洋学史学会1994年度大会、堺、1994年12月4日。


Wolfgang Michel(ヴォルフガング・ミヒェル)

向井玄升と西洋医方について


 1640年代の出島商館の日誌に目を通してみると、幕府が明らかにオランダの医薬品や外科医に対してある程度の関心を抱いてたことがうかがえます。しかし、「紅毛流外科」の発展に決定的な影響を及ぼしたのは、1650年、通算10ヶ月に亙って江戸で患者の治療に当たったドイツ・ライプツィッヒ出身の外科医Caspar Schambergerでした。シャムベルゲルの教えと付き添いの通詞猪股傳兵衛の報告書から生まれたのはいわゆる「カスパル流外科」だけではありませんでした。シャムベルゲルが1649〜1651年に亙たる二年の日本滞在を終えた後、西洋の医薬品、書籍、器具及び蘭館医に対する外科術の指導の要請は著しく増大しています。

 また、井上筑後守政重の果たした重要な役割を見逃してはなりません。 井上は外国から精力的に有用な物資、技術や情報を集め、「和魂洋才」を思わせる政策を取っています。そこにはシャムベルゲルが江戸で事細かに披露した外科学も含まれていました。痔、膀胱結石、カタルを患っていた井上の個人的な悩みもあり、年をとるにつれて適切な治療法及び養生法についての問い合わせや医薬品の注文も増えています。

 また、多くの資料を集めたことで注目に値する人物としては、出島商館の日誌に「Tosacko」として現われる井上の侍医の名があげられましょう。カタルと膀胱結石に苦しんでいた井上は、トーサクが西洋医学の知識をますます深めることを望んでいたに違いありません。シャムベルゲルなどの出島蘭館医が井上の屋敷で医薬品や治療法について説明をするときにはきまってその場に居合わせて耳を傾けていたものと思われます。彼は1653年、蘭館医が始めた能楽師七大夫の治療を、オランダ人一行が江戸から引き上げた後も、ひとりで続けられる程の自信を持っていました。トーサクは1655年11月に亡くなり、彼が収集し記録したものは恐らく明暦の大火で焼失したものと思われます。

 1653年11月半ばには、翌日江戸へ発つ予定の長崎奉行甲斐庄喜右衛門が、「調合薬を数種、つまり簡単な軟膏と膏薬」について日本語で記すよう要請しています。ユトレヒト出身の外科医Jan Stipelはアムステルダム薬局方の中から、国内で手に入る材料で調合しやすい数種について説明を始めました。しかし、骨が折れる割りには時間が限られており、江戸でもう一度着手することになりました。甲斐庄はおそらく井上の依頼を受けていたのでしょう。商館長Jan Boucheljon 一向が江戸に着くと、井上はこの年「膀胱結石にひどく苦しみ」、「かなり大きな結石を数個、非常に苦しみながら」出していたことがわかりました。大目付は、薬と食養生の指針としてスティペルの「処方」を所望しました。 その数週間の間、商館長の日誌には井上の病状や結石に効き目があるとされた商館長が持参した「ユダヤ石」について頻繁に記されています。

 また、医薬品について様々な報告書が作られたことも注目に値します。5月末にはスティペルが、依頼により井上邸で薬箱5箱を点検し、良い薬と悪い薬を分けています。井上の「部下たち」がこれらの薬のことを知らなかったこともあって、スティペルの説明は事細かに記録されています。

 スティペルと東インド会社との契約期間はもともと1653年には切れていました。1654年10月11日に、前回の江戸参府時の勤務ぶりから新たに上級外科医として承認されましたが、昇給や期間についての具体的な取り決めはありませんでした。スティペルはまもなく日本を離れました。その後任はかつての前任者Johannes Wunschで、彼は1655年春に上級外科医として江戸に赴き、井上のもとに呼ばれ、日本人医師と「薬草について話し合っています」。あいかわらず病気に苦しむ大目付は侍医のトーサクに医学書を持たせてヴンシュの所へ行かせました。ふたりはこれらの書物から、膀胱結石の「破壊や分離」を促すには、「どの薬を用い、何に用心し、何を食べるべきか」、探求しています。井上は「たまには少量の結石を排泄したが」、「毎日非常な痛みを伴い」、「これまで用いた薬ではほとんど効き目がないか、あるいはまったく効果がなかった」と商館長は述べています。2月17日に井上の通詞源右衛門が再び長崎屋へ来て、GalenusとPareusから結石の「破壊と分離の薬」を書き留めていきました。1週間後、外科医は井上の「いわゆる医師」と再度この問題について話し合い、「いろいろな著者のさまざまな薬」を紹介し、書き留めています。

