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九州大学公開講座23、九州のなかの世界。九州大学出版会1991年6月10日、27〜54頁。


ヴォルフガング・ミヒェル

ヨーロッパから見た日本


1 キリシタンの世紀

多くの言語に翻訳され、修道院や教会、また知識階層の市民の間で熱心に読まれ、研究されたイエズス会士の日本報告では、日本の文化や国民が極端なほど礼賛されています。また、イベリア人商人や船員の手紙から最初に受ける印象も、彼らが日本人の民族性や生活に対して抱いていた驚嘆の念です。しかしヨーロッパ人の観点から完全というには、ひとつだけ欠けていました。つまりキリスト教による祝福です。ポルトガル人の場合も、彼らが西欧で最も貧しい国からやってきたことを考え合わせると、彼らから見ていわば地の果てにあるこの国に感動したとしても不思議ではありません。西、南アフリカを除けば、その東に向かう探検の途上でおそらく彼らは、日本と同等かまたはそれよりさらに進んだ文明と出会っていました。ヴァスコ・ダ・ガマはインドで粗末なみやげしか持っていなかったため、カリカット領主の謁見を得るのにも、持参したポルトガルの商品を売るのにも、非常に苦労をしました。中国は国を閉ざしていましたが、結局マカオに、壁に囲まれた拠点を持ち、一定の期日のみ中国人商人の出入りが許されていました。これに対して日本では、かれらの鉄砲や遠洋の船舶、航海術などが大きな関心をひきました。また宣教師にも不満がなかったはずです。少なくとも最初の何年かは人々は進んで彼らの話に耳を傾けたのですから。しかし間もなく、彼らにはこの地が、これまでに「改宗してきた」どの国々よりも苦労する国だということがはっきりとわかってきました。そこで、伝道のための莫大な出費を正当化するためにも日本は極端に美化されて描かれたのです。このことは、16世紀の50年代と60年代の膨大な文献の価値を著しく相対化してしまう結果になります。イエズス会士たちの最初の幸福感は結局すぐに消えてしまいました。彼らが熱心に日本で活動し、言葉や文化を理解すればするほど、異文化を伝えるとき不可欠な判断が困難であることを痛感したようです。80年代になると、ようやくその概観がつかめるようになりました。ルイス・フロイス(Luis Frois)が『日本史』の前書きで著した広範囲な地誌は、残念ながら行方がわかりません。しかし彼は広範な『日欧文化比較論』も残しています。これは、今世紀になってようやく出版されましたが、すでにこれまで何世紀にもわたって、日本に関する文献に影響を与えてきていました。この論文は31章から成るもので、日本の男、女、子供に関する考察からはじまり、あらゆる主要な生活領域にまで及んでいます。そこに挙げられている表現には実に興味深い面がありますので、ここに若干の例を挙げて説明しましょう。

  • 我々の馬は極めて美しい。日本の馬はそれに比べてはるかに劣っている。
  • 我々の間では財産を失い、また家を焼かれることに、大きな悲しみを表す。日本人はそのような場合、表面は極めて軽くうけ流す。
  • 我々の間で人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や鳥または犬を殺すことはおそろしいことではない。日本人は動物を殺すのを見ると仰天するが、人殺しは普通のことである。
  • 我々は散歩を、特に保養と健康によく、気晴らしになるものと考えている。日本人は全然散歩をしない。むしろそれを不思議がり、それを一種の行や悔俊のための手段であると考えている。
  • 我々の間では、全く人目を避けて、家で入浴する。日本人は男も女も坊主も公衆浴場で、また夜に門口で入浴する。
  • 我々の間では礼節は落ち着いた、厳粛な顔で行われる。日本人はいつも間違いなく偽りの笑いを浮かべながら行う。
  • ヨーロッパ人は概して身長が高く体格が良い。日本人は概して身長も体格も我々に劣っている。[1]
文化や社会といった複雑な対象をこれほどまでに単純化してしまうのは、論理的で明快な言い回しを要求する「スコラ派」の影響とばかりは言い切れません。これらの表現はまた、慣れ親しんだものがあまりにも少なく、すべてが移ろいやすく感じられる異国で物事の判断の確かな基準を必死に求めている証拠だとも言えましょう。状況が困難になればなるほど、わかりやすい説明が求められたわけです。また、それまでに経験したことのない、未知のものを実感し、理解することがどれほど難しいことであるかもおわかり頂けると思います。常にこれまでの知識との関連性を求め、新しいものと古いものとを関連づけ、必要となれば歪曲してでも自分の見方に適応させようとしています。ここで絶えず新たな価値判断がなされていることは、上述の例で明確でしょう。さらに明らかなことは、異文化のイメージは、自国のそれと密接にかかわっており、他者に対する判断の陳述は常に話者の白己像に影響されていることです。自分が脅かされていると感じるような状況においては、自国の文化と異なった文化との差異はより強く目に映り、その意識の中では、両文化間の人間の共通性は縮小され、異文化は否定的に評価される傾向があります。日本人は他のどの民族とも異なっていると、視察官のヴァリニャーノ(Valignano)は、その1585年のスマリオ(要綱)に書いています。こうして日本を、一方では自分の意識の範囲の中に取り込み、同時に他方では、意識の果てに置いています。彼やフロイスの論文と、日本でよく見られる「目本人論」との類似性が認められます。しかし、当時といい今日といい「日本人論」にはたいてい、学問的にしっかりとした根拠が欠けています。

