「言文フォーラム」第19号、1999年2月 [On Multi-Media Teaching Facilities and Education]. In: Genbun Forum, No. 19, 1999.2, p.18-20.



ヴォルフガング・ミヒェル

21世紀へ向けての人文系の教室


 一般の人々にとっても魅力溢れるWWWが誕生してから、コンピュータはかつてない勢いで学校や大学教育に普及しつつある。筆者はこの5年間に日本とドイツでいろいろなタイプの教室を使用し、見学しながら、そのような傾向の問題点および可能性を探ってきた。マルチメディア室、メディア・センター、コール・ラブ、情報処理室など、その名称の多くは過去との決別を宣言しているかのような響きがある。設備に関してはいろいろな相違はあるが、最低限で共通しているのはパソコンがインターネットに接続されているという点である。設備のためには多大な投資が行なわれたのだから、本来なら黙って満足すべきなのだろうが、このような教室を使用していると、空間的技術的な環境が教育に与える影響というものをどうしても考えてしまう。

これらの教室は全て似たような条件と制限の下で作られている。時代遅れになるのではないかという不安から、将来の使用についての明確なイメージを持たないまま、限られた資金の中で設備が導入されている。計算機センターの端末室がその原型なのである。ここでは箱形のモニターが空間を占拠し、教師と学生の間だけでなく、学生同士のアイコンタクトも妨げている(図1)。人間同士よりも個人と機械との対話が優先する設計であり、人文系の授業で通常行われる学習がここでは極めてしにくくなる。教師が学生に近づいて直に話しかけても、学生の方ではマウスを離し、モニターから目をそらして、教師に向かうだけのこのメディアに対する抵抗力がない場合が多い。

黒板横の大きなスクリーンには、教師や生徒の作業内容を映すことができるが、今日では眼鏡をかけてもよく見えない者も多く、近くにさらにもう1台のモニターを設置した方がはるかに効果的だろう。

「マルチメディア社会」の到来を唱えながらも、従来のメディアを軽視する傾向も見過ごせない。参考書などを置く場所もペンなどで文章を書くための場所も足りないのはほとんどの施設に共通している。(図2)創造力や行動力を目指す教育の障害とされる、教師に向かって一方向に机を並べるという形は、最新の機器が設置された教室でも珍しくない。学生同士の助け合いやグループ学習などは、考えられないようである。授業中に教師はしばしば直接学生の所まで行き、個々の問題について手を貸さなければならないが、通路が狭く余裕がなければ行動が著しく妨げられ、遠回りもしなければならない(図3)。

またモニターに反射する光で目が疲れることは知られているが、照明灯の調整や窓の位置なども、パソコンの位置が固定されていては考慮する余地はない。特に日中はブラインドを下ろし、まるで地下壕のような雰囲気の中で講義が行われる。(図4)

さらに資金不足のためか、モニターにフィルターを付けることもめったにない。そればかりか、電磁波の身体への影響が相変わらず議論されているにもかかわらず、学生の周りをパソコンが取り囲んでいるような教室もある。

結局のところ、このような最新機器を備えた教室が我々の長距離コミュニケーションの可能性を技術的には大いに拡げてくれることは間違いないのだが、それと同時に我々の近距離コミュニケーションの可能性を物理的にも内容的にも著しく制限してしまうことも少なくない。このままでは授業の「リアリティ」が全く新たな意味で突然「ヴァーチャル」になってしまいかねない。少なくとも人文系の科目での使用や、間近に迫った「情報化社会」、「マルチメディア社会」を考慮すれば上記のような欠陥は深刻なものだと言わざるを得なくなる。


このような観点からすると、北ドイツの、あるギムナジウム(9年制高校)の試みは最も興味深い。ここでは巨大メディア・コンツェルンのベルテルスマン社に資金援助を受けながら、10年以上も前から体系的なメディア教育(本、テレビ、新聞、映画、ビデオ、コンピュータ等々)を行っているが、ニューメディアの教室に入ると、最新の機器はむしろ隠されていることに驚いた(図5)。よく見るとカセット・レコーダーやパソコン(TVモニター兼用)などが、8角形に並べられた机の中に収まっている(図6)。

この安価でシンプルな方法により、直接の対話が円滑になり、人間が授業の中心に戻ってきている。パソコンやその他のメディアは単なる手段として必要なときに利用し、それ以外のときは、その存在を忘れているくらいである。このような教室を目のあたりにすると、これまでの教室が我々の思考と意識にどれほどの悪影響を及ぼすかが一目瞭然である。

この4月、六本松キャンパスに設置された「コンセント室」もさまざまな可能性を示唆している。ここは原則として通常の教室になっているが、持参のノートブック・パソコンを接続できるよう、ソケットが備えられている。それでも従来の机の高さ、空間などはノートブック・パソコンの使用が前提となっているわけではない。より適切な装備をすることで、上述の問題点をいくらか解決するような形態の教室になるのではないか。

学校や大学にニューメディアを導入することで、教育はこれまでに類を見ない程の変化を遂げようとしている。急激な技術の進歩はすばらしい道具をもたらし、時間と空間は急激に縮小している。この道具や技術をどのように活用できるのか、その可能性を探ろうとするのはもっともだし、重要で意義のあることだ。しかし教育者としては、道具や技術の活用ばかりにとらわれ惑わされてはならない。教育としての根本的な立場はこれまでと変わってはいないはずである。教育の目的とは何なのか。どのような人物、どのような国民、どのような社会を育てていくべきなのか。教育上の目的を達成するには、従来のメディアに加えてパソコンやインターネット、ニューメディアをどのように用いればよいのだろうか。つまり、教育の目標を教育器具に合わせるのではなく、教育目標に合わせて器具を有効に活用することが肝心なのである。この新たな分野を開拓する際に重要なのは、学生も自身の考えや願望、期待をこれまでより明確に表現することだろう。

(比較言語文化部門)

 

 

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