Wolfgang Michel: Review of M. Vos, The Donker Curtius Memoranda. In: Nihon Ishigakuzasshi (Journal of the Japan Society for Medical History), Vol. 40, No. 3, pp. 387 - 388, 1994.
日本医史学雑誌、第40巻、第3号、387ー388頁、1994年9月


ヴォルフガング・ミヒェル(Wolfgang Michel)

フォス美弥子編訳『幕末出島未公開文書 ー ドンケル=クルチウス覚え書』


一世紀半が過ぎてしまった今日に到っては、いささか皮肉な感じもするが、アメリカが初めて日本に関心を寄せたのは、当時急激に増加していた自国の捕鯨船団の保護が目的だった。日本近海で船が難破した際、乗組員が監禁され、長崎からの移送はオランダに委ねられていたためである。さらにはまた蒸気船の運行が発達し、東アジアでの補給基地を確保する必要性も増大していた。日本を如何に国際社会へ編入できるかは西洋諸国にとって緊急の課題となった。1852年浦賀沖へのペリー提督来航は、同様の「訪問」をする他の船の先駆けになっただけではない。それは徳川体制の崩壊状態が決定的となり、将来の対外関係をめぐる国中の激しい綱引きにもつながっていった。

米英露仏等列強の圧力の下で陥っていた分裂状態を生々とした描写によって裏付けたのは最後の出島商館長ヤン・ヘンドリク・ドンケル=クルチウス〔Jan Hendrik Donker Curtius、1813〜1879年)であった。彼は西洋で唯一、それまで二世紀余りに亙って鎖国日本と直接交渉を維持してきた国の代表者として、アメリカなどが頼りがちであった砲艦政策よりも、ねばり強く双方の信頼関係を築く方が遥かに適切であると判断していた。そのために、彼は積極的にオランダ語の普及を促進し、西洋の学問、技術の導入を助成し、様々な啓蒙活動を行なった。同時にまたドンケル=クルチウスが同時に日本の理解に努めていたことは、「日本文法稿本」〔Proeve eener Japansche spraakkunst〕という形で結実した彼の日本語研究からもうかがわれる。およそ7年に及ぶ日本滞在で蒐集した数多くの書籍は現在主としてライデン大学に所蔵されている。

この度出版された本で紹介されている記事は編著者のフォス美弥子氏が植民省極秘文書の中から発見したものである。本の前書き(7頁)ではまず歴史的背景や資料について述べられ、続く本文は1852年(嘉永5年)の書簡及び1853年(嘉永6年)から1855年(安政2年)までの4つの覚書集とそれぞれの添書から成り立っている。巻末には詳細な解説とドンケルの略歴があり、文献目録からは当時の諸問題を巡っての内外における研究の状況がうかがえる。人名、件名索引は綿密に作成され、それはおよそ170ページにも及ぶ広範な資料への取り組みを容易にしている。冒頭には数枚の写真、版画などが載せられており、主要な登場人物とその舞台への「視覚的な接近」をも可能にしてくれる。

当時のことは歴史書や学術論文では通常大まかな骨格が粗描されているに過ぎない。本書では読者の眼前に繰り広げられた資料によって歴史との関わりを楽しくする肉付けがされている。ドンケルという人物を生き生きと描写し、商館と長崎当局との関係に見られる建て前と本音や、長崎湾に入港するロシア、イギリス、フランス艦隊の内部事情をも明らかにして、幕末の外交に対する理解を深めてくれる。医学史に興味を持つ読者なら、西洋医学や化学の紹介で著名なドクトール・ファン・デン・ブルック〔J.K.van den Broek〕と本書で再会できることを嬉しく思うであろう。

筆者はこの本を一気に読んでしまった。丁寧な訳文に解説付きこの著作によるフォス氏の功績は大きい。「外圧」苦しめられている今日の日本を考える際にも、この本は様々な刺激を与えてくれるであろう。一読をお勧めしたい。


〔新人物往来社、東京都千代田区丸ノ内3ー3ー1新東京ビル、電話03ー32ー23931、1992年、総223ページ、定価 4、800円〕

 

 

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