一歩進んで、宣教師書簡のヨーロッパにおける受容に目を向けてみましょう。天正使節にすれば当時の読者層にとって直接的な出会いというものは不可能でした。すでに早い時期から遠国よりの報告は、実用的な情報の領域においてしか利用されていませんでした。それは未知の世界への好奇心と憧れを満たすものであり、また補足的なものとして自分自身の世界に相対するものとしても受け止められていました。異国趣味への逃避はしばしば、自分が生活環境に適応できないことを、はるかな異国の虚構の世界と神秘的に調和することによって相殺しようとする試みにすぎません。ギリシアのキテーラ島の古代神話以来、島というものは、そのような投影の対象として好まれてきました。その限りにおいて初期の婉曲な宣教師の書簡は、まさしく読者の心の琴線に触れたのです。

しかし、80年代後半になると、迫害と弾圧がますます厳しさを増します。これは多くの殉教者物語としてヨーロッパに伝えられました。殺された日本人キリシタンの信仰の強さが称賛されたのはカトリック教会においてのみではありませんでした。特に南ドイツでは17世紀に、イエズス会士の物語が繰り返し上演され、豊後や有馬の日本人キリシタンは英雄として永く伝えられました。殉教者に対するこれらの賛美には、新教や啓蒙思想に対する批判も含まれていました。だがまもなく啓蒙主義者も反撃を開始します。たとえばヴォルテールはもしもイエズス会士が信仰の白由のみで満足していたら、弾圧や追放という事態にはならなかっただろうと、強調しています。さらに有名なピェール・ベールの百科事典では日本の鎖国政策を、政治的な観点から極めて賢明だったと擁護しています。さもなければ、日本はおそらく中南米の(帝国の)ように征服されたであろうと。

これらの報告の受け止め方と評価はさまざまだったでしょう。しかしヨーロッパの知識層の頭の中で、そのとき初めて、地の果ての国日本のステレオタイプが作られました。そのうちのいくつかの要素は何世紀も生き続けています。


2 日蘭貿易の時代

16世紀の40年代以降ヨーロッパでただ一国、長崎で日本との貿易が許されていたオランダ人は、カトリック側の文献から多くを学んでいました。もちろん彼らは役に立つ実用的な情報は相当に評価していましたが、カトリックとの、政治的、宗教的な違いを越えて、日本人の民族性に対する評価も、ポルトガル人やスペイン人と一致することが多かったのです。ランソワ・カロン(Francois Caron)の『強大な王国日本について』は17世紀前半の最も重要な記録ですが、これはほとんど自らの体験に基づいており、新たな局面を伝えています。

カロンは子供の頃日本にきており、日本語を学び、後に日本女性と結婚していますが、長崎へ移住を命じられた困難な時期に、平戸の東インド会社(VOC)の商館長を勤めていました。1636年の著書は長さの異なった31の章から成っており、それぞれ質間にこたえる形になっています。これは、地理から統治制度、懲罰、宗教、住宅事情、日本人の特徴、貞節、商業、度量衡や貨幣、家畜、医学、その他に及んでいます。興味深いことに、彼は子供の教育について一章を当てており、その内容は当時の読者にとってはまったく革命的な印象を与えたに違いありません。

