洋学史研究会、12月発表会、青山学院大学、東京、1995年12月2日。


Wolfgang Michel(ヴォルフガング・ミヒェル)

「出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンケについて」


17世紀の出島商館長の業務日誌では部下である外科医についてはほとんど触れていない。大抵は、ただ「heelmester」、「chirurgyn」または「barbier」と記されているだけで、外科医の名前を挙げようとはめったに思わなかったようである。商館評議会の決議文及び書簡でもオランダ東インド会社(VOC)の「上層部」である商務員の署名しか記されていない。資料の多くが失われているということも考慮すると、出島蘭館で勤務していた外科医の一覧表にこれまで欠落が多かったのは不思議ではない。[ ]

しかし、東インド会社ではあまり重要視されていなかったこの外科医たちは、長崎及び江戸においては高い評価を受け、幕府の大物と知り合いになる機会は、上司よりも多かった。17、18世紀に、ヨーロッパで出版された日本紹介書の大半は、商業活動にあまり縛られない出島蘭館医が著したものであり、また、様々な写本が在存在することからわかるように、本格的な「蘭学」が誕生する以前から、彼らの「教え」は西洋医術などに対する強い関心を呼び起こしている。

このように自国と異国の「相反する待遇」を体験した外科医の一人に、これまで知られていなかったハンス・ ユリアーン・ハンケ(Hans Juriaen Hancke)がいる。本論文においては、主に新しく得たオランダの資料を基に彼の日本滞在を追究することにする。[ ]

 明暦元年(1656年)の江戸参府


ハンス・ユリアーン ・ハンケは東部ドイツのブレスラウ(Breslau、現在はポーランドのブロツラフ)で生まれた。 30年戦争末期1646年12月に彼はフライト船クー号(Koe)でオランダのテクセルを出て、翌年6月、バタヴィアに到着した。[ ] アムステルダムで上級外科医として月給32ギルダで雇われていることから、外科学のしっかりとした知識と経験がうかがえる。残念ながら、東南アジアでの最初の5年間は闇に包まれている。任期が切れる際、改めて数年間の任期で契約更新の手続きをとるのが普通だったが、彼はあらゆる拘束を嫌がり昇進も望んではおらず、毎年ヨーロッパへ帰ることを考えていたと上司が書いている。[ ] しかし、行動力や決断力が足りなかったためか、それとも、望郷の念は、実際にそれほど強いものではなかったからか、ハンケは長年東アジアに留まっている。1655年10月23日以降は故郷からさらに遠く離れて、地の果てにある出島商館に勤務することになった。

同年の12月22日にハンケは商館長ヤン・ブヘリヨン(Jan Boucheljon)、商人ヤン・ウトゲンス(Joan Oetgens)、助手2人、そして多くの日本人ずいいん随員と共に江戸参府に旅立った。[ ] エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)が著した有名な「日本誌」ではケンペル一行はまず西海道を通って九州を横断し、下関で兵庫経由大阪行きの船に乗り、大阪から東海道を江戸へ向かったが、ハンケの時代にはまだVOC専用の船で直接長崎から大阪まで行っていた。ブヘリヨン一行が江戸本国町の長崎屋に着いたのは1656年2月4日であった。

献上品を整理したり、日蘭貿易などの問題を片づけたり、色々な任務や用件で宿へやって来る客をもてなしたりして、謁見の前はヨーロッパ人も通詞などの日本人随員も忙しい毎日を送っていた。

その間、ブヘリヨン一行と最も緊密に接していたのは大目付井上筑後守政重とその部下であった。彼は謁見の準備を整え、持参した献上品を確認したり、その他の各種珍品(rariteiten)の配布を引き受けたり、老中の希望や注文を取り次いだりして、あらゆる問題に気を配った。17世紀半ば頃の出島日誌には「筑後殿」の名前が至る所に見受けられる。アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus)も「日本の皇帝への記念すべき使節団」(1669年刊)において、以前のキリシタン弾圧のためカトリックの著者からは厳しい評価しか得られなかったこの人物をオランダ人の保護者として再三にわたって賛美している。[ ] 国益のため、しかしまた個人的な理由からも井上は「和魂洋才」を思わせる政策を推し進め、西洋の技術や学問を取り入れたが、その中には医学も含まれていた。[ ] 彼自身が痔、膀胱結石、カタルに苦しんでおり、年をとるにつれて適切な治療法及び養生法についての問い合わせや医薬品の注文も増えている。[ ] 外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger)が1650年の10カ月に亙る江戸滞在中、井上に西洋外科術を紹介して以来、後任の蘭館医は皆大目付の屋敷に招かれている。

