Wolfgang Michel: Caspar Schamberger no chôji ni tsuite [On Caspar Schamberger's Memorial Adress]. Nihon Ishigaku Zasshi -- Journal of the Japan Society for Medical History, Vol. 37, No. 4 (Tokyo 1991), pp. 143-151.
ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルの弔辞について」 『日本医史学雑誌』第37巻第4号(1991年)、143〜151頁。

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W・ミヒェル

カスパル・シャムベルゲルの「弔辞」について


ドイツのライプツィッヒ出身で、カスパル流外科の元祖、カスパル・シャムベルゲル(1623〜1706年)の生涯についてはこれまでにも色々と紹介してきたが[1]、研究を進めるうちに、彼の葬儀に際しての「弔辞」等、新しい資料を発見した。

Einen Gläubigen in seinem allezeit getrosten Muthe, Stellte bei Christlich=solenner Leichen-Bestattung Des Wohl=Ehrenvesten, Vor=Achtbarn und Wohl=Fürnehmen Herrn Caspar Schambergs, Fürnehmen Bürgers und berühmten Handels=Manns allhier, Den XI. April. A. MDCCVI. Der Hochansehnlichen Versammlung in der Academischen Paulinder=Kirche aus Jes. XLIII, 1-3. zu betrachten dar D. Gottlob Friedrich Seligmann, P.P. Consist. Assessor, und zu S. Thomas Pastor. Leipzig, gedruckt bey Johann Samuel Fleischern.[2]

この様な特に重要な人物の場合のみに印刷された弔辞は、ライプツィッヒ市民社会に於けるシャムベルゲルの地位の高さを明確に示している。記念のために配られる部数の少ない弔辞は殆どが時代と共に消えていく。シャムベルゲルの弔辞の場合も今日ではドイツ、ヴォルフェンビュッテルのヘルツォーク・アウグスト図書館が保存する「シュトルベルグ・ストルベルグシェ弔辞集」の一編しか残っていないようである。

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図1、弔辞の正面(Stolberg-Stolbergの弔辞集、19803号より)

 

シャムベルゲルに関する資料は数部に分けられる。冒頭はゼーリヒマン神父の66頁にも及ぶ説教で、これは、普通の早さで読み上げても2時間半前後はかかったと思われる。聖書から多くを引用し、遺族や悲しみにくれる人達を慰めている。死出の旅に出るシャムベルゲル若い頃の2万マイルを超えた東インドへの旅については繰り返し言及し、2度の難破を生き延びたことは彼が神への無限の信頼を寄せたこと、また同時に神のシャムベルゲルへの寛大な慈悲の現われとしている。さらに16頁にわたる「履歴」において神父が葬儀の出席者に色々と気を配りながら故人の生涯、業績などを紹介する。短い「しめくくり」と「主の祈り」で弔辞は終わる。6頁の「謝辞」が続き、これは「黒い葬儀の大広間」で行なわれ、ヨハン・ゴットリープ・プファイフェル(Johann Gottlob Pfeiffer)によるものである。また、ヨハン・ヴィルヘルム・クリューガーン(Johann Wilhelm Kröger)が発行した以下の九人の「後援者、親族と友人」による「最後の名誉の追憶」も興味深いものである:ヨハン・キュプリアーヌス(Johann Cyprianus)、クリストフ・シュライター(Christoph Schreiter)、ヨハン・クリストフ・シャハー(Johann Christoph Schacher)、ポリュカープス・ゴットリープ・シェアー( Gottlieb Schaer)、ヨハネス・ドルンフェルト(Johannes Dornfeld)、ザンクト・トーマスの助祭イマヌエル・ホルン(Immanuel Horn)、ロマーヌス・テレル、(Romanus Teller)、クリスチアン・エーレンフリート・ザイフェルト(Christian Ehrenfried Seyffert)、ヨハン・グラウプネル(Johann Graupner)、そしてクリスチアン・ヤーコプ・ザイレル(Christian Jacob Seyler)。さらにクリスチアン・ゲッツェン(Christian Götzen)が出版した3頁には、ゴットフリート・オレアーリウス教授(Gottfried Olearius)による「即興による追悼の詩」がみられる。シャムベルゲルのいとこヨハン・シュテファン・フリッツ(Johann Stephan Vlitz)も自分の「感想」の印刷をヨハン・アンドレーアス・チャウ(Johann Andreas Zschau)に依頼している。文集の最後の三頁には孫のカスパー・フリードリヒ(Caspar Friedrich)とクリスチアン・ゴットフリート(Christian Gottfried)が流した「悲しみの涙」が残っている。