「彼らは子供をていねいに、やさしく育てており、叩くようなことはめったにしない。一晩中泣き叫んでも、それでも彼らは気長にやさしくなだめる。怒ったり、打ったりするのは好まない。彼らは、怒鳴ったり、打ったりして子供を傷つけたくないのである。子供はまだ何もわからないのであり、大きくなれば理解力もつき、時が来れば作法もよくなる、と言う。こうして子供はやさしい言葉と親切な指導のみで教育される。7歳から8、9、10、11、12歳の小さな子供がどれほど賢く、慎み深くしているか、話の受け答えができるかは、驚くばかりである。こんな子供たちは私たちの国ではめったに見かけない。……学校に行く年頃になると、少しずつ、無理じいもせずに進んで読み書きを習うようにし向ける。その時、互いに競争するような野心も植え付ける。頭がよく、そのため家全体が尊敬されているような子供を手本にして、ますます勉強するように励ます。日本人は頑固で、負けるのが大嫌いなのである。」
この文章はほとんどそのまま、現代日本の教育についてもあてはまるでしょう。 間もなく、ドイツ人で、地理学の先駆者の一人、ベルンハルドウス・ヴァレーニウスがさらに『日本国について』(1649年)を発表しました。彼はヨーロッパから一歩も出たことはなかったが、それまでに出ていたカトリックやプロテスタント関係のほとんどの文献を冷静に分析しています。もちろん、読者に特異な印象を与えるような事柄には、特に多くのページを割きました。

オランダ人の日本との「独占貿易」の代償は大きく、狭い出島は日本に好意的な外国人にとっても耐え難いものでした。宗教的な行事はすべて禁止され、白分の妻も伴うことができず、武器は滞在中すべて没収され、絶えず監視つきで、きっと神経を擦り減らしていたことでしょう。今日、出島の名前はさまざまにロマンチックなイメージをかきたてていますが、当時の東インド会社の商人たちにとっては監獄とたいしてかわらなかったに違いありません。彼らが、日本人の非情さや残酷さについて語り続けたとしても無理はありません。内容の確かさはともかく、オランダ人にとってこのような日本人像は、ヨーロッパでの嘲笑に対して自身を正当化するため、また1、2、年の長崎駐在を精神的に耐えるためにもどうしても必要でした。


図1「切腹」(モンタ−ヌス、1669年より)

しかし、囲いの外の世界に対してはほとんどの者がそれほど関心を持ってはいませんでした。ルソーも18世紀中頃に、彼らは頭よりも財布を満たすことの方を気にかけている、と書いています。しかしこのように非難されても、もともと商取引が第一の関心事である東インド会社は動じませんでした。出島の商館長の日記や通信文には、VOCと日本との間で重要な情報は少なくともすべて記録されています。とりわけ毎年行われた江戸参府や、多くの幕府高官との出会いや将軍の謁見に関する記述は、オランダでは商人以外の読者の興味をひきました。アルノルドウス・モンターヌスは以前のポルトガル人の文献から抜粋したものと合わせて、1669年にこれらの報告を『日本の皇帝への記念すべき使節団』という名で紹介しています。この本はたくさんの挿絵があったため、読者の想像力を大いに刺激しました。メルス市の銅板画家にはほとんど、文章で書かれた資料しかなかったのにもかかわらず、空想を自由に働かせ、壮麗な寺院に奇怪な仏像、貴族の男女、巨大な都市を作り上げました。つまりまったくヨーロッパ人の憧れの的とも言うべき異国です。これに対して、本文の方は比較的客観的になっています。モンターヌスは多くの挿入文を入れることで、この内容を既知の文化や世界史全体の流れの中に組み入れようとしました。この点で、今日もなお大いに興味のあるこの著書は、当時たいへん人気を博していた膨大な数の『旅行日記』とは一線を画しています。東インド商会を通じて世界中を渡り歩いていた船員や床屋職人、兵士は長い勤務の後、その体験を本の形で世に出すことが常でした。もちろん、彼らの記憶の中ですべてが、より神秘的に、危険なものに、異国趣味になっていました。序文にはよく、自分はもともと本を書くつもりはなかったが、友人に説得された、また信じられないように感じられる体験も事実なのである、と記されています。よく読んでみるとしばしば、彼らが互いに書き写しているのがわかります。モンターヌスからの盗用も行われています。それでも、これらの体験したこと、耳にしたこと、本で読んだことの興味深い混合は今日でも、その中に日常事に対する細々とした観察を見いだし、さらにヨーロッパ人読者の異国趣味をある程度「大衆文学」の水準で捉えることができれば、貴重なものです。

