである。
以上を認め、もってこれに権威付ける為、日本長崎の商館に於いて、我々の常用せる署名と会社の印章を据えるものである。一六六八年二月二〇日。コンスタンティン・ランスト、ダニエル・ファン・フリート、アルノルト・ディルクス」

 

 

fig 09
図九  西吉兵衛の修業証書[57]

 

 長期にわたってオランダ商館の通詞を務めたことも、このような賛辞に影響を与えたのだろうが、西家二代家督吉兵衛は抜きん出た実力者だった。彼は、子供の頃、転びパテレン沢野忠庵(Cristóvão Ferreira、一五八〇〜一六五〇)にポルトガル語を習い[58]、一六五〇・五一年に西洋の外科術に対する幕府の関心を呼び起こした外科医カスパルと面識があり、歴代の商館医とも交流し、素晴しいポルトガル語力[59]と西洋医学に関する豊富な知識を蓄積していた。さらに、臨床教育を受けながら、吉兵衛は、医薬品の注文、商館医の医療活動と教授などあらゆる報告書の執筆に参加し、常に最新の情報を入手していた。豊富な経験と優れた才能で幕府からも注目され、彼は延宝元(一六七三)年出府を命ぜられ、宗門改めの参勤通詞目付と外科医官として江戸で活躍するようになった。

 

fig 10
図一〇  西吉兵衛の修業証書に見られる印章

 

 その後、ヨーロッパ人外科医と同様な実力を有している吉兵衛は号を玄甫にあらため、弟子を養成することになった。彼の名を示す写本資料はきわめてまれであり、その教義の再構築はまだ行われていないが、延宝五(一六七七)年、津山藩の久原甫雲(くはらほうん)に授与された免許状は、日本人が日本人に与えた阿蘭陀流外科免許として大変貴重なものである[60]

阿蘭陀流外科免許状
醫有内外兩科猶車有兩輪若
夫癈其一則豈保其生命乎歴
代明醫所編集外科書流傳至
于今者不為不多矣尤雖畫服
藥之微未畫敷藥之妙故患瘡
瘍者咸怠于敷貼之藥往々夭
死者不寡嗚呼可嘆哉間南蠻
阿蘭陀兩科盛行于世誠國家
保民命之一助也抑兩國為人
物天質巧伎術自然精鍛錬尤
於外科道深研工力厚罄心思
是以芳譽妙手亦冠于世其學
之者無未淂外治之玅也然而
世醫或有通其理者未知其事
或有知其事者未通其理或贖
求其書于市自稱外科者多矣
如此者専切破突押之術未知
寒熱補瀉之理譬盲人騎瞎馬
闇夜如臨深淵殆哉予自弱冠
師事于澤野中庵學言語且外
科其切琢年久一且豁燃而初
貫通于其理盖今學之者容易
欲淂之啻無益于治療葺復伐
賊人而巳實豈不幾以刃殺人
哉不可不謹也于茲久原甫雲
雅丈深有志于外科托予學既
有年故口傳心術授之無所遺
漏也後人欲學之者斟酌其志
意推明其生質以可有傳授之
也敢以其近不可忽之也
     西玄甫
延寶五年   [花押][印]
  巳ノ十月吉日
久原甫雲雅丈」[61]

 出島商館医による証書と対照的に、西吉兵衛は当時の状況及び医者の理想像について自分の考えを詳細に述べている。彼は外科と内科(本道)を車の両輪のようなものとして同じレベルに位置づけている。外科は真剣に勉強しなければならない。歴代の優秀な医師が編集した外科書は服薬(飲薬)について詳細に述べているが、湿布薬(膏薬、軟薬)について十分に説明していない。また、理論と実技の両方を身につける必要がある。西洋の外科術を学ぶものは、それをあまりにも手軽に習得しているので、自分を傷つけ、人を損うことになる。数年間にわたり久原甫雲君を教えた師匠玄甫は、歴代の商館と交流しながら、本格的な医師に成長していた。

 

 

九、太田黒玄淡の修業証書

 今日、一七世紀のオランダ人が交付した免許状は僅かしか残っていない。それらを受けた嵐山甫庵、西玄甫、瀬尾昌宅、太田黒玄淡、原三信のうち、特に嵐山、原三信と西玄甫がよく知られているが、太田黒玄淡とその背景については、二〇〇三年に明らかになった。[62]

「久留米藩旧家由緒」によれば、太田黒家は筑後国下妻郡中折地村に在った。現在の筑後市になる。享保の頃から大庄屋を勤めており、一七代目の太田黒小左衛門には玄淡という息子がいた。さらに玄淡は医師として阿波へ行ったという。これで出自は明らかになった。

嘉永四亥年   旧家の物類書上  五月  中折地組
下妻郡折地村庄屋   市左衛門  〔中略〕
「十七代 太田黒小左衛門
太田黒小左衛門秀信二男 溝上玄淡
阿州家中え医術を以仕官仕候、其節系図書翰等持参仕候ニ付、其後家筋相分兼候処、曾祖父太田黒孫七代、右玄淡孫元琳且曾孫秀甫と申者より太田黒家系図差贈申候」[63]

