REVIEW OF: C.P. Tsunberi (cho), Takahashi Fumi (yaku): Edo sanpu zuiko-ki. Heibonsha, Tokyo 1994. ヴォルフガング・ミヒェル (Wolfgang MICHEL)
リンネはその生涯においてヨーロッパを離れられなかったことはとても残念に思った。その大胆な分類が海外の植物に対しても適切で普遍的であるかどうかは彼にとって非常に重要なことだったからである。そのために彼は、「使徒」と呼んでいた弟子たちにフィールドワークをするよう奨励し世界中に送り出したた。その中では、南アフリカと日本の植物学を体系化し、世界中に紹介したカル・ペーテル・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg、1743〜1828年)今日最も重要視されている。南アフリカでは3100種の植物を判明した彼にはほとんど資金がなく、その研究を進めるため、常にボーア人農民の好意に依存していた。日本では宿泊や移動及び金銭的な問題はなかったものの、彼の活動範囲は長崎近郊と江戸参府旅行に限られていた。そのためであったか、すでにケンペルがその『日本植物誌』でかなりの準備作業を行っていたにもかかわらず、ツュンベリーが記した日本の植物の数は812にとどまっている。ケンペルとツュンベリーは2人とも日本人の通詞や協力者に依存していたが、後者の時代には蘭学が開花し、西洋に強い関心を抱く桂川甫周や中川淳庵などの学者とも知り合い、スウェーデンに帰国した後もある彼らと程度の交流を持つこともできた。ケンペルはその日本研究の成果を十分に発表することもなく地方の伯爵の侍医として様々な不満を抱えながらこの世を去ったが、ツュンベリーはスウェーデンの学界及び社会において高い地位を得た。 中間報告や短い論文を出した後に、1788年ウプサラ大学のエドマン出版社からツュンベリー旅行記の第1巻が刊行になった。ここではオランダと南アフリカについて記されている。後者については1789年に出版された第2巻でも重点的に扱っている。第3巻(1791刊)はもっぱら日本について書かれた。第4巻(1794刊)はそもそも予定されなかったがここではさらに、日本やジャワ、セイロンの文化について、またスウェーデンへの帰途について述べている。 当時、ヨーロッパ人の関心は非常に高かった。ケンペルの『日本誌』(1727刊)以来、これを補い、確認し、訂正できるような新たな報告をした著者はいなかったからである。その後1796年までにツュンベリーの著作はドイツ語で2巻、英語とフランス語で1巻ずつが刊行された。訳者の名が不明である英語版と、グロスクルトから発行されたドイツ語版が比較的正確である。フランス語版は著名な東洋学者ラングレによるが、ほとんどシュプレンゲル訳のドイツ語版に基づいている。このフランス語版からさらに山田珠樹が1928年に『ツンベルグ日本紀行』(昭和3年刊)を発表している。独日協会が1930年に刊行していた『YAMATO』という機関誌で武藤長蔵は「カントの人類学とツュンベリーの日本滞在」を追究する論文に、長崎の薬学者富士川次郎がドイツ語版からの翻訳を行った、と述べている。しかしこの原稿は出版されなかったため、日本の読者はこれまで、1966年に復刻版(異国叢書、雄松堂、昭和41年刊)として改めて出版された山田訳に頼らざるを得なかった。原文とこれまでの訳文を比較してみると、ツュンベリーの著作の受容史における幾つかの問題点は早くも目に付く。以下は江戸滞在中の記述からの例である。
「この2人は余り度々は来なかったが、他のものはその後も瀕りに打ち融けた訪問をしに来た。そして夜後くまでいた。私はこの人たちに物理学、植物学、ことに内科学、外科学を教えた。一番若い医者はKaatsragava Hodjou(桂川甫筑)と云う人で、将軍の侍医なので衣服に将軍の紋をつけていた。この若者は愛想がよく陽気な性質の人で、よく私の許にその友達Nakagava Sounnan(中川淳庵)をつれて来た。この人は彼より少し年長で、このく国の公子付の医者である。2人とも、ことに後者は和蘭語をかなり話した。2人とも和蘭語或は支那語の書物により、博物学、鉱物学、動物学及び植物学を多少研究していた。」(高橋の訳) 「しかし次に述べる医輌2人は、毎日私を訪ねてきたのみならず、夜遅くまで居ることがよくあった。いくつかの学問について私から教わり、学ぶためであり、物理学、経済学、そして特に植物学、外科学および内科学を深く究めようとしていた。1人は桂川甫周で将軍の侍医であり、まだ若く、親切で、頭の回転が早く、そしてはつらつとしていた。桂川は衣服に将軍の文章をつげており、友人の中川淳庵と連れ立ってきた。淳庵は多少年上で、最も主要な藩〔小浜藩〕に属する藩主の侍医であった。3人とも − とくに中川は − かなりうまいオランダ語を話し、また自然誌、鉱物学、動物学、植物学についてなにがしかの知識を持っていた。それらの知識は、中国やオランダの書籍と、かつてこの地を訪れたオランダ医師から得たものであった。」シュプレンゲルは中川の名前と高齢を省略し、ラングレはしばしば文を置き換え、固有名詞を書き換え、一つの副文全体を省いたりもしている。英語への訳者は「physik」と「oekonomi」を「natural philosophy」と「rural oeconomy」として誤訳している。山田はラングレのフランス語はよく理解しているが、その誤訳や欠如も日本語訳に引き継いでいる。ツュンベリーが江戸時代の最も著名なヨーロッパ人日本研究者3人のうちの1人であることを考慮すれば、60年以上も日本語訳がフランス語やドイツ語からの重訳で満足させられていたことには驚かざるを得ない。また、上記の短い例が示すようにヨーロッパの翻訳をそのまま信用するのも考えものである。当時は外国語の文章を扱うのも無造作で日本についてもほとんど知られていなかった。高橋氏がどれほど慎重に訳出したかは原文や山田の文章との比較から一目瞭然である。その『江戸参府随行記』はスウェーデン語の原文を元にしたツュンベリーの初めての日本語訳であるばかりでなく、同時に近代で初の翻訳でもある。本文はツュンベリーの本の第3巻全体を網羅し、そのスケッチも含む。巻末の木村陽二郎による「ナチュラリスト、ツュンベリーの長い旅」(365〜380頁)は情報に富み、片桐一男の「ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの日本研究と阿蘭陀通詞」(381〜399頁)は非常に興味深い。残念なことに、さまざまな論文で卓越したツュンベリー研究者として知られる訳者の後書き(401〜406頁)はきわめて短い。ヨーロッパでもスウェーデン語の知識はスウェーデン人以外ではほとんどなく、日本ではツュンベリーの言葉とその文化的背景に高橋氏ほど通じている人はさほど数多くはいないのではないか。氏の翻訳により、初めて信頼のおける研究の土台が用意された。歴史愛好家や旅行記の愛読者にも得るところの多い、同時に楽しめる読み物として心から推薦する。
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