ヴァレーニウスやモンターヌスの仕事にいかに大きな功績があったとしても、彼らはすでに書かれていた文献を研究したのであり、ヨーロッパからは一歩も出ていません。時折さらに詳細な著作や、注釈付きの文献集、たとえばクリストフ・アルノルトの『三大王国、日本、シャム、コレーア』(1672年)等が出されていますが、17世紀後半の知識人は、信頼できる、現状を伝える直接的な記録を待ちこがれていました。ここで、ドイツ出身の商館長アンドレアス・クライヤ−(Andreas Cleyer)が評価されてよいでしょう。クライヤーはまた、ヨーロッパの学者に膨大な資料を送って大いに貢献しています。日本の鍼灸については、かつて商館の医者を務めたヴィレム・テン・リーネが1682年に注目すべき本を出しています。博物学全体に興味を持つ読者には、ドレスデンの園芸家ゲオルク・マイスター(Georg Meister)が『東洋の園芸、造園家』(1692年)の中で日本の植物やいろいろな面について書いています。日本は彼に強い印象を与えました。日本人は芸術や学間、また宗教以外のことに関してはヨーロッパ人の教えを必要としていない、ヨーロッパ人は、自分たちだけが優れているとうぬぽれてはいけない、と言っています。

最初の包括的な、体系化したものとしては『日本とその歴史』が挙げられますが、著者であるエンゲルベルト・ケンプファー(Engelbert Kaempfer)の死後、1727年にようやく発表されました。その功績は、彼が2年間の出島滞在の間(1690、92年)いろいろな制限にもかかわらず、おびただしい数のモザイクから包括的に、この国の現状を示し得たということだけではありません。彼はその時代の固定観念からはなれて、日本をそれ自体から理解しようと努力しました。

多くのヨーロッパの言語に翻訳されたこの本の影響は、いくら評価してもし過ぎるということはありません。カントからモンテスキュー、ルソー、ヴォルテールを経てディドロの百科全書に至るまで、ケンプファーは、憲法や宗教、宗教の白由、人類の歴史的展開が間題になる場合は、あらゆるところで引用され、研究されました。これらすべての領域で日本はヨーロッパの啓蒙主義者に、それぞれの視点から有益な、目に見える材料と論拠を堤供しました。ケンプファーがその革稿につけた最初の題名『今日の日本』は後の書名よりも明確にその目抱を示しています。歴史や地理、文化、社会、またオランダとの商取引以外に、彼はまた日本の鎖国政策や幕府の立法制度の諸間題点を取り上げています。彼にとって鎖国と厳しい国内の管理は日本の歴史的な発展からみて、ある程度理解できるものでした。しかしモンテスキューは、おそらくケンプファーによって紹介された厳しい規律から受けたであろう印象と、地理的、気候的な条件から、アジアの国家権力(つまり中国)は常に専制的であるはずだと言いました。日本の法律は、彼によると「人の理性のイデーをすべて逆にしている」ということになります。注目すべきことは、彼がこの点で、日本を、すべてのヨーロッパ的なものに反するものとして、常に孤立させていた16世紀のイエズス会とまったく同じ見方をしているということです。こういう見方にとりわけヴォルテールは反発しました。彼は、日本国民の「理性的な部分」は、将軍もそうだったように、ヨーロツパでも評価された儒教の教えを範としている、という意見でした。反対に、日本では「自然の法則ははっきりと民法に」姿を変えている、と。ケンプファーの鎖国政策についての記述は広く受け入れられました。それは多くの場合日本人の誇りと自由を求める表われとみなされました。さらにカントもこの措置を、その論文「永遠の平和のために」(1795年)の中で支持しています。とにかく、日本人自身よりもはっきりと孤立の危険性を感じていたようです。ケンプファーは、マイスター同様、日本民族は、「風習や美徳、芸術、上品な立ち居振舞いについて」、他のどの民族よりも優れている、と言っています。しかし、これは18世紀の思想家にとってはもう過去のものでした。ヨーロッパは矢われた時を取り戻した(ヴォルテール)。この文化の段階で日本では中国と同様に「ヨーロッパで行われているような学問」の進歩はほとんど考えられませんでした。「日本人が啓蒙されないのは、一つには間違いなく、彼らが外国人との交際を禁止されていたからである」と当時のドイツ百科全書に書いてあります。


図2将軍の謁見において西洋の舞踏を披露するケンプファ− (ケンプファ−、1777-79年より)

その代わり文学ではケンプファーは好き勝手に利用されています。とりわけ、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』以来人気のある虚構上の旅行記や旅行者の手紙においては、しばしば日本のことが出て来ます。この新しい文学上のジャンルでは、自国の文化や、社会、現行の政治体制を批判するために、異国風の場面や人物が好んで用いられました。ケンプファーによってむしろ控え目に書かれていた次のエピソードは詩人や読者を特に刺激したに違いありません。それは1691年、オランダ人が参府した江戸での将軍綱吉の謁見です。