ブヘリヨン一行の江戸到着の翌日、つまり2月5日にはすでに多くの珍品が大目付の所へ運ばれている。

琥珀4連を初めとして、 「花模様及び花束模様の缶」、
「木製の芸術作品」がはいったガラスの小瓶3本、
鉄製の義手と義足、
イタリア製の白いビロード1巻、
外科用包帯材料2缶、
さめがわ鮫皮20枚まで、
実用的なものもあり、幕府の異国趣味を満たすものもあった。その中で、将軍への献上物としてはふさわしくないと判断されたものはすぐに老中に割り当てられることになった。オランダ人はさらに興味を引く物も持参していた。
拳銃、虫眼鏡、鏡、鼻眼鏡等々。
これらの配分については後日協議が行われた。[ ] こういった物が毎年配られたこと及び幕府関係者による赤葡萄酒、蒸留酒、海外の各種織物などの注文を考えると、染付芙蓉手の磁器、漆器、和風箪笥、小袖の着物などを熱望していたヨーロッパの上流階級の人々の城や館と同様に、江戸城やその周囲の館が文化の坩堝だったことは容易に想像できる。

2月8日には井上専属のポルトガル語通詞新右衛門が長崎屋に現れ、主人の命で、薬品数種の調合法を習い、膀胱結石の治療法について尋ねている。ハンケは彼に必要な情報を与え、さらに持参した薬品の中に結石に非常に有効なものがあると言った。全てが忠実に日本語で記録され、膏薬や軟膏の処方と共に「ご主人様」に報告された。[ ]

東インド会社と幕府の間には特に問題がなかったので、今回の謁見は、早くも同年2月10日に行われることになった。その後はいくらか時間的な余裕ができたようである。すでにその10日のうちに新右衛門が長崎屋に訪ね、豊後藩主堀野采女が重病で、治療薬について問い合わせるよう命じられたと説明した。[ ] 言われた通り翌11日に宿で待機していたハンケの所にその藩主が駕篭で運ばれてきた。ハンケは診察の後で痛み止めを与えたが、患者が高齢であることと、神経が20年もこわばり(vercrompen)、弱っているため、病気は完治できるものではないと判断しながらも、可能な限りの治療は行うと約束した。堀野はこのことに非常に感謝しながら再び駕篭に乗り、屋敷に運ばれていったとブヘリヨンが書いている。[ ]

出島蘭館の外科医の助けが求められるのは、日本人の侍医が手に負えなくなってからのようである。2月15日に、ハンケを山内忠義[ ] の屋敷に行かせてほしいと井上から短い手紙が届いた。この「土佐の王子」は24万石を所有しているとブヘリヨンは感動している。[ ] 彼は65歳で、4年前に一種の卒中(een specie van beroertheyt)を起こしてから「必要な栄養が行き渡らない」所があり神経も部分的に鈍くなっていた。ハンケはこの患いも完治はできないが、全力を尽くすと約束した。[ ] 翌日彼は土佐守の館へ行き、「殿様」のためにわざわざ処方した油を塗り、膏薬を張った。とても丁重にもてなされたという話[ ]を聞いた商人ウトゲンスは興味を引かれたようで、次の往診に2度同行することになった。[ ] 患者はいくらか気分が良くなってはいたが、[ ] その後、大きな痒疹(groote jeuckte)を起こし、また、油を塗っていた足が腫れ上がり、激痛を伴っていた。それで彼は「秘書」(家臣?)を通じて、この薬品の使用をやめてしばらく足を観察するように頼んだ。外科医の治療が痛みを伴うものだとの観念を持つヨーロッパ人は患者のこのような態度があまり理解できなかった。日本の「お偉い様」はこのような古傷が油を一度塗ったら、痛みもなく治ってしまうと思い込んでいたようだとブヘリヨンは辛口のコメントをする。[ ] こういったトラブルにもかかわらず土佐守は最後に小袖二枚を送った。[ ] これはヨーロッパで高値で売れそうな、一介の外科医にとっては極めて豪華なお礼であったに違いない。

