W・ミヒェル
ドイツ・ライプツィッヒ出身の外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger、1623〜1706年)が2度江戸に滞在し、患者の治療に当たり、大目付井上筑後守政重の興味を引いたことは周知のことである。しかし、彼の活動の様子を明らかにするためには、これまで唯一の手がかりとされてきた出島商館の日誌以外の文献を調査しなければならない。 [1] シャムベルゲルは新蘭館長アントニオ・ブロウクホルスト(Anthonio Brouckhorst)と共に1649年8月7日には出島に到着しており、11月5日の着任を待つ間にも周囲の注目を多少とも集めていたようである。11月7日には通詞の猪股傳兵衛と名村八左衛門が、剃髪した男4人を伴って商館長室に現われ、長崎奉行馬場三郎左衛門から、直ちに外科の授業をおこなうよう依頼された由伝えた。ブロウクホルストは奉行の依頼の真意に些か疑いを抱きながらも、当人たちを、商館の「メーステル」 に紹介した。[2] 17世紀のそれに類する依頼の取扱を考えると、恐らく2、3日の内にシャムベルゲルによる外科術の授業が始まったものと思われる。しかし、それにしても、9月19日来日した特使アンドリース・フリシウス(Andries Frisius)と商館長ブロウクホルストの使節団は11月25日にはすでに江戸へ出立したこともあって、この授業は長くは続かなかったであろう。シャムベルゲルはこの4人との出会いを一種の試験のようなものとして考えていたふしがある。17〇6年、ゼーリヒマン牧師はライプチヒで故シャムベルゲルの生涯について紹介しているが、その際、牧師は、シャムベルゲルは「日本人医師4人からその職業上の能力を試され、その外科学は十分なものであると認められた」と述べている。 [3] オランダの使節団は、12月31日に江戸に到着している。3週間後には長崎奉行馬場三郎左衛門により、臼砲手、伍長、外科医と一人の商務官は使節団が長崎へ帰負った後もしばらく江戸に残るよう伝えられた。 [4]使節団が江戸を発つまでの出来事はブロウクホルストの商館日誌とフリシウスの旅行日誌に記載されている。 [5] 身分の低いシャムベルゲルについてはこの日誌ではほとんど触れられていないが、ブロウクホルストは1650年2月6日、将軍の「書記官」が肩を傷めたといってやって来たと記している。 [6] フリシウスによれば、これは長崎奉行馬場の書記官で、腕を負傷していたという。 [7] いずれにせよ、この患者の社会的な地位のお陰で、これがシャムベルゲルの江戸での医療活動を示す最初の記述となったのである。 稲葉美濃守正則の治療4日後の夕方、小田原城主稲葉美濃守正則が腕の診察のためシャムベルゲルを屋敷へ呼んだ。驚くべきことに、宗田一氏が1978年に紹介した「阿蘭陀外科医方秘伝」 [8] にこの治療の詳細な処方が残っている。
またシャムベルゲルはアルテア硬膏も用いている。これについてドイツにはブランデンブルク、ニュルンベルクなどの処方があったが、いずれも最初の3色が基になっている。下記のような処方はオランダの薬局方にもないので、江戸では材料がそろわず、代用のものを用いていたかも知れない。
稲葉はこの治療に大変感銘を受けたらしく、1660年代に至るまで医療品をたくさん注文し、侍医をオランダ人外科医のもとで学ばせている。彼の江戸屋敷での侍医、吉永升庵の名は阿蘭陀加須波留方のひとつに添えられた短い「外科名寄 阿蘭陀流」に見られる。 升庵はオランダ人からもヤン・シユラム(Jan Schram) [14] と呼ばれ、1650年に記録を作成したか、又は猪股傳兵衛か他の通詞の資料を江戸で手に入れるかしたようである。彼は息子と同様、後にシャムベルゲルの後任者のもとで西洋の外科学をかなり集中的に学んでいる。 シャムベルゲルが稲葉を治療してから急に忙しくなったことは、フリシウスの使節団の金銭出納簿の記録からもうかがえる。そこには2月13日に駕籠を2台購入したことが記されている。この駕籠は、筑後殿の命を受けたシャムベルゲルと通詞を毎日あちこちの通りへ運び、治療を行うのに用いられた。さらに、シャムベルゲルは「さまざまな必需品」を購入している。 [15] 水戸中納言の小姓の療治ブロウクホルストの日記には記されていないが、また別の患者に、水戸中納言徳川頼房に仕えていた小姓がいた。「阿蘭陀外科医方秘伝」によると、その小姓のひとりが、足に傷を負ったことが記されている。