『阿波藩士の成立書并系図』によると玄淡は溝上家の祖となっている。またこの文書からさまざまなことがわかる。

成立 初代溝上玄淡秀親
筑後國久留米有馬玄蕃頭[64]殿家臣太田黒小左衛門二男ニ而御座候、後氏溝上与相改浪人之砌於江府久世大和守殿[65]江御立入仕、右之御手傳を以長崎江罷越阿蘭陀流直傳免状取申其後江府江罷越
徳音様[66]御代御石抱被仰付弐拾人御扶持[67]方ニ御薬料銀五拾枚[68]被下置直ニ御國許江家族召連罷越候様被仰付則御國許江罷越候右夫々年号月日相分不申候、天和元辛酉年五月廿八日御結構[69]
御意之上新知高弐百石被下置候元禄四辛未年三月十四日御地方被下置候同七甲戌年五月奉願醫術為傳行長崎[70]江罷越候砌銀子拝領被仰付御関船被下同年七月十日出給仕罷越彼地逗留中より病氣ニ罷在生国筑後江立寄同年十月十三日病死仕候、跡式相續不奉願置候ニ付近類共より右之趣長谷川主計[71]迄有姿申上候」

 玄淡は太田黒小左衛門の二男だった。ここに現れる有馬玄蕃頭頼利は承応四(一六五五)年から寛文八(一六六八)年まで久留米藩第三代藩主だった。玄淡は溝上と改名し、浪人となって江戸へ行き、久世大和守広行(関宿藩主)に仕えた。この老中の勧めで長崎へ行き、オランダの医学を学ぶ。

 それは一六六七年の終わり頃だと思われる。商館長シックス(Daniel Six)の日誌にそれを裏付ける記述が残っている。

「久世大和様の日本人医師が通詞を伴って、我々の外科医に医療指導を受けに来た。老中様に敬意を表して承諾し、外科医には能力と熱意を尽くすよう命じた。」[72]

 この出島蘭館医はアルノウト・ディルクスで、一六六六年夏から日本に来ていた。数週間後には西玄甫が先の免許状を手にしている。当時、ディルクスから学んだのは玄淡だけではない。一六六七年の六月に商館長は老中稲葉と博多の殿様の医師及び末次平蔵の甥も外科学を修得するために出島に来た、と書いている。玄淡への外科教育は一六六八年一〇月に免許状の交付により終了した。この年、数多くの弟子を養成した恩師のディルクスは持病のため一六六九年一月八日に亡くなり、稲佐山の墓地に埋葬された。

 玄淡の免状のオランダ語の文章は嵐山甫庵や原三信の免許状と同様に短い。

Dewyl Otangouro Siouan, sich eenige tydt
in de Hollandse geneeskonst, heeft by my ondergesz
zich laten onderwysen: nu, aangaande zyn voortgangh in
de genoemde konste, eenigh getuygh-brief van my versoeckende
verleene hem hetzelve aldus, dat hy geduerende de tydt zynes
aanwesens alhier, goede naarsticheyt in het begrypen
van de voorgestelde lessen heeft gebruyckt.
Quod attestor.
Arnold Dirckz
此大田黒玄淡阿蘭陀
外科一流之膏藥並諸
油藥、其外療治仕掛迄
傳受候處明白実正也。
此以後何地仁而茂稽古
之通療治可之者也
其此一巻相認遣候。
以上。
     阿蘭陀外科
    安留能不登萸連起世舞
右長崎 御奉行所様
御意以御検使仰付
事共立合出嶋に而阿蘭陀
一流外科稽古無其紛候。
證據各判形仕候者也。
以上。
  寛文八戊申曆    
   九月吉祥日
      西吉兵衛〔黒印〕
        直能〔花押〕
    富永市郎兵衛〔黒印〕
        忠與〔花押〕
     本木庄太夫〔黒印〕
        榮久〔花押〕
  大田黒玄淡老」

蘭文はおよそ次のような意味になる。
太田黒修庵はある期間 私のもとで和蘭医学を学んだ そして上記の学問に上達したので彼は私に証明書を依頼した そこで私は彼に対し証明書を与える すなわち 彼はここに滞在した期間中 与えられた勉強をよく理解し それらを 会得したことを証明する。  アーノルド・デレキス

 

fig 11
図一一 太田黒玄淡の修業証書[73]

 

 他の免許状と同様ここにもオランダ通詞による訳文と証明が添えられている。訳文は必ずしも正確ではない。ディルクスは膏薬と薬油については一言も触れていないからである。文章はその年の初め、瀬尾昌宅に発行した免許状と驚くほど似ている。おそらくこのような免許状の標準型だったのだろう。日付は寛文八年九月になっている。九月一日は西暦では一〇月六日になる。

 

 

一〇、臼杵藩医江藤幸庵の修業証書

 原本は失われたが、豊後臼杵藩の典医江藤俊幸(幸庵)が出島商館医から修業証書を与えられたことは確かである。一九九三年に石井健次が、江藤家の古文書(幸庵の息子幸碩筆、無題、二二五丁)に基づいて江藤俊幸の生涯を詳細に述べたが、その論文は医史学研究者に認識されていなかった[74]

 江藤家の文書によれば、俊幸は寛文八(一六六八)年に稲葉家四代の信通公に召し寄せられ、翌年信通に従って島原から臼杵に居を移し、臼杵城で仕えた。延宝二(一六七四)年五月中旬、俊幸は老中久世大和守廣之の書状を長崎奉行牛込忠左衛門に渡し、六月一日から商館医「ウイロムヲフマンヌ」の所へ行くことになった[75]。「ウイロムヲフマンヌ」は、一六七一年一〇月二二日から一六七六年一〇月二七日まで上位外科医として出島で勤務していたホフマン(Willem Hoffmann)である。

 幕府は出島商館での医学修行に高い関心を寄せていた。老中久世大和守廣之は、すでに寛文七年二月下旬、上記の太田黒玄淡を同様な形で長崎奉行に推薦した[76]。また、江藤俊幸が長崎に到着した時期に、大老井伊掃部頭直澄の侍医が出島に現れ、東インド会社が特別に派遣したテン・ライネ(Willem ten Rhijne)に紹介された[77]。博士号を取得した内科医テン・ライネの存在に加え、大型の蒸溜装置が設置され、薬剤師ブラウン(Frans Braun)及び外科医ホフマンが薬油の蒸溜術を教授するなど、一六七〇年代前半の出島は魅力に溢れる所だった[78]