大目付井上はこの2月中自身のためにもハンケを利用することができた。中旬に彼はウトゲンス、助手のヴェインス(Weyns)とハンケを自宅に招き、「心をこめて」(minsaem)もてなした。しかし、とりわけ話題になったのは膀胱結石の治療薬であった。その際、オランダ人が今回持参してきた鉄製の義手や義足の使用法についても説明をさせていた。1652年の井上からの注文を受けた商館長の日誌から、彼はこの義肢の図を著名なアンブロワーズ・パレ(Ambroise Pare)の著書で見ていたと思われる。[ ] やっと届いた製品は、オランダからの特別仕様で500ギルダもした高級品であったが、ブヘリヨンの予想に反して井上筑後守はあまり感激しなかった。おそらく彼は何か別の物を想像していたようであった。最後に日本人医師がもう一人現れ、ハンケは彼にヴェサル(Vesalius)の解剖書からいくらか解説してやった。これは間違いなく1543年に初版が出たDe humani corporis fabricaだが、それがその医師のものだったのかそれともハンケが持参したものかは蘭館長の日誌の記述からは判断できない。[ ]

この日ハンケと顔を合わせた医師は1655年に死んだ侍医トーサク[ ]の後任者だと思われる。次の訪問の際に彼は大きなサイの角と由来が不明のもう一本の角を持ってきた。[ ] そしてこれらのものやその他の薬品の効力や処方について、ハンケから詳細な説明を求め、すべて記録した。[ ] 後ほど井上自身もこの話に加わって、特に「Belili」(ビリリ)の効力について尋ねている。そもそも、この「ビリリ」は東インド会社が大目付の注文を受け、苦労をして探し出し、日本に持参したものであったが、ハンケはこれについてはほとんど知らなかった。幸いに以前長崎にいたポルトガル人の報告書にあった使用法説明を通詞の一人が江戸に持って来てきていた。[ ] 17世紀の日本の文書に拠ればこれはある魚の血であるとされ、同様の記述が商館長日誌にも見られる。おそらくこの薬品はポルトガルの植民地からもたらされたものだろう。[ ]

2月20日にオランダ人はアラビア産の蛇紋石(slangensteen)[ ]と彩色をしたオランダ製のポットとを井上に送り、深く感謝されている。[ ] さらにもう一度彼の通詞新右衛門がハンケを訪れ、数種の薬品について尋ねている。[ ]

土佐守と同様に井上も外科医にお礼として小袖を二枚贈っている。商館長ブヘリヨンに贈られた四枚の小袖と比較してもこれは豪華な報酬ということになる。[ ] しかし些細な行動にも大目付の外交的な才能は表れている。出発の直前には焼き立てのパンを入れた小さな箱が届いた。[ ] 長崎の出島特約のパン屋を除いては、パン焼きはポルトガル人追放以来全国的に禁止されていたので、オランダ人はこの貴重な贈り物に大変喜んだ。

2月25日に商館長一行は江戸を発ち、夜に稲葉美濃守政則の本拠地、小田原に着いた。江戸ですでに稲葉の病気については書状で説明を受けていたが、時間がなかったので、ハンケは小田原に着いてからその病気の原因及び適切な食事について説明した。すべてが注意深く訳され、江戸の稲葉に送られた。[ ] 翌日の目的地だった三島で、ハンケは膀胱結石に効く薬草を見つけ、その夜のうちにしかるべき説明を付けて井上に発送し、パンに対する心からの感謝も伝えた。[ ]

稲葉へのオランダ東インド会社の心遣いはまもなく報われた。翌年、彼は老中の1人となり、商館長は、彼は若い頃からオランダに対する好意を示してきた人であると、大喜びで記している。[ ]

 出島へ戻って


長崎に帰ってからもハンケは膀胱結石の問題をないがしろにしなかった。ある役人が江戸へ行くことになった時、またもさまざまな薬品について記した書状を託した。[ ] 江戸の井上も無為に過ごしていたわけではない。1656年5月6日に、長崎奉行の元には井上の書状が届いた。これには長崎在住の「名医」向井元升(Moccoey Ginsjo)に、オランダ人に渡す「覚書」を基に「医学と薬品数種の調合法を伝授」するよう記されていた。[ ] 商館長ブヘリヨンがその年の11月1日に後任者のためにまとめた申し送り状から、上述の覚書は「人が一般にかかる病気に有効な薬品の調合」を扱っていたと分かる。[ ]

