西日本新聞、1989年10月9日、7頁( WESTJAPAN DAILY, 9.10.1989, p.7)


ヴォルフガング・ミヒェル

日・独の「外国人難民」問題


「ドイソ運邦共和国は移民受入国ではない」とは、西ドイツで近年よく言われることです。しかし、実際には1949年の建国以来、常に世界のさまざまな地域から、この比較的人口密度の高い国(1平方キロメートル当たり248人、アメリカは22人)に人々が来て定住しています。まず1400万人以上の引き揚げ者や避難民を旧ドイソ帝国の東部地域(今日のポーランド、ソ連領)から受け入れました。また、60年代からは外国人労働者の数が増え統け、1973年には250万人に達し、88年には165万6000人になっています。


 労働力不足を補う


かつて彼らは官民あげて「招待労働者」と呼ばれ、経済ブームの慢性的な労働力不足補っていました。しかし、72年の石油危機後の不況と失業率増大で募集は打ち切られました。今日、彼らは「外国人労働者」と呼ばれ、その増加の制限が試みられています。86年末に西ドイツには約451万人の外国人が住み、これは人口の7・4パーセントに当たりますが、その中にはかなりの数の「外国人難民」がいます。フランクフルトでは外国人は人口の24パーセントを占めています。ナチの時代に多くの人が難民となって外国に助けを求めなければならなかったため、西ドイツの基本法では「政治難民」は庇護権を持つと定められています。86年現在、70万人の西ドイツ滞在の難民のうち、6万9000人がこのグループに属し、近年ますます増加しています。3万3000人の東南アジア(主にベトナム)からの難民は人道的な枠で救援を受けています。さらに27万人が庇護の申し立てをせずに、または却下されながら、人道的、政沿的な理由で西ドイツに住んでいます。


 何百年も前に移住


今年になって急激に増加したドイツ系移住者はこの数には含まれていません。ポランドからフリートラントの中央収容所にかつてのドイソ人やその子供、孫たちがやってきます。ソ連やルーマニアから来る人たちの祖先は何百年も前にドイツから移住して行った人たちです。彼らはドイツ系の小数艮族として第2次大戦中や戦後に多大な困難を背負い、自国では将来が望めない人たちです。彼らは西ドイツ国籍を取得できます。昨年は20万人、89年には30万になるとみられています。

これに対してこの夏ハンガリーを通つてきた東ドイツからの「同胞」はかなり友好的に迎えられています。しかし、彼らについてのかなり誇張された報道でも見落とされているのは、89年には約10万人が正規の申請によって、ドイツ民主共和国当局の許可を得て移住できるということです。このことは東ドイツの経済にかなりの困難をもたらすでしょう。


 慢性的な人手不足


もちろんこれらの人々を受け入れるには多くの財政的、組織的な問題を伴います。しかし東ドイツからのドイ人、若くて、けっこ教育も受け、西ドイソ事情に通じている人たちにはそれほどの困難はありません。公の矢業率統計にもかかわらず、建設、ホテル、レストランでは慢性的に人手不足であり、手工業でも職場は十分にあります。

東ヨーロツパからの他のドイツ系移住者には場合によって特別な語学や職業教育が必要でしう。しかし、ここでも若者が多くを占めており(昨年は43パーセントが25歳以下)これからの統合は比較的順調に行われるでしよう。このことによって出生率の低い西ドイツの人口構成もかなり改善されると思われます

多の困難を伴うのは、遠くの国々からやってきた難民たちの適応です。その一部は外国人労働者であり、文化的にドイツ人とは異なっています。例えば140万人(86年)のトルコ人のように。一方で、ドイツに住む外国人は自らの生活様式を守ろうとします。また一方で、幼稚から大学、成人育にいたまでの「国際教育」にもかかわらず、ドイツ人にとっても別の人々と狭い空間で共に暮らす事は容易ではありません。


 外国人も選挙に参加


それでも国は六○年代から外国人労働者を就労権や社会保障の見地からもドイツ人と全く平年に扱ってきました。多くの官公庁や団体では、その国出身の門家がそれぞれの外国人グループの世話をしています。シュレースヴィヒ・ホルスユタイン州とハンブルク州では最近法案が通り、外国人も地方選挙に参加でさることになりした。少なくとも社会民主党政権下の州はこの例にならうつもりです。

これから先、西ドイツの社会がどのような形をとって発展していくのかは今はまだわかりません。とにかく日本ではドイツ人の長い経験を冷静に徹底的に分析すべきでしょう。西ドイツ人の目から見れば、日本人の政治家、ジャーナリスト、また一般の人々の反応も少しヒステリツクにすぎるように映ります。社会の多くの分野で、現在の日本の国際化の意昧そのものがまだわかっていないように思われます。

将来いつの日にか、人口の10〜20パーセントが外国からやってさた人々によって占められていると仮定すると「アジアの中の拠点都市福岡」はどのような姿になっているでしょうか。


(九州大学言語文化部助教授)

 

 

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