「蓼莪堂の吉雄元吉とその著作について」


W. Michel: On Yoshio Genkitsu (Rikuga-Hall, Kyoto) and His Work. The Kansai Branch of the Japan Society of Medical History, Autumn Congress 2008, Kyoto, 12 Nov 2008.   [in Japanese]
W・ミヒェル「蓼莪堂の吉雄元吉とその著作について」2008年日本医史学会関西支部秋季大会、京都市京大会館、2008年10月12日。

 

要約

18世紀末から19世紀初頭にかけて、長崎や江戸などから蘭学者が相次いで上京し、上方蘭学を勃興させた。そのなかで、すでに寛政12年頃から室町二条南の「蓼莪堂」で医学を教授していた吉雄元吉(号紫溟、別名王貞美)については、『京都の医学史』(1980年刊)での紹介後、さらなる研究は行われなかった。門弟たちがまとめた文書として、「鴃舌医言」(文化元年)、「蘭訳筌蹄」(文化二年)、「蓼莪堂外科伝書」(文化十三年)、「性僻候篇」、「蓼莪堂方筌」が報告されているが、新発見の「遠西奇水抜粋」は、元吉のオランダ語力のみならず、その豊富な治療経験及び批判的且つ実証的姿勢をもっとも鮮明に示す資料として大いに注目に値する。

京都の「尚書堂」の紙を利用した「遠西奇水抜萃   王貞美訳定」、(19丁)の底本は未定のオランダの出版物だが、その内容を単に紹介するものではない。元吉は、計33種の水薬(tinctuur, aqua / water, drop)について、まずその処方名も材料名もローマ字で記し、蘭語の意味や調合法を説明している。

Scammonun 牽牛子   訳曰。牽丑膏。製如前法。而成焉。主治疏滌。美按蘭説云。此品疏滌藥中之冠。又トモ云其根如擘。由是觀之。則日本所産。恐其品類。而非真物邪。将以土地之異。如此不同邪。我未得是非也。_然。茂質等充之。故暫従之。以_向来之考。」

基本的説明をすませてから元吉は「美」として自身の考えを述べている。彼にとって洋書は情報源に過ぎず、検証すべきものなのである。自分の経験に基づく記述があり(「貞美試功曰」)、国産品と輸入品の比較も見られ(「美曰。日本の産。其功甚劣」)、当該の薬をまだ試していないことも示されている(「美曰未試」)。元吉は、外科学の権威Lorenz Heister(「蘭医歇私的兒云」)のことを認識しており、桂皮、アヘン、サフラン、丁子で調合されるイギリス名医サイデンハムが考案したチンキも取りあげている(Tinctura opii crocata = Laudanum Liquidum Sydenhami)。

Zydeman 訳曰。此方名。乃人名也。此人初製之。故以其名。直呼其方。」

Drop van Corea Ninzing」、つまり朝鮮人参エキスは自家製のもので、名前のヒントは「度度毀宇私」(Dodonaeus)の本草書から得た。

「美曰。此方吾製。而銘之以蘭語者。取之。度度毀字[=宇]私。本草論説中之語。」

長崎の巨匠吉雄耕牛に関する記述から、元吉の冷静さと自信を窺うことができる。「薔薇蜜」(Mel Rosarum)に関しては、彼はこう述べている。

「美曰。此方宣大過急流。慓悍荷烈。壊血粘血等。不宣酸液不及之人也。耕牛。定主治。唯謂見症。而不及謂性之四癖。可謂不通蘭説者矣。何也蘭説之要。必先立四癖。而言液之変化。以定薬之当否。因知其不通也。」

当時、成長しつつあった京都の蘭学界で、本来なら注目されていたはずだった元吉は、多少孤立していたようだ。蘭書を利用できる実力に恵まれながら、入手した情報を比較したり、薬を試用したりして、自家製の新薬を開発するほどの自信の持ち主で、杉田玄白の「_斉日録」で彼が紫溟先生と呼ばれたことは、単なる世辞ではなかったようだ。

 

 

TOPTOP
inserted by FC2 system