ここで初めてオランダの文献に現れる向井元升(玄松)は、三歳から長崎に住んでおり、1647年には孔子廟を設けて祭主となった。誰のもとで医学を身に付けたのかは残念ながら不明であるが、[ ] 井上がこの任に彼を選んだところを見るとその能力は相当なものであったはずである。

上述の5月6日の夕方、向井は通詞を伴い、商館長へ挨拶を行い、用件について説明した。日本でチンタ酒[ ]と呼ばれた赤ワインを少し飲んだ後、帰途に就いた。[ ] ブヘリヨンはその際に、上級外科医のハンス・ハンケを紹介している。

2日後の5月8日に指導が始まった。出島町年寄臨席のもと、通詞全員で[ ]さまざまな膏薬の処方を記録し始めたが、間もなく皆はこの仕事の意味に疑いを抱くようになったと商館日誌に記されている。全てを詳細にわたって記録したとしても、これらの膏薬や軟膏は、様々な薬品や薬草(specyen en cruyden)がないために日本では調剤ができなかった。それでも大目付井上を満足させるために作業は続けられた。彼がある薬品を必要とした場合には、それらを調合することになっていた。[ ]

この作業は多大な苦労を伴いながら不定期的に続けられた。上級外科医ハンケにより、全てにわたって説明と指導が行われ、文書に記録し、全部でおよそ2ヶ月を要したことをブヘリヨンは後任者に伝えている。[ ] ラテン語やポルトガル語を交えたオランダ語による説明を受け、あらゆる誤解を解き、問い返し、翻訳し、文書を作成するのは骨の折れる作業だったに違いない。向井が出島に来る度に通詞全員が集合しなければならなかった。[ ] ブヘリヨンは、ハンケは8月30日までには口頭でも文書でも十分な指導を行っており、日本人もそのうち整然と理解できるようになるであろうと記している。[ ]

1656年秋にハンケの任期が切れたが、ブヘリヨンはまたもヨーロッパへ帰ることを考えたハンケを手放そうとはしなかった。彼が「皇帝のいる江戸においても高官の往診や診察で十分に認められる」働きぶりだったためである。月給を32ギルダから42ギルダに増やし、もう1年日本に残り、再び参府に同行するようハンケを説得した。[ ]

当時ブヘリヨンの後任者ツァッハリアス・ヴァーゲネル(Zacharias Wagener)はすでに出島に着いていた。彼は東西両インド会社の社員として南米と東南アジアで勤務して豊富な経験を蓄積していながら、幾分短気な性質故に日本ではまもなくDonnermann(雷男)という別名を得ることになる。[ ] ヴァーゲネルとの多くの懇談に加えて、ブヘリヨンは業務引き継ぎの日付が記された正式の報告書もまとめている。ここでもハンケの業績について次のように力説している。外科医の活動はきっと井上の「意に沿い、気に入る」であろう。先の2ヶ月に亙る説明についていくらか日本人がまだよく理解していない点があるかも知れないが、ハンケはヴァーゲネルと再び江戸へ行き、そこで役に立てるであろう。[ ] ヴァーゲネル自身がそのうち体験することになるが、江戸の「宮廷」では「治療技術と我々の外科医は大いに注目を集め」、外科医は「あちらこちらで必要とされる」とブヘリヨンは伝えている。[ ]

バタビアからのオランダ船が長崎に入港してから、通詞達が様々な手続きとそれに引き続いて行われる取引で忙しくなったために、出島での西洋医学の授業は夏には中断されていたようである。しかし晩秋から冬にかけて出島は再び静けさを取り戻している。ヴァーゲネルが11月6日に着任して間もなく、奉行喜右衛門が「剃髪の日本人僧」、すなわち長崎代官末次平蔵のおじである波多野玄洞をよこし、外科医による教授を丁重に依頼した。[ ]

