日本医史学会、第95回学会総会、横浜、1994年5月14日
抄録:日本『日本医史学雑誌』第40巻第1号、26ー28ページ


Wolfgang Michel(ヴォルフガング・ミヒェル)

カスパル・シャムベルゲルと「カスパル流外科」について


(資料1、2)

カスパル・シャムベルゲルが1650〜1651年にかけて2度江戸に滞在し、患者の治療に当たり、大目付井上政重の興味を引いたことは周知のことになっています。しかし、彼の外科医としての活動の様子を明らかにするためには、これまで唯一の手がかりとされてきた出島商館の日記以外の文献を探さなければなりません。お手元の資料に重要な出来事は載せておきましたが、時間の関係上、ここでは要点のみを述べたいと思います。

(資料3)

出島商館長ブロウクホルストによれば、シャムベルゲルは1650年2月10日、稲葉政則の元に呼ばれて、腕の治療に当たっています。驚くべきことですが、宗田先生が1987年に紹介した「阿蘭陀外科医方秘伝」には稲葉美濃守に対する治療の詳細な処方が残っています。稲葉はこの治療に大変感銘を受けたらしく、1660年代に至るまで医療品をたくさん注文し、侍医をオランダ人外科医の元で学ばせています。

(資料4)

また「阿蘭陀外科医方秘伝」には、水戸中納言の小姓を治療した処方も残っています。出島商館の日記にはこの件についての記述はありません。

(資料5)

これまで大目付井上の侍医については知られていませんでしたが、1653年1月29日と1655年11月26日付出島商館の日記に侍医の名前が「Tosacko」と記されています。トーサクも1650年にシャムベルゲルの治療を受けています。井上はカタルと膀胱結石に苦しんでおり、トーサクがさらなる医学の知識を身につけることを望みました。トーサクは、シャムベルゲルが井上の屋敷で医薬品や治療法について説明をするときには常にその場にいて話を聞いていたと思われます。シャムベルゲルが1651年11月に日本を離れてまもなく、1652年2月にトーサクは様々な医薬品を注文しており、これには相当の知識が感じられます。彼は間違いなく、数少ないシャムベルゲルの弟子のひとりだったのでしょう。トーサクは翌1653年1月には、出島蘭館医が始めた能楽師の七大夫の治療を、オランダ人一行が江戸から引き上げた後も、ひとりで続けられると自信を持っていました。トーサクは1655年11月に亡くなり、彼が収集し、記録したものはほとんどが1657年明暦の大火で焼失したものと思われます。

(資料6、7)

私はさらに、シャムベルゲルがバイレフェルト、スヘーデル、スミトと共に江戸に残っていた1650年5月16日から10月15日にかけての資料として、バイレフェルトと出島商館との間で交された書簡と、バイレフェルトが毎日つけていた出納簿を発見しました。

これらの書簡と出納簿の駕籠代金から、シャムベルゲルがほとんど毎日のように政府の高官や一般の患者を治療していたことがわかります。早くも2月には「常備薬」をいくらか購入せざるを得なくなり、6月には薬品が不足し、井上邸にも手持ちがなく、長崎に注文しています。その中にはガラス瓶に入った油類もたくさんありました。これらは大部分が輸送中に割れてしまい、新たに取り寄せなければなりませんでした。通詞の猪股伝兵衛はオランダ人の間ではあまり評判は良くなかったのですが、おそらくは治療の効果を見て、勝手に不具者を何名か長崎屋へ連れてきました。バイレフェルトはどうしてよいかわからず、上司であるブロウクホルストに書簡で指示を仰ぎました。彼は、そのような不治の患者の治療は断わってもよいと指示しました。

特に重要なのは、シャムベルゲルが出島から医学書を取り寄せていることです。書簡によれば彼がこれらを必要としたのは、井上の問いによりよく答えるためでした。井上が解剖書を1650年夏と、1652年2月の2度注文していることを考えると、おそらく、出島から江戸へ送られた本の中には解剖学の書も含まれていたのでしょう。井上はさらに1652年には 義手と義足を2本ずつ注文しており、その機能は注文書に指定してあります。これは間違いなく義手と義足の銅版画つきのパレの著書から思いついたのでしょう。膏薬や軟膏の処方は、後に示しますが、大部分が1636年か1639年のアムステルダム薬局方に拠っています。ヤン・スティペル(Jan Stipel)も1653年11月にこの本を使って処方を説明しているので、この夲はおそらく出島にあったのでしょう。

(資料8)

1649年にオランダ人一行がどの薬品を江戸へ持ってきたのか、特使ブロックホーヴィウスとフリシウスが乗っていた船の送り状から知ることができます。そこには薬箱2個分の中身がリストアップされており、それらは「阿蘭陀外科医方秘伝」、「阿蘭陀外療集、7巻」及び「阿蘭陀外科正伝」に記されている一連の薬品とおおよそ一致しています。

(資料9、9a)