 井上の病状が悪化したことが蘭館医に対する問い合わせに弾みをつけたことは間違いありません。オランダ人の江戸滞在期間が十分ではないことも徐々にわかってきました。数少ない通詞は謁見や献上品等の準備で多忙を極めていました。それに比べて出島では、バタビアからの船が入港してくる夏や秋の取り引き期間を除けば日常の仕事が少なく、通詞全員を動員することも可能でした。しかしオランダ人外科医の説明を理解するには専門上の問題が多く、優秀な医師を必要としていました。

 スティペルの後任はドイツ・ブレスラウ出身のHans Jurian Hanckoでした。彼は1647年、クー号で上級外科医としてバタヴィアに来ており、1655年秋、出島に転任しました。

 その翌年の5月6日、長崎奉行黒川与兵衛は大目付井上の書状を受け取り、その内容を出島商館長ブヘリヨンに伝えました。 その結果として長崎在住の「名医」、向井玄升が、ブヘリヨンに渡された覚書に基づいて「医学と薬品数種の調合法を伝授された」ことになっています。 ブヘリヨンが11月1日に後任者のために記した報告書によれば、この伝授はもともと同年の春、商館長一行の江戸滞在中実現される予定でした。しかし、またしても時間が足りなかったので、井上は「人が一般にかかる病気に関する薬の調合についての長い覚書」を送らせています。

   1656年5月6日の夕方、向井は通詞に伴われ慣行に従って商館長に挨拶をしに行きました。赤ワインを少し飲んだ後、帰途に就きました。,恐らくブヘリヨンはその際に、上級外科医のハンス・ハンコ -を紹介したありましょう。2日後の5月8日に指導が始まりました。出島の町年寄の臨席のもと、通詞全員を交えて様々な膏薬の処方を書き、それは夜にまで及びました。しかしまもなく彼等はこの作業の意味に疑いを抱くようになったと商館長は書いています。すべてを詳細に渡って記録したとしても、この膏薬や軟膏は様々な薬品や薬草がないために、日本では調合できないからです。結局、大目付井上を満足させるため作業を続けることになり、筑後殿がある薬品を必要とした場合には東インド会社がそれを用意すると約束しています。

 この処方に関する授業と文章の作成は多大な苦労を伴いながら不定期的に続けられました。およそ2ヶ月を費やして「上級外科医ハンス・ハンコは」、「あらゆる面にわたって説明と指導を行い」、通詞によりそれが文書に記録されました。さまざまな誤解を解き、翻訳し、問い返し、確認するには非常に多くの時間がかかり、骨が折れました。向井が出島蘭館をたずねるたび通詞全員が、正確な翻訳をめぐり争っていました。8月30日思いあまったハンコは口頭と書状で、「あの人達が今後それをよりよく理解できるよう」にと広範にわたる指導をしました。このことは井上の意に添うだろうとブヘリヨンは確信していました。「まだいくらか」日本人が「よく理解できていない点」があったかも知れません。それでもハンコはヴァーゲネルと再び江戸へ行き、役に立つ仕事をしたようです。宮廷では、「治療技術とわれわれの外科医は大いに注目を集め」、「外科医はここではその名をよく知られている」とブヘリヨンは自負していました。

 ハンコは1647年に東インド会社に採用される時、5年間の契約を結びました。期限がきれた後はヨーロッパへ帰るつもりにしていたので、出世は望まず、任期つきの契約も拒否していました。1656年の秋頃にもハンコは非常に消極的でした。彼は江戸滞在中数人の「大物」を診察したり、治療したりする際に、会社のため任務をよくはたしたと上司くブヘリヨンは書き留めています。粘り強い説得を受け、月32ギルダから42ギルダに昇給したこともあって、ハンコはもう1年日本に残ることに同意しました。

