「木祖村に残る江戸・明治時代初期の薬箱が伝えること」

■中村輝子(東京理科大学薬学部)、遠藤次郎(東京理科大学薬学部)、W.ミヒェル(九州大学大学院言語文化研究院)

 日本各地にはきわめて多くの江戸時代〜明治時代初期の携帯用薬箱が現存し、それらの中には薬が残っているものも多い。あるいは薬はなくても、薬を収めていた薬袋・木箱・ガラス瓶には薬名が記されている。これらから、病の治療に際し、どのような薬が使われていたかを調べ、この結果を文献学的資料も含めて考察すれば、当時の医療の実態を把握するのに役立つ。

 現在までに私たちは90点に達する江戸〜明治時代初期の携帯用薬箱を調査する機会を得た。そのうちの16点が今回報告する木祖村に現存する薬箱である。ここでは、そのうちの何点かを紹介しながら、その薬箱が私たちに伝えることを汲み取ってみたい。

(1)野中眼科資料館のNo.2009の薬箱(写真1)

 4段からなる重箱式の薬箱である。最上段(写真2)と2段目には生薬を入れた薬袋が各18袋、3段目と4段目には各28袋、計92袋。薬は残っていないが、薬袋の生薬名は読み取れる。生薬名は正式名でなく、異名で書かれてあることが多い。江戸時代中期以降に台頭した日本漢方の古方派の医師たちが重視した『傷寒論』・『金匱要略』に収載された生薬が占める割合は、最上段では100%、2段目、80%、3段目、50%、4段目、43%であった。1・2段目の薬袋が大きいこと、また、重箱式では上段が取り出しやすいことから、これらがしばしば使われた生薬とみられる。この薬箱全体で傷寒・金匱の薬物が占める割合は92種類中の64%であり、この値は一般的な古方派の値よりも小さい。生薬名を異名で記すことも古方派には少ない。以上のことから、この薬箱は後世派から古方派への過渡期のものと推定される。

(2)木祖村郷土館の4-28の薬箱

 5段からなる引き出し式の薬箱である。最上段には24袋、2段目に23袋、3段目に52袋、4段目に18袋、5段目に46袋、薬箱全体で163種類の生薬名が認められる。これらの生薬のうち、『傷寒論』・『金匱要略』に収載された生薬は44%である。この値の低さ、および、生薬の種類の多さは、これが古方派の台頭以前の日本漢方であった後世派の薬箱であることを示唆する。一方で、この薬箱は古い様式を踏襲していない(引き出し式である;生薬名を一字薬名で記さない;薬袋に段を示す言葉を記さない)。位置づけを考察する際に苦しんだが、この薬箱の所有者である奥原家の文書調査によって、同家では明治時代に入っても後世派の漢方を使っていたことが判明し、以上の矛盾は解決された。この薬箱は比較的新しい時代の後世派のものであろう。


(3)宮川史料館のK-81の薬箱(写真3)

 紙面の都合で詳しく述べないが、この薬箱の薬は西洋医学で使われたものである。生薬あるいは生薬からの調製品も含まれるが、漢方の薬ではない。薬の大半は第1版日本薬局方(明治19年公布)に収載されたものである。


写真1:No.2009の薬箱(野中眼科資料館)

写真2:No.2009の薬箱最上段(野中眼科資料館)

写真3:K-81の薬箱(宮川史料館)

(4)まとめ

 木祖村に残る薬箱には他の地域の薬箱と大きな違いがなく、それぞれの時代の標準的な薬箱と言える。今回の調査では医療における都市と地方の格差はあまり認められない。

 

 

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