出島の日記にたびたび述べられているように、シャムベルゲルは持参した薬品についての説明を頼まれました。これらの3書に見られる西洋の医薬品の性質や使用法についての記述は、この種のものでは最古のものではないでしょうか。これらはかなりの可能性でシャムベルゲルに遡ることができます。

シャムベルゲルの活動によってまた、井上は1650年、1651年、それに1652年初頭に膨大な量の医薬品や書物を注文することになります。

(資料10)

シャムベルゲルの指導が元来どういうものであったか把握するのは容易ではありません。江戸滞在中の通詞猪股伝兵衛などによる記録はそれ以降のものと混ざってしまったため、「カスパル」の名称で様々な文献が残っています。特に注目すべきものはまず河口良庵に遡る「阿蘭陀外療集」と、著者不明の「阿蘭陀外科医方秘伝」です。その中に記されている日付は西暦の1650年の10月と11月で、シャムベルゲルの江戸滞在が終わる頃にあたります。宗田氏はここに見られる17の軟膏薬がおそらく直接シャムベルゲルによるものであろうと、かねてから指摘しています。

この時期の第3の文献は京都大学に保管されている「紅毛外科書」であり、一般に西流外科に属すると推定されています。ここにも日付(1651年11月)及び猪股伝兵衛の名が見られます。おそらくシャムベルゲルが同年11月1日にバタヴィアへ旅立った直後、猪股がシャムベルゲル日本滞在の2年間に集めた記述を再考したものでしょう。もちろん、この「紅毛外科書」にも上記の十七方が記されています。

(資料11)

シャムベルゲルの軟膏薬の処方の出典はこれまで不明でしたが、ヨーロッパの薬事書と比較することにより、その大半は1636年のアムステルダム薬局方によるものであることが明らかになりました。翻訳の作業は決して容易ではありませんでした。(1653年と1655年に行われた同様の試みについての記述から、出島では、外科医の指示を体系的に記録しようと通詞全員が取り組んでいたことがわかります。)

(資料12)

このように猪股はUnguentum Nervinumの最初の成分を膏薬の名前と取り違えています。この間違いは19世紀までこのままでした。

(資料13)

いわゆるカスパル十七方に見られるのはまた、ヨーロッパの薬用重量を換算せず、「直接」日本語に取り入れたことです。

シャムベルゲルの膏薬や軟膏はオランダ式に調合されたと思われがちですが、アムステルダムの薬局方は頼伝統の古いドイツのアウグスブルクとケルンおよびイギリスのロンドンの薬局方に遡るものです。また、シャムベルゲルが紹介した軟膏薬の中には中世のイスラム系学者によるものもあるので、カスパル流外科のこの十七方についてはオランダやドイツ流のものだと断定することはできません。

(資料14)

この十七方は江戸時代にたびたび書き直されています。特に信頼できる「阿蘭陀外科医方秘伝」、「阿蘭陀外療集」等は順序もそのままです。しかし、たいていは一部分だけを取ったり、中にはカスパルの名を付けながらもシャムベルゲルとはほとんど、またはまったく関係もない場合もあります。

「阿蘭陀外科医方秘伝」、「阿蘭陀外療集」、「紅毛外科書」、また慶応大学および杏雨書屋蔵書のそれぞれの「阿蘭陀外科書」を比べると、さらに共通点がはっきりします。

(資料15)
(資料16a)

ここではまず「外科総論」として伝統的な体液論が少し述べられています。さらにその体液論的に基づく腫物の診断法がみられます(熱寒風痰見樣)。17世紀のヨーロッパの大学に於ける医学研究と比べると、特にシャムベルゲルの病理学は時代遅れのように思えますが、彼の出生地ライプツィヒの外科医ギルドの試験規定や東インド会社の外科医採用のために書かれたコルネリス・ヘルス(Cornelisz Herls )著の「外科学の試問」(Examen der Chyrurgie)が示すように、当時の外科医には様々な実践的な技能が要求されながら、「理論」の養成は極めて単純な体液論に留まっていたことを考え合わせるとそれも当然のことだったのでしょう。

(資料16b)

先に挙げたものはカスパル流文書すべてに、主な潰瘍とその治療法についての比較的詳細な記述も含まれています。名称はラテン語だったり、ポルトガル語起源だったりします。現段階では断言することは避けますが、さまざまな点から、シャムベルゲルはこれらの情報をフランスのアンボラズ・パレ(Pare)やパレ流の外科書から得ていたと思われます。

(資料16c)

金瘡の部も同様です。いろいろな外傷についての記述はほとんどがパレの外科書と同じ順で書かれています。また、コルネリス・ヘルス著の「外科学の試問」 とも一致しています。

1696年に出版された「 阿蘭陀外科指南」にも、「外科総論」や「熱寒風痰」による潰瘍の診断法、十七方等、カスパル流文書からのものが多く含まれています。海老沢有道氏は1958年と1978年に、この書は帰化人沢野忠庵、つまりFerreiraに遡り、ほとんどが南蛮外科流によるものだと主張していますが、先に述べた結果により根拠がなくなります。この書は実際は阿蘭陀外科の指南です。

御静聴ありがとうございました。


 

 

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