W・ミヒェル「近世・近代ヨーロッパにおける日本観について」


 

「近世・近代ヨーロッパにおける日本観について」(On the Image of Japan in Early Modern Europe)
岡山大学文学部30周年記念事業 文化講演会シリーズ、2011年2月19日(土)。 [招待講演] 『時代の中野異文化交流』岡山大学文学部、2011年3月、263-303頁。

 

 趣旨

今日の異文化間理解や平和的共存の問題の多くは、その歴史的背景を考慮することなしには解決しない。ときには前の時代を振り返ることにより、現在の我々の認識や行動の諸条件および背景をよりよく理解することができるのである。

ヨーロッパでの日本観は、約460年の欧日文化交流の間にさまざまな変遷を経てきた。すでに16世紀のイエズス会士による報告や記述でさえも、日本での彼らが置かれていた状況や、遠いヨーロッパの読者に対する彼らのさまざまな期待により非常に多様な見解を示している。キリシタン弾圧が厳しくなるにつれて、最初は例外なく肯定的で婉曲的でさえあった評価や記述の内容は変化していき、否定的な側面が目に付くようになり、明確に一線を画し、対立姿勢を示そうと苦心するようになる。「南蛮人」と彼らに続いて東アジアへやって来たオランダ東インド会社の商人は、宗教上地政学上ことごとく衝突していたが、宣教師たちの日本観の一部は、出島に閉じこめられていた「紅毛人」にも引き継がれている。

約1世紀半にわたって日本観を支配していたのは、宣教師の書簡、年次報告、「教会史」及びその他の旅行者の日記であったが、やがって、より総合的な描写をめざしたエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』(1727刊)によって新たな日本受容の時代が切り開かれた。ケンペルの著作はあらゆる事典や文学作品、学術論文に利用され、トゥンベリーや、近代日本研究の基礎を築いたシーボルトなど、19世紀初頭までの研究者たちの規範となった。

開国と共に直接の交流や観察の機会も範囲も増大し、日本関係の出版物も爆発的に増えた。西洋に対する日本の反応は、ヨーロッパにとって、理解しにくいものであり、新たな位置づけへの努力を促した。

講演の主な課題
  • 東方の果ての理想郷
  • 厳しい現実との遭遇が生む比較文化論
  • 手本となる日本人殉教者
  • 断絶と継続 ー 日蘭交流の始り
  • エンゲルベルト・ケンペルと18世紀の日本観
  • 日本の「周辺」に目を向けるシーボルト
  • ジャボニスム

 

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