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図2、シャムベルゲルの「履歴」(Stolberg-Stolbergの弔辞集、19803号より)

 

ゼーリヒマン神父が書いたと思われる短い履歴(図2)は特に貴重な参考資料であり、ドイツ語の本文はすでに発表した[3]。ここで、若いシャムベルゲルの職業養成や東インド会社における彼の活動上の不明な点について紹介し、これまで知られている経歴を補いたいと思う。

以前より、シャムベルゲルは大学出身の医師ではなく、理髪外科医だったと主張してきたが、このことは以下の文でようやく証明される。

「当初彼の愛すべき両親は、息子が成長するに際して商業へ向かわせようとしたが、当時ドイツは戦時不安で、この職業を子供に選ばせるのは賢明ではないと判断し、むしろ特に当時著名な医師だったミヒェリスの外科学を修めさせるようにという忠告に神を信じて従い、結局息子を当地の経験豊かな外科医クリストフ・バッヘルトに1637年3月16日、託した。そこで3年間、この学問の基礎をよく学び、1640年、恩師に別れを告げたときには名声と栄誉を得るほどになっていたが、自分の腕をさらに完成させるため、彼はまもなくハレとナウムブルクへ行き、さらに丸2年この学問に没頭した。[4]

クリストフ・バッヘルト(Christoph Bachert)については残念ながら何もわかっていない。ヴェストファーレン、ゾースト のヨーハン・ミヒャエリス(Johan Michaelis[5])はヴィッテンベルクを初めに、ドイツ、オランダの大学で学業を修めた後、1630年ライプツィッヒで修士、1631年に博士号を取得し、まもなく教授になる。その経歴のうちに「永遠の部長」(Decanus perpetuus)になったことや、1641年からはヴィルヘルム・フォン・アルテンブルク公爵の、1662年からはヨハン・ゲオルク2世選帝侯の侍医を勤めたことが注意に価する。彼はライプツィッヒで初めて化学薬を紹介し、自らも調合薬を多数開発し、その中で「Specificum cephalicum[6]は大いに使用されたようである。また、重要な著作を再版し、前書きも多数書いている。ミヒャエリスは1667年に死去した。彼の著作全集はニュルンベルクで1688年に出版され、1698年に再版された。1637年シャムベルゲルの両親に外科医としての養成を勧めたとき、彼は30歳代の初めですでに正教授になっていた。

見習を終えた外科医がライプツィッヒで資格を取るためには2年間勤めれば十分で、修業の旅に出る必要もなかったようである。しかし、16才のシャムベルゲルは「愛する家族の承認と同意を得て」、30年戦争中で安全というわけではない旅に出た。まず、ハレとナウムブルクで2年間、腕に磨きをかけた。「履歴」にはさらにハンブルク、リューベック、プロイセンのケーニヒスベルク、ダンツィッヒ、スウェーデン、デンマーク、そして最後にオランダ が並ぶ[7]