おそらくシャムベルゲルは個々の油について、その効用を説明しようとしていたのであろう。中には代用になる植物の日本名を書いたものもある。 大目付井上政重の侍医の治療井上筑後守政重のもとにいた通詞の源右衛門は [18] ポルトガル語が上手でシャムベルゲルともよく接触していた。膀胱結石やカタル、その他の病に苦しむ高齢の井上 [19] を診ていたのは、これまでの研究で見落とされていた侍医の藤作(Tosacko)であった。 [20] 大目付の侍医という地位のお陰で彼は誰よりも外国の医薬品や医療器具についてよく知っていた。苦痛を訴える主人が最高の治療を期待していたので、彼は西洋医術を熱心に学んでいたに違いない。このトーサクも1650年にシャムベルゲルの治療を受けている。
トーサクは、シャムベルゲルが井上の屋敷で医薬品や治療法について説明をするときには常に同席していたと思われる。シャムベルゲルが1651年11月に日本を離れてまもなく、1652年2月にトーサクは様々な医薬品を注文しており、これをみても、トーサクが相当の知識を持っていたことが感じられる。 [22] 間違いなく、井上の侍医トーサクは数少ないシャムベルゲルの弟子のひとりだったと考えてよいであろう。翌1653年1月になると、彼は出島蘭館医が始めた能楽師の七大夫の治療を、オランダ人一行が江戸から引き上げた後も、ひとりで続けていく自信を持っていたほどである。トーサクは1655年11月に亡くなり、 [23] 彼が収集し、記録した資料はそのほとんどが1657年明暦の大火で焼失してしま負ったようである。 特使フリシウスが持参した薬箱すでに1640年代には、商館長が医薬品を江戸へ持参することもあったので、井上や老中の屋敷にはある程度の西洋の「用常備薬」があったはずである。これまでに老中が示した好意的な反応を忘れずに、特使フリシウスは1649年にも医薬品を持参しており、これは彼が乗ってきたロバイン号(Robyn)の積荷送状(factuur)にも記載されている。最初の79番は老中用であった。 [24]
第4番の箱は献上用で、その後、井上の手に渡った。
下記に示すように、シャムベルゲルはこれらの薬品については江戸で詳細な説明を行っている。 1650年4月16日〜10月15日の活動フリシウス一行は1650年4月中旬に長崎へ帰負った。江戸に留ま負った4名のうちの代表者バイレフェルトが書いた日誌はその行方が不明であるが、この6ケ月間の「金銭出納簿」 [27] からはシャムベルゲルらの行動をいくらか推察することができる。 バイレフェルトは魚、野菜、鶏、雉、薪、パン等の買い物を毎日綿密に記録し、その他の費用は月末に精算している。4月、使節団が発負った直後、シャムベルゲルは頻繁に外出している。 「通詞や役人、外科医をさまざまな病人のもとへ運んで治療等を施すため、この半月毎日外出したので、17日間の駕籠代は全部で2フロリン9スタイファー3ペニングになる。」 [28]
その後は臼砲手らも多忙になったため、シャムベルゲルの分は確定できなくなるが、7月まではシャムベルゲルが常に外出者リストの筆頭に書かれている。5月には全部で43日分、6月には50日、7月には74日、8月には223日、そして9月には194日分を支払っている。 [29] シャムベルゲルが多忙な日々を送負ったことは、バイレフェルトが江戸から長崎へ送負った手紙からもうかがえる。