当時の様子を調査する際、江藤家の文書は商館長日誌を補う貴重な情報源であり、西洋医学伝授の様子が明らかにされている。三五歳の江藤俊幸は、御目付一名、通詞一名、諸用係一名の計三名に付き添われてホフマンを訪れた。講義は朝五ツ半(九時)から八ツ時(一四時)まで行われた。御目付は、阿蘭陀通詞の訳に医道以外のこと、とりわけ宗教に関することが含まれていないかを吟味する。俊幸の養成期間は翌年正月中旬に終了した。長崎奉行牛込忠左衛門の命により、通詞八名はホフマンが出した証書を確認して俊幸に渡した。互いに挨拶が交わされ、免許状は奉行から受け取ることになっていた[79]

 外科の免許状を取得した俊幸は、剃髪して号を幸庵にあらためた。享保元(一七一六)年三月五日の臼杵の大火の際、免許状は無事だったが、その後のことは明らかではない。十五人扶持を仰せつけられた幸庵は江戸京橋南三丁目の屋敷借宅へ転居した。津軽越中守信政、中川佐渡守久恒、細川越中守綱利、青山和泉守忠親、相馬弾正少弼勝胤、松平安藝守綱長など主たる諸大名からの誘いは彼の人気を裏付けている。幸庵はそれらの申し出を断り、藩主信通の死後、五代藩主景通にも仕えた[80]

免許を写した長男幸碩はホフマンのオランダ語の文章を理解できなかったであろう。彼の文書に’載されているのは、免許の蘭文に続く阿蘭陀通詞の認証のみである。

外科相伝目録
一 諸瘡原委論之事
一 諸瘡生死看法之事
一 諸瘡治法之事
一 諸瘡針刺之事
一 諸瘡以木綿初中後巻様之事
一 諸瘡張薬之事
一 金瘡縫様附打傷損撲治法之事
一 諸膏薬煉様■敷用ノ事
一 諸薬油取様■塗用之事
一 諸草木花葉ノ水取様■用様之事
一 諸瘡洗薬之事
一 諸瘡遂薬之事
一 諸薬製法之事
 右者阿蘭陀外科ウイロムヲフマンヌ委[81]相伝之所、
御目付衆前にて私共立合和ケ不残伝授口訳仕候。仍証文連判如件
延宝三年乙卯正月十六日
     中山作左衛門  〔花押〕
     中島清左衛門  〔花押〕
     名村八左衛門  〔花押〕
     楢林新右衛門  〔花押〕
     本木庄太夫   〔花押〕
     横山與三右衛門 〔花押〕
     留水市良兵衛  〔花押〕
     加福吉左衛門  〔花押〕
   江藤幸庵殿」[82]

 担当通詞は中山作左衛門だったと思われる。連名による認証は通常通りである。留水市良兵衛とは瀬尾昌宅の免許にも名が見られる通詞富永市郎兵衛である。「諸薬油取様」及び「諸草木花葉ノ水取様」は、蒸溜器設置のために幕府の経費で建設された「油取家」で説明された。

 

fig 12
図一二 製薬技術伝受に用いられたオランダの蒸溜器(寛文一二年の通詞報告の写しより)[83]

 

 

 

一一、福岡藩医原三信(六代)の修業証書

 原三信(六代)とその書物に関する酒井シヅの詳細な分析がある。[84]筑前福岡藩の藩医の家に生まれた三信(元弘、一七一一年没)は、貞享年間、出島商館で西洋外科術を学び、一六八五年一〇月一八日付の免状をクローンから授与された。

Ich ondergesz: Meester Albert Croon
Bekenne Fara Samcin Discipel
Inde Churighijs Cunst geinstitueert
Te hebben soo veel mijn Bekent,
en hebbe zijt: Seege hij Fara Samcin
met nauwe opmerkingh wel Begrepen.
Octobr 18en Ao 1685 Albert Croon
 
貴殿事、當年從 
御奉行所、被蒙
御赦免、メストロ
ヘンテレキヲヲ
ベイ、阿蘭陀外科
之一流、金瘡并膏
藥油之取様、功能
迄、具雖被得直傳、
今度依 御赦免、
其外治一流口傳
之仕掛、藥方等、不
殘令相傳畢。自今
以後、彌療治之工
夫、鍛錬可被致候。
仍印家加赦之者
也。且亦先年直傳、
多年依執行、今度
學頭俑其功甚於
外治、随分可猛、證
文如此
    メストル
        アルブルトコロウヌ Mr[85] Albert Croon
右之通、於出島阿
蘭陀外科稽古之
刻、從 御奉行様、
被爲添 御檢使、
兩メストル被得
相傳、此度印家赦、
依之阿蘭陀文字
印家之文章、無相
違委細和申所也。
爲其奥書如件。
  貞享三年丙寅八月念九日  (一六八六年九月二六日)
   阿蘭陀通詞
     横山文右衛門
   同
     本木太郎右衛門
   同
     石橋助左衛門
   同
     中山六左衛門
   同
     楢林新右衛門
   同
     横山與三右衛門
   同
     本木庄太夫
   同
     加福吉左衛門
  原三信醫老

 

