Wolfgang Michel: Acupuncture in 16th and 17th Century Europe. Kyushu Daigaku Gakuho No. 3 (Fukuoka, 1998)(「九州大学学報」第3号、1998年11月)

ヴォルフガング・ミヒェル

16・17世紀のヨーロッパへ伝わった鍼術について



西洋医学が日本に及ぼした影響についてはさまざまな研究がなされているが、東洋医学がすでに16世紀後半からヨーロッパで受容されていたことは、専門家でさえ認識していない。興味深いことに、「中国医学」と西洋人との最初の出会いの場は中国ではなくその周辺の国々であった。

wolfgang michel

中国が16世紀初頭に東アジアへ進出するヨーロッパ人の入国を拒否していた一方、日本ではイベリア半島出身のイエズス会士や商人の到来はさしあたり歓迎されていた。東方の果てで高度な文化と出会った彼らは、初期の書簡、年次報告などを通じて、西洋の手本になりうるような日本の理想像を作り上げた。その文献の多くは刊行され、ヨーロッパの知識人の注目を浴びていた。それらの文献ではさまざまな話題がる中、日本人の健康や医学の問題も取り上げられている。

例えば、日本からマカオへ戻った神父ロレンソ・メヒカは、1584年1月6日付けの手紙で、日本人はその気候と食物のおかげで一般にとても健康だと書いている。「彼らは病気になると、どんな痛みに対しても腹や腕、背中などに銀製の鍼を刺す。」また、イエズス会が1603年に長崎で刊行した『日葡辞典』には、驚くべき数の薬草や薬の名称(190語)、病名(約450語)、身体・解剖関係の言葉(約240語)、医療用の道具名(15語)および獣医学用語(27語)が確認できる。鍼灸関係の見出語(約50語)の中には専門性の高い打鍼、留鍼、銀鍼、金鍼、平鍼などのような用語も含まれている。残念ながら、その執筆に当たったパテレンは後の西洋の著者たちと同様に、気流れる身体の経絡を「静脈」だと誤解していたようである。

しかしながら初期の記述はたいてい短く、多種多様な分野に散らばっていたので、それらの情報に対するヨーロッパでの反応はなかったようである。鍼術が、ヨーロッパで詳細な議論の対象になっていたのは17世紀後半のことであった。その際、日本が再び決定的な役割を演じることとなる。

1675〜76年まで出島商館に滞在している間にオランダ人ウィレム・テン・ライネ博士は日本の医学、医術について情報を収集し、鍼灸にも魅了された。彼は王惟一が著した『銅人 兪穴鍼灸図経』を入手し、「阿蘭陀通詞」の岩永宗古と本木庄太夫良意に協力を依頼したが、ライネ自身は二人の通事の得意なポルトガル語を話さなかったので、本についての説明は当時の通詞がまだ習熟していなかったオランダ語により行われざるを得なかった。その後1682年に彼はロンドンで論文集を出版したが、その中には経絡の図や、鍼灸に関する記述も含まれていた。その一つの論文の表題で彼は「Acupunctura」(acus=鍼、punctura=刺すこと)という鍼術の訳語を作り、それがヨーロッパのほとんどの言語における今日の「鍼術」という語の語源となった。

テン・ライネは3種の技法を挙げている:(イ)単純に刺す、(ロ)親指と人差し指の先で回す(=捻鍼法)、(ハ)槌で軽くたたいて刺し入れる(図1)。後者のいわゆる「打鍼法」は中国にはなかった。これは16世紀後半の僧侶無分が考案した独特なコンセプトに基づく治療法である。無分は従来の経絡系統を無視し、腹を診断や治療の場にした(『鍼道秘訣集』1685年刊)。腹の表面は体内の五臓六腑の「マップ」となり、それらの「虚実」などの状況は触診で突きとめられた。無分は中国古典の『難経』の16巻を参考にしているかも知れないが、彼の病理説および療法は、明らかに禅思想からも影響も受けている。無分の打鍼法はその息子とされる御園意斎(1557ー1616年)によってさらに広められた。

テン・ライネの書は彼の後任者エンゲルベルト・ケンペルの書棚にもあった。ケンペルは出島蘭館医として1690年と92年に日本に滞在し、根気強く社会、文化などについての情報や資料を収集した。彼は1694年、ライデン大学に「10の異国見聞」を博士論文として提出し、その9番目の「観察」に鍼術による日本での疝痛治療を詳細に描写している。この文章は1712年に『廻国奇観』にも新たに掲載され、当時の日本像の形成決定的だったケンペルの『日本誌』(1727年)にも加えられて、さらにヨーロッパに広まっていた。