最初の手紙は1650年6月7日付で、特にシャムベルゲルが毎日、「身分の高い人から低い人まで」さまざまな患者の治療に当たり、江戸の店にも井上の手元にもない薬品が若干必要になったため、同封のリストのものを早く送るよう依頼している様子がうかがえる。自分用の薬箱を4箱持っていたシャムベルゲルは、 [30] 医薬品を大量に使用していたに違いないのである。 6月27日に出した2通目の書翰も同様の内容である。これはたまたま江戸から帰途に着いた長崎の町年寄高島が預かった最初の手紙よりも早く7月10日にはブロウクホルストの手もとに届いており、翌日には希望の薬品に長崎奉行に関する添書を添えて発送している。 7月28日と30日には出島に、同月17日付のバイレフェルトの手紙と薬品、及び井上のためにオランダから取り寄せる珍品のリストが届いている。その返信の中でブロウクホルストは、帰郷したいという4人に辛抱するよう励まし、井上から外科学や測量術、臼砲について尋ねられるようなことがあれば、できる限り答えてはよいが、自ら進んで話すようなことがないよう改めて指示している。幸い将軍が4人の生活費を引き受けており、彼らは街中をかなり自由に行動することができた。通詞の猪股については、商人気質だとか、信頼できないなどと繰り返しオランダ語の書類に苦情が述べられているが、彼はシャムベルゲルのもとに自分から患者を連れてきていた。バイレフェルトは、このような患者をどうすべきか上司ブロウクホルストに問い合わせている。ブロウクホルストは、通詞が「治療不可能な身体障害者(verminckte ofte lamme)を連れてきたら」、カスパル先生は、不治の病いだと言って断わってもよいと返事している。 「このとんま」、つまり猪股は嫌われ者であった。「例の通り上役にへつらうことばかりを考えているような者であったから」である。 [31] ちょうどこの頃、ブロウクホルストはバイレフェルトに手紙を一通書いているが、現在、その所在はわかっていない。7月末に注文の医薬品が到着している。包みを解くと、「運送中の不注意から油の瓶がほとんど割れてしまっていた」。ブロウクホルストは新たに荷造りをし直し、これは8月末にシャムベルゲルの手に渡ったものと考えられる。次に江戸から届いた、9月4日付の長い手紙には主にスヘーデルの活動が記されていた。その内容は8月末から9月初めにかけて老中牧野と大目付井上の臨席のもとに行われた臼砲射撃に関するものであった。この手紙に対するブロウクホルストの反応は記されていない。それはバイレフェルトが江戸から出した10月4日付の手紙や、同封した日記の一部からもわからない。ブロウクホルストは総じて友好的だったとだけ述べられている。また、オランダ人たちはかなり自由に町中を出歩いていた。ブロウクホルストの最後の手紙は10月7日付で、それが届いたのはバイレフェルト一行が江戸と大坂の間にいるときであった。江戸に残った4人は、次に商館長が江戸へ来るときまで帰れないだろうと思っていたが、急に帰郷の許可が下り、10月15日に江戸を出発している。 その前日バイレフェルトはこれまで数ヶ月間のいろいろな支出を金銭出納簿にまとめているが、その中にはシャムベルゲルが購入した分も含まれていた。
これによって軟膏と膏薬の典型的な材料や、また鯨骨が骨折の副木に用いられていたことなどがわかる。 シャムベルゲルのこのような功績にもかかわらず、江戸に残ったヨーロッパ人4人のうち最も重要な役割を演じたのはスヘーデルだった。8月と9月に射撃を披露した後、10月初めに帰郷の許可が下りた。彼等の働きに対して上司であるバイレフェルトは小袖2〇枚、スヘーデルはスホイト銀百枚、シャムベルゲルはスホイト銀30枚、そしてスミト伍長はスホイト銀20枚を得た。 [33] バイレフェルト一行は10月15日に江戸を発ち、陸路大坂まで行き、兵庫からは船で直接長崎へ向かい、11月1日出島に到着した。彼等はとりわけ井上からさらに新たな注文を受けており、その中には若干の瀉血用硝子器や説明書付の解剖書もあった。 [34] ちなみに、それより少し前の、11月5日には、帰化人沢野忠庵が死去している。 [35] 1651年における活動165〇年11月14日にようやく長崎へ戻ったシャムベルゲルは、早くも10日後には再び江戸へ発つことになっていた。 [36] 今回は新商館長ピーテル・ステルテミウス(Pieter Sterthemius)に同行し、1651年1月5日に一行は江戸に到着した。