商館長が謁見の間に入ったと思われるときに、「オランダ甲比丹」と呼び上げる大きな声が聞こえてきた。これは商館長が将軍の御座所に近付いて、表敬の礼をすべき合図である。この合図を受けた商館長は、献上物が順に並べてある場所と、床を一段高くした部屋に設けられた将軍の御座所との問を、指図通りいざるように膝行し、地面に額がつくほどひれ伏し、一口もきくことなく、再び蟹のような格好でいざり退く。念には念を入れて準備した謁見の儀は、このようにしてまったく呆気なく済んでしまうのである。……この第一幕が終わると、それから先は、全くの茶番劇であった。最初に出たのは、いろいろな噴飯的な質間である、まずわれわれ各人は「年齢はいくつか」、「名前はなんという」と問われた。……
将軍は、初めのうちは、われわれからかなり離れた所に座り、婦人連に囲まれながらわれわれと対応していたが、やがて席を立ってわれわれのいる方に近寄り、すだれのすぐ後ろに座り、われわれに対して、もっと顔が見えるように礼装のマントを脱いで正座するように命じた。将軍がわれわれに要望したのは、それだけに止まらず、何をやれ、かにをやれとにわかには思い出せぬほど次々に注文が出され、われわれは命じられるままに猿芝居をやらざるを得なかった。
われわれは、あるいは立ち上がってあちらこちらへと歩いてみせたり、あるいは互いに挨拶を交わす形を演じたり、踊ったり跳ねたり、酔っ払いの真似をしたり、絵を書いて見せたり、オランダ語とドイツ語で朗読したり歌ったり、片言の日本語で喋ったり、マントを着替えたり脱いだり、いろいろの仕種をして見せた。私はドイツの恋歌を一曲、私なりに歌った。われわれの商館長は、この飛んだり踊ったりの芸当をやらずに済んだ。……われわれはこのようにして2時間も、体のいい見世物になったが、これが終わると数人の茶坊主が、われわれ各人に日本料理を載せたお膳を運んできた。[2]
反響はすさまじいものでした。ある意味では、ヨーロッパ人の誇りが傷つけられ、オランダ人は、自らそこまで卑下したとして厳しい非難を受けました。およそ100年前、九州からやって来た若い日本人使節がローマ法王の前に跪いたと知って、大いに満悦したことは忘れ去られています。ダルジャンの『中国人の手紙』(1739年)では、よりによって中国人が江戸城を訪れ、上記の場面の証人になっています。「彼らが、自国で、また支配下の国であれほど誇りに満ちた顔をしていたあのヨーロッパ人だろうか」。ドイツ人マティアス・クラウディウス(Mathias Claudius)は『日本の皇帝との謁見報告』(1778年)で切腹に対する不快感を述べていますが、これはそれから200年以上もの間、ヨーロッパ人の想像力をかきたてることになります。彼によると、将軍は合理的な儒教信奉者で、日本の啓蒙主義者というところでした。これほど客観性を追求した著作でもその受け止め方はどうしても主観性を帯びてしまい、重点はおきかえられ、事実は自らの目的やイメージに合わせて勝手に解釈されてしまうことがわかります。


図3「灸所鏡」(ケンプファー、1712年、1727年より)

ケンプファーの著作が出版されたその過程では、挿絵さえ白分たちの視覚習慣に合わせようとする、明確な例が見られます。1712年の『廻国奇観』には、彼の銅板画家が日本のものを手本にして作り上げた灸点の図が付けてありました(図3a)。この版画師はそれほど能があるというわけではありませんでしたが、原図の特徴をかなり正確に表わしています。1727年にロンドンで出版された『日本史』の版では体格が突然細身になっています(図3b)。大地にしっかりと立っていた両足はギリシア風の立ち足と休み足になり、日本のふんどしは古代風の腰布に、片方の腕は宙に浮いています。1777・79年にドイツで出た新しい版はイギリスのものを手本にしています。明治時代に日本を旅行して回ったヨーロッパの写真家たちもこうした伝統的なヨーロッパ美学のパターンからはなかなか解放されることができませんでした。

18世紀末になると日本の魅力はうすれていきました。ヨーロッパ人の揺るぎない自負心はこの国では、自分自身との、また世界史との関係において何か重要な関連性を、もう何も発見できなかったからです。ドイツ人の歴史家マイナース(Meisner)は1790年その論文「南アジアの自然と民族について」の中で日本人と中国人を「アルタイ人種」に属するものとして包括しています。この人種は「動物のように興奮しやすく」、「信じられないほど鈍感で」、「独創力に欠けている」と特徴づけています。彼らは「真似はできても、発明はできない」。なぜなら「理解力や判断力の程度が低く、学問や芸術を習得したり、広めたりはできない」のだから、と書いています。


