ヨーロッパの珍品陳列室から見た市岡家の標本コレクション

W. Michel: The Ichioka Collection seen from European Curiosity Cabinets



ヴォルフガング・ミヒェル

 教会と寺社の「宗教的コレクション」

 進化の遺産として収集や蓄えは人間の持つ本能の一つといえるであろう。そのため生活必需品にとどまらず、興味を抱いた品々を収集する人間は絶えず存在し続ける。しかし近世のコレクションは制御しがたい欲望の産物というより、それをはるかに超えるような、人間による社会や外界とのかかわりあいの一定の形態を示す歴史的現象である。

 すでに紀元前4世紀に古代ギリシャのアリストテレスは,地方に旅行する弟子たちに自然のものを持ち帰るよう命じたと伝えられているが、近世ヨーロッパの珍品陳列室の前身を追求すると中世の教会の聖遺物コレクションにたどりつく。聖人の遺骨、イエスの十字架の木片、イエスの遺体がくるまれていた布、モーゼの杖や儀式用の古い法具など教会の歴史上の数々の品。それらは公のコレクション、つまり特定の機会に公開されていたものであり、また単に教義の素晴らしさと信憑性を裏付ける物的証拠のみならず、その一部は人を癒す力も持っていた。そのような「宗教的コレクション」は、日本の寺や神社の宝物殿にも見られる。神宝、什宝、刀剣、鏡、仏像、法具などの品は西洋の場合と同様に見る人の眼を古代にいざない、霊的及び宗教的、ときには神秘的な側面を持っている。熱田神宮をはじめいくつかの寺や神社の宝物に関する記述は、ケンペルのような17世紀に来日したヨーロッパ人により西洋に伝わった。


 コレクションの世俗化と博物館の誕生

 ルネサンスとともにまた大航海時代にヨーロッパに流れ込んだ大量のものや情報とともに、西洋の個人コレクションの歴史が始まる。このようなコレクションは世俗化されてはいるが、一部の品々には18世紀まで「宗教的コレクション」から発せられる超自然的なもの、神秘的なものが感じられた。大半のコレクターは一般的で代表的なものよりもむしろ無比なもの、ときにグロテスクなものを求めた。そのような品が保管されていた場所を「驚異の部屋」(Wunderkammer)あるいは珍品陳列室、珍品陳列箪笥(cabinet of curiosities)などと呼んだのは偶然ではない。その内容は(古)美術品、各種の細工、コイン、新しく発見された民俗的道具等のような人の手で作られた品々とともに、動植物、岩石鉱物標本のような自然物に至るまでの広がりを見せ、中には目録が刊行されるほど大規模なものもあった(図1 『自然の驚異劇場』収集家レフィン・ヴィンセントの著書の扉絵から(1706年)、個人蔵)。

 このような収集品の蓄積には一定の資産が不可欠だった。初期の個人コレクターはたとえば君主、貴族、豪商などだったが、しだいに薬剤師、医師、教授、海外からの帰国者なども台頭してきた。18世紀末頃になると中央ヨーロッパの中産階級の大部分が陳列室を持つようになった。目を引くのは多数の宮廷顧問官、枢密顧問官の他、行政の高級官吏たちである。また薬剤師、医師、教授は自分のコレクションを研究目的に生かした。彼らにとってはユニークさや特異性よりも類型性こそが重要だった。ここで近代的コレクションの重要な特徴である蓄積、同定、分類などが発達した。また専門的なコレクションも誕生し、収集家の視線は遠方から自分自身の身近な生活環境にも向けられた。各地に創設された大学やアカデミーでの科学研究が盛んになるに従って、動植物標本のみならず科学的な機器、機械類の収集も次第に活発に行われるようになった。

 1683年には、珍品収集家アッシュモール及びトラデスカント父子のコレクションを中心に、オックスフォード大学に西洋史上初の博物館が開館した。この頃から教育や研究また娯楽のために、人類及び自然界の資料を蓄積、保存、展示する施設に対し、紀元前3世紀にエジプトのアレクサンドリアに創設された総合学術機関ムセイオンからミュージアム(museum)という用語が用いられるようになった。18世紀後半、とりわけフランス革命以降、ヨーロッパの各地域で博物館、工芸博物館、美術館の設立が相次いだ。1851年から開催された万国博覧会及び1859年にチャールズ・ダーウィンが発表した進化論は博物館のさらなる発展に大きな影響を及ぼした。やがて、江戸から明治の自然科学を拓いた尾張の伊藤圭介、その弟子だった信濃国飯田の田中芳男をはじめ欧米から報告を行った多くの帰国者の提唱により、明治日本の各地にも、西洋とほぼ同様の発想に基づく博物館、博物場と称する施設が設けられた。