 1656年11月1日、ブヘリヨンが書き留めたこの記録を読むことになったのは、出島商館長を引き継いだ皮肉屋で短気なドイツ出身のツァッハリアス・ヴァーゲネルでした。12月頃、向井玄升が再び現われます。ヴァーゲネルによれば出島で「最も著名な日本人医師のひとり」です。通詞全員が商館長の部屋に集まっていました。彼等は、向井は上級外科医と市中へ行く許可を奉行から得た、と説明しました。薬屋へ行き、 大目付井上の膀胱結石に効く薬草や薬品を探すということでした。ヴァーゲネルは外科医を呼びにやり、この指示を伝えました。昼頃出かけて行き、3時間後には再び「空腹のため」帰ってきましたが、特に何もみつけることはできませんでした。翌日奉行は尾を火傷した小猿を治療させています。

  1657年1月4日ハンコは再度向井、役人一名、通詞全員と市内へ行き、薬草や有用な薬品をさらに手に入れるための手助けをしています。  翌日にはあまり気乗りのしないヴァーゲネルと他のオランダ人3人も同伴が許されました。

 ハンス・ハンコはヴァーゲネルの在任中も指導を行っていました。1月14日昼食後、通詞全員と向井玄升が現われました。彼等は書物2冊を持参しており、これは「ヨーロッパ流の治療術」に関するものでした。これは大目付井上の指示で上級外科医が口述し、通詞の助けを借りて翻訳したものでした。奉行の指示でヴァーゲネルはこの書物を江戸へ持参し、井上に手渡すようにとのことでした。しかし、前もって外科医とヴァーゲネルが自身で署名し、「外科医がいろいろな著作から上述の医師に説明したことはすべて正しく、その最高の知識をもって行われたものである」ということを証明しなければなりませんでした。ヴァーゲネル はこれを個人的には「異様でばかげたこと」だと思いましたが、要望に従わざるを得ませんでした。江戸へ発つ前日奉行は、その「医学書」を持参した通詞名村八左衛門 ?をよこしました。ヴァーゲネルはここでも再度「外科医はずっと医術を記すことに忙殺されていた」と書いています。彼に渡された書物にはぐるりと封印がしてありました。これは丁重に取り扱い、江戸到着後筑後殿に渡すようにという指示で、閣下への正月の献上品でした。2人が署名したもう1冊はおそらく長崎奉行甲斐庄のもとにあったものと思われます。

 ハンコは江戸でも評価されていました。そのためさまざまな薬品を調合しなければなりませんでした。その中には狐油もあり、その臭いと煙はとても耐えられるものではありませんでした。 謁見の日には城内で、器具について説明するよう要求されました。 まもなく3月2日彼はヴァーゲネルと共に井上邸に招かれ、持参したヨーロッパの医薬品について解説をしています。 ちょうど井上が彼に、「昨年長崎で特 に指導をした際の多大な骨折り」に対して礼を述べていたとき、ヴァーゲネル は「大鐘のような異様な物音」を聞きました。このときの火事があの有名な明暦の大火です。

 オランダ人にとっては不幸中の幸いでした。持ち物はほとんど失くしてしまいましたが、命は助かりました。長年南米のオランダ領で絵を描いてきた元画家のヴァーゲネルは灰となった周囲の都市風景を描いています。

 おそらく江戸に持ってきていた向井の書物も焼失したと思われます。出島へ戻って2週間後奉行は通詞4人を通して、外科医の医学書は江戸の火事で燃えてしまったのか、それともまだその手元に持っているのか問い合わせています。奉行は外科医と日本人医師数名の手助けを得て新たに解釈し直した、日本語版を作成させるつもりでした。通詞達は、書物はすべて薬箱と一緒に燃えてしまったと聞き、顔を見合わせて笑いました。ヴァーゲネルには彼等が「手間のかかる、辛い、やっかいな仕事から解放された」ことを喜んでいるように思えました。いずれにしてもその残りの一部がどこかに存在しているはずです。

