Wolfgang Michel: From Honzô to Botany. Society for the History of Western Studies, Autumn Congress, Nagasaki University, 11 Nov 2007.   [in Japanese]
W・ミヒェル「越境と知的好奇心 ー 近代医学へ至る道」2007年度洋学史学会秋季大会、シンポジウム「本草学から植物学へ」、長崎大学医学部、2007年11月11日。

ヴォルフガング・ミヒェル

「日本独自の本草学の台頭について」


 日本独自の本草学の台頭を貝原益軒の『大和本草』(1709刊)と結びつけた白井光太郎(1863〜1932)の提言は、上野益三ら多くの著者により踏襲され定説として受け継がれてきているが、演者が日蘭交流と初期紅毛流外科の展開を追究する際、国内本草学の独自の動きは、すでに1660年代に始まっていることに気づいた。そこでは優れた知識を持つ本草学者の姿よりも、むしろ西洋外科術の導入に伴う(新)医薬品の需要、西洋本草書の到来、国内経済の諸問題とそれに対応しようとする幕府の政策が重要である。

 8世紀以来、中国との交流を保ちながら本草の研究を続けていた日本人が李時珍の『本草綱目』に圧倒されたのは当然である。木版画のみに基づいて両国の植物の違いを発見するのは無理であり、権威ある文献から離れて実物を観察するということも簡単には起こらない。また、日葡交流時代から上陸した遠方の植物は、そのまま写本に追加されたのみであり、東インド会社が17世紀中頃江戸屋敷に納品した観用植物が何らかの刺激になった形跡もない。

 それに対し、社会の上層部から浸透した紅毛流医術は、高価な蘭方医薬品の注文なども伴いながら、初めて関係者の目を薬草の問題や国内の植物資源へと向けさせた。1654年以来数回納品されたドドネウスの『本草書』や、1668年上陸した最高傑作『アイヒシュテットの庭園』は、『本草綱目』とは違う植物界を見せつけた。1660年代、深刻さを増す経済問題を抱える幕府は、不要な品々の輸入を制限する一方、薬草の国産化を念頭に、一連の種と苗、蒸溜器械の提供及び薬草専門家の派遣を求める。これらの植物は「皇帝の庭」で栽培され、出島の敷地内に幕府の経費で「油取家」が建てられた。来日した「薬草見」ヘックとブラウンは薬草の栽培法と利用法、薬油の蒸溜について教え、長崎奉行の依頼で湾内の植物調査を行った。間違いなく、数年間に亘ったこれらの活動は、中国本草学の限界と国内外の植物の違いを認識させており、解釈学と文献学だった本草学との決別を意味している。阿蘭陀通詞楢林鎮山、本木良意らがまとめた薬草調査の報告は写本として普及し、その一部は『阿蘭陀外科指南』(元禄9年序)にも集録された。勿論、『本草綱目』が無視された訳ではなく、ブラウンの説明に遡る「阿蘭陀草花鏡図」には、彼の教示に、中国の豊富な知識が付け加えられている。また、出島の通詞でない参加者の一人は、当時の様子と『本草綱目』の問題点を明白に示している。

「余自少壮住于肥州長崎。而承 官吏命而師事於紅毛国之名医、而執几杖而学外療、于茲有年焉。夫阿蘭陀流者、草木花薬之油、治療病疾痛、或調和於膏薬得験、不為不多、非他流之所能及焉。故業此流者、不可不知其名義其主治其気味焉。予嘗随而遊行山野、而瞰見千草万木。亦有日也、因得十一千百矣、僅至於五十余種、気味功毒実與本草綱目有不同者。雖然非用私心、是師伝経験之微意也。故綴一冊、名阿蘭陀本草。       陽月_士叙」(文化元子ノ三月写、杏雨書屋蔵)

17世紀に遡る日本独自の本草学は最初から最後までこの中・日・蘭の図式で展開していた。

 

 

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