 近世日本での収集家の台頭

 ヨーロッパと同様日本においても海外からの魅力溢れる品々が重要な位置を占めていた。すでに室町時代には中国から輸入した美術品を室内に置くことが流行し、漆器、磁器、漢籍や書画を飾るための違い棚、書院及び押板が座敷の周りに造られるようになった。後に床の間も同様の役割を担った。16世紀中頃の南蛮人の到来とともに舶来の植物、動物、物品が日本にもたらされた。慶長14年以降、商館を運営するオランダ人が木綿、生糸などの生活必需品だけでなく、動物、植物、医薬品、道具、焼き物、その他の珍品を、ときには献上品用に、ときには商品用として運んできた。

 ここでも珍しいものへの欲望が果たした役割は大きかった。平戸藩の松浦鎮信が寛永11年に実用的なものの他に、たとえば「手に入る最大の犬」や「何であれ珍しい異国の動物」を注文したのは初期の代表的な例と言える。しかし資源に乏しく輸入に依存する日本では、物品の実用性も常に重視された。国内の本草学は舶来の本草書、医薬品、植物の苗や種、及び歴代の出島商館医により大いに刺激を受けた。『大和本草』で中国の本草学からの自立を目指した貝原益軒はこのような「ものと情報の交流」に影響を受けた先駆者の一人である。

 輸入医薬品の供給量及び価格の問題のためにすでに寛文年間に幕府の命によりオランダの「薬草見知り」の智恵を借り長崎付近の薬草の調査が行われ、吉宗時代になるとついに本格的な国産薬種資源調査へと発展した。ヨーロッパの収集家や学者はほとんどこのような政策と関わらなかったが、野呂元丈(元禄6〜宝暦11)、青木昆陽(元禄11〜明和6)、田村藍水(享保3〜安永5)、平賀源内(享保13〜安永8)など日本の代表的な博物学者は、何らかの形で幕府の意に沿い国内の産物を追究していた。それに対し、酒造業を営むかたわら、本草学、漢詩文、絵を学び、書画骨董や珍品奇物の収集と考証に努め,知識人のサロンの主宰者でもあった木村蒹葭堂(元文1〜享和2)のような自立した「商人学者」の活動は当時の中央ヨーロッパにも確認できる。

 宝暦7年に田村藍水及び平賀源内の提唱により開催された薬品会(やくひんえ)は西洋では類のない画期的な企画だった。自由に旅ができない時代に、諸国から採集した動植物・岩石鉱物などが持ち寄られたことは、参加者相互の研究に便宜を与え、ものや情報の伝播及びネットワーク作りに大いに貢献した。一般大衆に公開されることはなかったが、その後地方でも行われるようになった薬品会や産物会は一種の「臨時博物館」であり、それを利用する愛好家・専門家同士の活動には17世紀以降のヨーロッパの学会との類似点を見ることができる。


 市岡家のコレクション

 上記の歴史的背景を踏まえて市岡家へ眼を向けると、江戸後期に代官所の役人を務めた市岡智寛、嶢智父子による収蔵品は17・18世紀の西洋中産階級のコレクションに類似していることがわかる。人工のものから岩石、貝類などの自然標本まで多岐にわたる収蔵品はヨーロッパの陳列室に置いてあったとしても少しもおかしくない。現世の標本と化石との共存も、世界は紀元前4004年に誕生したという旧約聖書に基づく歴史観しか持っていなかった進化論以前の西洋のコレクションにおいてはしばしば見られるし、化石を自然のいたずらと見なし、石器時代の遺物について人工のものであることを認識していない事例も数多くある。また、自然標本の利用価値は必ずしも重要ではなかったようだ。「伊那群菌部」で初めて食用キノコと毒キノコが区別されたが、市岡家の標本コレクションにはたとえば「スランガステイン」(蛇石)などの高価な輸入薬と何の利用価値もないものとが混在している。これらのものが資源開発の資料として蓄積されたとは考えにくい。

 そうはいってもこの標本箱の内容は、何の分類もない、ただのものの寄せ集めではない。「鉱物標本」が入っている重箱のテーマは石であり、また「貝類標本」の五重箱の内容はタコの枕などいくつかの標本を除外すれば、後世に貼られたラベルにあるとおりであろう。その他の標本箱については段ごとにある程度の整理が認められるが、箱全体に当てはまる共通性は認めにくい。もちろん、『本草綱目』、『倭漢三才図絵』、『本草綱目啓蒙』、また市岡家も所蔵していた『訓蒙図彙』では、自然界のものは分類されているが、コレクションを整理する際、智寛と嶢智は標本の材料や寸法などにも影響されたようだ。



