ミヒェル・ヴォルフガング「ヨーロッパ人から見た17世紀の日本」。青木歳幸編『海外交流と小城の洋学』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2007年10月、41〜46頁。
W. Michel: 17th Century Japan as Seen by European Eyes. In: Aoki Toshiyuki (ed). Foreign Intercourse and Western Studies in Ogi. Saga University, Center for Regional Culture and History Studies, Oct 2007, pp. 41-46.

 

 

ミヒェル・ヴォルフガング

「ヨーロッパ人から見た17世紀の日本」


南蛮人の遺産

1549年鹿児島に上陸した宣教師フランシスコ・ザビエルや、彼の後に日本に来たイエズス会士の書簡では、中国とは対照的に西洋人を寛大に受け入れた日本が、極端なほど礼賛されている。日本人は質素に暮らし、礼儀正しく勇敢で素晴らしい文化を持ち、「新発見地中の最良なる者」であった[1]。「ジパング」(日本国)はマルコポーロが描いたほどの黄金の国ではなかったが、石見、佐渡、生野などの銀と金は、南蛮貿易により大量に流出し、広がりつつある貨幣経済に大きく貢献した。この初期の日本像にさらに、キリスト教文学が好んだ「見知らぬ地」(locus amoenus)の不思議な美景、地の果ての島(ultima Thule)に辿り着いた西洋人の驚嘆が加わり、当初の布教活動の素晴らしい成果とともに西洋の読者にこの東方の理想郷への憧れを抱かせた[2]

しかし、宣教師の日本熱は長く続かなかった。国内の戦乱と大小様々の失策のため1570年代頃から布教事業を取り巻く環境は次第に厳しさを増した。イエズス会の本部が派遣した巡察師ヴァリニャーノは、総合的調査のためベテラン宣教師フロイス神父に日本における教会の歴史及び日本文化の概要を執筆させた。不安や疑問を抱えていたフロイスは、1585年に完成した日本文化についての論文において日本と西洋の相違点と対立点を強調しながら、日本をヨーロッパの「対蹠地」と位置づけている。以前の賛美は消え、日本人の勇気と誇りは残酷さと傲慢に、道徳は悪徳に転換し、地理的距離が文化的差異の象徴になってしまった[3]。その後ヨーロッパに届く書簡や年報には、キリシタン弾圧に関する記述が増え、次第に読者の日本人像を分裂させてしまった。善良な信者を虐殺する日本人が厳しく批判される反面、信仰のために死を選ぶ日本人は称賛の的であった。後者の一部は宗教劇の主人公として南部ドイツとオーストリアの舞台で18世紀までヨーロッパ人にキリスト教徒としての「手本」となった[4]

 

 

対外関係の再編

いわゆる「鎖国」への動きは、長期的戦略に由来するものというより、むしろ数十年にわたる様々な出来事や刺激に対する反応の結果であり、1639年に南蛮人に布告された「来航禁止令」は、豊臣秀吉の伴天連追放令に始まった数々のキリシタン弾圧の「最後の禁令」といえる。「鎖国」という言葉がその後約160年を経てようやく誕生したのは偶然ではない。17世紀の政策責任者の念頭にあったのは、何よりも新しい支配体制の確立と、それを支える社会の安定だった。海外貿易の管理により、とりわけ九州の大名の収入削減及び金銀流出の状況や輸入品市場の把握が可能になったが、宣教師が布教に努める一神教が秘める力も強く認識された。当初ポルトガル人は1639年の来航禁止令の本質を直視していなかった。翌年来日したマカオ船のカピタン(capitão)は、商品を積んでいないので、使節として交渉を行えると思い込んでいた。その4年後、ポルトガル王が派遣した使節も楽観的だったが、平戸商館長カロンもオランダ東インド会社のバタビア総督も、問題の宗教的側面をよく理解し、日本での言動に注意を払っていた[5]