3 世紀末のジャボニスム

日本の美術について17、18世紀の著者は、適当な情報がなかったためかほとんど何も書いていません。また、外国にまで届いた日本の美術品もきわめて少数であったため、ヨーロッパの芸術家に持続的な影響を与えるまでには至りませんでした。ここでただひとつの例外は九州の有田焼でした。激しい荒廃により景徳鎮の磁器生産が落ち込んだので、オランダの東インド商会は1659年以来数10年間の間、有田の磁器を大量に取引しました。18世紀に作られた西洋の磁器工場は特に柿右衛門様式に強く刺激され、当初は小さな部分にいたるまでコピーしていました。また、バロック時代の趣味にあった色彩豊かな錦絵が、中国の明磁器とならんで多くのヨーロッパの宮殿の磁器コレクションで大きな地位を占めました。

1853、54年に日本が開国してから、初めて多くの美術工芸品が西洋にまで届き、ロンドン(1862年)やパリ(1876、78、89年)の万国博覧会では、中国の作品とならんで驚嘆の的となりました。しかし、ジャポニスムの広がりに決定的な刺激を与えたのはハンブルグ出身のサムエル・ビンで、パリで画廊を経営していたが、そこはサロンとして、また芸術家のたまり場として好まれていました。ビンは1888年以来、英語とドイツ語で『日本美術』という雑誌を発行しており、これは、表題が示すようにもっぱら日本の芸術に関するものでした。さらに自分の画廊で多くの展覧会を催し、また相談役として多くの他の展覧会にも貢献しています。彼は、ヨーロッパで支配的だったいわゆる「高尚な芸術」としては評価の低かった工芸の差をなくそうしました。同時にまた、従来のアカデミックな芸術のかせを断ち切ることにも成功しています。


図4 ロバ−ト・バ−ンズ(1891年)

とりわけ印象派にとって、日本の作品との出会いはひとつの解放を意味していました。ひとつの消失点に向かって構成された西洋の遠近画法に代わって、そこには上方からの部分的な視点がありました(いわゆる吹抜屋台の手法)。幻想をめざした自然主義にかわって、奥行きのない多彩な平面、部分的な形、背景のない人物、装飾的な背景、高く細かい型、構図には広く空いた面があり、ヨーロッパ人の目にはアンバランスに見えました。個々の流派に関係なく、絵画では特定のテーマまたは装飾が増えていました。竹、菊、虎、蝶、とんぽ、烏、鳩、鯉、猫、波、海中の岩、滝、雨、雪、橋、柱、妖怪や、もろもろです。また他にも屏風やランプのかさ、扇子が使われました。ドガやマネ、ヴアン・ゴツホ、ゴーギヤン、ロートレツク、ヴァヨトンなどの芸術家の作品はこれらの日本趣味を抜きにしてはほとんど考えられません。特に輪郭や装飾法から刺激を受けたのは、曲線美を追求したユーゲント・シュティール(アール・ヌボー)です。 さらにガラス工芸品や陶器からも刺激を受けていますが、ここでは中国も大きな役割を演じています。日本の伝統的な建築からの明確な影響は、19世紀から現在に至る数多くの著名な建築家に見ることができます。ペーター・ベーレンス、ヴァルター・グローピウス、フランク・ホワイト、ミース・ヴァンデア・ローエ、ル・コルビュジエ等々。ブルーノ・タウトの著書はヨーロッパ以外でも、桂離宮の簡素な美に興味を起こさせました。それらは日本でも、当時はそれほど評価されていなかった建築に新たな注意を向けさせました。19世紀以降裕福なヨーロッパ人は木彫、木版画、根付け、掛け物などの日本コレクションに取りかかりました。