 1657年の秋頃、上位外科医ハンコは日本を後にしました。数年前から下位外科医を勤めてきたピーテル・ヤーコプスにやっと出世のチャンスが巡ってきました。彼は自分の任務を果たしながら特に倉庫でいろいろと下働きをしたので、10月27日に商館長ヴァーゲネルは同年5月10日に遡ってヤコプスを念願の「助手」に昇進させています。あと1年外科医の仕事も続けられるという条件が付けられたのは、恐らく、新しい下位外科医がいなかったからでしょう。

 残念ながらハンコの後任の名前は確認できません。 この新任の上位外科医が1657年10月末に着任するとすぐに、江戸へ発つ奉行甲斐庄の指示により、通詞が医師向井玄升を伴って新商館長ブヘリヨンのもとに現われました。治療薬について日本語で新たな本を書くようにとのことでした。このような「宮仕えが喜びのない苦労」であり報われないものであってもブヘリヨンは外科医を呼びにやり、全員の前で命令を伝えました。 翌日にはもう向井が各種油の処方を記録し始めています。毎日広範に及ぶ指導を受けて、11月26日彼は「完全な満足感」を味わい、午後には感謝の意を表わしながら れを告げました。この記録は、相応の整理をした後で、江戸の奉行に送るつもりだと語っています。この月には波多野玄_も再度姿を見せています。彼の指導は向井の場合とは異なり、不定期的に半年以上も続き、証明書も発行しました。

 向井が出島を訪れたのはこれが最後ではありません。12月17日に役人1人とやって来ました。奉行は、外科医と町へ行き、庭園を訪れ、未知の薬草を見てくることを許可していました。昼過ぎに出発し、いろいろな薬草を発見した後、夕方に戻って来ました。 翌1658年、向井は京都に移り、そのため東インド会社の文献にはもはや現われなくなります。


向井玄升の「著作」の諸問題

 向井が江戸からの日本語のメモに基づいて、膏薬や軟膏、薬油、薬草等についての記録を作成していたことは上述の資料から明白です。ハンコの指導ではいろいろ疑問もありましたが、1656、57年のヴァーゲネルの在任中もその作業はさらに続けられました。2部にまとめられたこの書物にはハンコとヴァーゲネルが署名して保証しています。おそらく江戸へ持参した分は大火の犠牲になったのでしょう。ハンコが持参していた自分の医書もすべて焼失したので、彼が1657年秋に旅立つまでに多くの事はできませんでした。ハンコの後任者のもとで向井が受けた3週間の指導はおそらく最初から新たに書に記すに足るものではなかったでありましょう。あの上記の文書の1冊が長崎にありましたし、向井や、西玄甫をはじめとして他の通詞も個人的に資料や書物を所有していたことでしょう。日誌を見ると、向井がこの頃特に薬油や薬草に取り組んでいたことがうかがえます。おそらくこうしてもう1冊の本が書かれ、江戸へ送られたのでしょう。

 向井の写本は井上の新任の医師も所有していたと思われます。彼は1655年、前任者トーサクの死によりこの職に就いていました。 おそらく長崎、江戸両奉行の周りにもこのような書物に興味を持つ医師たちがいたでありましょう。そのため、以前のシャムベルゲルの場合と同様、ある程度の数の写本が出回り、他の書物と混ざり合うようなこともあったでありましょう。

 古賀十二郎は向井玄升が「紅毛流外科秘要」(7卷)を著したとしています。この書物には「アンスヨアン」という外科医の名や「明暦三甲午年」の日付が記されていると古賀は述べています。しかし、この日付にはいささか不明確な があり、1657年(明暦三丁酉年)なのか1654年(承応三甲午年)なのかはっきりしません。上述の出島商館長日誌、後任への申し送り状などのオランダ側の文献では前者になっています。

 岩生成一は1968年に名前を比較して、日本語の「ヨアン」はオランダ語の「Jan」で、「アンスヨアン」はヤン・スティペトと同一人物だとしています。 スティペルが正しい名前の筈ですが、 酒井と小川はしかし、この説に関してはすでに1978年に異論を唱え、支持できないとしています。 上記の新しい資料によれば「アンスヨアン」は間違いなくHans Jurian Hanckoだと断定できます。


