第96回日本医師学会総会、名古屋、1995年6月10日。
抄録(日本『医史学雑誌』第41巻第2号)



Wolfgang Michel(ヴォルフガング・ミヒェル)

向井元升と「紅毛流外科秘要」について


 向井玄升が通詞を介して出島蘭館医「アンス・ヨアン」に質し、「紅毛流外科秘要」を撰したことは、古賀十二郎がそれを紹介した後あらゆる年表、著作などで引用される「定説」になったが、その詳細および古賀氏が述べた写本の内容及び所在は不明のままである。

 東インド会社の当時の文献を分析した結果、向井は1655年に大目付井上政重からの覚書に基づいて、膏薬や軟膏、薬油、薬草等について学んでいたことは分かった。また当時出島で勤務していた上級外科医はドイツ出身のハンス・ユーリアン・ハンコ(Hans Juriaen Hancko)であった。1656、57年の商館長ヴァーゲネルの在任中もその作業はさらに続けられ、その際、二部にまとめられた書物にはハンコとヴァーゲネルが署名して保証している。江戸へ持参していたその一冊もハンコのヨーロbパの医書もすべて明暦の大火で焼失した。ハンコの後任者のもとで向井が改めて三週間に亙って指導を受け、長崎に残っていたもう一冊をさらに充実し、それを江戸へ送った。

 向井及びこの作業に携わった通詞全員が資料を所有していたので、その形跡は所々が残っている可能性は高い。書物を探すうちに私はまず九州大学所蔵の「阿蘭陀伝外科類方」を見い出した。その主な項目は「インハラストノ類」、「エングエントノ類」、「ヲウリヨノ類」、「フロウリスノ類」、「根之類」、「薬之類」であり、その一部はアムステルダムの薬局方によるものである。巻末には証明書きとヴァーゲネル、ハンコの名前が見られる。これは商館日誌の1657年1月14日付けの記述と完全に一致する。

 「阿蘭陀伝外科類方」にはまた、「證治指南」という書が一冊束ねられている。列挙のしかたや腫物の名称から、中国人陣実功の「外科正宗」が思い起こされ、恐らくそれは上記の江戸の「覚書」の影響であろう。ハンコは自分が理解したと思った腫物にはヨーロッパ式の名前を付け、若干の説明を加えている。このテキストも他の向井に遡る書物の中に多く見られる。

 さらに重要な書としては酒井シヅ氏によりすでに紹介されている河内家(千葉県)の写本がある。これはかなり広範囲なもので、上述の書をほとんど含んでいる。その他には慶大の「阿蘭陀外療集」、京大の「阿蘭陀外科書」、東洋文庫の「阿蘭陀外科正伝」、九大の「阿蘭陀療治書」、宗田一所蔵の「阿蘭陀油」、京大の「紅毛外科書」、「阿蘭陀外科指南」等にもハンコの教授の形跡が見られる。最後に古賀の言う文書と一致する「紅毛流外科秘要」の写本を九州大学で見い出した。
 これらの文書を比較すると次のようなことが明らかになる。

(1)古賀氏が指摘している「紅毛流外科秘要」は向井の報告書に遡る文書の中の一冊に過ぎない。また、ここには他のほとんどの書に含まれている重要な部分が欠けているし、カスパル流外科などの由来の違うものも混ざっている。

(2)「阿蘭陀伝外科類方」は明らかに1657年1月の「第一の報告書」に由来するものである。「河内本」などでみられるその他の部分(「證治指南」、潰瘍と外傷の処方と治療法など)も向井玄升がまとめたものと思われる。

(3)腫物と疵の治療を説明する「證治指南」は楢林鎮山による「仕掛書」にも影響を与えたと思われる。出島の通詞はおそらく手に入る限りの文書を集めたりしていたのであろう。また、「アンス・ヨレアン」の軟膏薬は「阿蘭陀外科指南」(元禄6年)の刊行により一般に知られるようになった。

(4)当時長崎にいた医師の河口良庵が演じた重要な役割は見過ごしてはならない。彼は通詞をよく知っており、また、息子伝四郎は向井の弟子だった。河口は後に京都や大洲にも弟子を持っており、そのため彼が所持していた資料は地理的にかなり広く普及している。

 

 

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