ハンケの医術に対する日本側の信頼は計り知れないものであった。それからまもなく同奉行が自分の最良の猟犬の一匹を送ってきた。この大きな雌犬は子犬を2匹産んだ後で「尾の回りにみにくい醜い物」ができ、手に負えなくなっていた。奉行は、商館長がハンケに命令してこの犬を「直ちに引き取り全力を尽くしてできるだけ早く治療させる」よう要請した。ヴァーゲネルは通詞に、治療用の薬品は病弱でせんさい繊細な人間を助け、保護するための物であり、犬用に作られているわけではないと丁寧に説明した。さらに、外科医が、長い年月をかけ、多くの費用と努力の末に得た「人間の医術」をこのような「汚くて臭い雌犬」ごときに使うのはヨーロッパではとても恥ずかしいことであるとも述べた。通詞は、日本では少しも恥ずかしいことではない、このような依頼を大きな名誉だと考える医師もいると反論する。しばらくやりとりをした後で、ヴァーゲネルはこれ以上の不協和音をたてないように、外科医を呼び、通詞の目の前で真剣に、この依頼を受けるように命令した。ハンケはあまり気が進まなかったが、その依頼を引き受けた。[ ]

しかしこれで一件落着とはいかなかった。1週間もたたないうちに通詞助左衛門と一匹の小猿がヴァーゲネルの部屋へ越してくる。奉行は火の側でくつろぐとき、この小猿とよく遊んでいたが、長い尾が何度もほのう炎の中に入り、そのうちに臭いがひどくなったため、外科医に尾の先を切り詰めて、完治するまでこの猿を預かって欲しいと頼み商館長を驚かせた。2度あることは、3度ある。誰がこれまで、このような変わった治療を耳にしただろうかとヴァーゲネルは興奮気味に書いている。まずはガリガリの雌犬、今度は猿、次はひょっとするとオオバンかフクロウかも知れない。しかし、こう書きながら商館の机で怒っても何にもならなかった。結局ヴァーゲネルは問題の本質がよくわかっており、今度けがをしたヤギ、野牛や豚などが出島に送られてきても、その要望に応じるしかないとあきら諦めている。[ ]

ハンケはまた長崎の内外を歩き回る機会を得ていた。1655年の散歩については注目に値する記述はないが、1656年12月には明らかに薬草狩りに出かけている。12日にヴァーゲネルも最も有名な医師の一人として賛美する向井元升が久しぶりに出島を訪れ、通詞全員と一緒に商館長室に上がってきた。向井が、上級外科医とともに市内の薬屋で膀胱結石に効く薬草か薬品を探す許可を奉行から得たと通詞から説明を受けたヴァーゲネルは、ハンケを呼び、同様の指示を与えた。昼頃に皆は出かけて行き、3時間ほどして「空腹のため」戻ってきたが、特に何も見つけることはできなかった。[ ]

1657年1月4日ハンケは再び向井、検使1名、通詞全員と町へ行き、さらに薬草や薬品を探す手助けをした。[ ] 翌日には、いろいろと出費がかさむため、あまり気乗りのしないヴァーゲネルとオランダ人3人も市内への同行が許された。[ ] 1657年1月14日の昼食後に通訳全員と向井が、「ヨーロッパ流の治療術」についての日本語の文書を2冊持って再度現れた。これらは大目付井上の指示で、上級外科医が口述し、向井が通詞の助けを得て翻訳したものであるとヴァーゲネルは日誌に書いている。奉行は、商館長がこれを江戸へ持参し、井上に手渡すよう望んでいる。しかしその前に、「外科医が上述の医師にさまざまな著作から説明し、教授したことは全て正しく、その最高の知識をもって行われた」ことを証明するハンケとヴァーゲネルの署名が必要だった。ヴァーゲネルはこれを個人的には「異様でばかげたこと」だと思ったが、要望に従わないわけにはいかなかった。[ ] 江戸へ発つ前日に奉行は、通詞名村八左衛門に例の「医学書」を1冊持たせてよこした。[ ] ヴァーゲネルの日誌ではここでも外科医は「ずっと医術を記すことに忙殺されていた」と指摘している。彼に渡された文書にはぐるりと封印がしてあった。これは丁重に取り扱い、江戸到着後に筑後殿に渡すようにという指示で、「皇帝」への正月の献上品となる。[ ] 2人が署名したもう1冊はおそらく長崎奉行甲斐庄のもとに残ったものと思われる。