ステルテミウスはすぐに通詞を大目付井上のもとにやり、「この間までこちらにいた外科医が来ている」ことを告げると、シャムベルゲルは翌朝招待を受けた。念のため「閣下」は後で長崎屋に書状を送りさえしている。 [37] 井上の希望通りにシャムベルゲルは日の出の一時間後に彼の屋敷へ向かった。彼は上機嫌でシャムベルゲルに、東インドの他の地域にも赴任したことがあるのか、ポルトガル語はできるのか、どのような薬品を持ってきたのかなど、矢継ぎ早に質問を浴びせた。 [38] 1月8日に再びステルテミウスは商人2名とシャムベルゲルを井上の所へ同伴した。最後にシャムベルゲルはひとり残って、外科学に関するさまざまな質問に答えなければならなかった。 [39] 翌日シャムベルゲルは井上の屋敷で、持参した薬品をひととおり見せなければならなかった。名称は通詞により日本字で書き留められた。筑後殿は、「これらの薬品はオランダ人の名で陛下に献上されるであろう、オランダ薬はこれまでも度々用いられ、その効果が認められており、今後、日本では一層評価されるであろう」とシャムベルゲルに対して表明している。 [40] 前年同様、井上は商館長一行が持参した牛黄を老中に配らせた。 [41] 井上の要請に応じてシャムベルゲルは1月の間ほとんど毎日患者を診て回った。 [42] 2月にもこのような往診は続いている。19日に井上は通詞の孫兵衛に向かって、「今年オランダ人が持参した珍品の中にある医薬品は特に評判がよく、シャムベルゲルが毎日行なっている善い治療は非常に喜ばしいことだ」と言っている。 [43] シャムベルゲルは井上の屋敷を度々訪れていたようである。3月初めにステルテミウスは、シャムベルゲルが井上の通詞から謁見の期日について情報を得たと記しているので、おそらくシャムベルゲルもポルトガル語がわかったのであろう。 [44] 謁見は3月24日に行われた。井上は4月1日に帰郷する準備に取りかかっていた一行に、翌年のために将軍と老中が希望する品物のリストを手渡している。 [45] この2度目の江戸参府から出島へ戻ってきたのは1651年5月3日であった。日本を離れるまでの残りの6ヶ月間についての記述はごくわずかである。6月の初めに江戸から再び井上の注文が届いた。多くの医薬品のうち、出島にあるものはすぐに発送しているが、これはシャムベルゲルが行ったに違いない。残りは翌年の分となった。 [46] 古賀十二郎はヴァレンタイン(Francois Valentyn)を引用して、シャムベルゲルが165〇年12月に, 奉行から、雌の猟犬が子犬を産んでから弱ているので治療するよう要請されたことや、また、猿が一週間前に尾を焦がしたと運び込まれ、治療しなければならなかったことなどを指摘している。 [47] このエピソードは両方とも事実ではあるが、シャムベルゲルがいた時期ではなく、1656年の出来事である。 [48] 1651年8月3日に上位外科医ヨーハン・ジャーコブ・メルクライン(Johann Jacob Mercklein)が乗っていたポーランド王号が入港した。 [49] 長崎湾に停泊している間に日本人「貴族」が熱いピッチで足に火傷を負った。シャムベルゲルは毎日その傷を診ていたが、ひとりでは手に負えないと思ったのであろう、オランダ船の外科医を次々に連れてきた。彼は褒美として着物や酒、金貨などを貰った。こうして幸運にも街を見る機会に恵まれた者の中に既述のメルクラインがいた。 [50] この火傷は実際ひどかったようで、シャムベルゲルの後任者も診療に関わっている。12月初めに奉行は商館長ファン・デル・ブルフ(Adriaen van der Burgh)に鴨を数羽贈り、外科医に、足に重い火傷を負ったボンジョイの治療を許可したことに感謝の意を表している。 [51] この頃シャムベルゲルは、11月1日、ポーランド王号で日本を離れ、[52] バタヴィアから1週間足らずのところにいた。 1649年から1651年に行った医薬品の注文この時期に井上が注文したものは、後の納品から一部を再現することができる。1651年4月1日に将軍と老中が希望する品物のリストを手渡している。 [53] この注文書はオランダ船で秋にバタヴィアに着いた。そこで手に入るものは翌夏は届けることができたが、オランダから送らせたものは早くても2年先になった。そのため次の、1652年夏のスミント号(Smiendt)72番の箱に含まれていた故尾張藩主の子息のためのミイラ、筑後殿のための包帯缶、ランセット、用具、本などにはシャムベルゲルの影響が明らかに認められる。 [54]