東インド行きの動機や決心について、ゼーリヒマン神父は「神のお導き」と職業への熱意を挙げる。故人を賛える他のテキストもこの点に妙にこだわり、シャムベルゲルがライプツィッヒのよき市民として何十年も共に生活してきた後にも人々の多くは、彼がどうしてこれほどまで旅行を広げたのか、理解に苦しんでいた。シャムベルゲルはアムステルダムの商会所に応募しているが[8]、ここはすでに記したように外科医には厳しい試験を課していた[9]。彼は3年の期限で、外科医長2人と外科医二人と共に旗艦「マウリーツィウス」(Mauritius[10])で赴任した。艦隊は1643年10月24日に出港した。おそらく彼はいわゆる「3人目の外科医」だったと思われる。外科医たちは士官と一緒に食事を取り、乗組員よりはいくらかよい寝床が与えられていた。彼らは病人の世話と一定の衛生上の消毒、火薬への点火、船室で酢を気化させたりしていた。ヨーロッパから東南アジアまでの長い航海では死亡率も極めて高かった。船出してまもなく新鮮な食料品と飲料水が不足し、船は通気が悪く、乗組員の体調は日々に悪化していたに違いない。南緯度地方の様々な伝染病のため国ではこのような病気の治療が禁止されていた外科医はどちらにしても何もできなかった。シャムベルゲルの往路では喜望峰に「補給基地」(verversingplatsen)がまだなく[11]、ここで水の補給ができたかどうかもわからない。おそらくインド洋の航海中、シャムベルゲルは2度、嵐に遭い、「船をなくし、野蛮な住民のために生命の危険に」さらされた。これがどこで起こったのかは残念ながらわからない。マウリツィウス号が後の記録にも載っているので、「なくす」というのは、シャムベルゲルが海に落ち、別の船に助けられたことを言っているようだ。この航海は長く続き、ついに「船上での危険な反乱」が起こり、挫折したか、鎮圧された。「新鮮な水が不足し、他にも面倒が多くて」赤道付近で彼は2度も重い熱病にかかり、床に伏した[12]。ケ月たってやっとシャムベルゲルは「運良く無事に」1644年7月31日、東インド会社の拠点都市バタヴィアの地に立った。彼の頑丈な体質はこの航海で初めて証明された。彼はゆっくりもしていられなかった。直ちに戦艦に乗船しなければならなかった。会社はちょうどポルトガル人に対する9度目の海上封鎖を準備していた。司令官は後ほどバタビア総督として偉大な業績を上げたヤン・マーツイケル(Joan Maetsuycker)。艦隊のうちの1隻にライプツィッヒの同郷人ヨハン・フォン・デル・ベール(Johann von der Behr)が同船しており、彼がこの作戦を詳細に記している。シャムベルゲルは軍に配属されて4日後の1644年8月8日、乗船した。10日に艦隊は出港し、8月28日にゴアの沖合に着いた。運がよくマーツイケルは彼の目的に交渉のみによって達成した[13]

シャムベルゲルの履歴書によれば次の滞在地はセイロン島になっている。ゴア近郊での取引を成功させた後、11月半ばに艦隊の大部分は西海岸のネゴンボ(Negombo)に向かった。ここはポルトガル人が1月4日、東インド会社に明け渡していた[14]。さらにそこからスラタとペルシアへ向かった[15]。ペルシア湾、ホルムズの沖合でクラース・コルネリス・ブロック(Claes Cornelisz Blocq)の下、 船員五○七名と兵士452名を擁する大艦隊が集結した。しかし、様々な攻撃や交渉にもかかわらず、ガムロン(Gamron)とキスミス(Kismis)ではそれほどの成果は挙げられなかった。シャムベルゲルが記した地名から推測すれば、彼はシェルフィス(Schelvis)に乗り込んでいたようだ[16]。ペルシアでの冒険は1645年8月半ばに中断された。シャムベルゲルの船はモルッカ諸島のテルナテ島に向かい、1646年1月5日、再びバタビアへ帰えった[17]。次の作戦までの間を彼はおそらく町の病院(Gast Huijs)か要塞の医局で過ごしたのであろう。

1646年8月23日、シャムベルゲルは「フォルモーサ島、中国や日本の王国」へ旅立つよう命令を受けた。つまり彼には勤務期間の延長が課せられたことになる。 台湾での滞在期間については何もわからない。 おそらく船は総司令部がある、南西海岸のゼーランディアに着いたと思われる。中国への旅に関しても詳細がわからない。ゼーリヒマン神父が述べた旅行先の順番が中国に関して乱れている可能性が十分にある。1644年に明朝が崩壊してから中国南部では明朝の支持者が清軍に対してかなりの抵抗を続けていた。台湾のオランダ商館と明朝の関係は次第に悪化しながら、中国の貿易を安定させるため北京の新しい政権と関係を結ぶ必要性がますます高まったのである。そこで東インド会社は調査をかさねた使節としてフレデリック・スヘーデル(1652年)やツァハリアス・ワーゲネル(1653年)を広東へ派遣した。もしかしたらシャムベルゲルはどちらかの使節団の団員だったかも知れない。

シャムベルゲルの日本滞在はよく研究されている。ここでは「履歴書」の記述を紹介するに留めよう。

「8月23日に新たな命令を受け、東インド会社の大使節団と台湾島、中国、日本へ行き、最後には江戸にも行くようにと言われたとき、彼はこのような命令に従順に従い、すぐに乗船しただけでなく、最終目的地で4名の日本人医師に技術を試され、彼の外科医学が確かなものであるとみなされると、その医術によって日本の皇帝の宮廷や高貴の君主、貴族に、いろいろな病気に助言を求められるという名誉を得た。しばしば順調に治療が成功したおかげで多くの特権や自由を得、東インド会社全体も優遇された。ついにはその地に長く滞在せざるを得なくなった。彼はついには辞めて元のヨーロッパの東インド会社に戻りたいと切望し、許可を得たが、翌年新たな商館長と共に再び日本の幕府に招かれた。[18]

