Kaempfer's Significance Today. "Towards a World of Tolerance and Peace. Symposium in Commemoration of 400 Years of Dutch-Japanese Intercourse. Sasebo, 3.12.2000.
「ケンペルの現代的意義」 「寛容と平和の世界に向けて」日蘭交流400周年記念国際シンポジウム、 佐世保、2000年12月3日


Wolfgang Michel

OUTLINE: エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716年)の現代的意義


過去の人物や事件について知ることにより、現在の状況やその根幹をなすものがより深く理解できるようになるが、それだけではない。歴史は今日の狭い「国家」の枠の中でのみ作られてきたのではないし、また、個人もただ組織や権力の繰り人形だったわけではなく、その時代の構造に左右されながらも、なんとか一定の自由な空間を創り出そうとしていたことがわかる。

○ 400年間の日蘭交流は二国間のみにとどまらず、より多くの地域や国を巻き込んだものであった。オランダ東インド会社の東方への進出は、中央ヨーロッパの多くの人々に東南アジアや日本を訪れる貴重な機会を与えた。また、アフリカや東南アジアの人々が奴隷や使用人、船乗りなどとして平戸と長崎に来ていたことも忘れてはならない。扱われた商品に関しても同様である。オランダから直接輸入された品はごく一部であり、輸出品もアジア圏向けが大半を占めていた。日本に伝えられた西洋の学問や思想という点から見てもオランダは西洋世界全体の代表者であり、同様に出島商館員が長崎や江戸参府で得た情報が、全ヨーロッパに伝えれたものである。したがって日本におけるオランダ商館は国際的な場であり、その意義はアジアとヨーロッパという広大な範疇で考えなければならない。

○ 長崎に滞在し多大な貢献をしたヨーロッパ人の中には、ドイツ、デンマーク、スウェーデン出身の人々が数多く含まれていた:
人格と能力を兼ね備えたドイツ人外科医カスパル・シャムベルゲルのおかげで17世紀中頃、日本では「紅毛流外科」が誕生することになった。ドレースデン出身のツァハリアス・ワーゲナーは1659年に有田焼の西洋への輸出を始める。ヨーロッパに明暦の大火が伝わったのは、彼の日記によってであった。彼の同胞アンドレアス・クライヤーは収集品や書簡、報告書によって、17世紀の学者たちに大きな影響を与えた。庭師のゲオルク・マイスターは、日本庭園や日本の植物について初の詳細な記録を発表している。最後にエンゲルベルト・ケンペルの著作は18世紀ヨーロッパにおける日本像を決定し、ケンペルと同様にツェンベリー、シーボルトのような後世の優れた日本研究者に多大な影響を及ぼした。ケンペルと同様にツェンベリー、シーボルトもヨーロッパにおける「日本学」の基礎をを固めた「出島三学者」として名声を得た。
○ スウェーデン、ロシア、ペルシャ、インドを経由し6年間に亘ったケンペルの東アジアへの旅は、かなり特異なものだった。そこには彼の夢、即断、行き詰まり、忍耐そして偶然が見受けられるが、オランダから通常の海上ルートでバタビアに赴くヨーロッパ人と違ってケンペルは人間の文化やその状況の多様性を見る目が鋭くなり、自分の観察したことを書き留める力も培われ、ものごとを比較しながら分析するような習性を身につけた。17世紀に来日した西洋人の中で、ケンペルは、旅行で見聞を深め、最も成熟していた人物だった。
○ 出島で商館医ケンペルの「助手」となった今村源右衛門英生が収集・翻訳した情報を抜きにして、ケンペルの著作を語ることはできない。今村にとってもこの高度な教育と豊富な旅行経験を持つ知識人との出会いは生涯のチャンスだったに違いない。しかし、ケンペル以前に来日した学者と比較してみるとこのような交流は努力せずに成功するとは思えない。それには広い視野、相互尊重、価値観の相対化、視点を変えるための「世を見る眼鏡の交換」などが不可欠である。
○ 数多くのヨーロッパ人と同様にケンペルは出島での生活を極めて窮屈と感じており、江戸参府中のあらゆることについても不満を持っていた。それにもかかわらず彼が帰国後に著した原稿では、日本を外側からではなく、内側から理解しようと試み、その結果、これまでの日本像を問い直すような新たな評価をするに至ったのである。キリシタン弾圧と追放に衝撃を受け厳しい目で日本を見つめたカトリックの著者たちとは異なり、ケンペルは国を閉ざすという幕府の政策は正しく、政治的に有利で、非常に根拠があるものと見なしていた。彼はさらに、日本は技術や学問において、他のあらゆる諸国よりも勝れており、和を重んじる日本人は極めて幸福な境遇におかれていると述べ、我々現代人にとっても興味深い主張をしている。
○ ヨーロッパ人が地上の諸民族を支配下に置いた17世紀に、日本を西欧の模範と見なす考えはケンペルの大胆で自由な精神を物語っている。また、旅行記や旅行文学が読者の異国趣味を満たしていた時代に、ケンペルが日本で集めた膨大な資料に基づいて著した地理、自然、歴史、宗教、社会などを体系的に取り上げる『日本誌』は、当時のヨーロッパでは画期的なものだった。その豊富な内容と著者の冷静な目によりこの大作は一世紀以上にも亘って西洋における日本像及び日本へ旅行した西洋人の著書に大きな影響を与えた。異国をどう語るべきかという点において、この本から学ぶことは多い。それと同時に個人的に非常に複雑な状況下にあったケンペルの異文化を持つ他者に対する好奇心、前向きな接し方、相手側の立場で考える努力、こういった優れた姿勢を、私たちは今日においてもこの17世紀の国際人から学ぶことができるのである。

略年表

1651(慶安4)年ケンペルが生まれる
1683(天和3)年ケンペルがスウェーデン使節団とモスクワへ
1684(貞享元)年ケンペルがペルシャへ
1685ー88(貞享2ー元禄元)年ケンペルがイランのバンダール・アッバース港に滞在
1689(元禄2)年ケンペルがバタビアに到着
1690ー2(元禄3ー5)年ケンペルが出島に滞在。2回の江戸参府
1690(元禄3)年マイスター著『東インドの庭園技師』が出版される
1693(元禄6)年ケンペルがアムステルダムに戻る
1694(元禄7)年ケンペルがレムゴーに戻る
1700(元禄13)年ケンペル結婚
1712(正徳2)年ケンペル著『廻国奇観』出版
1716(享保元)年ケンペル死去
1723(享保8)年H.スローン卿がケンペルの遺産を買入(1度目)
1725(享保10)年H.スローン卿がケンペルの遺産を買入(2度目)
1727(享保12)年ケンペル著『日本誌』英語版出版
1777ー9(安永6年ー8)ドームが『日本誌』ドイツ語版を出版

 

 

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