南蛮人の追放により、長崎に繁栄をもたらした南蛮船は姿を消し、地元の経済は危機的状況に陥った。もともとポルトガル人を収容するために莫大な費用で埋め立てられた築島(出島)の事業も、投資家の破産を招くおそれがあった。市民の間に高まる不安を解消するため、幕府は、平戸オランダ商館長に圧力をかけ、ついに直轄地長崎への移転の了解へと追い込んでしまった。

当時の対外的権限は幕府に集約されたが、松前藩、対馬藩、薩摩藩は近隣の国や地域との交渉を保ち続け[6]、通常の実務を任されていたので、ものや情報の往来はさほど衰えなかった。また、後を絶たない密貿易や遭難船の漂流が近世日本の国際交流に貢献したことも見過ごしてはならない。

17世紀の国境にあいまいな領域はあったものの、幕府の「華夷」意識はすでに観察できる。「かぴたんもつくばはせけり君が春」という芭蕉の俳句が表しているように、紅毛人のカピタンは、1633年以降毎年江戸へ参府し、通商許可に対する感謝の意を示さなければならなかった。彼は朝鮮王朝の通信使と同様に江戸城の大広間での拝謁を許され、献上品に対し時服などの返礼も受けたが、オランダ国の代表者と見なされるまでには至らなかった[7]。1647年長崎に辿り着いたポルトガル王の使節は追い返されたが、その後、幕府がオランダ王朝の同様な特使の派遣を要請したことは、商館長に対する位置づけを示している[8]

 

 

紅毛人の体験

南蛮勢力との敵対関係を強調し、布教活動は行わずに低姿勢でいたオランダ人は国外追放を免れたが、出島への移転後彼らの行動範囲は著しく狭くなった。出島は借地料を払わなければならない私有地でありながら、そこからの外出は禁じられ、出入りする職人、通詞、検使などは、長崎奉行の許可が必要だった。冷静で忍耐力の強い医師ケンペルでさえ「牢屋」という評価を下した。17世紀に七つの海の覇者だったオランダ人は、長崎湾の入り口付近で、十字架、聖書など宗教色の強いものをすべて隠し、湾に入ってから武器、火薬などを出航まで預けなければならなかった。糸割符制度、相対貿易、仕法商法、定高仕法、代物替商法と、世紀末まで続く貿易形態の改革により東インド会社の利益は最終的にかなり減らされたが、オランダは幕末まで日本との関係を重んじ、手を引くことはなかった。

1636年、平戸商館長フランソワ・カロンは、バタビアからの一連の問いに答える形で日本の地理、宗教、法律、住居、子供の養育等々を採り上げ比較的好意的な日本像をまとめた[9]。『強大な王国日本』として刊行されたこの著作は、当時のイエズス会による殉教報告とならび、17世紀前半の最も重要な情報源だったが、後に東インド会社から離れたカロンに対するオランダ人の反発は強かった。また、1641年から出島で商業活動及び日常生活において様々な制約を受ける商館員の日本観が厳しくなったことも、この反発に荷担したのである。

出島への移転後、国内の動きを把握することは容易ではなかった[10]。この点で商館長の他2、3人のヨーロッパ人が通詞、料理人、検使など数多くの日本人同伴者とともに行う江戸参府が見直された。歴代の商館長は、長崎街道、瀬戸内海及び東海道の様子を業務日誌に綿密に記録していた。江戸のオランダ宿(長崎屋)での訪問者の接待、幕府関係者との交渉及び江戸城での謁見は、日本の上層部について知る手段でもあった。しかし、日本人が重要視した拝謁は多くの商館長には不評だった。大広間の御簾の中に姿を隠したままの将軍の前に黙って平伏することは、君主と言葉を交わせる西洋の謁見とはあまりに異なっていたからである。5代将軍綱吉は、この正式の拝謁が終わってから江戸城の白書院でもう一つの出会いの場を設けたが、彼による歌や演技などの要請には耐え難いものがあった。ケンペルの『日本誌』によりヨーロッパ中に知られるようになったこの「謁見」の「第2幕」は綱吉の死去により終わりを告げたが、想像力と感情を刺激する日本像の一環として19世紀まで存続していた[11]