すぐれた助手、今村源右衛門を得たことで、ケンペルはそれまでのどの著者よりもはるかに詳細な情報を入手できた。医学に関しては特に打鍼と、それと同様に日本独自の発明である管鍼についての記述はが注目に値する(図3、左)。子供の頃に病気で失明した発明者杉山和一(1610〜1694年)は、鍼術を学ぼうとしたが最初につまづき、思案を重ねるうちに管の利用により鍼を刺す深さを把握する方法を発見した。ケンペルはそうとは知らずに、当時の最先端の鍼術法をヨーロッパに紹介したことになる。今日打鍼はほとんど用いられていないが、管鍼は世界中に広まっているのだ。

ケンペルもテン・ライネと同様に、身体のどの個所を刺すべきなかという問題は、「日本外科学の特別な分野であり」、鍼術の規則は非常に多様で、病因になる「風」と特異な関係がある、と述べている。テン・ライネは鍼術の幅広い治療分野を簡単に列挙している:頭痛、めまい、白内障、狂犬病、胸と背中の張り、神経の収縮、てんかん、鼻かぜとリューマチ、間欠熱と慢性の発熱、心気症、鬱病、赤痢、コレラ、疝痛、内臓の風によるその他の病気、睾丸腫脹、関節炎、淋病。これに対してケンペルは「Colica」のみに集中している。東洋医学の「疝気」についての説明を聞いたケンペルは「Colica」(疝痛)だと理解したが、西洋の定義と通詞である今村の説明との間には様々な食い違いが生じたので、彼は日本の「Colica」をかなりあいまいに説明せざるを得なくなっている。この記述を読んだ読者は最後になって、なぜこのような病気を「Colica」と名付けたのか、大いに戸惑ったことであろう。

「Colica」の治療はケンペルによれば、腹の上の9穴で行われる。これも「経絡」を重視する医学ではなく、永田徳本(1512〜1630年)の発想を思わせる方法のようである。その穴を示す銅版画も興味深い。ケンペルが日本で描いたスケッチでは治療用の穴と肋骨が何本かしか見られないが(図2)、高度な専門書にもかかわらず『廻国奇観』では、ヨーロッパ人が持っていた東洋の女性のイメージに合わせたのよう色気満々の「日本人女性」がその半裸の身体を誇張している(図3)。

ケンペルとテン・ライネの論文により、鍼術はヨーロッパ人に広く知られるようになった。出島商館には毎年医師が来ていたが、カル・ペテル・ツュンベリーを除けばヴォン・シーボルトの到来までは、ここでさらに情報を得ようとする者はいなかった。18世紀の西洋医学の飛躍的な進歩により、ヨーロッパ以外の医学に対する興味が薄れていたのは確かであるが、もう一つの原因として、東洋医学の「理論」を理解する困難さがあったに違いない。

遠来の紅毛人に「気流れる身体」について説明しようとした出島の通詞たちは、大変な苦労を強いられた。欧文の文献において今日でも「Qi」というローマ字表記の外来語としてし伝えられない「気」の訳語を検討した時に、通詞は「風」、「湿気」や「蒸気」しか思いつかなかった。解剖学的にそれに対応するものを確認できない蘭館医は結局古代ローマ・ギリシア医学まで遡り、「スピリトゥス」および「プノイマ」のようなものではないかという解釈に至った。しかし、このことにより日本の医学は、捨てられつつあった古代西洋医学と同一視され、その価値を著しく下げてしまった。

「経絡」の受容の上でも致命的な誤解が起こった。イエズス会士が「経絡」を血管としてしか理解できなかったのは、彼らの職業や時代の背景からはある程度理解できるが、大学で医学を学んだテン・ライネとケンペルまで同様の結論をだしたのは意外なことである。二人とも中国や日本の医書に見た「図坊師」の解剖学的なお粗末さに首をひねる。そればかりか、「閉じこめられている風」の流れを回復させるための鍼の刺し方を紹介する際、ラテン語の表現に十分に注意を払わなかった。大学で「医学」という学問の内容と発展方針を左右していたハイステル、シュタールなどの当時の権威は、鍼術の治療目的は小大腸などの体内に溜まった「ガス」を抜くことであると思い込み、その危険で無謀な方法に猛烈に反対してた。

その反発をさらに強めたのは、ヨーロッパで日本の鍼を広めようとしたケンペルの戦略上の失敗であった。ケンペルは、日本文化論にせよ、鍼灸に関する記述にせよ、終始西洋医学の「残酷な鉄鋼」(=鋸、金槌などの外科道具)および「白熱の炎」(=焼きごて)に対して東洋医学の「やさしい微熱」(灸)および「鍼」の優位性を唱え、東西両洋の調和よりも両者の交替や東洋による西洋の打倒を求めるような書き方を選んだ。しかし、このような挑発を貫くには、彼の東洋医学についての知識はきわめて不十分であったと言わざるを得なかった。

 

 

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