4 新しい日本と古い日本

19世紀にヨーロッパの大学では多くの新しい学科が設立されましたが、そのなかには日本学も含まれています。長い間それはいわゆる“ラン学科”として、つまり魅力的で結構なものだが、結局のところほとんど役に立たないと見なされていました。当初の講座を担当したのは圧倒的に、かつて長く日本で教授や教員をしていた人々でした。しかし日本での滞在経験を持つ商人や宣教師も書物や雑誌の記事、講演を通じて世論に大きな影響を及ぽしました。 これらの帰郷者は西洋の文化、文明の優越性を信じて疑いませんでした。このような態度はしかし、日本に対してだけのものではありません。それは植民思想に欠かせない要素であり、おのれの介入を正当化するため、他国の文化的、学問的水準を「未発達」なところに位置付けようとしたわけです。したがって、西洋の論理に、不十分な日本人の直観が対比されていました。言いかえれば、下位に位置付けられていました。個人主義に対して集団の意識、独創性に対して模倣です。注目されるのは今日の日本人論との多くの類似点です。長い間鎖国をしていた日本の、いわば突然の開国と、短期間におこなわれた多くの外国的な要素との同化は、どうしてもそれまでの自己認識をぐらつかせ、新しいアイデンティティを求めることになります。その技術的、学問的な優位性を鼻にかけるヨーロッパ人の論拠が、このような状態でさほど反対もされなかったことは当然でしょう。近代日本の自我像の中の特徴は多くの場合、結局のところ18世紀末と19世紀のヨーロッパ人の偏見にまで遡ります。このような内外のステレオタイプの共存はたいていの場合とても根強く、それが洋の東西を間わず今日まで残っていたとしても不思議ではありません。徳の分野でも同様のことが見られます。勤勉さ、几帳面さ、清潔さ、そして当時はまだ「祖国愛」など、自分の国にあるものは、昔も今も評価します。これに対して、日本人の「丁重さ」に対する評価はまったく相反するものでした。ここではあの、すでにポルトガル人やオランダ人に見られた防衛機構が作用しています。日本人(同様に中国人)とのコミュニケーションにおける居心地の悪さと不安感から、その背後に偽善と冷酷さを隠した「アジア人の仮面」という決まり文句ができてきました。

ドイツ人は日本人と多くの点で類似した経験を繰り返しながら、日本の近代化に多くの点で貢献してきましたが、その当時は日本人をむしろ南の国、フランスやイタリア、またアラブ諸国に属する国とみなしていました。日清、とりわけ日露戦争に勝ってからようやく日本は、「アジアのプロシア」としていくらか近い存在となりました。しかし、これは決して心からの親近感を意味するものではありません。ヴィルヘルム時代からある国粋、人種主義的な常套文句である「黄禍」は、フン族(5世紀)や豪古人(13世紀)の襲撃という漠然とした記憶や、見知らぬ人種や文化に対する潜在的な不安感を呼び起こしましたが、これはもちろん日本人をも含んでいました。これは第1次世界大戦前後の日独対立の時だけに限りません。日本もまた経済的に強力な競争相手になりました。そして常にそれが自国の貿易政策上の考え方にとって都合が良いときには、今日でも「東からの脅威」というイメージが浮かび上がってきます(図5)。


図5「日本車 一 ヨーロッパはやっつけられる」(デア・シュピーゲル、1980年)

日本の近代化への努力を西洋の技術や文明の優越性に対する認識としてみればみるほど、逆説的に日本旅行者は「古くて本物の」日本が消えてしまうことを嘆くことになります。特に作家や紀行文作家は、繰り返し自分のあこがれにきらめきを与えようと試みています。その際特にエロチックな面が重要になってきます。自国で経験できないものが遠いエキゾチックな世界に投影され、そこでは自分の道徳心が直接危険にさらされることがありません。ピエール・ロティは、数カ月にわたる交際の「お礼」を支払った「お菊さん」との別れに際して、期待した嘆きが彼女の口から聞かれなかったことを残念に思いました。この実際にあった出来事はジョン・ルーザーが改作し、ダヴィド・バラスコが戯曲化して『ある日本女性の悲劇』という作品になりました。このようにして西洋の男性の理想像に合わせたこの物語は、作曲家プッチーニを刺激し、『蝶々夫人』(一九○四年)が生まれたのです。同様の日本像は他の『ザ・ミカド』(1885年)や『ゲイシヤ』(1869年)でも伝えられました。日本からの旅行記にはほとんどすべて「茶屋」や「吉原」、「芸者」、そして公衆浴場についての章が見られます。この楽園のような田園画は富士山と桜の花でさらに完全なものとなります。今日でもこの、なかなか壊れないステレオタイプのためにどんな西洋の旅行者用のガイドブックにおいても、このテーマについてあまり読者に期待を抱かせないような説明が不可欠となっています。

国家社会主義の思想も日本民族に対してはもともとそれほど高い評価を与えていたわけではありません。ヒトラー自身『わが闘争』で、まさに日本を例に挙げて、文化の「創造者」と「担い手」の違いを説明しています。日本は後者の例に入ります。ハンガリー人やトルコ人と違い、当初の日本人はアーリア人と同様には見られませんでした。ドイツ人と日本人の間に生まれた子供たちは、ヒトラーの権力獲得の後しばらくはかなりの差別を経験しています。しかし1936、38年には様相が一変します。大衆宣伝活動によって短期間に均一の日本像が国民の間に広まりました。自国の思想政策の必要に応じて、穏やかで女性的な要索と並んで厳しく好戦的な要素がもてはやされました。ジーブルクの『鋼鉄製の花』(1939年)やアペリウスの『大砲と桜』(ドイツ語版発行1943年)はこの二元的な視点に、完全に支配されています。この点で初めて、かつての陸軍少佐であり地政学者だったカール・ハウスホーファーが1923年に出した『目本と日本人』で日本文化の分裂性について論じ、それは日本の自然が際立った対照をなしているためだとしています。重工業と並んで日本の農民階級や日本の領土拡大にも大いに注目し、日本も自国民と同様「土地なき国民」だとみなしたのです(図6)。


