昔の自己紹介


1984年6月26日


 私は1946年に廃墟となったフランクフルトに生まれました。その当時,町の中心部にあった破壊された建物の石が,郊外にある私の家の近くに運ぱれて来ていて,長さ500m,幅100m,高さ100m位の瓦礫の山ができていました。私はよく立入禁止の看板を無視してその中で遊んでいましたがその時に昔の建物の柱,怪獣形のひさきなどを見つけたものでした。しかしその石の山は,次々に近くの工場で粉々にされて,復興する町の為のブロックの原料となってしまいました。そして,その瓦礫の山が完全になくなったのは,私が大学に入学した頃でした。しかしながら,人間が負った傷はそんなに早くは治らないでしょう。親の世代が引き起こした戦争は,二つの国に分散している親戚同志の人間関係にも影響を及ぽしましたが,まわりの人々の反省と近隣の国々やその国民に対する関係回復への努力が,私の子供の頃の忘れられない思い出となっています。フランスにいる親戚を始め,ョーロッパ,アフリカからの留学生などがよく私の家にも来ていましたが,今思えば,そのことが私達兄弟二人に,自分の考え方や立場さらには価値体制の相対化を確立する貴重なきっかけを作ってくれたと言えるでしょう。父は化石や鉱石の収集をしたり,ホメーロスやシェークスピアを読むのが好きで,母は絵を書くのが好きです。そしてテレビのない我家では,当時両親が話して聞かせてくれたオデュッセイアの面白い冒険物語を私はよく暗記したものでした。また週末には父と一緒に第三期の化石収集によく出かけました。そしてそのことがきっかけて化学にとても興味を持つようになり,フランクフルト大学の有機化学研究所で化学を学び,資格を取りました。19才の時に国際的な雑誌に学術論文が掲載されましたが,そのことが私の「第一の人生」の自慢の一つであります。しかし,私の人生の流れを変えたのは「代役務」でありました。私は兵役を拒否しましたので,その代りに「民間代役務法」により田舎町の病院で18ケ月の役務をしなければなりませんでした。そこは病気と死の世界で、人間への好奇心が益々強くなりました。それゆえ役務から解放されてすぐにフランクフルト大学の哲学部に入学し,言語学,文化科学を専攻しました。私は,幅広く,自由な教育を目指したいわゆるフンボルト式大学の最後の世代であります。私はそこでョーロッパの言葉を色々と身につけましたが,同時に東洋への強い憧れも持っていました。しかし30代の私が国家公務員として日本の大学の教官になろうとは,10年前には夢にも思っていませんでした。現在,九州に根をおろした私にとって,人間のコミュニケーション,特に異質文化間の人々の相互理解の問題およびその歴史は,私の「第二の人生」の課題になりそうに思われます。

「九州大学教養部報」より

 

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