刺激伝導系発見100年 田原淳記念シンポジウム〜蘭学の里・城下町中津と医学史〜
日時:5月14日(日)
会場:中津文化会館

W・ミヒェル:中津藩医村上玄水と大江春塘 - 地方蘭学者の条件と可能性について


江戸後期の長崎、大坂、江戸と比べ、中津の人口、経済的基盤、立地はオランダ人との交流及び蘭学の促進に必ずしも有利とは言えなかった。いずれにしても、一八世紀後半から芽生えた蘭学は、何よりも藩主の個人的な努力と好奇心によるものだった。前野良沢時代の豊前中津奥平氏の三代目正鹿(まさか)に続き、五代目昌高(一七八一〜一八五五)は実父島津重豪(しげひで)と同様に西洋文明に高い関心を寄せていたことで知られている。このような殿様の嗜好は側近にも影響を与えた。特に村上玄水、大江春塘、神谷源内、辛島正庵が蘭学の関係で大いに活躍したようだ。

 村上医家史料館には村上氏の代々の家督に関する豊富な資料が保管されているが、春塘に関するこれまでの情報は極めて少ない。本発表は新史料をふまえながら、侍医として昌高に仕えた村上玄水及び大江春塘に焦点を絞り、地方の蘭学者の諸条件及びその学問の可能性について追究することにする。  村上玄水(一七八一〜一八四三)は、久留米藩の儒官梯隆恭に兵学と軍学を学んだのち医学を志す。医師としての出足は遅かったが、せいぜい一、二回に過ぎなかったと思われる江戸参府を除けば、主に中津で活躍することになった。それに対し大江春塘(一七八七〜一八四四)は、史料に見られる限り、江戸及び長崎への出向が多く、最新情報、資料の入手ならびにオランダ人との接触、オランダ語学習の機会において、有利な条件にあったに違いない。春塘は文化一二年近習医者に召し出され、文政五年剃髪して改名し、家業に励んだことから文政六、九、一〇年に薬種料本高を賜ったことが分かるが、その医療の内容に関するものは残っていない。彼の語学力は高く評価されており、昌高の命令を受け、文政五年にメイエルの『語彙宝函』(Woordenschat)の外来語部(Bastaarde Woorden)を和訳し、日本の蘭学史における一里塚となった『バスタード辞書』として出版した。

 一方村上玄水は、その三年前に中津藩刑場長浜で画期的な人体解剖を行い、その後長年にわたり帆足万里の助言をふまえながら、「解剖図説」という原稿をまとめたが、その業績を刊行する機会を得ることはなかった。春塘ほど広く交流ができなかったにもかかわらず、玄水は地方の狭い世界に閉じこもっていたわけではない。彼の原稿、草稿、覚書、蔵書などに見られる分野は、医学、天文学、本草学、地理学、富国論、兵学、化学、文学など多岐にわたっている。江戸、京都の出版界から離れ過ぎていたことや、地元の書林梅津屋も刊行物として東洋医学、易学、漢詩文にのみ力を注いだことで、玄水が蓄積した貴重な原稿は発表されないまま、後世に遺すことになってしまった。

 したがって、一口に中津の蘭学といってもそれには様々な側面がある。中津辞書のようなものはどちらかといえば、江戸、長崎の蘭学者及びオランダ人との交流の下で生まれた偉大な業績である。玄水のような中津地方を中心にした蘭学者は活躍の場が限られ、情報と資料の収集上も様々な制約を受けていた。しかしながら、それらをその知的好奇心と視野の広さで克服しようとする姿は実に立派に思われる。





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