 明暦2年(1657年)の江戸滞在


江戸ではすでに名が知られていたハンケは、様々な薬品の調合に明け暮れた。長崎屋中に耐え難い臭いと煙が立ちこめていたため狐油(Oleum Vulpinum)の名はまたも憤慨したヴァーゲネルの日誌に記入されている。[ ] 謁見の日に商館長と共に上城した外科医は、器具についての質問を受けた。[ ]

しばらくして3月2日、ハンケはヴァーゲネルと共に井上邸に招かれ、江戸へ持参した薬品について解説をした。[ ] ちょうど、井上が「昨年長崎で彼のために指導をした際の多大な骨折り」に対して礼を述べていた時、ヴァーゲネルは「大鐘のような異様な物音」を聞いた。[ ] 歴史に名を残す明暦の大火である。

さらにしばらくして遠くから来るような大きな音が轟いた。井上は障子を少し開け、外を覗いたが、すぐに頭を引っ込めた。火事が見えなかったのか、又は客人を恐がらせないようにそうしたのか、とヴァーゲネルは分析している。井上はしばらく質問を続けていたが、若い男(小姓か)が、彼に何か伝えたいと入ってきて、一緒に部屋を出ていった。そのとき、皆にはそのまま留まっているように合図している。残された者たちが後方の障子を開け、廊下へ出ると、北の方の大火事から生じた高く立ち上った黒い煙が見えた。強い北風が火を町中へ煽っていた。そのうちに井上の執事が来て、主人は緊急の公務を果たさなければならず、戻って来れないと言った。

ヴァーゲネルと随員は然るべくいとまを告げ、宿へ帰り着いたときは4時を少し過ぎていた。助手コルネリス・ヌロック(Cornelisz Mulock)はすでに日本人の使用人とともに重要書類を衣類や寝具の箱に詰め、残った献上品や食料、銀と一緒に耐火倉庫(goddon)へ運ぼうとしていた。屋根に上り、火事を見ている者もいた。しかし、最初のうちは風向きが変わったということで、まだ何もしていなかった。

彼らがそうしていろいろ考えているあいだに1000人以上の群衆が老人や子供達を連れて大急ぎで通り過ぎて行ったが、これは非常に痛ましい光景だった。それからハンケがヴァーゲネルの所へ急いで降りてきて、ご苦労ですが、一度上へ来て火の様子を見て欲しいと頼んだ。彼の見解ではこの家が持ちこたえるのは不可能に思えたのだ。そこでヴァーゲネルがハンケの力を借りて屋根に上ると、町全体が明るい炎の中にあるのが見え、恐怖と内心の不安感で一杯になった。そう、明るい太陽がさっきまではまだはっきりと輝いていたのに、黒い煙に覆われて暗くなっている。さらに、炎はまだ1/4マイルも先なのに、その勢いと熱はすでに感じられた。強い北風は炎を、まるで荒れ狂う海のように1マイルもの幅で煽っていた。火花は豪雨のように降り注いでくる。長崎屋も延焼は免れないだろうということがだんだんわかってきた。蔵の戸や窓は閉められ、粘土を塗り込めた。会社の資金が入った箱は長崎奉行黒川與兵衛正直の屋敷へ運ばせるつもりだった。

人や荷物で一杯の道を通って町を出ていく様子、炎の地獄、絶望、ひんし瀕死の人々の叫び、ヴァーゲネルはこの大災害の恐ろしい光景を伝えている。モンタヌスも商館長の報告書を、会社の他の書類と合わせ、『日本の皇帝への記念すべき使節』としてまとめ、しばしば息の長い一般的な余談で脱線しながら、ここではもっぱらヴァーゲネルの日誌に魅了されている。オランダ人とその日本人随員は人や箱、車の波を越え、壁や塀を抜けて安全な所まで逃げて行った。それから夜中に宿を探した。奉行黒川与兵衛や平戸公のところにも彼らが泊まれる場所はなかった。長い間さまよった後に、ひとりの貧しい男が自分の小屋に泊めてくれた。他の生存者もやって来て、そのうちのひとりから夜10時に、長崎屋は彼らが出て半時間後にはもう焼け落ちてしまったと聞かされた。