 蘭文によれば、外科医アルバート・クローンは弟子原三信に自分が知っている限りの外科医術を教え、三信は、それを注意深く聞き、よく理解できた。しかし、クローンの名は出島商館日誌で確認できない。当時の商館医は、Nieuw-Amsterdam(後のニューヨーク)出身で、一六八三年に来日したオベ(Hendrik Obé)だった。オベは三度も商館長の江戸参府に随行し、大いに注目もされていた。一六八四年七月一二日、奉行所の検使が「豊後の君主の僕」を伴って出島商館に現れ、奉行の命令でその人物に外科術を教え、免許を与えるよう指示された[86]。同年一一月二二日、江戸から来た医師が同様な形で商館長らに紹介された。商館日誌によれば、その「doctor」は、「江戸の大物」に高く評価され、両長崎奉行と親交があった。彼も「学位」を念頭に教授を受けることになった[87]。この二人の医師の背景を考えると、免許状は確実に出されたと思われる。

 クローンの蘭文免許に付された和文解説によれば、原三信は「ご奉行所よりご赦免を蒙られ、メストロ・ヘンデリク・オーベイ阿蘭陀外科の一流、金瘡並びに膏藥油の取り様と功能まで具さに直伝を得られた」。

 

fig 13
図一三 原三信の免許状の写し(一部のみ)[88]

 

 そもそも、オベは免許状に署名するはずだった。江戸城での謁見で彼は将軍綱吉に注目された人気者だった。奉行の要望もあり、オベは一六八四年秋に出島に残ることを決心したが、翌年一〇月に下位商人として東インド会社との新しい契約を結んだ[89]

 クローンが免状に署名した同月一八日は、新商館長クライヤー(Andreas Cleyer)就任の翌日にあたる。低い地位からようやく「キャリア」に昇格したオベは恐らく形式上の理由で署名を控えたのであろう。

 船で外科医として勤務していたクローンは一六八五年八月下旬長崎に到着し、遅くとも一一月頃その船で再び出港したと思われる。ヴェルヘル・クラン(Elke Werger-Klein)は、彼のバタビアへの渡航、身分、結婚などについて解明したが、来日を裏付ける記述はいまだに発見されていない[90]

 阿蘭陀通詞の証明文が作成されるまで異例の一一ヶ月余もかかった。商館員でない外科医による証書をどう扱うかという通詞の戸惑いも考えられるが、一六八六年に発覚した密貿易事件が及した影響は決定的だった。逮捕された日本人二八名はヨーロッパ人の名を明かした。九月二六日、ことの深刻さを察知したと思われる通詞は原三信のための証明文をまとめ署名する。その直後の三〇日にオベを含むオランダ人八名は、鉄製の手錠をかけられ尋問のために奉行所に連行された。日本人関係者の大半は出島商館員全員の立ち会いの下で処刑され、オベら八名及び上司のクライヤーは国外追放となった[91]

 原三信の免許は異例の状況の中で作成されたと言える。

 

 

おわりに

 元禄頃から出島商館で医学の講義を受けても証書を求めることがなくなった。紅毛人による免許の新鮮味が薄れてしまったという理由もあるかも知れないが、蘭方医術が普及し、日本人師匠が門弟に免許、皆伝などを与えることが、新しい医療分野の基盤となった。

 一七世紀中頃から盛んに作成された紅毛流外科関係の免許状の大半は失われてしまった。平田長太夫の免許の写本は、初期段階のものとして貴重な事例であり、数少ない現存免許状と並ぶ史料価値の高いものである。

 

 

【参考文献及び史料】

参考資料

▲ 朝日新聞社編『開国文化史料大観』、朝日新聞社、大阪昭和四(一九二九)年。

▲ 飯塚修三「西玄甫より久原甫雲に授与された阿蘭陀流免許状」『医譚』第八三号(二〇〇五)、五四〜六〇頁。

▲ 石井健次「稲葉家の御典医 江藤幸庵と幸碩」『臼杵史談』、第八四号(一九九三年)一九〜三六頁。

▲ 太田勝也編『近世長崎・対外関係史料』京都、思文閣出版、二〇〇七年。

▲ 川島恂二『土井藩歴代蘭医河口家と河口信任』東京、近代文芸社、一九八九年。

▲ 川嶌眞人『蘭学の泉中津に湧く』中津、西日本臨床医学研究所、平成四(一九九二)年。

▲ 川嶌眞人「辛島正庵 ─種痘に生涯をかけた医師たち」。W・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人共編『九州の蘭学 ー越境と交流』、一三八〜一四三頁。

▲ 古賀十二郎『西洋医術伝来史』東京、形成社、昭和四七(一九七二)年。

▲ 古賀幸雄編『久留米藩旧家由緒書』久留米、久留米郷土研究会、昭和五一(一九七六)年。

▲ 国書刊行会編『通航一覧』巻二五〇、東京、国書刊行会、大正八(一九一九)年。

▲ 幸田成友『和蘭雜話』東京、第一書房、昭和九(一九三四)年。

▲ 酒井シヅ、小川鼎三「『解体新書』出版以前の西洋医学の受容」『日本学士院紀要』第三五巻三号、一九七八年。

▲ 酒井シヅ「日本最初の西洋解剖書の翻訳 ーレメリン解剖書の訳本と一七世紀の蘭方外科」原三信編『日本で初めて翻訳した解剖書』、八三〜九九頁。

▲ 柱芳樹「長崎に渡来した独立禅師の岩国における資料」(上)『長崎談叢』第四四輯(一九三六年)、七九〜九四頁。

▲ 柱芳樹「長崎に渡来した独立禅師の岩国における資料」(中)、『長崎談叢』第四五輯(一九三六年)、一〇六〜一一五頁。

▲ 柱芳樹「長崎に渡来した独立禅師の岩国における資料」(下)、『長崎談叢』第四六輯(一九三七年)、一一三〜一二八頁。

▲ 沼田次郎『洋学』、東京、吉川弘文館、一九八九年。

▲ 鶴久次郎、古賀幸雄編『久留米藩農政・農民史料集』、三潴町、鶴久二郎、一九六九年。

▲ 原三信編『日本で初めて翻訳した解剖書』、福岡、六代原三信蘭方医三百年記念奨学会、一九九五年。

▲ ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(I)」『日本医史学雑誌』第四二巻第三号(一九九六年)、五四〜五九頁。

