Wolfgang Michel, Teruko Nakamura, Jiro Endo: Andreas Cleyer's Studies on Japanese Drugs and Herbs. [in Japanese], Japanese Society for the History of Pharmacy, Tokyo, 16 Oct 2004.
「医薬学者アンドレアス・クライアーによる日本の薬品研究について」 ○九大院言語文化研究院 ヴォルフガング・ミヒェル、 東京理大薬学部  中村輝子、東京理大薬学部  遠藤次郎
日本薬史学会、平成16年度年会、東京、2004年10月16日。


アンドレアス・クライアーによる日本の医薬品研究について



要約

 ドイツ人医師・薬剤師クライアー(Andreas Cleyer, 1634〜1697/1698)は『中国医学標本』(Specimen Medicinae Sinicae)の編集者として知られているが、本発表は新資料に基づき日欧医薬品交流における彼の業績を追究することにしている。

 大学で医師免許を取得したクライアーは1662年にバタビアに到着し、その5年後東インド会社と結んだ契約に基づきバタビア要塞薬局の経営者になった。1667年にバタビア市の唯一の薬局も引き受けることによりクライアーは1670年代中、「東インド」での会社の医薬品の調達、管理、販売関係の最も重要な人物に昇格した。

 社員に適用される薬品について東インド会社はアムステルダム市薬局方を基準にしたが、ヨーロッパからの供給は高価で、量の面でも質の面でもしばしば不十分だった。自費で薬品を調達しなければならなかったクライアーは1670年代末頃からアジア各地の薬草、薬品に目を向けたようだ。1668年に幕府が薬草専門家の派遣を求めた際、クライアーの薬局から調剤助手G・ヘックが日本へ赴いた。長崎奉行の依頼でヘックが行った長崎湾内の薬草調査の成果はバタビアにも伝わった。1671年に来日した薬剤師F・ブラウンはクライアーが幕府のために用意した薬草の種、苗及び蒸留機械などを持参し、その見返りとして日本の薬草の苗をバタビアへ持ち帰る予定だった。1678年にクライアーはドイツの庭師G・マイスターを雇い、50人の奴隷を導入しながら薬局の薬草園の充実を開始した。1674から76年にかけて日本で活躍した医師テン・ライネが79年に東アジア産の代替薬品の覚え書きを総督府に提出すると、クライアーはそれを批判し同年に自分の提案をまとめた。そのリストのなかには、日本産のものも含まれた。1682年にクライアーの実験室には薬剤師3名、調剤助手2名、奴隷12名、筆記係3名、薬草の専門家1名が勤務していた。

 総督府との摩擦のためか、クライアーは同年に薬局の運営から手を引き、商人兼商館長として長崎への転勤を決心した。2回の日本滞在中彼は、ヨーロッパで注目を浴びはめたモグサの製造法を始めとして朝鮮人参、阿仙薬、竜涎香、日本茶、薩摩地方における樟脳の製造法等々についての情報収集にあたり、その成果及び各種サンプルをブライン、ウィトセン、メンツェル、シェッフェルなどの学者へ送り、それぞれの文通相手の研究に影響を及ぼした。二度目の日本滞在が終わった1686年から、クライアーは日本の植物、医薬品に関する35編の論文をドイツ自然自然科学者アカデミーの機関誌で発表した。そのほとんどはそれぞれの対象物についての西洋人による初めての報告だった。17世紀末頃の日本の植物や医学関係の研究課題の多くはクライアーが設定したものであった。


図1 クスノキと薩摩の樟脳製造装置 [Miscellanea Curiosa, Decuria II, Annus X, Obs. 37 (1692): De Arbore Camphorifera Japonensium Kusnoky dicta (Collection W. Michel)]


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