ドドネウスの本草書が早くも日本に届いている。もう1冊は、1648年にアムステルダムでヴィレム・ピソ(Willem Piso)によって出版されたゲオルグ・マルクグラフ(Georg Markgraf)のもので、Historia rerum naturalium Brasiliae libri VIIIを指している。 商館の仕訳帳(Journal van de negotie)にも着荷が記録されており、発送側より正確な場合もある。ここには書物、上記の包帯缶や「よく蒸留した水類」、つまり蒸留酒の薬品類が見られる。さらに注目すべきものは、「オランダから日本へ至急便で発送されたいろいろな医薬品を詰めた大きな箱」で、この箱については内容の目録が作られている。 [55]
時には輸送中に荷物が分散してしまうこともあり、そのため売っても損失を出すことがあったし、まったく売り物にならないこともあった。そのような場合は、商館の日誌に明細が残っている。1652年にはデ・スミーテ号が運んできた薬品の一部が腐ったり、瓶から漏れたりしており、出島で再び補充しなければならなかった。 [56]
この荷もシャムベルゲルの日本滞在中に依頼されたものに違いない。 同年、医薬品を詰めた大きな箱がもう一つバタヴィアから長崎へ送られている。 [57] 1652年春の医術関係の注文シャムベルゲルの後任として1651年11月4日出島に就任したドイツ・エアフルト出身のヨハネス・ヴンシュ(Johannes Wunsch) [58] も3月半後には江戸にある井上の屋敷に招かれたが、 特に目立つような活動は見受けられない。 井上の方は商館長一行が出発する前日、1652年2月24日に長いリストを託した。そこに見られる治療薬、道具などは極めて精確で、シャムベルゲルのその後の関心のほどがうかがえる。ミイラ、ビリリ、犀角、眼鏡、書見用眼鏡、外科用の吸角、外科用包帯と軟膏の小さな缶、人魚の骨、象の脂、象の瘤腫、授乳期の婦人が首に付ける乳石、止血に用いる血石、義手4本、義足2本、犀の脂、室内用の寒暖計、「硫酸、硝酸、酒精などを蒸留するための蓋付の蒸留器」や「銅、木、その他の材料で模造し、人体のあらゆる部所、手足、内臓などをできるだけ詳細に見ることができる人体模型」など。 [59] ガラス製の吸角はシャムベルゲルがいる間にすでに要望が出されていた。1652年夏に届いた瀉血針は同じく前年のうちに注文されたものだろう。 [60] また蒸留フラスコを要望していることから、膏薬や軟膏を作る際に欠かせない種々の材料を江戸で作ろうと考えていたことが分かる。 シャムベルゲルが江戸で用いた書物についてそもそも、キリスト教関係書の密輸入を防ぐために書籍は輸入禁止だった。しかし、すでに1641年10月には、ル・メール(Le Maire)に、薬学、外科学、航海術の書は例外だと口頭で伝えられている。 [61] このことは、1651年長崎に来た薬剤師兼外科医だったヨーハン・ヤーコブ・メルクラインも証明している。 「こうして船の到着の時に、直ちにオランダの書物を調べ、その挿絵にもよく注意を払っていた検使たちは、特に外科と薬草に関する医学書はその場ですぐに返してくれる。これはおそらくこの術に対する特別な好意からであろう。しかし、そのために増長してはならない、という条件つきではあるが。」 [62]