▲ ヴォルフガング・ミヒェル「紅毛流外科の誕生について」。山田慶兒・栗山茂久共編『歴史の中の病と医学』、京都、思文閣出版、一九九七年、二三一〜二六四頁。

▲ ヴォルフガング・ミヒェル「九州大学蔵の「阿蘭陀伝外科類方」(「阿蘭陀外科正伝」)と向井元升について」『比較社会文化研究科紀要』第二号(一九九六年)、七五〜七九頁。

▲ W・ミヒェル、杉立義一「太田黒玄淡の阿蘭陀外科免許状とその背景について」『日本医史学雑誌』第四九巻第三号(二〇〇三年)、四五五〜四七七頁。

▲ W・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人共編『九州の蘭学 ー越境と交流』、京都、思文閣出版、二〇〇九年。

▲ 森永種夫編『犯科帳 長崎奉行所判決記録』(第一巻 自寛文六年至寛保二年)、長崎、犯科帳刊行会、一九五八年。

▲ H. T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden int Casteel Batavia, Anno 1637. ’s-Gravehage: Martinus Nijhoff, 1899.

▲ J. P. Kleiweg de Zwaan: Völkerkundliches und Geschichtliches über die Heilkunde der Chinesen und Japaner. Haarlem: De Erven Loosjes, 1917. (Natuurkundig Verhandelingen van de Hollandsche Maatschappij der Wetenschappen te Haarlem. Derde Verzameling, zevende Deel)

▲ Wolfgang Michel: Von Leipzig nach Japan - Der Chirurg und Handelsmann Caspar Schamberger (1623-1706). München, Iudicium, 1999.

▲ Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel (ed.): Engelbert Kaempfer: Heutiges Japan. München, Iudicium, 2001.

▲ Wolfgang Michel / Elker Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan. Nihon Ishigaku Zasshi - Journal of the Japan Society of Medical History, Vol. 50 (2004), No. 4, pp. 463-492.

▲ Wijnaendts van Resandt, Willem: De Gezaghebbers der Oost-Indische Compagnie op hare Buiten-Comptoiren in Azië. Amsterdam, Uitgeverij Liebaert, 1944.

 

史料

▲ [嵐山甫庵の免許状](一巻)、平戸市生月町「島の館」蔵(平戸観光資料館旧蔵)

▲ 「阿波藩士の成立書并系図」徳島大学附属図書館蔵

▲ 「阿蘭陀外科書」(一冊)、京都大学附属図書館所蔵

▲ 「阿蘭陀流外科免許状」(一巻)、津山洋学資料館蔵

▲ 「嘉永三年改」中津市小幡記念市立図書館蔵

▲ 「外科心鏡集」序文、(林道栄自筆、寛文七年)、京都大学附属図書館所蔵

▲ 「御家中先祖書抜書」中津市小幡記念市立図書館蔵

▲ [瀬尾昌宅の蘭医免状](一巻)。附’「寛政五癸巳年二月瀬尾昌玄の口上」(一巻)、京都大学附属図書館所蔵

▲ [原三信の免許状](一巻)、福岡市原家蔵

▲ [平田長太夫の免許状](一巻)、中津市歴史民俗史料館蔵

▲ (外題)「蘭方製薬法」(一冊)、筆者蔵

▲ Nationaal Archief (’s-Gravenhage), Nederlandse Factorij in Japan (NFJ), no. 63 - 99 (出島商館日誌)

▲ Examen der Chyrvrgie, By een vergadert Door Mr. Cornelis Herls zal: in syn leven Chyrurgyn der vermaerde Coopstadt Middelburgh in Zeelandt. Seer nut ende dienstelyck alle jonge Chyrurgyns ende insoderheyt die haer begeven na Oost ofte West-Indien. Den derden Druck, van veele fauten ghesuyvert. t’Amsterdam [...] 1645.

 


