Caspar Schambergerの生涯(1623-1706)


1623.9.11ライプチヒで「11時から12時の間」に生まれる。
1629/30父バルタザール・シャムベルゲル(Balthasar Schamberger)死去。母マルタ・フィンジンガー(Martha Finsinger)再婚。
1637.3.16ライプチヒの大学教授ヨーハン・ミヒェル(Johann Michel)の勧めに従い、13才でライプチヒの外科医組合長クリストフ・バッハート(Christoph Bachert)の見習いとなる。
1640見習いを「名声と栄誉をもって」終え、さらにハレとナウムブルクへ修業に出る。
1642 家族の同意を得てリューベック、ケーニヒスベルク、ダンツィヒ、スウェーデン、デンマーク、そして最後にオランダへ。30年戦争中のこの行動範囲は、シャムベルゲルが一時的にスウェーデン軍などプロテスタント部隊の軍医をつ務めた可能性を示唆している。
1643アムステルダムの連合東インド会社(VOC)で外科医試験に合格し、3年間の勤務契約にサインする。
1643.10.24旗艦マウリツィウス号の「3人目の外科医」として東アジアへ出航する。
1644.2.7マウリツィウス号は喜望峰で遭難。小島へ避難したシャムベルゲルたちは数週間後別の船に救助され、東への旅を続ける。その航海中に起きた乗組員の反乱未遂事件は収まったが、シャムベルゲルは重い熱帯病を患う。
1644.7.31バタヴィアに到着する頃に、シャムベルゲルは回復した。
1644.8.軍艦でインドのゴアへ向かう。ポルトガルとのさまざまな交渉は成功に終わった。
1644.11.さらにセイロン、スーラト、ペルシアへ。ペルシアでは艦隊はキシムに砲撃を加えたが、期待通りの成果は挙がらなかった。その後、モルッカへ。
1646.1.5バタヴィアへ戻る。
1646.8.23バタヴィアから出発。これ以降3年間にわたって、シャムベルゲルは東南アジアのVOC拠点を往復する船で勤務したと推測される。資料に見られる地名として台湾及び中国があるが、当時、中国への上陸は不可能だったので、中国近海の小島でのジャンク船との取引を意味すると思われる。
1649.8.7アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(Anthonio van Brouckhorst)が台湾の拠点ゼーランディア(Zeelandia)から出島に到着。シャムベルゲルもこの船に乗っていた可能性は高い。
1649.9.191643年に起きた「ブレスケン号事件」や1647年の「フィアルホ事件」により悪化していた東インド会社と幕府との関係を修復するために、VOC特使アンドリアス・フリジウス(Andries Frisius)一行がヨット船ロベイン号(Robijn)で長崎に入港。
1649.11.5ファン・ブロウクホルストが出島商館長に就任。
1649.11.7出島の阿蘭陀通詞の猪股伝兵衛と名村八左衛門が「剃髪の男(=医師)」を4名伴って商館長の部屋を訪ねる。商館長は長崎奉行馬場三郎左衛門から、外科学を教授するようにとの要請を受け、彼らに外科医シャムベルゲルを紹介した。
1649.11.25 ブロウクホルスト商館長とフリジウス特使一行が江戸へ出発。特使一行は16名、商館長一行は6名。毎年の商館長の江戸参府よりも西洋人の人数が多かった。大坂までは船旅。
1649.12.13大坂着。
1649.12.19許可を得てから、馬128頭と日本人随員310名を伴って江戸へ出発。
1649.12.31江戸着。3代将軍家光の病気のため、使節団の謁見は何度も延期される。フリジウスが持参した献上品の中には臼砲や薬もあったが、臼砲手スヘーデル(Schedel)とは対照的にシャムベルゲルには当初あまり注目が集まらなかった。
1650.1.6大目付井上筑後守の要請で、オランダ人が持参した薬を通詞が屋敷まで届ける。
1650.1.21幕府の侍医数名がオランダ人の宿(長崎屋)を訪ねた。
1650.1.22幕府が「Vuerwercker」と「Coopman」、「Chirurgijn」を江戸に残すよう指示。
1650.2.6様々な病気に悩む幕府の関係者は長崎屋にいるシャムベルゲルに目を向けるようになっていた。この日の昼過ぎに「閣下の秘書官」が長崎屋を訪ね、シャムベルゲルが肩の痛みを治す。これが江戸でのシャムベルゲルの医療活動に関する具体的な最初の記述。
1650.2.10夕方、小田原城主の稲葉美濃守が「腕の件」でシャムベルゲルに往診させる。
1650.3.17シャムベルゲルが使節団らっぱ手を伴って大目付の屋敷へ行く。
