西日本支店長会発行。No.145, December 1990

Wolfgang Michel(ヴォルフガング・ミヒェル)

統一後のドイツ


11月の支店長会は7日、九州大学言語文化部助教授のW.ミヒェル氏を講師に迎えて開催された。

ランクフルト生まれのドイツ人であるミヒェル氏は、東西統一前後の祖国の実情を解説された。世界中が注目する話題だけに、支店長さん方はまさに興味津々の面持ちで聴講。また、講師の明朗な人柄が感じられる歯切れのいい語り口が、みなさんの心をさらに引きつけ、充実した一時間となった。


誰にも予想できなかったベルリンの壁崩壊。

こんにちは。ただ今ご紹介いただいたW.ミヒェルでございます。 ご存知のように、東西ドイツが10月3日に統一されました。まずは、そのきっかけともなった昨年11月9日のベルリンの壁開放についてお話したいと思います。

あの当時、東西ドイツでは毎日のように事態が変化していました。東ドイツで「今後西側への出国を認める。ビザも発行する」という情報が広がったのは、ある手違いからであり、壁の警備負たちも間いていなかったといわれています。人々が押しよせてきたので、正確な情報が伝わらないままにとりあえずスタンプを押して通すことになり、後にはあまりにも多人数なのでスタンプを押すことすらやめました。 そうして、皆様もご存知のような結呆になったのですが、これは誰にも予想できない出来事だったのです。


ベルリンの壁設置から、統一までの歩み。

ここで、戦後のドイツの歩みを簡単に振り返ってみましょう。1945年に東と西を分ける戦勝国によってドイツの分割統治が決定されました。その後占領軍の指令官の方針で当当分の間東西両ドイツの統一は不可能とうことになり、また西側陣営の政策によって、1949年に先に西ドイツが発足。この時つくられた基本法は、いつかは東西が統一されるという期待が前提になっていました。また、西ドイツの首都も、再統一のことを考えて、大都市をあえて避け当時無名に近かったボンを選びました。やがて、この西ドイツの発足を受けて、東ドイツもドイツ氏主共和国として発足したわけです。 当時は冷戦時代なので、東西の関係は決してよくなく、私も子ども時代にボーイスカウトの活動で何度も国境にぶつかりましたが、あちこちに国境警備隊の姿が見られるなど物々しい雰囲気が漂っていたのを覚えています。

1954年に西ドイツがNATOに正式に加盟。55年頃西ドイツの占領が正式に終わりましたが、ベルリンは相変わらず戦勝国の支配下に置かれたままでした。「ベルリンの壁」が構築されたのは1961年の8月30日のことでした。

70年代に入ると、当時のブラント首相の政策によって冷戦状態がある程度改善されました。

急に動きが激しくなったのは、やはり1989年に入ってからです。ソ連のゴルバチョフ氏のお陰で東ヨーロッパ諾国がある程度政策の自由を与えられるようになり、東側の人々が西側に入国しやすい状況が生まれました。そんな中で、東ドイツの書記長がやむなく引退。1989年11月4日に100万人デモが行われ、9日に間放となりました。この日、西の人々もニュースを聞いて壁のところまで行き、東から来た人々を歓迎しました。それまでほ堆に近づくことすら危険だったのですが、この日は両市民が壁に登って立口び合ったのです。

九○年に入ると統一に向けて様々な会談が行われました。1月30日にゴルバチョフ氏との会談が行われ、7月15日にコール首相がソ連を訪問。7月17同に、2プラス4が発足。はじめは統一に反村する外国の声も決して少なくなかったものの、しだいに東側も西側も統一の方向に向かうようになりました。そして、10月3日、ついにドイツの統一が笑現したわけです。


ドイツの現状を示す桧と写真。

ところで、この絵は通貨統一について描かれたものです。(図@)つまり、強い西ドイツのマルクのお陰で東ドイツが救われることを表現しています。 また、スーパーにバナナが売られているところを写したこの写真をご覧ください。(図A)東ドイツには、これまでは南の国の産物であるバナナがほとんどなかったのです。一見なんでもないような写真ですが、実は大きな意味を持つものであり、今後のドイツの歴史の教科書にも残ることでしょう。


ドイツ人にとって国家とは?