この記述によると、彼はアンドリース・フリージウスではなく、次期の出島商館長アントニオ・ファン・ブロウクホルストと来たことになる。ブロウクホルストのマースラント号は台湾を経由して日本に来ており、1649年8月7日に長崎港に入っている。4人の日本人医師による「検査」のエピソードは商館長ブロウクホルストの日記にも1649年11月7日付けで記されている。それによれば、通詞猪股伝兵衛と中村八左衛門が剃髪した人四名同伴商館にやってきた。奉行三郎左衛門からこの四名に外科の教授を依頼されていた。彼らは外科医、つまりシャムベルゲルに紹介された[19]。有名な江戸での10ケ月に及ぶ滞在は、シャムベルゲルにとってかなり長引いていたようである。

 

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図3 ライプツィッヒ郊外のシャムベルゲルの庭園[20]

日本を後にして1655年までの四年間シャムベルゲルが東インドで何をしていたのかについて、「履歴」には日本、シャム、トンキン(東京)への旅に触れており、彼の船はおそらく長崎へも行っていることになる[21]。葬儀に際してヨハン・ゴットロープ・プファイフェルが述べた「謝辞」にはさらにコーチンとモラッカ諸が挙げられている[22]。ながい年月がたったにつれてシャムベルゲルは13度も赤道を通り、2万マイル程の旅をしたことになる。 1655年9月、彼は無事にオランダに入港し、2、3週間後には12年ぶりにライプツィッヒに戻っている。彼を特に喜ばせたのは母方の祖父がまだ健在だったことだった[23]履歴書」にはさらに、彼が東インド会社で「商取引について多くを学び、経験し」、このことで外科医としての技量と同様、「神の特別な恵みを得た」と記している。つまりシャムベルゲルは、私がすでに推測したように、裕福になって帰って来た。ライプツィッヒの同郷人はこの類の「陸上、水上での幸、不幸」についてはさんざん耳にしており、「皆が飽きるほど十分に」知られていたため、神父は葬儀のとき、もう触れたくはなかった[24]

弔辞は彼の晩年に焦点を移す。シャムベルゲルは最後の2年間は「体中が衰弱している」と嘆いてはいたが、それでもまだ「礼拝には習慣に従って出かけ、彼の年令での唯一の娯楽、とりわけ彼自身でしつらえた庭園で、夏も冬も時間を過ごす」ことはできた[25]。この庭園はシャムベルゲル関係の訴状に何度も現われ、一通には略図まで添付してある(図3)。死者の棺のそばではこの、「高官や著名人」も訪れたという庭園の貴重な、珍しい花が称賛された[26]。もしかすると日本から持ってきた種も蒔いていたかも知れない。 家の紋章の保護天使(?)の下の半分が3本の花になっているのも偶然ではなかろう。

シャムベルゲルが死ぬ数週間前に彼の「昔からの親愛なる友」ピッピング(Pipping)が死に、予感するように彼はその葬儀で次は自分だろうと告げている。彼の臨終についてはゼーリヒマン神父が次のように述べている。

「しかしこの前のイースターの時、枝の主日にはまだ元気で、皆の前に、神にふさわしい客として晩餐会に出席できるほどで、ときどき彼を煩わせていた足の通風も少し良くなっていたが、イースター3日目の夕食時に突然脳卒中を起こし、水曜日の午前、10時と11時の間に、それまでよりも強い発作が起こり、右半身が麻痺し、全身の力がなくなった。よく効く薬や強壮剤を使って、この思いがけない発作に、全力で対したが、一度弱ってしまった体は二度と立ち上がることはできなかった。
そのため、故人は命が終わり、別れを告げ、天へ旅立つ時が近いことを悟り、聖シメオンの時[27]を辛抱強く待っただけでなく、キリスト教徒の習慣に則り、敬虔な歌と祈りを捧げ、同様に司祭も準備の式を行ない、近い親類や教会の友人も皆、できる限り立ち会った。彼らの敬虔で真摯な涙の祈りを神様が温情をもってすぐにお聞き届けになり、故人は2日のうちに、長く病み、死んでゆくベッドでこのような支度が為された後、ほとんど痛みもなく、救世主の到来を待ち、ついに前の木曜日の夜8時45分、見守る人たちの敬虔な祈りと歌の中、安らかにこの世の生を終えた。彼は自らの中に、神から類まれな恵みを得て、命はモーゼの定める期限を超え[28]、歳は83に5ヶ月を残すだけだった。[29]