ヨーロッパの都市の理髪外科医は職場としての店を持っていたが、出島商館にも主な薬品、道具などと共に医学、薬学関係の書物を備えた小部屋があった。その上さらに、来日する外科医は自分が所持する外科箱や個人的な夲、処方のメモなどを持参していた。 バイレフェルトがブロウクホルストに出した書簡から、井上の問いに答えるためにシャムベルゲルが出島から書物を送らせていたことが分かるが、その点は注目に値する。 [63] 個々の書名についてはどこにも記されていないが、ある程度の推測は可能である。 井上が解剖書を1650年夏と、1652年春の2度注文していることを考えると、 [64] おそらく、出島から江戸へ送られた本の中には解剖学の書も含まれていたであろう。もしかするとそれはアンドレアス・ヴェサリウスの解剖書De humani corporis fabricaであったかも知れない。江戸にはポルトガル語の通詞しかいなかったため、1652年には、この書がポルトガル語であることが要望された。 同様に「生態の絵入りの本草書」のポルトガル語版が注文されている。それは、その処方が西洋の名称で記載されている薬草を理解し、日本でも似たような植物を見つけるためのものであったようである。 さらに井上は、上ですでに述べたように1652年には義手と義足を2本ずつ注文しており、その機能については以下のように指定している。 [65] 「一 鉄製の義手4本とねじ。刀で戦う際や筆で字を書くときに付けて使用する。左右2本ずつ。一方の組が高価で変わっている。
一 同様に作られた義足2本。上記と同様、足をなくした場合(またはむしろ 好奇心から)用いる」。 これは間違いなく義手と義足の銅版画つきのアムブラズ・パレーの著名な「外科学」23巻、11、12章(「欠陥の補充について」) [66] から思いついたものであろう。 江戸でシャムベルゲルが説明した膏薬や軟膏の処方は、その大部分が1636年か1639年のアムステルダム薬局方に拠るものである。ヤン・スティペル(Jan Stipel) [67] も1653年11月にこの本を使って処方を説明している。同年11月14日の夕方、通詞の孫兵衛が来て、奉行甲斐性喜右衛門のために「調合薬数種を書き留めた。鎮静用の軟膏と膏薬で、このためにスティペルが呼ばれた」と記されている。スティペルは「簡単なものから説明を始め」、ごくわずかの種類で作ることができ、日本で材料が手に入り、「アムステルダム薬局方に記載されている」処方を紹介している。 [68] この本は間違いなく出島の本棚にあったものである。 Anmerkungen
[1] 出島商館日誌(Dagregister、以下DD)などの資料はオランダの国立中央文書館の出島商館伝来文書(ARA 1.04.21, Nederlandse Factorij Japan、以下NFJ)にある。同文書館の東インド会社一般関係の文書(ARA 1.04.02 Verenigde Oostindische Compagnie、以下VOC)にも日本に関する文献が含まれている。
[3] ヴォルフガング・ミヒェル「出島蘭館医カスパル・シャムベルゲルの生涯について『日本医史学雑誌』36巻3号、201〜210頁、1990年(平成2年)
ヴォルフガング・ミヒェル「カスパル・シャムベルゲルの「弔辞」について」『日本医史学雑誌』37巻4号、143〜151頁、1991年(平成3年)。
[8] 「阿蘭陀外科医方秘伝」(佐藤文彦蔵書)。宗田一「日本の売薬(17)−オランダ膏薬・カスパル十七方」『医薬ジァーナル』14巻5号、113〜119頁、1978年(昭和53年)、宗田一「カスパルの江戸での伝習について− 阿蘭陀外科医方秘伝の紹介」『日本医史学雑誌』26巻3号、97〜98頁参照。
[26] カリブの海牛(Trichechus manatus manatus)とアマゾンの海牛(Trichechus
manatus inunguis)、西アフリカの海牛(Trichechus manatus senegalensis)を区別している。17世紀の有名な百科事典Zedler(Vol. 20, p. 189)によれば、雄の頭から、脳を分ける骨を取り出した。ワインにつけて刻むと石に効くとされていた。ポルトガル人はその骨を伝染病よけのため首に下げる。肋骨、特に左側の心臓に近い部分は血を止め、痔に効くとされていた。