注釈
[1]     Dagregister Batavia, 28.4.1637 (H. T. Colenbrander: Dagh-Register gehouden uit Casteel Batavia. ’s-Gravehage 1896 ff.). NFJ 482, pp.459f. (NeijenroodeからJanszoonへの書簡、平戸、一六三一年四月二五日付).
[2]     “Op heeden soo quamen alle de tolken neffens den burgermeester des Eijlants uijt den naem vanden Gouverneur Joffijesamma [*] een versoeck doen dat seker Japander door onsen chirurgijn in die conste wat mocht onder wesen werden. en groote Courtoijse soude sijn E: daer aen geschieden, ende alsoo sulcx wel gaerne hadde geexcuseert, soo hebbe echter ’tselve ingewillicht ende weijgerungh evenwel sijn voort ganck soude nemen, waer over sijn E: ons naderhant liet bedancken.” (* 黒川与兵衛正直)
[3]     >“sondagh  kort naar ons gehouden middaghs mael sont den Gouverneur alle onse tolcken met seker japanse doctoor (hier vooren meermaels geciteert bij mijn, en verthoonden twee boecken in houden: beijde de geneeskonste op de Europise-wijs, die hij door ordre van den Commissaris ’tSickingodonne van onsen opperchirurgijn redelijck wel scheen gevat ende met hulp onser tolcken overgeset te hebben, oversulcx begeerden uijt den naem van gem: Gouverneur dat deselve mede naar Jedo nemen en die aan voorn: Commissaris overleveren zoude, edoch mosten alvooren van voorsz: onse heelmeester onderteijckent, ende insgelijcx met mijn hant teijckeningh bevesticht worden, dat al wat hij d’voorsz: doctoor dienaangaende uijt diversche auteuren onderwesen en geleert hadde, alles, oprechtelijck en naar zijn beste kennis gedaen was, ende alhoewel ick zulcx voor mijn altoos een vreemde ende ongerijmde verclaringh achte, die dierhalven oock gaern afgebeden hadde, soo heefft e’t echter weijnigh mogen helpen, maar de begeerte hierin des voorsz: Gouverneurs moeten voldoen.” [NA, NFJ 70 (Dagregister Dejima, 2.11.1656-26.10.1657): 14.1.1657.]
[4]     ヴォルフガング・ミヒェル「九州大学蔵の『阿蘭陀伝外科類方』(『阿蘭陀外科正伝』)と向井元升について」参照。
[5]     NA, NFJ 70 (Dagregister Dejima, 1.11.1656-2.10.1657): 6.11.1656.
[6]     NA, NFJ 71 (Dagregister Dejima, 26.10.1657-23.10.1658): 14.11.1657.
[7]     NA, NFJ 71 (Dagregister Dejima, 27.10.1657-23.10.1658): 24.4.1658, 27.4.1658, 17.6.1658.
[8]     NA, NFJ 71 (Dagregister Dejima, 27.10.1657-23.10.1658): 10.7.1658.
[9]     NA, NFJ 79 (Dagregister Dejima, 28.10.1665-18.10.1666): 6.5.1666.
[10]   原三信編『日本で初めて翻訳した解剖書』(一九九五年)参照。
[11]     “den gouverneur sent ons weder een doctor om alhier in d’ chirurgie onderwesen te worden, so dat onsen chirurgijn soo doend’ wel haest do sijn werck sall krijgen, om Esels te promoveeren sijnd’ nae’t seggen den tolcken, desen doctor med’ een dienaer van d’ heer van Sikingo, gelijcq d’ andere, die onlangs met een groot promotie brieff van hier gescheijden sijnde, apparent desen mede gaend’ gemaeckt heeft om insgelijcx sulcken schoonen geleerden hollantse brieff te bekomen.” [NA , NFJ 87 (Dagregister Dejima 1673-1674): 16.2.1674] 
[12]   “Op den avont wiert onsen chirugijn ontboden ten huise van ‘s keijsers opper medecijn Zoyits-donno [= 宗悦] aldaer wegens veelderleij sieckten der selver genesingen, en toestel van medicamenten ondervraaeght, en voorts met spijs en dranck eerl[ijck] getracteert ’tschijnt dese heijdenen noch altoos poogende van ons te leeren och lacen meijnen dat de Europase heel const soo inder haest mit een weinigh tsamen sprekens tusschen haer on een Chirurgijn, ende dat noch extempora en ongepramediteert voorvallende grondelijck te begrijpen sij.” [NA, NFJ 67 (Dagregister Dejima 1653-1654): 14.2.1654]
[13]   Stadtarchiv Leipzig, I. Sektion, Tit. LXIV 29, fol. 6b-10
[14]   Wolfgang Michel: Von Leipzig nach Japan, p. 14ff.
[15]   Cornelis Herls: Examen der Chyrvrgie.1645. 人気の高いこの問答式試験マニュアルはドイツ語にも訳された (Examen Chirurgiae Oder der Wund-Artzney In Frag und Antwort zusammen getragen Durch M. Cornelium Herls. Nürnberg 1676).
[16]   ドイツ・バイエルン州立図書館(Bayerische Staatsbibliothek)蔵
[17]   “Zijn ander mael met uijtleggen wegen ’t prepareren der medicijnen voor Sickingodonne met voorschreven doctoor ginsjo en al de tolcken besigh geweest.” [NA, NFJ 69 (Dagregister Dejima 1655-1656): 27.5.1656]
[18]   今村英明「今村英生 ─洋学の発展に貢献したオランダ通詞 ─ 」『九州の蘭学ー 越境と交流』、五〇〜五五頁。
[19]   Engelbert Kaempfer: Heutiges Japan. Band 1, pp.6-7.
[20]   ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルとカスパル流外科(I)」。ヴォルフガング・ミヒェル「紅毛流外科の誕生について」。
[21]   『阿蘭陀外科指南』(元禄九年刊)及び「阿蘭陀外科書」(京都大学、富士川文庫)のような数々の写本に見られる「外科総論」である。
