by w. michel and h. oshima

博物学者エンゲルベルト・ケンペルの生涯




[ english ] [ japanese ] [ German: 1651-1715 | 1690 - 1692 | 1716 - 1868 | 1868 --> ]
1651年9月16日 慶安4 ケンペルが産まれる。父親ヨハネスは、聖ニコライ教会の主任牧師であり、ケンペルは次男。兄ヨアヒム。弟アンドレーアス。  
1665年 寛文5 後世に伝わる最初の文章を書く。この年から学校へ行く。レムゴーで伯父で次席牧師のアンドレ−アス・コッホ死刑判決を受ける。
1667年 寛文7 ハーメルンのラテン語学校に入学。
1668年 寛文8 リューネブルクに移り、文献学、歴史学、地理学をケッテンバイル教授に学ぶ。
1672年 寛文12 リューネブルク、マッケレンブルク、ホルシュタイン 、ハンブルグを回り、リュ−ベックの高等学校(ギムナジウム)へ入学。ダンツィヒで古典や哲学をヘルマン、ノッテルマン教授に学ぶ。
1673年6月8日 寛文12 高等学校修了。卒業論文『二重の王権について』を書く。口頭諮問により大学への入学資格を得た。(ゲオルグ-ノイフェルト教授)
1674〜1681年 クラカウで医学と哲学を学び、その後1676年5月29日ワルシャワ、6月6日トルン、13〜17日ダンツィヒ、6月23日エルビンを回り、ケーニヒスベルクの大学等に学ぶ。ピオトルコラ(ヨハン・ルコスキー)と出会う。この頃テッタウ尼修道院長の甥の家庭教師をする。
1677年3月 延宝5 3月ケ−ニヒスベルグの大学の医学部に入学。5月13日アルベルトュス大学で法学を学ぶ。
1680年 延宝8 8月リューベック経由でレムゴーに住む父への最後の訪問。10月25日リーメを発ち、ケーニヒスベルクへ。
1681年8月 天和元 ダンツィヒ経由でスウェ−デンに渡る。神学者アエゲディウス-シュトラウホと親交。
1681〜1683年 天和元 スウェーデンのウプサラに遊学。ウプサラ大学総長ペーター-ホフヴェニグ、古代北欧語研究者オロフ-ヴェレリウス、スカンジナビア大学教授オロフ-ルドベックらと親交、その後8月からストックホルムに滞在。エザイアス-プーフェンドルフ、ザムエル-プーフェンドルフ兄弟と親交。
1682年 天和2 勘定吟味役をおき、財政監査に当たらせる。(1699年に廃止後、新井白石が復活)。江戸に大火おこる。(綱吉)
1683年3月20日 天和3 スウェーデン王派遣の使節団秘書官(大使ファブリツィウス)として、イスファハンに向けてストックホルムを出発する。フィンランドからヘルシンキ、ヴィヴォルク、トルクを経由して、ザンクト-ペテルスブルクのニィエンシャンチェを通って、エストニアのナルヴァ経由でロシアへ。この間、地中海底にナフサを発見。
1683年7月11日 モスクワで当時11歳だったピョートルに拝謁する。2ヶ月滞在。
1683年9月5日〜11月22日 ヴォルガ河を下ってカザン、11月1日アストラハンでカスピ海に到着。カスピ海を渡りニーサバードへ。そしてシェンカー、レンコラン、アスタラ、レシュト、カスヴィン、クームとカラワン街道を南に通ってイスファハンへ。
1684年1月6〜9日 貞享元 バクー、アプシェロンを訪問。
1684年 貞享元 新井白石の仕えた大老堀田正俊が江戸城中で刺される。
1684年3月29日 イスファハンに到着。1年以上の滞在期間中にペルシアに数十年滞在していたカプチン教団の修道僧ラファエル-ドュ-マンと親交。百科全書的ではなく、寧ろ未だヨーロッパに知られていない、或は間違っていることへの訂正的なペルシア史やスケッチにいそしむ。リコッホトン、ヤーヘル、手紙でアムステルダムのニコラス-ヴィットセンやヴァタビアのアンドレアス-クライヤーと親交。 
1684年12月15日 オランダ領東インド会社に採用される。
1685年11月21日 貞享2 イスファハンを出発。バンダール-アッバースへの途中ペルセポリス遺跡へ自ら小旅行。未だヨーロッパに知られていない、或は間違っていることへの訂正やスケッチにいそしむ。 
1685年12月29日 シラーズを通ってホルムズ湾沿岸のバンダール-アッバースに到着。2年以上滞在。「地獄に一番近い土地」と表現。滞在中、あまりの環境の悪さに体調を崩し東インド会社の役員の一人ヴィブラント-リコッホトンに勧められ、休暇を取り北部の山中へ。そこで椰子の実を知り、調査し、後に『廻国奇観』の第4章にまとめられる。
1687年 貞享4 「生類憐みの令」。このころ江戸町奉行支配数「八百八町」あり。
1688年 元禄元 柳沢吉保が側用人となり、後に勘定奉行萩原重秀(元禄九年就任)と共に積極的な経済政策を進める。
1688年6月30日 元禄元 バンダル・アッバースを出発。
1688年8月〜9月1日 インドのツチコリンに滞在。
1688年 元禄元 11月から翌年5月にかけて、インドのコーチン、セイロンに滞在。
1689年10月 元禄2 ベンガル湾からスマトラ、そしてバタヴィアに到着。オランダ商館付医師へ応募。リューネ、カンプハウス、ランフュス、ファン-ダムと親交。
1690年5月7日 元禄3 ワールストローム号に乗り、バタヴィアを出発。