 

 

学術交流の始まり

1639年7月に平戸商館長カロンは老中酒井忠勝及び大目付井上政重に、もしポルトガル人が追放されたら、日本が必要とする生糸、絹、医薬品の供給を保証できるかと再三にわたり尋ねられた。幕府が国の対外依存度の高さを気にしていたことは間違いない。西洋の科学技術に対する日本側の姿勢もこの時期から変わり始めた。島原の乱で直接射撃用のカノン砲が攻城の兵器として役に立たないことが明らかになってから、間接射撃用の臼砲が注目されるようになった。専門家の派遣を要請された東インド会社はしばらく難色を示したが、1649年測量術と臼砲に精通する軍人を特使フリジウスの使節団に入れ、臼砲数門を日本に送った。幕府の依頼により、この「火矢打」ユリアン、同伴の外科医カスパルら計4人はフリジウス一行が長崎へ帰ってからさらに数ヶ月間江戸に残った。ユリアンが披露した試射は高評だった。カスパルの治療は上層部において西洋外科術に対する強い関心を呼び起こし、紅毛流外科の誕生につながった[12]。1651年から東インド会社は医薬品、医書、道具などの注文を継続的に受け、歴代の商館医は長崎と江戸で外科術の教授を行うようになった。また、治療と教授の場に立ち会う通詞の中から、猪俣伝兵衛、本木庄太夫、楢林鎮山など西洋医学を志す者たちも現れた[13]

1660年、高価な西洋医薬品の輸入を減らすために、両長崎奉行は将軍の名において一連の植物の種と蒸留器の提供及び薬草の専門家の派遣を求めた。来日した薬剤師は、幕府の費用で出島に建てられた「油取家」で油薬の製造法を教えながら、長崎周辺での有用植物の合同調査を行った。輸入植物の栽培は思い通りにいかなかったが、蒸溜技術の移転は成功し、国内の薬草は中国の本草書だけでは十分に把握できないという認識が広まり始めた[14]

当時の日蘭交流において主導権を握っていたのは、東インド会社ではなかった。それは学術交流についても言える。医薬品、道具、書籍などに加え、専門家の説明と教授を求め、オランダ人が提供したものや情報を取捨選択していたのは、常に日本側だった。とはいえ、ヨーロッパ人もこの交流で様々な収穫を手に入れた。そもそも専門家の派遣や「珍品」の供給は、生糸や各種織物を中心に行われた交易の「潤滑油」に過ぎなかったが、日本人に西洋外科術や医薬品について教える医師の一部は、日本の医薬品と治療法に目を向けるようになった。やがて、いわゆる東洋医学に関する最初の情報は、中国からではなく、日本から西へ伝わった。お灸はMoxa(もぐさ)として各国語の語彙に定着し、中国の捻鍼法とともに日本人が開発した管鍼法と打鍼法がacupuncturaとして紹介された。「経絡」、「気」、「虚症」や「実症」などの概念の理解は困難を極め、誤解もあって針術に対する評価は厳しかったが、灸術に関する事例報告と代替品の研究は半世紀以上も続いていた[15]。また、アカネ科植物の葉及び若枝から抽出された阿仙薬はTerra Japonica(日本の土)の名称で取引され、裕福な家庭で健康のために飲まれた玉茶は、18世紀初頭まで「皇帝の茶」(Keysers Thee)として高評だった[16]