「阿蘭陀伝外科類法」について

 九州大学医学部の貴重書の中にさまざまな書名の本が5冊束ねられています。15枚からなる薄い本の書名は外側には「阿蘭陀外科正伝」、内側には「阿蘭陀伝外科類法」と記されています。 これは写本で、筆者は使用済みの紙の裏側を用いています。第1部の表題は「エンパラストノ類 硬膏薬之事也」となっており、ここではまず膏薬5種が記されています。

 片かなで書かれた成分の名前は個々の処方の中で若干説明が付け加えられています。たとえばエンハラストヲシコロシヨンでは:

エンハラストヲシコロシヨン


セイラ 黄ラウ 四八匁 [Cera]
コロホウニヨ ヤニシレス 四八匁 [Colophonia]
ヘツキスナハアレス ヲランダチャン 四八匁 [Pix navalis]
クロウチ オランダサフラン 一六匁 [Crocus Orientalis]
ゴウメアモニヤコン ヤニシレス 一六匁 [Gummi Ammoniacum]
ゴウメカルバアヌン ヤニシレス 一六匁 [Gummi Galbanum]
マステキス 玉ニウコウ 一六匁 [Mastix]
メイラ モツヤク 一六匁 [Myrrha]
テルメンテイナ
一六匁 [Terebinthina]
トウリス ニウカウ 一六匁 [Thuris]
アセイテ ブダウ酒ノス日本ノスニテモ吉 一六匁 [Acetus]
右アモニヤコンカルバアヌンノ二色ヲブダウ酒ノ酢ニツケ煮トカシ煮シコンテ用ル也スノ加減ハ右二色ノヤニ薬ノニトカシコシタルホドニ入ル也


 続いて軟膏6種が同様に記されます。表題は「エンクエンテノ類  油膏藥之事」。

 これらの膏薬や軟膏を作るには70以上の材料が必要となります。商館日記でブヘリヨンが通詞の疑問を記したのも不思議ではありません。

 ヴァーゲネルはハンス・ハンコがさまざまな書物から説明をしたと述べています。また実際これらの処方がただ一文献に拠るものだとは思えません。たとえばEmplastrum de Ranis、Emplastrum de Meliloto 、 Emplastrum Mucilaginibus、 Emplastrum Oxycroceum、 Unguentum Popoleum、 Unguentum Album Camphoratum等は成分も分量もアムステルダム薬局方1639年第2版に完全に一致します。 Unguentum de AlthaeaとUnguentum Aegyptiacumの処方はケルンの薬局方に拠っています。 Unguentum AegyptiacumはMesueの古典的な処方ですが明礬が加わっています。

 分量の表記は西洋流の方法で換算されています。唯一Unguentum Aegyptiacumだけは換算率が異なっており(1オンス = 10匁)、これはおもしろいことにシャムベルゲルの処方の特徴でもあります。彼の通詞猪股傳兵衛はヨーロッパの単位に頓着せず、すべて十進法で換算しました。言葉の点でもこの処方は通常の枠からはずれています。他の処方ではほとんどラテン語かポルトガル語の名称が用いられているのに、ここではオランダ語のみになっています。

 2種以外は名称の説明が必要でした。テレビンチナ油とアーモンド油だけは日ポ交易の時代から広く知られており、そのためここではポルトガル語の名称を用いています。該当する薬が日本にないこともありました。そのような油については最も重要な性質と使用法が簡単に述べられています。

 花とさまざまな他の薬の章が続く巻末には、テリヤアカの性質を列挙した後にこう記されています:

「此テリヤアカ調合ノ事ハ日本ニテナリガキ薬方也。阿蘭陀国ニテモ外科ハ調合スル事ナシ薬屋ニ調合スル薬也
 明暦二年ノ年阿蘭陀外科ハ右ノ旨ヲ述テ薬方ヲ伝ヘズ同三年ノ年ノ外科伝之写書ニ此薬方注ス者也」
 テリアカがさらに上述の指示に対するきっかけになったとしても不思議ではありません。Andromachusの処方は主要な薬局方には常に含まれており、その成分は65種に及びます。この高価な薬が2斤、すでに1652年には日本に入っています。 さらに大黄の性質が2行続き、最後にはこう記されています:
「兩御奉行樣被 仰付ヲ以阿蘭陀国之名医共之医書ヲ以書顕申候
メステレアンス

