1664 |
バタヴィアのテイガーフラハト(Tijgergracht)地区の建物と土地を引き継ぐ。 |
1665-67 |
薬局助手。 |
1666 |
ラテン学校が新設され、校長に就任。 |
1667 |
娘コルネリア誕生 (のち商人ピーター・ヴァン・ダイクと結婚)。 |
1670 |
息子ヨハネス(ヤン)誕生。 |
1678 |
息子コルネリス誕生。 |
1667-76 |
バタヴィア要塞の薬局を経営。 |
1676-82 |
要塞及び市の薬局を経営。 |
1678 |
ドレスデン出身の庭師ゲオルク・マイスターがクライアーの2つの薬草園の管理を任される。 |
1679 |
クライアーは医師ウィレム・テン・ライネによるアジアの薬品の使用についての覚え書きを、薬の製造法・用量・効能などの情報不足により役に立たないと判断。 |
1681 |
東インド会社が喜望峰の薬草研究のため、シュレージエン出身の医師ハインリッヒ・クラウディウスを採用。 |
1682 |
クライアーの実験室には薬剤師3名、調剤助手2名、奴隷12名、筆記係3名、薬草の専門家1名が勤務していた。 |
1682-83 |
出島商館長として初の日本滞在 (20.10.1682 - 8.11.1683)。 |
1685-86 |
出島商館長として2度目の日本滞在 (17.10.1685 - 5.11.1686)。クライアーは通詞たちの中で特に本木庄太夫と横山与左衛門と良い関係を築く。 |
1686 |
密貿易を行っていた部下たちの監督義務を怠ったとしてクライアーは日本から退去させられる。 |
1686 |
その後多数の名誉職を歴任。 |