翌日3月3日も炎はあいかわらず荒れ狂っていた。風向きが変わったので、昼頃には城へも飛び火した。やっとのことで将軍や老中、他の高官や女達も助かった。

3月4日、オランダ人にとっては日曜日だったが、ヴァーゲネルは部下フェルスホイレン(Verschuiren)及び日本人随員約20人と共に、焼け跡を抜け、焼け焦げた男や女、子供達の死骸のわきを通って長崎屋の跡へ行った。彼らの日本人使用人のうち3人はどこかで死体になっていた。火に強いと言われていた蔵はもうなく、銀は熱で溶けてしまっていた。持参した献上品や商品は全滅していた。黒川與兵衛は彼らのために宿を探してくれたが、食料を得るのは非常に困難だった。会社に借金をしていた幕府の高官も多くが火事で財産を失った。井上も両方の屋敷が焼失した。慣例の返礼品もこのような状況ではあまり期待できず、ヴァーゲネルはすぐにでも長崎へ帰りたかったが、老中達は、江戸周辺の道は飢えた群衆で危険すぎると許可を拒んでいる。

結局9日に発ったが、橋はほとんどが焼け落ちていたので、壊れた城を通って町の外へ出た。ようやく5月22日に江戸から返礼が届いたが、今回は着物30枚とスホイト銀60匁のみで、オランダ人の献上品にみあう物ではなかった。

 出島へ戻って


オランダ人が江戸時代の大火災の一つ、いわゆる「明暦の大火」を生き延びたのは不幸中の幸いだった。持ち物はほとんど失くしてしまったが、命は助かった。ヴァーゲネルは長く設計士及び画家としてブラジルで仕事をしてきており、おそらく彼がこの焼け跡を地獄絵に留めたのだろう。[ ]

井上の屋敷も長崎屋も焼失しており、持参した向井の文書も灰になってしまったと思われる。 長崎出島へ戻って2週間後奉行は通詞4人を通して、先生の医書は江戸の火事で燃えてしまったのか、それともまだその手元に持っているのか問い合わせている。奉行は外科医と日本人医師数名の手助けを得て新たに解釈し直し、日本語の文書を作成させるつもりだった。通詞達は、書物はすべて薬箱と一緒に燃えてしまったと聞き、顔を見合わせて笑った。ヴァーゲネルには彼等が「手間のかかる、辛い、やっかいな仕事から解放された」ことを喜んでいるように見えた。[ ] いずれにしても残った方の一冊がどこかに存在しているに違いない。

ハンケが日本を離れたのはその秋だと思われる。彼の後任者の名ははっきりしない。コルネリス・ムロックを挙げる人もいるが、商館長日誌で見る限り彼の名は「助手」として記されているだけである。[ ] 下位外科医ピーテル・ヤーコプス(Pieter Jacobsz.)も目につく。1657年10月27日、彼は3年間契約を延長した。彼は、商館長ヴァーゲネルの説明では、会社の倉庫での働きぶりが顕著で、助手の地位を望んでいた。この地位は1657年5月10日に遡って認められたが、条件としてもう1年、つまり1658年秋まで出島の外科医局で任に就くこととなった。[ ]

向井の出島訪問も終わりに近づいていた。11月初めに彼は、江戸へ旅立つ奉行甲斐庄喜右衛門正述の指示で、共に新商館長ブヘリヨンのもとに現れた。治療薬について日本語で新たな本を書くようにとのことだった。このような「宮仕えが喜びのない苦労」であり「いかなる喜びもないもの」であっても、ブヘリヨンは外科医を呼びにやり、全員の前で彼に命令を伝えた。[ ] 翌日にはもう向井が各種油の処方を記録し始めた。[ ] 毎日広範に及ぶ指導を受けて、11月26日彼は「完全な満足感」を味わい、午後には感謝の意を表わしながら別れを告げた。この記録は相応の整理をした後で、江戸の奉行に送るつもりだと語った。[ ] この月には波多野玄洞も再度姿を見せている。[ ] 彼の指導は向井の場合とは異なり、不定期的に半年以上も続き、証明書も発行した。[ ]