もう一つ、観点を変えて、ドイツ人にとって国家とは何かということについてお話したいと思います。

日本の場合は海に囲まれているので、国境を定義しやすいですね。しかし、大陸の場合、国境は地図の上の線で示されるのみです。現場には何もなく、畑や森などが広がっています。また、同境を通過するのにパスポートはいりませんし、ECの同ならどこにでも住めます。時代によって同境が変わるのも事実で、子どもたちは学校に行く間にその歴史的流動性に慣れてしまいます。こんな背景から、ドイツ人にとって国境とは決してはっきりした存在ではないのです。観点をちょっと変えて、「ドイツ人とはいったいだれなのか?」と考えてみても、はっきりした定義はできません。以前の西ドイツ人は、「白分は連邦共和国民だ」といい、東ドイツ人も「白分はドイツ民主共和国民だ」といういい方はせず、「自分はドイツ人だ」といいます。文化圏で見るとスイスの北部の人たちはドイツ語を話しますし、生活習慣もドイツと全く同じです。また、デンマークなどの一部もドイツの文化圏に入ります。このようにドイツ人のアイデンティティという観点から見ても、その答えは決して簡単ではないのです。


「1十1=2」とは限らない?

50年代頃は、ドイツの「再統一」という言葉がよく聞かれましたが、今の統一ドイツにはこの言葉はあてはまらないように思います。「再統一」とは元の領土での統一という意味があるからです。今のドイツは「再統一」ではなく、あくまで東西ドイツの新たな統一によって生まれたものです。形の上では、「1十1=2」ということで統一によってドイツ連邦共和同が強くなるのですが、現状はさほど単純なものではありません。なぜなら、経済力や大気汚染の問題など、元の東ドイツが負っているマイナス面も決して少なくないからです。統一によって西ドイツがやむを得ず引き受けることになった負担は、決して少なくはないのです。


最大の問題は、頭の中の「壁」

その問題点を簡卑に整理しみましよう。

まず、インフラストラクチャーの充実と整備が上げられます。私は3年前に九大の学生ともに東ドイツをバスで旅行しましたが、ある地方の逆路に大きな穴があり時速20キロでしか走れませんでした。まるで第3世界に近いほどなのです。この整備のコストは専門家ですら充分に把握できません。
また、東ドィッは今後市場経済に転換していかなければなりません。国営だった企業を民営化していくための基本的な問題、そしてどの企業が厳しい市場経済の中で生き残れるという判断の問題も出てきます。

このほか、土地の問題、法律の問題なども深刻ですし、工業の技術力の問題もあります。技術については、ノウハウの伝授があちこちで行われています。例えば、コンピュータは西ドイツもあまり待意分野でなく日本より一年遅れているといわれますが、東ドイツの場合は20年も遅れています。そんな東ドイツにノウハウを伝えるための努力が、今必死に行われているのです。

さらに、海外貿易の問題もあります。ソ連での需要がおちている今、新しい市場を見つけていかなければなりません。

おまけに、環境汚染への対策も深刻です。その汚染状態は専門家たちの想像力をはるかに超えるものであり、後片付けに50年くらいはかかるといわれています。この費用は、国が、つまり主として旧西ドイツの国民が税金として出してあげなければなりません。

コール首相は、「増税なき東ドイツの再建」といっていますが、ほとんどの専門家はそれは、不可能だと考えています。こうした経済的な問題のほかに、心理的な問題も避けては通れません。

先程中したように、「ドイツ人」であることは抽象的なことです。40年間、全く別々の体制のもとで生活してきたわけですから、意識や言葉が大きく異なるのです。私白身、以前東ドイツにホームステイし、同世代の人たちでさえ一言葉がずいぶん違うことに直面しています。コミュニケーションのすれ違いも多くありました。

去年の11月9日はみんな感激し涙を流しましたが、今年の10月3日は日本のテレビ報道を見ても、去年ほどの熱狂は感じられませんでしたね。現場の話を聞いても、やはり、特に西ドイツの人々は極めて冷静な思いで統一の日を経験したことがわかります。今はなおさら、東西の精神的構造の違いがはっきりと出てきています。東ドイツで子どもの頃から、全て国が面倒を見てくれました。大学に行くか否かも国が決定していたのです。もちろん、失業がないなどよい面もありました。

こうして40年間も幕らしてきた人たちは、市場経済の厳し競争には対応できず、いろんな所で困った問題が出ています。教育の問題も、子どもたちに教える教師が以前と同じ人である以上、解決はかなり困難です。

ベルリンの壁はすでにとり除れたけれど、人々の頭の中の壁は今なお残っている。これこそが、最も大きな問題だと思うのです。もちろん、統一によるメリットもありますし、やり直しのチャンスも必ず開けているはずです。今後の動向に、ぜひご注目ください。

 

 

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