[22]   Wijnaendts van Resandt, 1944, p. 264.
[23]   古賀十二郎『西洋医術伝来史』、七五〜七九頁。ヴォルフガング・ミヒェル「嵐山甫庵ー朝廷の医師に任ぜられた平戸外科医」『九州の蘭学 ー 越境と交流』、二九〜三三頁。
[24]   幸田成友『和蘭雜話』、二一八〜二一九頁。
[25]   平戸市生月町「島の館」蔵(平戸観光資料館旧蔵)。
[26]   「日」の異体字
[27]   ポルトガル語lavamento (洗薬)
[28]   オランダ語 siroop(シロップ)
[29]   ラテン語 Theriaca (薬剤と蜂蜜を練り合わせた膏薬。解毒剤)。
[30]   ラテン語 Mithridat, mithridatum, mithridatium または mithridaticum、六五種の原料からなる解毒剤
[31]   Confectio Hamech (舐剤の一種)
[32]   Opium(阿片)
[33]   オランダ語 sublimaat, Sulphur sublimatum (硫黄)
[34]   ラテン語 Ruptorium(水酸化カリウムなど)
[35]   ラテン語 Aqua Vitrioli (硫酸)
[36]   オランダ語 brandewijn(焼酎)
[37]   オランダ語 destilleren(蒸溜する)
[38]   ラテン語 Anatomia (解剖学)
[39]   沼田次郎(『洋学』、三二頁)による簡単な紹介は、柱芳樹の論文(一九三六、一九三七)に基づいている。
[40]   柱芳樹「長崎に渡来した独立禅師の岩国における資料」(上)、八三頁。
[41]   柱芳樹「長崎に渡来した独立禅師の岩国における資料」(上)、八三頁。
[42]   柱芳樹「長崎に渡来した独立禅師の岩国における資料」(上)、八三頁。[]の追加は筆者による。
[43]   朝日新聞社編『開国文化史料大観』、五九頁。
[44]   川嶌眞人『蘭学の泉中津に湧く』、一九二頁。
[45]   「辛島家祖画像」、巻物、中津市辛島家蔵。
[46]   川嶌眞人『蘭学の泉中津に湧く』、一九二頁。川嶌眞人「辛島正庵 ─ 種痘に生涯をかけた医師たち」、W・ミヒェル・鳥井裕美子・川嶌眞人共編『九州の蘭学 ー越境と交流』、一四〇頁。
[47]   川嶌眞人『蘭学の泉中津に湧く』、一九二頁。
[48]   中津市歴史民俗資料館蔵(深水通氏寄贈)
[49]   和はやわらげ、つまり和訳の意。口和(くちやわらげ)もある。
[50]   『通航一覧』(巻二五〇、三二一頁)では、「瀬尾昌琢」となっている。
[51]   瀬尾昌宅の蘭医免状、京都大学附属図書館所蔵
[52]   瀬尾昌琢『外科心鏡集』序文、(林道栄自筆、寛文七年)、京都大学附属図書館所蔵。興味深い事に、林道栄の娘は、商館医の資料を収集し紅毛流外科の普及に努めた河口良庵の妻であった。
[53]   古賀十二郎『西洋医術伝来史』、九四頁。詳細については『寛政重修諸家譜』も参照。
[54]   太田勝也編『近世長崎・対外関係史料』、三九二〜三九三頁。
[55]   印章の意(マレー語tjapより)。
[56]   >古賀十二郎『西洋医術伝来史』形成社、昭和四七(一九七二)年、六九頁。
[57]   Kleiweg de Zwaan: Völkerkundliches und Geschichtliches über die Heilkunde der Chinesen und Japaner, p. 458より
[58]   西玄甫が沢野忠庵に南蛮流外科を学んだとする研究者は少なくないが、確証は得られていない。
[59]   一六八三年、江戸へ赴いた商館長クライヤーは、西玄甫の語学力を高く評価している。
[60]   酒井シヅ、小川鼎三「『解体新書』出版以前の西洋医学の受容」『日本学士院紀要』第三五巻三号、一九七八年、一三五〜一三六頁。飯塚修三「西玄甫より久原甫雲に授与された阿蘭陀流免許状」。
この免状を日本人による史上初の阿蘭陀流免状とする著者が多が、河口良庵春益(一六二九〜一六八七)はすでに寛文六年も養子の了閑に「カスパル流免許状」を与えた。川島恂二(一九八九)、八〇頁参照。印章の意(マレー語tjapより)。
[61]   「阿蘭陀流外科免許状」。津山洋学資料館蔵。
[62]   W・ミヒェル、杉立義一「太田黒玄淡の阿蘭陀外科免許状とその背景について」参照。
[63]    古賀幸雄編『久留米藩旧家由緒書』五一頁。
[64]    久留米藩第三代藩主、有馬玄蕃頭頼利。承応四〜寛文八(一六五五〜一六六八)年まで在位。
[65]    下総国関宿城主、久世大和守広之。寛文二〜寛文三(一六六二〜一六六三)年まで若年寄、寛文三〜延宝七(一六六三〜一六七九)年まで老中を務める。この時は恐らく老中であろう。
[66]    徳島藩五代藩主、蜂須賀阿波守綱通。寛文六〜延宝六(一六六六〜一六七八)年まで在位。同年七月晦日没。
[67]    扶持米のこと。一人扶持は、玄米一日五合の割合で、月で一斗五升、年で一石八斗。
[68]    銀一枚は四三匁。銀五〇匁で金一両となる。一匁は三.七五グラム。金一両は、現在の七万円くらい。
[69]    すばらしいこと、めでたいこと、気だての良いこと。
[70]    元禄七(一六九四)年の長崎奉行は、山岡景助、宮城和澄、近藤用高の三名。長崎代官は、延暦四(一六七六)年に末次平蔵茂朝が流罪に処せられ、以後若年寄が代官事務を代行処理することになった。
[71]    徳島藩四代家老。長谷川主計貞長。寛文元(一六六一)年に家督を継ぐ。宝永五(一七〇八)年没。
[72]    “Verschijnt neffens de Tolken, een Japanse Doctoor van den Rijcxraet Koesenojamattosa omme door onse Chirurgien in de heelconst onderwesen te werden, daer toe w’gaerne ten respecte van genoemde Rijcxraet voorn:e Chirurgien toe recommandeerden sijn vleijt en vermogen te doen.” [NA, NFJ 81(Dagregister Dejima 1667-1668): 17., 18., 19., 20., 21.12.1667]
[73]   溝上家蔵(故杉立旧蔵)
[74]   石井健次「稲葉家の御典医江藤幸庵と幸碩」
[75]   石井健次「稲葉家の御典医江藤幸庵と幸碩」、二二頁。
[76]   NA, NFJ 81(Dagregister Dejima 1667-1668): 17.- 21.12.1667.
[77]   NA, NFJ 87 (Dagregister Dejima 1673-1674): 27.4.1674.
[78]   蒸溜器などについて、Michel / Werger-Klein (2004) 参照。
[79]   石井健次「稲葉家の御典医江藤幸庵と幸碩」、二二〜二三頁。
[80]   石井健次「稲葉家の御典医江藤幸庵と幸碩」、二六頁。
[81]   委しく
[82]   石井健次「稲葉家の御典医江藤幸庵と幸碩」、二三頁。
[83]   「蘭方製薬法」(外題)、筆者蔵。
[84]   酒井シヅ「日本最初の西洋解剖書の翻訳 ー レメリン解剖書の訳本と一七世紀の蘭方外科」
[85]   Mr = Meester、親方、外科医
[86]   “Verschynen 2 ‘’’s gouverneurs bongioisen met een dienaer vande heer van't lantschap bongo om door onsen arts inde chirurgie onderwesen, en gepromoveert te werden.” [NA, NFJ 97 (Dagregister Dejima 1683-1684): 12.7.1684]
[87]   “van den morgen komen hier op myn kamer 2. bongioisen van den Gouv: uyt order van syn E: met een Japansen doctor die soo de loecken seyden in Jedo by meest al de grooten in aansien en een seer goet vrundt van beyder Gouverneurs was, om door onsen oppermeester inde chirurgie onderwesen en gepromoveert 't werden, den oppertolck Brasman en Sinnemon verhaalde met eenen dat den tolck der Commissarissen Gimpo, in Jedo, was overleden en dat syn soon die mede de portugeese taal verstont in syn plaats soude succedeeren.” [NA, NFJ 98 (Dagregister Dejima 1684-1685): 22.11.1684]
[88]   故和田和代蔵、現在は国立科学博物館の和田コレクション収蔵と思われる。
[89]   NA, VOC No. 700, 5.10.1685.
[90]   酒井シヅ「日本最初の西洋解剖書の翻訳 ーレメリン解剖書の訳本と一七世紀の蘭方外科」、九五頁。
[91]   NA, NFJ 99 (Dagregister Dejima 1685-1686): 30.7.1686; 5.8.1686; 30.9.1686; 3.11.1686など。森永種夫編『犯科帳 長崎奉行所判決記録』、第一巻、一六五頁。