しかし、向井が出島を訪れたのはこれが最後ではない。12月17日に役人2人とやって来ている。向井は奉行から、外科医と町へ行き、庭園を訪れ、未知の薬草を見てくる許可をもらっていた。昼過ぎに出発し、いろいろな薬草を発見した後、夕方に戻って来た。[ ] 翌1658年、向井は京都に移り、そのためオランダ語の文献にはもはや現われなくなった。

 日本語の文書に見るハンケの足跡


オランダ語の文献から明らかなように、ハンケは膨大な医学的指導を行っている。江戸において特によく挙げられているのは井上の膀胱結石治療のための薬品だが、オランダ人が江戸へ持参した薬についての説明もしなければならなかった。さらに、彼がVesaliusの解剖学からも説明をしていることがわかっている。残念なことに多くの記録が明暦の大火で焼失してしまったようである。

出島で長い間通詞を介してハンス・ハンケに質した向井元升は1編の報告書をまとめ、長崎奉行に提出した。筆者が既に詳細に紹介、分析した九州大学の「阿蘭陀外科類方」(外題「阿蘭陀外科正伝」)はここに遡る。この文書の巻末に1657年1月14日付のもとに書かれた商館日誌に登場するヴァーゲネルとハンケの名及び「証明」が見られる。本文は膏薬と軟膏の処方と使用法を示し、そのうち多くがアムステルダム薬局方に拠っている。さらに油類が記されている。続いて有名なテリヤカ(Theriak)に至るまで一連の薬草類と他の薬品の名を見ることができる。[ ]

また、その他の文書でそこにハンケとヴァーゲネルの名前は見られないが、向井と当時の通詞衆の名が記されているので、同様にハンケの指導に帰されるべきものがある。

古賀十二郎が紹介した「紅毛流外科秘要」は、向井の著書としてあらゆる年表、事典、論文などで引用されるようになったが、「阿蘭陀外科類方」との相違点などは詳細な調査を必要とする。[ ] 表題のない千葉県河内家所有の文書(河内本)にも向井及び通詞の名が記されている。[ ] 当時、翻訳に関わった通詞達の個人的な記録もあり、また、多くがまもなく他の文書と混ざってしまったために、さらに他の文献が存在している可能性は大きい。比較をしながらの分析でなければ、明確な主張はできない。

膏薬や軟膏の一部は、「アンス」の名のもとに元禄9年(1696年)に刊行された「阿蘭陀外科指南」にも記されている。[ ]

さらにハンス・ハンケは医家の系譜にもその医者としての伝統の祖の一人として現れる。当時長崎に住んでいた河口良庵は、通詞か向井を通して資料を手に入れていたようだ。また「阿蘭陀縁起」には「加須波留」(Caspar Schamberger)、「須庭賓」(恐らくSeven de la Tombe)、「阿無須与利安」(Hans Huriaen Hancke)、「阿留曼須」(Hermanus Katz)といった出島外科医の名が列挙されている。[ ]

1938年に紹介された京都の岸本家の家系譜によれば、河口良庵には京都滞在中に、小野氏友庵良悦及び三牧宗庵という弟子がいる。また、その2年後には、岸本宗圓政時(前田助左衛門)がこの二人から医術を学んだ。[ ] 岸本宗圓政時の「阿蘭陀外科和朝世系之図」には、またもカスパルなど上記の4人の蘭館医の漢字名が目につく。小野は後に宮崎と名乗り、越前大野に移り、土井支藩に仕官することになった。[ ] その宮崎家の享保5年(1720年)付の「加須波留伝来記」にもハンス・ハンケなどの名が見られる。[ ]

岩治勇一が紹介した、大野藩医林雲端が享保14年(1729年)同藩の松田與三郎左衛門に授与した「阿蘭陀免許状」もそれに非常に似ており、[ ] 宮崎家(小野)の免状と密接に関係しているに違いない。伝授の流れを示す一連の名前の冒頭に見られる吉永升庵、吉永升雲は稲葉政則の江戸での侍医であり、当時の資料のもう一つの流れを窺わせる。

宗田一所蔵の元禄7年(1694年)の「紅毛流外科相伝証」(相伝一牒)の「紅毛医伝扶桑之衆」も「メステルカスハル」、「メステルステヒン」、「メステルアンスレアン」、「メステルハルマンス」などを列挙し、来日した数多くの出島商館医の中で、この数人が果たした役割が大きかったことを示している。[ ]

 

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