1650.4.8家光がまだ回復しそうにないので、特使一行は老中に謁見することになった。この日に「時服」などの返礼の贈り物も受ける。
1650.4.16使節団が長崎へ出発。10月まで江戸に残った4名のヨーロッパ人は外科術(Schamberger)、経理(Bijlevelt)、砲術(Schedel, Smid)を教授する。
1650.7.10江戸にいるバイルフェルトから出島商館長宛の書翰。「シャムベルゲルは大目付の診察をきっかけに高級官吏を多く治療しており、薬品が必要です。」
1650.7.30江戸からの書翰に薬品と珍品のリストがあり、大目付がオランダから取り寄せるよう希望の由。
1650.10.15バイルフェルト一行が江戸を出発。
1650.10.25ピーテル・ステルテミウス(Pieter Sterthemius)が出島の新商館長に就任。
1650.11.14バイルフェルト一行が出島に到着。江戸での臼砲の試射は大成功で将軍はたいそうご満足気の由。シャムベルゲルにも多大な褒美があった。
1650.11.24商館長の通常の江戸参府。オランダ人6名、日本人26名が随行。
1651.1.5商館長ステルテミウス一行が江戸に到着。ステルテミウスは直ちに通詞を大目付のところへ報告に行かせた。 大目付はシャムベルゲルが再度来ていることを聞くと、翌日屋敷に招いた。
1651.1.6日の出から1時間後シャムベルゲルは大目付の屋敷に赴いた。長い会話。
1651.1.9大目付はシャムベルゲルを呼び、オランダ人が持参した薬品のリストを作り、その名称を日本の文字で記録させた。
1651.1.29シャムベルゲルはこの頃、大目付の命令であちらこちらへ出かけ、病人を治療した由。
1651.3.24城内で謁見。
1651.4.2ステルテミウス一行が江戸を出発。
1651.6.2江戸の大目付から大量の薬品を注文するリストが届く。手元にあるものは直ちに送り、残りは翌年に回す。
1651.8.3ポーランド王号(Koning van Polen)の上級外科医、ドイツ・ヴィスハイム出身のヨーハン・ヤーコプ・メルクライン(Johann Jacob Mercklein)が到着。メルクラインはシャムベルゲルの同伴者として長崎市内の患者の診察が許された。
1651.11.1アドリアーン・ファン・デル・ブルフ(Adriaen van der Burgh)が着任。1651年11月1日から1652年11月3日まで商館長を務める。
1651.12.12シャムベルゲルがバタヴィアに到着。
1651- 55その後は船医を務めたと思われる。日本、シャム、トンキンへも何度か来航した。
1655.1.通常の「帰還船団」でヨーロッパへ戻ったと思われる。
1655.9.オランダ着。さらに数週間の旅をしてハンブルク経由でライプチヒへ。親族のほとんどは死去したようである。祖父のみが健在。
1658.11.8在外勤務中かなりの財産を手に入れたシャムベルゲルは外科医の職を捨て、より身分の高い商人としてのキャリアを追求するために、ライプチヒ市民権を取得。
1659.1.25商人の未亡人エリーザベト・ロスト(Elisabeth Rost, 1633 -1661)と結婚。エリーザベトは出産の際、子供と共に死去。
1662.9.29元市議会議員の娘で17才のレギーナ・マリア・コンラート(Regina Maria Conrad, 1645-1684)と再婚。6男2女をもうけるが、そのうち3男1女は死亡。
都心の三軒の家及びライプチヒ市の面積の三分の一に相当する郊外の庭園が示すように、シャムベルゲルは商人として次第に莫大な資産を蓄積した。
1685.8.18オイフロズィーネ・クライナウ(Euphrosine Kleinau, 1645 - 1688)と再婚。
1706.8.4ライプチヒ大学の学長をしていた長男ヨーハン・クリスティアーン(Johann Christian Schamberger)が死去。ヨーハン・クリスティアーンは大学の新解剖室(Theatrum Anatomicum)の設置者として年代記に名を残す。
1706.4.8シャムベルゲル死去。「1706年4月11日、日曜日:83才、男性、市民で商人のカスパル・シャムベルゲル氏は木曜日、グリム街で死亡」
1706-50 郊外にある住宅と土地の売却に対し異議申し立てが出るなど。相続関係は非常に複雑。18世紀半ば以降、シャムベルゲル家の名はライプチヒ市の文書には見あたらなくなる。

 

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