 

 

 

 Abstract: On the Dutch-style Medical License of Hirata Chôdayû and its Background


After the birth of the so-called ‘redhead-style of external medicine’ (kômôryû geka) during the 1650s, a growing interest among Japanese physicians and feudal lords in Western drugs, herbs, instruments and treatment methods can be observed. As Western texts and terminology had not yet become accessible even to Japanese interpreters, the instructions and demonstrations given in the Dutch trading post at Dejima played a key role in conveying European knowledge to Japan. For about three decades, certificates issued by the surgeons of the Dutch East India Company turned out to be useful when pursuing a career as a ‘redhead-style physician’. This social breakthrough goes back to 1657, when Hatano Gentô, who was leaving for Edo, asked for a certificate to prove that he had been educated by a Dutch surgeon. Especially during the latter half of the 1660s, several such certificates were issued, but only a few have survived. Based on extensive investigations of Dutch and Japanese source materials, twelve licenses have been identified.

Year Physician Source
1658 Hatano Gentô diary of the Dejima trading post
1665 Handa (Arashiyama) Hoan preserved original license
1665 Asaeda Kibyôe description of the license in Japanese primary sources
1666 Hirata Chôdayû Japanese manuscript copy (1717)
1667 “physician of the lord of Chikugo” diary of the Dejima trading post

1668

Seo Shôtaku preserved original license
1668 Nishi Kichibyôe (Genpo) photograph of the original license from 1914
1668 Ôtaguro Gentan preserved original license
1673 “physician of the lord of Chikugo” diary of the Dejima trading post
1674 “physician of the lord of Chikugo” diary of the Dejima trading post
1675 Etô Kôan Japanese manuscript copy (Edo period, in part only)
1685 Hara Sanshin preserved original license

 

These licenses, as well as newly found additional materials, provide valuable information about the circumstances under which medical instructions were imparted, as well as their contents.

The most prominent among a number of new discoveries is a complete, handwritten copy of a license granted to Hirata Chôdayû in 1666 by the surgeons Arnold Dirckz. and Cornelis de Laver and confirmed by the vice-chief of the trading post on Dejima, Nicolaes de Roij, and his assistant Louis Rondel. The copy was made in 1717 by Chôdayû’s son Hirata Dôba, a physician of Lord Ogasawara in Nakatsu, and handed over to his former disciple, Karashima Shôan. During that same year, the domain was handed over to Lord Okudaira.

Formal pledges to the Nagasaki Commissioner (Nagasaki bugyô), genealogies and entries in diaries show a close interaction between feudal lords and physicians in order to absorb and spread Western external medicine during these early decades. Obviously, Western medicine entered Japan from the top of the social pyramid.

In 1673, the central government appointed Nishi Genpo, a veteran interpreter who had received an extraordinarily detailed and euphemistic surgical certificate in 1668, as Portuguese interpreter and Western-style surgeon at the court in Edo. This was the most high-ranking acknowledgement of the new “Dutch-style” medicine. Gradually, the interest in licenses from Dutch trading post surgeons faded away while physicians in all regions of the archipelago started to grant certificates to qualified pupils in their own right.

 

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