在判

右外科薬方口伝之道 送仁念ヲ入サセ申候
カビタン

サカリヤス・ハアケナル

在判」

 これは出島商館日誌の1657年1月14日付けのヴァーゲネルの記述と完全に一致するので、「阿蘭陀伝外科類法」は明らかに向井玄升がまとめた文書に由来するという結論になります。

 「阿蘭陀伝外科類法」にはまた、「證治指南」という表題の薄い書が一冊含まれています。列挙のしかたや腫物の名称から、中国人陣実功の「外科正宗」が思い起こされます。ハンコは自分が理解したと思った腫物にはヨーロッパ式の名前を付け、若干の説明を加えています。おそらくこの書は、江戸で書かれた後に長崎に送られた指示書が基になっていると思われます。「證治指南」は広く読まれていました。その足跡は楢林鎮山による「外科正宗」の「仕掛書」(Genees−Boek)にも残っています。楢林はおそらく手に入る限りの書を集め、一冊にまとめたものと思われます。


最後に全体的な比較をしてみましょう

 「阿蘭陀伝外科類法」は、酒井シヅ先生のご好意により河内家(千葉県)の蔵書より入手した書物と同様に、さらに研究を進める上での重大な鍵の役目を果たしました。これまでの推測 り、他の文書も残っていました。2週間前、古賀氏によって指摘されていた「紅毛流外科秘要」のもう一つの写本をようやく見つけることができました。研究はまだ終わってはいませんが、全体を見渡せば、重要な点が多少は明らかになります:
(1)B1からCまでと、E、F の部分はかなりの確率で、1656年に向井が作成した報告書の核心を成すものと思われます。
 アンス・ユリアン・ハンコ文書とカスパル文書や他の文書との混在も見受けられます。おそらく向井はカスパルの資料も所有していたのでしょう。しかし、1650年末には猪股傳兵衛が作成したシャムベルゲル外科についての報告書がすでに江戸に届き、知られていました。それを改めて提出する必要は一切なかったので、この混在は第三者によるものだと判断いたします。
(2)この普及に重要な役割を演じたのは、当時長崎にいた医師の河口良庵だったと思われます。彼はかつて通詞だった猪股傳兵衛をよく知っており、同様に向井玄升とも接触があったのでしょう。さらに傳兵衛の息子伝四郎は向井の弟子でした。河口は後に京都や大洲(四国)にも弟子を持っており、そのため彼が所持していた資料は地理的にかなり普及していました。
(3)古賀氏が指摘している「紅毛流外科秘要」は向井の報告書に遡る文書の中の一冊に過ぎません。また、ここには他のほとんどの書に含まれている重要な部分が欠けています。少なくとも2巻は後に加えられたものです。第4巻に見られる「諸腫物見立図」はハンス・ユリアン・ハンコの指導とはまったく無関係です。第7巻の17方はカスパル・シャムベルゲルのものです。またここではシャムベルゲルの通詞だった猪股傳兵衛も処方の編集者として名前が記されています。傳兵衛はしかし1655年にはすでにその職を失っており、ハンコの授業には加わってはいません。
(4)ハンコから教わった医学を応用することは日本の医師たちにとってかなりの困難を伴いました。ブヘリヨンが日記に書いたように、日本では入手が困難な薬草や油類もありました。1650年代から70年代にかけて日本の薬草や油製造に対する関心が目に見えて大きくなったのも偶然ではありません。つまり当時の紅毛流外科文書は必ずしも実際の治療を反映していたわけではなかったのです。
(5)向井が大目付井上のためにまとめた報告書はさまざまな文書の中に、時には形を変え、時には他の文書と混ざって残っています。広範な文献研究を抜きにして個々の文書や流派について言及することにはいろいろな で無理があるということを改めて思い知らされました。


 

 

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