盛大な葬儀の後、しばらくすると膨大な遺産をめぐる争いが始まり、続いてまもなく長男ヨハン・クリスチアン(Johann Christian) が1706年8月4日に死んでさらに激しくなった。ライプツィッヒの公文書館では様々な「彼の農場、庭園、家屋の譲渡に対する異議[30]が1706年から1750年の間を覆っている。遺族に争われた財産は膨大だった。

 

参考文献
  • Johann von der Behr (1669):       Reise nach Java, Vorder-Indien, Persien und Ceylon 1641-1650. In: Reisebeschreibungen von deutschen Beamten und Kriegsleuten im Dienst der Niederländischen West- und Ost-Indischen Kompagnien 1602-1797. Herausgegeben von S.P. L'Honoré Naber. Band 4. Den Haag 1930.
  • Daghregister des Comptoire Nangasacqij zedert 9. December Ao 1648 tot 5e November Ao 1649 en 1650. (Het Algemeen Rijksarchief, Haag)
  • Daghregister des Comptoirs Nangasacquij zedert 5e November Ao 1649 tot 25e October Ao 1650.(Het Algemeen Rijksarchief, Haag)
  • Wolfgang Michel(1990a)       「Caspar Schambergers "Lebens=Lauff"」『言語文化論究』第1号、福岡、1990年、41〜51頁。
  • Wolfgang Michel(1990b)       「出島蘭館医カスパル・シャムベルゲルの生涯について」『日本医史学雑誌』第36巻第3号、201〜210頁。
  • Dirk Schoute:        De geneeskunde in den dienst der Oost-Indische Compagnie in Nederlandsch-Indië. Amsterdam 1929.
  • Herzog August Bibliothek Wolfenbüttel:        Katalog der fürstlich Stolberg-Stolbergschen Leichenpredigten-Sammlung Bd.1-4. Leipzig: Degener 1927-1935. シャムベルゲルの弔辞資料の登録番号は19803である。

 

注釈
[1]    Michel(1990a)、(1990b
[2]   シュトルベルグ・ストルベルグシェ弔辞集19803号
[3]    Michel(1990a
[4]   「弔辞」68頁〜
[5]    Christian Gottlieb Jöcher: Allgemeines Gelehrten=Lexicon 1750(復刻版Hildesheim 1961
[6]   主成分の辰砂と芍薬末に小量の粉末したエメラルド、ヘラジカのひづめ、人間の頭骸骨、赤ザンゴ、鹿角、真珠、琥珀を加える。
[7]   「弔辞」69頁
[8]   「弔辞」70頁
[9]    Michel(1990b, 205
[10]   「弔辞」70頁
[11]   喜望峰での東インド会社の基地は1651年、ヤン・A.ファン・リーベックによって 設立された。
[12]   「弔辞」71頁
[13]    Behr, 46頁ff.
[14]    Behr, 51頁
[15]   「弔辞」71頁
[16]    Behr, 71頁ff.
[17]   「弔辞」71頁
[18]   「弔辞」71頁、72頁
[19]    Daghregister 1649年11月7日
[20]   「弔辞」77頁
[21]   「弔辞」72頁
[22]   「弔辞」、「謝辞」、頁数記載なし
[23]   「弔辞」73頁
[24]   「弔辞」76頁f.
[25]   「弔辞」ヨハン・ゴットロープ・プファイファーの「謝辞」、 頁数記載なし
[26]   「弔辞」付記
[27]   ルカの福音書(2, 25-33)によれば、エルサレムに信仰深い人でシメオンという名の人がいた。彼に「主のつかわす救主に合うむでは死ぬことはない」と聖霊が告げた。その後、彼は幼子イエスに出会い、その子を腕に抱き言った「この僕を安らかに去らせて下さいむす、私の目が今あなたの救いを見たのですから」。Simeonsstündleinは救世主との出会いと、それに続く安らかな死を意味するのだろう。
[28]   ここで言っているのは「モーゼの祈り」(詩篇90)のことで、「われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう。」
[29]   「弔辞」77頁ff.
[30]    Leipzig市議会文書、II. Sektion S Nr. 721
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