Gensui Murakami's Dissection of a Human Cadaver. Symposium: Dutch Studies in Nakatsu, Society for the Study of Western Sciences In Japan, Annual Congress 2003, Nakatsu-City, 12 Oct.2003. [in Japanese]
W・ミヒェル「村上玄水の人体解剖について」シンポジウム:中津の蘭学。洋学史学会、2003年大会、中津市、2003年10月12日。



Wolfgang Michel (W・ミヒェル)

「村上玄水の人体解剖について」


 今日まで残る墓碑銘や村上医家史料館所蔵の写本から浮かび上がる村上玄水(天明元〜天保14年)の生涯の道のりが、最初から必然的に九州初(?)の人体解剖へ帰結するほかなかったとは言い難い。玄水は中津藩校「進脩館」で古儀学を重んずる教育を受け、さらに久留米藩の儒官梯隆恭に3年間古兵法・軍学を学んだのち、ようやく文化3年頃に医学を志すことになった。ここで、彼の目を西洋医学、特に解剖学(「内景方説」)へ向けさせたのは、吉雄耕牛、桂川甫周、杉田玄白らの蘭学者と交遊があり『江戸ハルマ』の増補版で有名な中井亀助(厚沢)だった。また、『蘭語訳撰』と『中津バスタード辞書』の刊行で蘭学に貢献した奥平昌高の影響も大きかったことが、玄水が残した「自序」で強調されている。

 玄水は暫くの間先駆者山脇東洋らと同様に動物を解剖していたようであるが、人間と動物は違うため、次第に人体解剖への意欲が高まった。父玄秀の死去にともない37才の玄水が7代目として跡を継ぐことにより、社会的条件が整ったようだ。12ヶ月後の文政2年3月、玄水は死刑を宣告された若い男性の人体解剖を願い出て許された。処刑場「長浜」での準備は入念に行われた。処刑の翌日に筑前、肥前から57人の医師(?)が集まったことも、玄水が以前からこの人体解剖を計画していたことや、地方まで広まった解剖学への関心の高さを物語っている。人体解剖に至る動機、その実行と成果について玄水は「解臓文」、「解臓記」および「道原」で詳細に説明している。

 儒学の伝統から脱却し人体解剖を格物到知の具体例として賞賛する発想にも関わらず、玄水が刑死体に寄せる思いは「解臓文」の大部分を占め、人体の客観化の難しさを示唆している。また、石坂宗哲など19世紀当初の様々な流派に属する医師たちと同様に、玄水は東西両医学の違いを強調しながら解剖を古代の東洋医学に結びつけている。彼によれば『靈樞』にはすでに「解剖而視」という言葉が見られるので、人体解剖は太古から存在していたが、時を経てその道が衰退し中国医学は虚言になったのだという。この「学問的」理由に加えて、玄水は医師の社会的役割を強調している。繁栄のみを追求し民衆をだます医者を軽蔑する彼にとって、医療は「仁術」である。このようなことから自分は古今の医学と格闘しながら経験を積み、オランダの解剖書や内科医書を入手したのだと玄水は述べている。

 山脇東洋は解体作業には参加せず、腑分けの観察に専念したが、玄水は土井藩の河口信任と同様に自ら解剖刀を手に人体の探求に取りかかった。小刀、剪刀、ツル鋸、各種の鍼、サグリ、槌等の道具が信任の場合より数多く使用されたことは、手伝いをする人物がいた可能性を示している。死体の内臓は銅版画と一致していたので、玄水は中津藩の画員片山東籬と助手の佐久間玉江が解剖図を描いた際に、解剖書に見られない開いた右胸部と腹部のスケッチを描かせることにした。玄水は身体のどの部分も同等に観察すべきであるとし、好奇心と客観的観察との複雑な関係について指摘している。目当ての「乳糜管」を見つけられなかったため、玄水はオランダ人の解剖学の精密さに驚いたが、二度目の人体解剖はないとして後人の功績を待つことにする。蘭学が盛んであった中津藩でも、人体解剖はまだ例外的であり何度も行える行為ではなかったであろう。

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