1669年及び1671年幕府の依頼で長崎に赴いた薬剤師は、野外調査で確認できた植物のリストをバタビアへ送った。香辛料などの植物で富を蓄積してきた会社の商人たちは、それを検討したが、最初は苗の輸出許可は得られなかった。その後、上記の薬剤師の上司だった医師クライヤーが出島商館長として日本の植物調査を続け、薬草及び観賞用植物の報告、標本及び種をヨーロッパへ送り、西洋人による日本植物研究の基盤を固めた。ともに来日した庭師マイスターは、1692年に発表した『東洋的・インド的園芸師』において一連の植物を紹介し、日本の庭園についても初めて詳細に紹介している[17]

 

 

総まとめを試みるエンゲルベルト・ケンペル

南蛮人の追放後、日本に関する新たな情報は急激に乏しくなったので、1669年、オランダの作家モンタヌスは、商館長の江戸参府日誌の抜粋にイエズス会士による報告を織り交ぜて、「日本の皇帝への記念すべき使節団」という著書を発表している[18]。モンタヌスはアジアに来たことはなかったが、資料を幅広く収集しながら、人類の歴史と文化における日本の位置づけを目指していた点において、大いに注目に値する。オランダ語版に続きドイツ語版、英語版、フランス語版が印刷されヨーロッパ中で日本に対する関心を活性化させた。同時に、最新の状況を現地で調査する必要性があらためて知識人の間で認識されるようになった。

その任務にあたったのは、ロシア、ペルシア、インドなど長年にわたる旅の末1689年バタビアに辿り着いた医師ケンペルだった。クライヤーなどの地元の知日派から日本の植物、地理、歴史、社会に関する研究の重要性を指摘され、調査の依頼を受けたケンペルは、出島において若き秀才今村源右衛門英生や阿蘭陀通詞たちの献身的協力の下で大量の資料を入手しその内容に関する説明を記録した[19]。項目ごとに日本を紹介するケンペルの『日本誌』(初版は1727年刊)はヨーロッパの日本観の基盤となり一世紀以上の間、来日する研究者の基本文献だった[20]。その附録には、すでに1712年に発表された、日本と外国との交流を採り上げた論文が含まれている。原則として人類の自由な交流を支持するケンペルは、日本を例外とし、歴史的、地理的、経済的及び社会的特徴を分析しながら、幕府の対外政策を妥当なものと評価している。将軍を頂点とする厳しい支配体制は無視していないが、魔女狩りの狂気と30年戦争後の混乱の中で育ったケンペルは、自由よりも安定と秩序を重視し、質素でありながら安心して暮らす日本人を讃えている。ケンペルはフロイスと同様に文化的差異を強く意識しているが、日本人は、ヨーロッパ人を手本にしなくてよいという結論に至っている。この論文は18世紀の知識人を大いに刺激し、カトリック教会からも啓蒙主義陣営からも激しく批判された。興味深いことに、ケンペルのこの論文は、日本にも一定の影響を与えた。18世紀末頃『日本誌』の蘭語版を読んだ蘭学者志筑忠雄は、ロシアの南下を念頭にこの論文の和訳を作成した際、原文の長い題目を「鎖国論」としてまとめ、それまで存在しなかった「鎖国」という語を日本語の語彙に導入した[21]

 

 

