「近世から近代へ ー 日独交流における医学と医療」

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2010年11月25日:日本国際医学協会: 日本国際医学協会第50回国際治療談話会総会 ― 日独交流150周年記念 (医学・薬学)。東京プリンスホテル、プロビデンスホール。  [招待講演]

 

 

 要旨:近世から近代へ ー 日独交流における医学と医療

1927年、中国と日本への旅を終えたドイツの病理学者アショフは、日本にはヨーロッパ人による「医学的布教」は一切必要ないと主張した。アショフが讃えた当時の日本の状況が19世紀後半における近代化への日本の積極的な取り組みの成果であることは間違いないが、その根元は遠く17世紀にあった。オランダ東インド会社が出島商館に医師のポストを常設したことにより、日本人医師とヨーロッパ人医師の継続的接触が可能になり、医学の専門知識の受容、医書、医科器械、医薬品の輸入が始まった。

150年前までの日独交流はこの日蘭貿易の枠組みの中での交流であった。舶来の世界地図や新井白石の「西洋紀聞」(1715年成立)などにより「ゼルマニア」の存在は伝わっていたものの、来朝のヨーロッパ人は「阿蘭陀人」でなければならなかったので、「ゼルマニア」に関する話は軽々しく行えなかったであろう。それでも、ドイツ語圏出身の一連の商人、医師、薬剤師などの専門家たちは、日欧の相互理解に大きく貢献し、オランダ語版のドイツの書籍や、ときおり献上される「珍品」なども、人間と自然に対する理解に新しい光を投じた。

江戸期の大半において西洋の刺激を受け続けた日本は、とりわけ医学と医療に着目していた。18世紀の「蘭学」につながる継続的医学交流の発端となったのは、1650年に商館長一行の江戸参府に随行したライプツィッヒ出身の外科医カスパル・シャムベルゲルである。彼の医療は大きな関心を呼び、そのような関心は彼の後任者にも寄せられた。医薬品、医書、医療道具の注文や、診察と教授の依頼は幕末まで絶えることがなかった。

シャムベルゲルの経験や人柄、礼儀正しさ、将軍家光の重病による謁見の延期とオランダ使節の長期の江戸滞在、大目付井上筑後守政重の先見の明や身分の高い患者の思惑など、多様な要素が歴史の発展に影響を与えることがここでも確認できる。紅毛人の外科術は上流階級から一般社会へと浸透し、江戸及び天領長崎から各地へ広まった。すでに1660年代に紅毛流外科の免許状は、出世の手段として評価されるものとなった。紅毛流外科の普及を支えたのは、医療の有用性や患者の期待だけではない。社会的制約の少ない医師たちは比較的自由に新しい知識を学べるという、極めて恵まれた状況下にあったのである。

資源不足に悩む日本では、政策が常に経済に左右されていた。新しい医療に必要な医薬品の多くは輸入せざるを得なかったので、関係者は当初から国産の代替品に目を向けた。とりわけ老中稲葉美濃守正則のもとで、薬草の種と苗並びに蒸留器の輸入が進められた。初の製薬技術移転においてはクライヤー、ヘック、ブラウンらのドイツ人が薬剤師として歴史的役割を果たし、中国の本草学からの日本人学者の解放を促した。

元禄時代の日本を2年に亘り観察したドイツ人医師ケンペルの著作は18世紀ヨーロッパの日本観を形成したが、ケンペルが日本における西洋医学の発展に大きく貢献した形跡は残っていない。一方で、彼は日本人の医療に興味を抱くようになり、その「優しさ」に感銘を受けている。名書『廻国奇観』(1712年刊)で発表した論文で、彼は鍼灸に関して当時としては最も詳細な記述を残し、中国医学に見られない日本独特の治療法や道具及び日本の灸点を記した「灸所鑑」を紹介している。

19世紀初頭に来日したシーボルトは、ケンペルと同様に大卒の医師で、意欲的な博物学者であった。また、彼は自然界から社会や歴史にいたるまで、一人で日本のすべてを把握しようとした近世最後の学者でもある。シーボルトが近代医学を日本にもたらした医師・医学者だとする研究者は少なくないが、彼の治療法が歴代の出島商館医と比べて突出していたとは言い難い。しかし、彼の日本研究に「協力」することになった弟子たちは、ものと情報の収集、対象物の観察、比較、整理及び研究成果の執筆を身近に体験できたのである。自然科学に基づいた医学を伝えたという点で、シーボルトはその数十年後ポンペが進めた近代医学教育への道を切り開いたと言える。

江戸後期になっても、ヨーロッパにおける近代医学のダイナミックな展開とその理論的背景を理解することは極めて困難だった。それにもかかわらず、約2世紀に亘り日本の医師たちは、数々の治療法や医薬品を導入し、人体の構造及び解剖学の重要性を認識するようになり、言葉の壁を乗り越え、自力で医書を訳したり、近代西洋医学の専門用語を吸収したりしていた。このような知識と技能がすでに地方の農村にまで広まっていたため、明治政府の招聘で来日した軍医ミュラー、ホフマン、その後継者らは荒れ地を開拓する必要がなく、丁寧に地ならしされた医学教育の畑に持参した種を蒔くことができたのである。

 

 

 

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