W・ミヒェル:コレクションと学問の近代化 - 木村蒹葭堂の位置づけについて


W. Michel: Collections and the Modernization of Science - On Kimura Kenkadô. Annual Congress, The Kansai Branch of the Japan Society of Medical History, Osaka, 6 Nov 2005.

日本医史学会関西支部2005年秋期総会、大阪市立大学医学部、2005年11月4日

 要約

近世ヨーロッパのコレクションの前身を追求すると、中世の教会が蓄積していた遺品、聖遺骨等に辿り着く。日本の宝物殿の神宝、法具等は西洋の場合と同様に見る人の視線を古代に誘い、神秘的な力を発揮する。ルネサンス時代以降、西洋の個人コレクションの歴史が始まる。当初は一般的で代表的なものよりも無比なものが求められた。「驚異の部屋」の収蔵品は、古美術品等のような人工の品々と共に、自然標本に至るまでの広がりを見せた。自分のコレクションを研究目的に利用する薬剤師、医師、学者にとっては収集品の特異性よりも類型性こそが重要だった。大自然を縮小した形で自分の管理の下に置いたコレクションでは同定、分類の近代的研究方法が発達した。

日本においても海外からの珍品がモノの蓄積を促進した。室町時代には中国の珍品を飾るための違い棚、書院等が造られるようになった。西洋人の到来により舶来品の種類はさらに豊富になり、貿易の世界的規模化は日本の富裕な人々の生活環境を大きく変えた。勿論資源に乏しい日本では物品の実用性も常に重視された。田村藍水、平賀源内、佐久間象山など江戸時代の代表的な学者は、何らかの形で幕府の意に沿い国内の産物を追究していた。そのような意味で、近世大坂の木村蒹葭堂(1736-1802)は町人学者として政治とは切り離されたところで収集を営んだ風変わりな一例である。

古物から自然標本に至るまでの広がりを見せるその膨大なコレクションについては、平戸藩主松浦静山が『甲子夜話』で、「其所貯スル物ヲ見ルニ書画草木石玉鳥魚ニ至ル迄和漢ノ品物皆アリ […]、又庚戌ノ書牘ニ云フ蔵書既ニ二万巻ト」と記している。また『先哲叢談続編』では、「浪華木村巽斎好学嗜博、築蒹葭堂、収蔵古今之書十万余巻、又儲集書画法帖古器名物」とまでいわれた。

西洋においても東洋においてもコレクションは社会的側面を持つものだった。蒹葭堂の収集品は、純粋に学問的な目的のために蓄積されたものとは言いがたく、ヨーロッパと同様に収集家の趣味、ならびに社会的交流との関連性が高いものだった。モノを隠すことと披露することは大変重要視された。西洋の陳列室に入ると標本の大半は豪華な整理箪笥にしまい込まれ、見物客の眼から隠されていた。この容れ物自体もコレクションの重要な一部であった。蒹葭堂の「貝石標本箱」も同様の役割を果たしていたといえる。蒹葭堂に集まる様々な分野に精通していた人たちの交流から、次第に新しいものが生まれてきた。それは規律、訓練を重んずる17世紀ヨーロッパで生まれた学会までには発達していなかったが、モノの蓄積、観察、比較、整理、あるいは情報の交換という点において、近代的学問の多くの要素は、既に確立されつつあった。先行研究では、この現象をしばしばサロンと呼んでいるが、本来のフランスのサロンとの相違点を見過ごしてはならない。

 

 

TOPTOP
inserted by FC2 system