W・ミヒェル「蓼莪堂の吉雄玄吉について」 |
洋学史学会、２００５年度学術大会、津山、２００５年１２月１０日。
【『洋学通信』第 号、２００６年、頁】
吉雄元吉（号紫溟、別名王貞美、生没年不明）に関する現存資料及び研究は乏しいが、杉田玄白の日記には、寛政２年３月１１日（1790）の條に「紫溟先生」として登場しており、また、漢方最後の巨頭淺田宗伯の『先哲醫話』に引用されていることから、１８世紀末・１９世紀前半の蘭学者にも漢学者にも認識されていた人物だったと考えられる。
文政５年（1822）版の『平安人物志』には、元吉は医家及び蘭学の部門で記載され、住所は「室町二条南」となっている。大槻如電によれば、吉雄元吉は長崎の吉雄家とは無関係だが、彼は幼い頃蘭医「烈歸父」に学んだのち寛文・文政頃に京都での私塾「蓼莪堂」を運営していた。ここでいう「烈歸父」は、１７９８年から１８０３年まで出島で勤務していた商館医 Hermanus Letzkeと思われる。当時の京都には稲村三伯、小石元瑞、小森桃塢、新宮凉庭、藤林普山、辻蘭室などの蘭方医が活躍していたが、彼等との関係に関する記述はまだ見つかっていない。小石元瑞の門人録に見られる吉雄乾徳の元吉との関係性についても不明である。
吉雄元吉に由来する資料に関してはすでに『京都の医学史』が数編の写本を紹介している。その中の｢大西医断｣及び｢欠(鴃)舌医言｣は行方不明になり、「性僻候篇」として藤波剛一が作成した昭和期の写本のみ確認できた。一方では、これまで知られていなかった「遠西奇水抜粋」は、元吉の学問的姿勢を示す興味深い資料だと判明した。
- ｢蓼莪堂外科伝書｣（写、富士川文庫）、
- 「蘭訳筌蹄」（写、宗田文庫）、
- 「蓼莪堂方筌」（写、中野操文庫）、
- 「蘭方油藥之書」（写、宗田文庫。中野操文庫）、
- 「遠西奇水抜粋」（写、Ｗ・ミヒェル蔵）、
- 「性僻候篇」（写、杏雨書屋）、
- 「性僻候篇･大西医断･欠舌医言」（写、所在不明）、
- 「鴃舌 医言」（写、所在不明）
これらの資料は、高谷鹿介、岡崎文明、杉本直、山田恭、江尻成功、永谷部彰を門人として挙げているが、｢蘭訳筌蹄｣に付してある「西勃海先生譯文法例」に見られる西勃海は元吉の恩師だった可能性も考えられる。
元吉の学問を伝えるのは、教授を受ける門人が残した写本だけである。年号を示す最も古いのは「蘭訳筌蹄」（文化２年）であり、門下人が如何にローマ字、筆記体のオランダ文字、数字、文章の分析などを学んだかを示している。文章の例として挙げられている書名は、元吉がB. HackvoortのOprecht onderwijs van de letterkonstというオランダ語の教科書及びバルチェンスのDe vernieuwde Cyfferingeという著名な算術書に関連する資料を利用したことを示している。ここで見られる前野良沢の｢和蘭訳筌｣との類似点は興味深い。
「蓼莪堂外科伝書」（文化１３年写）の上巻は１７世紀以来紅毛流医術の重点の一つだった腫瘍を論じているが、数々のカタカナ表記の用語はこの写本がオランダ語の底本に基づくこと示唆している。下巻の「丸散方」は主に漢方の薬方だが、後半には「蘭科水薬方」及び各種傷の外科的処置が記されている。ここで、「肥前四季見浦」の事例が元吉自身のよるものだと考えられる。「蓼莪堂方筌」（書写年不明）は解毒湯、助運湯、等計６３種の漢方薬湯、また、蘭方の４２種の調劑藥効、１５種の油藥方、１７種の膏藥方、１８種の水藥方及び７種の_油の製造方法を列記している。「性僻候篇」からも、西洋医術を重要視しながら、漢方も視野にいれる元吉の立場を窺うことができる。
「遠西奇水抜粋」は３２種の水薬、チンキの薬方及び効能を描写している。それそれの薬品は和訳付きのローマ字で表記されており、利用に関する記述の至る所には元吉自身の経験や考えが見られ、「蘭医歇私的兒」や「耕牛」に言及したり、薬品の蘭語の意味について説明したりしている。また、「drop van corea ninzing 朝鮮人参舎利別」という「度度毀宇私」の「本草論説」からヒントを得た自家製のものもある。
相当な語学力を身についた元吉は様々な蘭書を吸収しながら、適切と判断する際漢方も取り入れた自立心の強い蘭学者だったに違いない。彼が杉田玄白に「先生」と呼ばれたのは偶然ではなかった。行方不明の資料の再確認やさらなる資料の発見によりこの謎に包まれている蘭学者の姿はより鮮明になると期待している。