注釈

[1]   1549年11月5日付、パードレ・メストレ・フランシスコ・ザビエルが鹿児島よりゴアのサン・パウロのコレジヨのイルマン等に贈りし書翰。村上直次郎訳「イエズス会士日本通信」雄松堂書店、昭和43年、上巻。
[2]   ヴォルフガング・ミヒェル「ヨーロッパから見た日本」九州大学公開講座委員会編『九州のなかの世界』九州大学出版会、1991年、27〜54頁。
[3]   Josef Franz Schütte S.J.: Kulturgegensätze Europa-Japan (1585). Tokyo, Sophia Universität, 1955 [Tratado em que se contem muito susintae abreviadamente algumas contradiçoes e diferenças de custumes antre a gente de Europa e esta provincia de Japão。ルイス・フロイス著、岡田章雄訳注『ヨーロッパ文化と日本文化』東京、岩波書店、1991年。
[4]   Johannes Müller: Das Jesuitendrama im den Ländern deutscher Zunge vom Anfang (1555) bis zum Hochbarock (1665). Augsburg, Benno Filser, 1930.
[5]   Wolfgang Michel: Von Leipzig nach Japan - der Chirurg und Handelsmann Caspar Schamberger (1623-1706). München, Iudicium, 1999, p. 44-56.
[6]   石ノ森章太郎著、高埜利彦原案執筆『鎖国 —四つの口』中央公論社、1998年。
[7]   ロナルド・トビ著、速水融・永積洋子・川勝平太訳『近世日本の国家形成と外交』創文社、1990年。
[8]   Reinier H. Hesselink: Prisoners from Nambu : reality and make-believe in seventeenth-century Japanese diplomacy. Honolulu, University of Hawai'i Press, 2002.
[9]   François Caron: Beschrijvinghe Van het Machtigh Coninckrijcke Japan. Amsterdam, Hartgers, 1648.フランソア・カロン原著、幸田成友訳著『日本大王国志』平凡社、1967年。
[10]   片桐一男『出島—異文化交流の舞台』集英社、2000年。
[11]   ヴォルフガング・ミヒェル「異文化との出会い ー 阿蘭陀カピタンの謁見について」『洋学史研究』第15号、1998年、1〜11頁。Wolfgang Michel: Prostratio und Pickelheringsreigen ー Engelbert Kaempfers Erlebnisse im Schloss zu Edo und deren Hintergrund. In: Japanische Gesellschaft für Germanistik (ed.): Dokumentation Asiatische Germanistentagung in Fukuoka 1999 . Tokyo: Sanshusha, 2000, pp. 124-134.
[12]   Wolfgang Michel: Von Leipzig nach Japan - der Chirurg und Handelsmann Caspar Schamberger (1623-1706). München, Iudicium, 1999, p. 100-136.
[13]   宗田一著『図説日本医療文化史』思文閣出版、1993年、123〜148頁。
[14]   Wolfgang Michel, Elke Werger-Klein: Drop by Drop - The Introduction of Western Distillation Techniques into Seventeenth-Century Japan.『日本医史学雑誌』第50巻第4号(2004年)、463〜492頁。ミヒェル・ヴォルフガング「シーボルト記念館所蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について」『鳴滝紀要』、第17号、2007年、9〜38頁。
[15]   ヴォルフガング・ミヒェル「ヨーロッパにMoxa(むぐさ)を紹介したバタビアの牧師ヘルマン・ブショフの生涯と著作について」『日蘭学会会誌』第23巻第1号(1998年)、47〜63頁。Wolfgang Michel: Far Eastern Medicine in Seventeenth and Early Eighteenth Century Germany. 『言語文化論究』第20号(2004年)、67〜82頁。
[16]   Valentini, M. B.: Museum Museorum oder vollständige Schau-Bühne aller Materialien und Specereyen. Vol. 1, Frankfurt 1704, pp. 208-211.
[17]   George Meister: Der Orientalisch-Indianische Kunst- und Lust-Gärtner. Dresden, Johann Riedel, 1692.
[18]   Arnoldus Montanus: Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy in't Vereenigde Nederland, aen de Kaisaren van Japan. Amsterdam, J. Meurs, 1669. モンタヌス著、和田萬吉訳『モンタヌス日本誌』丙午出版社、1925年。
[19]   Engelbert Kaempfer: Heutiges Japan. Herausgegeben von Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel. Iudicium Verlag: Muenchen, 2001, Vol. 2, pp. 73-179.
[20]   Peter Kapitza: Engelbert Kaempfer und die europäische Aufklärung : dem Andenken des Lemgoer Reisenden aus Anlass seines 350. Geburtstags am 16. September 2001. München, Iudicium, 2001.
[21]   大島明秀「近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容」『洋学』第14号、1〜32頁。

 

 

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