鹿子木敏範著『落葉集』 |
昨年末に鹿子木敏範氏のこの２冊の本を初めて手にしたとき、さまざまな思いがこみ上げてくるのを感じた。長く誇り高い歴史を持つ表題は、この著作集にいかにもふさわしい。かつてイエズス会士が１５９８年、長崎で日本語の字典を刊行した際、『落葉集』の名をつけたのもうなずげる。ちなみに、表題をそのまま西洋の言葉に訳しても、その詩情豊かな響きが失われないことも付け加えたい。また、鹿子木氏の書かれたものは、その大部分が日本の伝統に拠っていながらヨーロッパ人、特にドイツ人に大いに語りかけている気がする。
第一巻は６７５ページで「癒しと時代のこころ」、第２巻は２５７ページで「翻訳・ドイツ語編」という副題がつけられている。２巻とも美しいハードカバーで装丁され、手を触れるだけで心地よさが伝わってくる。
鹿子木氏の執筆活動は実に広範囲にわたっている。第１巻に収められている３０の論文は精神医学、医史学、文学（病跡）、文学（その他）に分類され、さらに論文の他には１４の「コラム」も掲載されている。最も初期の論文は昭和４１年のもので、最新のものは６年前に書かれたものである。個々の論文の内容についてはここでは触れる余裕はないが、筆者が興味を持った点を中心に、本書の豊富な内容を概観してみたい。
まず面白いのは、これらのすばらしい作品のいくつかが、独特の経験や観察をもとにしていると思われることである。例えば偉大な精神科医フィリップ・ピネル（Philippe Pinel）の生涯と業績を詳細に追究した論文は、１９６１年、サルペトリエール病院の古い講義室の絵に出会ったときの感激から生まれたものである。その次に目にする「日本人の精神的伝統」に関する考察は、鹿子木氏によると、「日本人の罪の意識を調べていた時の副産物」だということである。また、かつて世界を席巻し、ヨーロッパをも巻き込んだ、イスラエル人ユリ・ゲラーの「スプーン曲げブーム」というのがあったが、当時の世相を反映している「超感覚考」は、今日再浮上した超能力ブームを考える上でも非常に興味深い。
文学者に大いに刺激を与える「文章の心理と病理」は、６０・７０年代にドイツで盛んだったヘルダーリン論争を思い起こさせる。「テレンバッハ教授との２日間」の中の夕暮れの雰囲気の描写には、繊細で几帳面な「マンハイム観察者」としての鹿子木氏がいる。
つぎはマンハイム市立図書館も登場する「医学史の部」である。６点の論文のうち、２点は日本へのドイツ医学の導入に関するものと、マンハイム、ベルリンをはじめ諸都市にある日本関係の資料発掘に関するものとなっている。鹿子木氏はこれらの資料についてのドイツ側の理解が足りないと嘆いてもおられ、実に胸が痛くなる。さらに貴重な写真などの資料を満載した「古城医学校とマンスフェウルト」、「熊本における医学教育の変遷」、「北里柴三郎回顧」の３点が続く。
「文学」部門は半分以上が夏目漱石と、漱石の熊本時代に関する論文で占められ、そこには「地元」の研究者ならではの詳細な情報や分析が記されている。また、いまや伝説的な来日ドイツ人の一人となったグンデルト教師も登場し、当時の日欧交流の様子が生々しく描写されている。
昭和２０年６月３０日から７月１日にかけての熊本の大空襲の回想も見られる。終戦の翌年に生まれ、荒れ果てた熊本の写真と同じような廃墟の町で遊んでいた筆者は、鹿子木氏の世代が受けた苦しみや痛手を多少なりとも想像することができる。
第２巻はグレゴル・パウル（Paul）、ハインリヒ・メール（Mehl）、ヴォルフガング・ブランケンブルク（Blankenburg）、エドゥアルト・ザイドラー（Seidler）の論文の翻訳七点を含み、「カントの義務感」から「ヨーロッパと日本の『ことば』考」、「思春期の分裂性精神病」さらには「ドイツ連邦共和国における医の倫理」に至るまでさまざまな領域に及んでいる。これらは鹿子木氏とドイツ人たちの不断の親密な交流を示すものである。しかも日常の仕事に追われご多忙な中で、このような難文の翻訳に精力的に取り組まれたことには大いに敬意を表したい。また、この巻にはドイツ語で出版された論文も三点掲載されている。まず、熊本と、熊本に来たドイツ人についての一編。次に川端の「名人」とシュテファン・ツヴァイクの「チェス小説」を比較したもの。３点目はボーフムのルール大学に眠っていた、２度目の日本滞在中のシーボルトの日記（１８６１年）の原稿を解読し、詳細な注釈と共に初めて発表したものである。
日本に住んで２６年になるドイツ人として筆者は、「東西のかけはし」というべき鹿子木氏の生涯を伝える本書に深い関心と共感を抱かずにはいれられない。広範な分野にわたりながらそれぞれの問題を、現象や文献を踏まえた上で徹底的に追究する姿勢は見事である。（今の若い世代の人々もいつか将来、このような実りある人生を振り返ることがあるのだろうかと自問してしまう）。この『落葉集』は、日本医史学会名誉会員である鹿子木氏をより深く知る上で必読の書であるばかりか、参考資料としても非常に有用な情報に富んでいる。ぜひ本棚に置きたい１冊である。
ヴォルフガング・ミヒェル 〔原田正純監修、中尾康幸、石坂美代子編集、鹿子木敏範著作集『落葉集』、桜が丘病院発行、熊本、１９９９年１０月〕