1690年6月6日 スマトラからマレー半島を通ってメナム河口、シャム今のタイに到着。メナム河を遡って11日アユタヤ到着。
1690年7月7日 メナム河を下りシャムを出発。8月25日〜9月11日にかけて船上で嵐に遭い大量の原稿を台無しにする。
1690年9月22日 五島列島に着く。 
1690年9月24日 ワールストローム号、長崎湾に入港。翌25日長崎に上陸する。(出島商館長フォン-ブイテンハイム)
1690年 マイスター著『東インドの庭園技師』が出版される。
1691年 元禄4 林信篤(鳳岡)が大学頭に任命される。このころ元禄模様大流行する。浮世草子がさかんに読まれる。教育(寺子屋、私塾)がさかんになる。
1691年2月13日 元禄4 第1回江戸参府に出発。15日佐賀に到着。
1691年3月17日 小倉に到着。
1691年2月23日 下関から船で大坂に到着。
1691年2月28日 京都に到着。
1691年3月13日 東海道を通って江戸に到着。
1691年3月29日 将軍綱吉に拝謁する。
1691年4月5日 江戸を出発。
1691年5月7日 長崎に戻る。
1692年3月2日 第2回江戸参府に出発。
1692年3月31日 江戸に到着。
1692年4月21日 将軍に拝謁。
1692年4月24日 「別れ」の拝謁。
1692年4月27日 江戸を出発。
1692年5月21日 長崎に戻る。8月バタヴィアに到着。
1692年10月29日 パンプス号に乗船。
1692年10月31日 パンプス号、バタヴィアを目指し出港。
1693年2月 元禄6 バタヴィアに到着。
1693年10月6日 元禄6 オランダのアムステルダムに到着。11月21日ライデン大学医学部入学。
1694年4月22日 元禄7 医学博士号授。博士論文:「海外で観察された10の医学の問題にたついて」:動物学のしびれえいや植物学の麒麟血や熱血病、鍼灸について取り上げている。レムゴーに戻り、リーメの所領シュタインホーフを購入。
1694年 元禄7 側用人柳沢吉保を老中格とする。江戸に十組問屋仲間がつくられる。
1698年12月7日 元禄11 リッペ州領主のフリ−ドリッヒ・アドルフ伯爵の侍医に任命された。
1700年12月18日 元禄13 16歳の資産家の娘と結婚。
1702年 元禄15 赤穂浪士討ち入り。宝永元年(1704)綱吉、甥の甲府城主徳川綱豊を養嗣子とし家宣と改名させる。
1704年 宝永元 M・B・ヴァレンティーニのMuseum Museorumに「龍血」スピオニシマ・モノブラストスという樹木の果実の汁についての論文が出版される。
1710年 宝永7 この年ないし翌年に、オランダを訪問。
1712年 正徳2 『廻国奇観』をレムゴーで出版する。
1716年11月2日 享保元 65歳で死去。
1723年 享保8 イヤル・ソサエティ−(学士院)会長H.スローン卿がケンペルの遺産を買入1度目。
1725年 享保10 スローン卿がケンペルの遺産を買入2度目。
1727年 享保12 ケンペル著『日本誌』英語版出版。
1729年 享保14 『日本誌』蘭・仏語版なる。
1731年 享保16 『日本誌』英語版重版。
1749年 寛延2 仏版『日本誌』より独訳。
1777〜79年 安永6ー8 ドーム(Christian Wilhelm von Dohm)が『日本誌』ドイツ語版を出版。
1778年 安永7 三浦梅園が、通詞・吉雄幸作宅で『日本誌』を見る。
1782年 天明2 松浦静山が長崎で『日本誌』を入手。
1795年 寛政7 長崎奉行・近藤正斉が『日本誌』所持。渡辺崋山、桂川甫賢などが読む。
1801年 享和元 志筑忠雄が『鎖国論』を翻訳。
1807年 文化4 老中・松平定信が平戸藩より『日本誌』を借りる。
1808年 文化5 高橋景保が『日本誌』を全訳。
1811年 文化8 平田篤胤が『古意本道』に『鎖国論』を引用。
1814年 文化11 幕府が『日本誌』をオランダに注文。
1823〜29年 文政6ー12 シーボルトが長崎で活躍。
1831年 天保2 渡辺華山が『日本誌』を入手。
1837年 天保8 和歌山藩士・武部游、今井馨『日本記事訳解』完成。
1850年 嘉永3 黒沢翁満が『鎖国論』をもとに、木版本『異人恐怖伝』執筆。
1851〜54年 嘉永4〜安政元 島津家が『日本誌』を5冊購入。
1880年 明治13 坪井信良訳『検夫爾日本誌』〔未刊写本〕
1891年 明治24 中野柳圃訳『鎖国論』(日本文庫第5篇第7冊)博分館
1914年 大正3 中野柳圃訳『異人恐怖伝』(文明源流叢書第3巻)国書刊行会
1915年 大正4 衛籐利夫訳『長崎より江戸まで』国民書院
1928年 昭和3 高橋景保『日本紀事訳抄』(海表叢書第2巻)更生閣書店
1928年 呉秀三訳『江戸参府紀行』(上下)(異国叢書)駿南社
1966年 昭和41 長崎県史編纂委員会『ケンプェル日本史』(抄訳)(長崎県史史料篇第3)吉川弘文館
1973年 昭和48 今井正訳『日本誌』(上下)霞ヶ関出版
1974年 昭和49 小堀桂一郎訳『鎖国の思想−ケンペルの世界史的使命』中公新書
1977年 昭和52 斉藤信訳『江戸参府旅行日記』平凡社、東洋文庫。


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