[50] Christoph Arnold: Wahrhafftige Beschreibunge[n] dreyer mächtigen Königreiche, Japan, Siam, und Korea [...] . Nürnberg 1672。ミヒェル(1990年)参照。
[58] ヴンシュはドイツのエアフルト(Erfurt)で生まれた。1647年にクー号Koe)で下級外科医として月給26ギルダでバタビアへ来た。そこで始めは上級外科医の監督下で砦で働き、後にいろいろな船の上級外科医になった。1651年10月6日に出島商館長ステルテミウスにより上級外科医として新たに3年の契約を結んだ。(NFJ 5, fol. 46, 60)
彼の名前は、出島で一緒だったスエーデン人オーロフ・ヴィルマン(Oloff Willmann)に現われる。(Een kort Beskriffning Yppå Trenne Reesor och Peregrinationer /
sampt Konungarijket Japan [...]. Wiisindborg, 1674, p. 194)
その年の蘭館日誌には「外科医」としてしか記されていない。1654・55年には「heelm[eeste]r Johannes Wunsch」が再び日本に現われる。彼は、商館長ヴィニンクスによればすでに2度参府に同行していた。(NFJ, DD16.2.1655)
[62] "So geben auch die
jenigen Auffseher (so die Holländischen Bücher / gleich bey der
Ankunft der Schiffe / besichtigen / und auf die Figuren derselben genau acht
haben) ihnen die Artzneybücher / welche sonderlich von der Chirurgie und Kräutern
handeln / in der Stelle (und wie vermuthlich) aus sonderbarer Zuneinung gegen
die jenige Kunst / wieder: Jedoch mit dem Beding / daß sie sich nicht
groß damit machen / noch viel Rühmens davon haben sollen."
Christoph Arnold (1672), pp.343 - 344.
[67] ヨハネス・スティペル(またはヤン・スティペル)はオランダのユトレヒトで生まれた。彼は月給34ギルダでヴィテン・オリファント号(Witten Olifant)の下級外科医として1650年11月にバタビアに着いた。最初は上級外科医として東南アジアの小島ソロルの「ヘンリクス要塞」(fortresse Henricus)で働き、1652年には日本へ転勤してきいる(NFJ 5, fol. 88b)。
初年の商館長日誌には職業名heelmeesterでしか現われない。次の任期には一箇所でChirurgyn
Jan Stipel (NFJ 67, DD 13.2.1654)、
あとはすべてM[eeste]r Jan Stipelとなっている(NFJ 66, DD 27.1.1653, 4.2.1653, 6.2.1653, 27.2.1654, 7.3.1654,
16.3.1654)。彼の雇用契約は1653年で終わっていた。1654年10月11日には、前回江戸参府したことや満足できる立派な勤務ぶりから新たに上級外科医として認められている。昇給や任期については具体的な取り決めはなく、その後のことはすべてスティペルに任せられていた(NFJ 5, fol. 88b)。
翌春にはヴンシュが上級外科医として江戸へ赴いているので、スティペルは1654年晩秋には日本を離れていたと考えられる。
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