図6「目本の領土拡大の歴史」(『ドイツ人から見た日本』1943年,より)


日本人労働者の日常について第二次世界大戦の後までほとんど何も書かれていません。私の知る唯一の例外は『ある労働者の世界旅行』で、フリッツ・クンマーが1913年に発表しています。彼は日本を「素晴らしい白然と汚れた都市の国」として体験しました。60年代や70年代初期の著者はだいたい同様の結論に達しています。新たな経済復興と輸出攻勢は、再度東からの脅威というイメージを日本像の引き出しから取り出させました。蒙古人が1242年にリーグニツの戦いで「騎士の戦法」を無視したように、今度は「フェアな」国際貿易のルールが日本によって無視されたと見られています。ドイツが今世紀初めに、日本はドイツがその近代化に際して行った援助に感謝していないと非難したように、今度はすべての工業国が日本の経済的利己主義を非難しています。日本は自分が「特別」で「ユニーク」だと主張しているため、再度西洋の識者から、極東には「1億人のアウトサイダー」がいると言われ、そのためにまた日本は、世界の文明共同体の端に追いやられています。この論議に持ち込まれた多くの視点は400年前のポルトガル人のそれと不気味なほど似ています。ヨーロッパのジャーナリズムでは新たな現象が見られます。日本経済がもはや無視できなくなったため、今度は日本の影の部分を好んで取り上げています。住宅事情の悪さ、環境汚染のひどさ、女性の社会的地位、教育の画一性、被差別民の現状、東京の砂漠化等々。外来語は悪い後味、不快感を残すように取り入れられています。日本のサラリーマンは中央で管理される経済の中でロボットやアリに見立てられています。一方で、ヨーロッパの企業はこのように文句も言わずに働く日本人像を利用して、失われたと思われる、かつては西洋資本主義の原動力だったプロテスタントの労働倫理を生き返らせようとしています。もちろんこれらの論評の多くは現在の日本における間題点を扱っており、それぞれ個々の記事については異論の余地はあまりありません。しかし、間題点、弱点ばかり取り上げて書いている著者の態度には首をかしげざるを得ないことがありまず。また、日本をトップ、あるいは万能のモデルとして見ている知日家の多くは、その日本礼讃を、明らかに自国の読者よりも、実入りのいい日本の書籍市場のために書いています。これに対して日本は自分が、誤解された、外国の宣伝活動の無実の犠牲者であるとしか考えていないようです。この「誤解」は正確な情報の不足によるものだと、繰り返し主張されています。しかし、客観的で正確な情報の有無はともかくとして、上に述べたような、ちょっとた観察からも、異国のイメージがどのように描かれるかを決定するのは情報の種類だけではない、と言えるのではないでしょうか。それぞれの自身の教育、社会化の過程ででき上がった認知構造、自分自身の現状、精神的状態や目的、ねらいがよその人や・文化から受ける個々のイメージを支配します。したがって私たちが自分自身について持っている自己像と、他の人、集団、社会が私たちについて持っているイメージが一致することはめったにないのではないでしょうか。しかしこれは必ずしも努力に値する目的ではないのかも知れません。おそらく、その際に一致するのはただ、現実とは関係がなくてもいいようなステレオタイプ約な仕組みだけでしょうから。より重要なのは、自分の知覚条件を理解し熟考することを学ぽうとすることなのではないでしょうか。このための教育は極めて早期に始めるべきであり、最終的には教育制度全体の根本的な方向転換を意味します。重要なのはさらなる情報源の広範な分散であり、そのためにはより良質で多様な外国語の知識が双方の前提となります。同時に現実に存在する摩擦や不均衡を排除し、直接の出会いを特に若者の世代で促進するよう努力すべきでしょう。くつろいだ、安心できる雰囲気での、多くの人々の出会いを通じて初めて、双方が相互理解の理想に近づくことが可能になります。このような心理学に基づいた国際化の概念が、何世紀にもわたって作りあげられた私たち栢互の外国像の迷宮からの唯一の出口であるように思われます。

  • 1)岡田章雄訳、ルイス・フロイス『日欧文化比較』大航海時代叢書XI、東京、1965年。
  • 2)今井正訳、エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』東京、1973年。

 

 

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