「W・ミヒェル「元禄の日本を観たドイツ人ーエンゲルベルト・ケンペルの生涯と功績」
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「元禄の日本を観たドイツ人 ー エンゲルベルト・ケンペルの生涯と功績」
日独交流150周年記念講演会、佐賀大学文化教育学部、2011年1月22日(土)。
[招待講演]
趣旨:1861年、当時のプロイセンと日本の間に「修好通商条約」が締結されて以来今年で150年。「日独交流150周年」を記念して日本とドイツで様々な行事が催されます。佐賀大学でも、下記のように、日本とドイツとの交流関係に造詣の深い講師をお招きして講演会を開催することになりました。
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概説
江戸期の長崎に滞在し多大な貢献をした「阿蘭陀人」の中には、ドイツ、デンマーク、スウェーデン出身の人々が数多く含まれていた。人格と能力を兼ね備えたドイツ人外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger)のおかげで17世紀中頃、日本では「紅毛流外科」が誕生することになった。ドレースデン出身のツァハリアス・ワーゲナー(Zacharias Wagener)は1659年に有田焼の西洋への輸出を始める。ヨーロッパに明暦の大火が伝わったのは、彼の日記によってであった。彼の同胞アンドレアス・クライヤー(Andreas Cleyer)は収集品や書簡、報告書によって、17世紀の学者たちに大きな影響を与えた。庭師のゲオルク・マイスター(Georg Meister)は、日本庭園や日本の植物について初の詳細な記録を発表している。最後に医師、博物学者エンゲルベルト・ケンペル(EngelbertKaempfer,1651-1716)の著作は18世紀ヨーロッパにおける日本像を決定し、後世の日本研究者に多大な影響を及ぼした。
スウェーデン、ロシア、ペルシャ、インドを経由し6年間に亘ったケンペルの東アジアへの旅は、かなり特異なものだった。そこには彼の夢、即断、行き詰まり、忍耐そして偶然が見受けられるが、オランダから通常の海上ルートでバタビアに赴くヨーロッパ人と違ってケンペルは人間の文化やその状況の多様性を見る目が鋭くなり、自分の観察したことを書き留める力も培われ、ものごとを比較しながら分析するような習性を身につけた。17世紀に来日した西洋人の中で、ケンペルは、旅行で見聞を深め、最も成熟していた人物だった。
出島で商館医ケンペルの「助手」となった部屋小遣今村源右衛門英生(1671-1736)が収集・翻訳した情報を抜きにして、ケンペルの著作を語ることはできない。今村にとってもこの高度な教育と豊富な旅行経験を持つ知識人との出会いは生涯のチャンスだったに違いない。しかし、ケンペル以前に来日した学者と比較してみるとこのような交流は努力せずに成功するとは思えない。それには広い視野、相互尊重、価値観の相対化、視点を変えるための「世を見る眼鏡の交換」などが不可欠である。
数多くのヨーロッパ人と同様にケンペルは出島での生活を極めて窮屈と感じており、江戸参府中のあらゆることについても不満を持っていた。それにもかかわらず彼が帰国後に著した原稿では、日本を外側からではなく、内側から理解しようと試み、その結果、これまでの日本像を問い直すような新たな評価をするに至ったのである。キリシタン弾圧と追放に衝撃を受け厳しい目で日本を見つめたカトリックの著者たちとは異なり、ケンペルは国を閉ざすという幕府の政策は正しく、政治的に有利で、非常に根拠があるものと見なしていた。彼はさらに、日本は技術や学問において、他のあらゆる諸国よりも勝れており、和を重んじる日本人は極めて幸福な境遇におかれていると述べ、我々現代人にとっても興味深い主張をしている。
ヨーロッパ人が地上の諸民族を支配下に置いた17世紀に、日本を西欧の模範と見なす考えはケンペルの大胆で自由な精神を物語っている。また、旅行記や旅行文学が読者の異国趣味を満たしていた時代に、ケンペルが日本で集めた膨大な資料に基づいて著した地理、自然、歴史、宗教、社会などを体系的に取り上げる『日本誌』は、当時のヨーロッパでは画期的なものだった。その豊富な内容と著者の冷静な目によりこの大作は一世紀以上にも亘って西洋における日本像及び日本へ旅行した西洋人の著書に大きな影響を与えた。異国をどう語るべきかという点において、この本から学ぶことは多い。それと同時に個人的に非常に複雑な状況下にあったケンペルの異文化を持つ他者に対する好奇心、前向きな接し方、相手側の立場で考える努力、こういった優れた姿勢を、私たちは今日においてもこの17世紀の国際人から学ぶことができるのである。
略年表
慶安4年
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(1651)
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ケンペルが生まれる
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天和3年
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(1683)
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ケンペルがスウェーデン使節団とモスクワへ
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貞享元年
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(1684)
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ケンペルがペルシャへ
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貞享2〜元禄元年
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(1685-88)
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ケンペルがイランのバンダール・アッバース港に滞在
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元禄2年
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(1689)
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ケンペルがバタビアに到着
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元禄3〜5年
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(1690-92)
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ケンペルが出島に滞在。2回の江戸参府
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元禄3年
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(1690)
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マイスター著『東インドの庭園技師』が出版される
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元禄6年
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(1693)
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ケンペルがアムステルダムに戻る
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元禄7年
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(1694)
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ケンペルがレムゴーに戻る
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元禄13年
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(1700)
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ケンペル結婚
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正徳2年
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(1712)
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ケンペル著『廻国奇観』出版
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享保元年
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(1716)
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ケンペル死去
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享保8年
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(1723)
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H.スローン卿がケンペルの遺産を買入年
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享保10年
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(1725)
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H.スローン卿がケンペルの遺産を買入年
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享保12年
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(1727)
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ケンペル著『日本誌』英語版出版
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安永6年〜8年
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(1777-79)
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ドームが『日本誌』ドイツ語版を出版
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享和元年
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(1801)
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志筑忠雄訳「鎖国論」が成立
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講演の構成
- オランダ東インド会社と出島商館
- 17世紀に来日したドイツ人
- 出島蘭館の医者たち
- エンゲルベルト・ケンペルの長旅
- 日本_究の計画
- 日本での協力者
- 江戸参府
- 第5代将軍綱吉とケンペル
- 帰国後の活動
- 『廻国奇観』の内容
- 『日本誌』の原稿
- ケンペルの日本観
- ヨーロッパにおけるケンペルの受容
- 志筑忠雄訳「鎖国論」
- ケンペルの現代的意義