 とりわけ貝類に関する関心は高かったようだ。『本草綱目』、『爾雅』、『_書南産志』、『大和本草』、『倭漢三才図会』など11の文献に基づいている『貝品明鑑』はコレクションの多くの標本に関する情報を提供し、貝類を観察する際の参考資料として利用されたと思われる(図2 「茗荷介」(ネコザメの顎)(『貝品明鑑』の記述及び市岡家の標本)。また他のコレクターの収蔵品を描いた「天下諸名家所蔵之奇品異物図」など、人工・自然の遺物全体にわたる広範さと完全さを追求する姿勢を窺うことができる。


 隠すことと披露すること

 ものを集めながら、それを終始他人に見せないことは極めて例外的現象である。特に個人収集家は自分の宝を他人に見せたいものである。そのような意味でほとんどのコレクションは社会的側面を持つ。しかし常に見ることができるものは、その不思議さを失いかねない。洋の東西を問わず収集家の多くは収集品へのアクセスをさまざまな手段により管理している。17・18世紀のヨーロッパの陳列室に入るとその基本構造が一目でわかる場合が多いが、標本の大半は整理箪笥にしまい込まれ、見物客の眼から隠されていた。中身との関連性を示すことで標本披露の演出効果を高める専用の箪笥が作られたこともある。箱、箪笥、棚などにも貴重な材料を使い、豊富な装飾を施すことが多く、引き出しを開けると秩序正しく並んだ標本が現れる場合もあれば、2、3点の美しい収蔵品が強調されている場合もある。

 市岡家の重箱のふたを開けると当時の客の歓声まで聞こえてきそうである。一気に箱全体を見るより、一部ずつじっくり味わうことが重要だったに違いない。そのような意味で入れ物自体がコレクションの重要な一部であった。市岡家の重箱への収蔵方式は2通りある。一つは、ものを糸で段の底に縫いつけ、横にラベルを付ける形式を取っている。このような「立体図鑑」は耕雲堂の灌圃が編集した『貝石画譜』の図版に似ており、標本の有機性を重要視しているので、それらの寸法が配列に与える影響は小さい。もう一つは、箱を枡目に区切り、各枡にものを入れる形式である。『訓蒙図彙』の図版を思わせるこの仕組みの発想は百味箪笥、薬籠や違い棚にその根元があると思われる。この場合はものの大きさがコレクションの構造に制約を加えてしまいがちである。各枡の中身についてその上に置いてある説明書きの紙により産地と名称がわかるようになっている。大阪の木村蒹葭堂の豪華な貝石標本箱がこれと全く同じような作りであることが興味深い。

 コレクションを披露する人が得られるものは何か。他人の知識、注目、社会的評価、社会的地位の向上あるいは再確認であろう。またそれに対し、見る人も知識を深め、収集家との関係をより密接にすることが多かったであろう。市岡家のコレクションは純粋に学問的な目的のために蓄積されたものとは言いがたい。西洋の個人コレクションと同様に収集家の趣味及び社会的交流との関連性が高いものだった。日本には専用の陳列室はなかったので、標本箱などは客の接待が行われる部屋に近い、取り出しやすい場所に収納されていたと考えられる。茶道に力を注いでいた市岡家の屋敷の場合は茶室の周辺だった可能性が高い。


 視覚の規律訓練

 アリストテレス学派の信奉者は、真実はいずれ自ずと人に知られるものだ、と信じていた。しかし啓蒙により、この信念も失われることとなってしまう。真実はそのベールをはがさなければならない。人間が眼を向ける対象は御しがたいものであり、知識とは人が容易く御すことの叶わない対象と戦って獲得しなければならないものなのである。  望遠鏡、顕微鏡の発明により、人間の視覚に対する疑問は却って一時的に大きくなった。18世紀ヨーロッパでは自然界を観察することの落とし穴について数々の議論が交わされた。

 外界のものを観察、収集し、その器物と記録を通じて特徴と秩序を追究していた市岡父子の収蔵品からは視覚に関する問題意識もある程度窺える。西洋の収集家のほとんどは絵を描かなかったが、多才だった智寛と嶢智の腕前は相当なものだった。すでに言及した『貝品明鑑』の「大紅」、「浅桃紅」、「羊絨色」等、貝の色を表す用語の細かい定義は、言葉の客観性に対する不安の表れと言える。また「画報記聞」という写本も、ものの描き方についての研究姿勢を裏付けている。それにしても、三次元のものを紙に記録する際、現代が求める写実性はまだ追求すべき目標として認識されていなかった。一つの理由は、西洋の珍品陳列室と同様に市岡コレクションの場合も美術と学問がまだ分離していなかったことである。智寛の場合はもう一つ、「日本的」要素があると思われる。「伊那群菌部」に76種の菌類を収録した智寛は、細かい線を一切使わずに禅画を思わせるような描き方で、それらキノコの本質を十分に押さえたという考えだったであろう。



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